highland's diary

一年で12記事目標にします。

『君の名は。』と『彼氏彼女の事情』とその他について【前編】

※『君の名は。』についてのネタバレを含みます

主にディティールについての雑記です。公開初日に見て、それから一ヶ月くらい経って記事を書くというのも何だかなと思いますが、思い付くことがあったので。確認しましたが記憶がおぼろげな記述もあるのでご容赦ください。本編のキャプは基本的に予告編から持って来ています。

f:id:ephemeral-spring:20160923013509p:plain

君の名は。』は描き切れていないところもあって決して完璧な映画とは言えないけど、良くできていたと思います。

「世界に対するどうしようもならなさ=思春期のイノセンス」を強調するのではなく、自らの行動により運命を主体的に分岐させ、選び取っていく高校生の姿が描かれていて良質なジュブナイルとなっていました。

「男女入れ替わり」とは「究極のすれ違い」とはよく言ったもので*1、その通り相手の身体は知っていても、心の本体には出逢えないことがもどかしさを生みます。実際、映画内で二人が直接接点を交わすのはリボンを渡した電車内と片割れ時の山頂、ラストシーケンスの三回のみですね。

f:id:ephemeral-spring:20160923015107p:plainf:id:ephemeral-spring:20160923015146p:plain

「入れ替わり」によって直接の接点は生まれないんですが、「相手の視点を通じて相手の周囲の環境や人間関係を知る」というところから相手への好意が生まれているのが面白かったし、良かったと思う。もちろん二人は日記帳の文章を通じて、互いに入れ替わった間の生活を遡及的に体験することによっても相手の内面を把握し、同化していく。

そして好きという感情は「距離」や「断絶」を経ることで憧憬に転化し、より一層加速していく。従来の新海作品と通底するものではあるけど、「入れ替わらなくなる」/「距離が空いていく」ことでより好きになっていく。

f:id:ephemeral-spring:20160923155231p:plain

 赤い髪留め=ブレスレット組紐が過去から現在、未来を往還し、つながりを生むモチーフになっている。日常的に身に付けるリボンを小道具に、髪型で変化を付けているのもすごく感じ入ったところ。というところで本題に入ります。

 ■扉の開閉 

f:id:ephemeral-spring:20160922014203p:plain

君の名は。』の作中でつごう10回ほど繰り返される、真横からの引き戸の開閉。宮水家の襖と玄関扉、電車ドアのおおむね三種類でしょうか。

一般に映像演出において扉は「開き扉」であれば「運命」や「人生」「段階」あるいは「プライベートな空間を担保する仕切り」、「引き戸」であれば「境界」として使われることが多いと思います。

 本作の場合、引き戸が明確に「境界」として意識されるのは二箇所あり、一箇所目は序盤に三葉が瀧にリボンを渡すところの回想で扉開くカットが入る。二箇所目は再びこのシーンの詳細が回想で語られるところで、扉「閉じる」と「開く」がシーン初めと終わりで繰り返される。

「開く」=「つながる/解放」 、「閉じる」=「絶たれる/閉塞」というニュアンスを含ませられるので、二人の繋がりを描くための演出的フックとしてこれを使ったのだと思います。かつ、特に前半においてシーン転換を1カットで示すことにより小気味いいテンポ感が生まれています*2

この扉の使われ方で思い出すのは庵野秀明監督のTV版『彼氏彼女の事情』(以下カレカノ)。

f:id:ephemeral-spring:20160922013342g:plain

彼氏彼女の事情』 (1998) 第22話

カレカノ』 においては、この真横からの扉の開閉カットはBANK(使い回しカット)としてシリーズで何度も使われていた。

f:id:ephemeral-spring:20160923102801p:plain

ドアを正面からでなく側面から撮っているため、開けている主体のキャラクターや、どの教室であるかに関係なく使え、BANKとして汎用性の高いカット。

そしてこのようなカットを使っているのには、TVシリーズ特有の理由もある。

TV版『エヴァ』に関するインタビュー*3庵野監督はこう答えています。

――具体的に『エヴァ』でやったのは、どういう事なんですか。
庵野:例えば、余計な段取りを全部抜いていくとかですね。必要な段取りだけで作るとかね。
――キャラクターの芝居で時間の経過や場所の移動を示すようなことは殆ど無いんですよね。歩いて、ドアをあけて隣の部屋へ行くとか。
庵野:うーん。例えば、椅子に座るとか、アニメーターからすれば、ものすごい大変な作業なわけですよ。歩いていく足元を写すとかね。日常の基本動作をキチンと作画するのは、アニメーターにとって、すごく難しいわけなんですよ。ごまかしがきかないから。
(太字は引用者による)

TV版の『エヴァ』と『カレカノ』はコストパフォーマンスで作られていて、必要でない段取りの部分はある程度記号的な表現にたよってでも大胆に省略していく(その分、作画的に見せたい部分には注力する)。そして「動きや芝居で見せずとも効果的な表現を追求する」ということを試み、多彩な表現を生み出していた。

(注:カレカノ』はTV版『エヴァ』の、特にラスト2話で試みられた表現の延長線上にあって、心象風景とモノローグを通じて作品世界が作られている。

もっとも、母性の闇にひたすら沈潜していく『エヴァ』と違って、少女漫画原作の『カレカノ』は自我と格闘しながら殻を破り、相手へと手を伸ばすことが根底にあるから、そこには解放感があるわけですが、ここでは便宜上『エヴァ』と『カレカノ』をある程度同質に扱います

たとえばドアを開けるシーンでBANKを用いているといっても、もちろん全ての箇所でそれを使っているのではありません。

カレカノ』において、シーン転換でドアを開けるシーンは概ねこの三種類の見せ方をしています。

f:id:ephemeral-spring:20160922040650p:plain 単に「ドアを開ける」ようなディティールであっても、場所を中立的に示したいのか、キャラクターの表情を見せたいのか、ピシャッと閉まる音でアクセントを出したいのか……によって、これらの見せ方を使い分けていて、そこに演出の創意工夫が見られます。上の22話のシーンであれば、ドアをバンッと開けて意思表明をする力強さを表現していますね。また、開くだけでなく閉まるとこもあって、そこでもニュアンスをいい感じに出している。

直接の影響かどうかは定かでないですが『 君の名は。』はこの演出を上手くモチーフとして取り込んでいると感じたのでした 。

新海誠と『彼氏彼女の事情

振り返ってみれば、最近はあまり耳にしなくなりましたが、新海誠さんのスタイルは当初は庵野監督のスタイルを部分的に取り込んだものでもありました。

それが誰であれ、演出家としてのスタイルというのはもちろんその人自身の価値観や、世界・人間についての捉え方などが如実に反映されるものではありますが、画作りの上でヒントになって取り込むというのは、キャリアを考えるうえで大きいと思います。

星を追う子ども』公開前に行われた 『月刊アニメスタイル』第1号のインタビューの中で、新海監督はこう話している。

小黒:(……)また別の話になりますが、風景で心象を語りたいという欲求はいつ頃からあるんでしょうか?
新海:何だろう……やっぱり『エヴァンゲリオン』がきっかけじゃないですかね。「そういう画作りがありうるんだ」と知ったのが『エヴァンゲリオン』でしたから。特に、最終2話とか。
小黒:マンホールが映っているカットとかですね。
新海:そうです。よくわからないけど、ライトを撮ったカットとかがあって。それって意味ありげじゃないですか。
小黒:意味ありげです。しかも、ソリッドでシャープ。
新海:あの格好よさは印象に残っています。
インタビューではその後『エヴァ』と並んで写真雑誌が原点にあるという話があったりして、かつ光にまつわる自身の原体験についても語られている。けっこう稀少なインタビュー記事であると感じます。
新海監督はバンダイチャンネル掲載のインタビュー記事でも『エヴァ』ラスト2話と並んで『カレカノ』について触れている*4
実際、上記のアニメスタイルの記事で話題になっている『エヴァ』のそれとそっくりなマンホールのカットを『秒速5センチメートル』で作っているのも面白いですが、それはさておき、新海作品は初期においてはある程度庵野作品のスタイルと通じる部分もあります。
 
第一作『ほしのこえ』が『エヴァンゲリオン』や『トップをねらえ!』を彷彿とさせる設定と内容であることは誰も否定しないでしょうが、それとは別の問題として、演出的にも庵野秀明作品を取り込んでいる部分はあります。いちばん影響がはっきりしているのは、『彼女と彼女の猫』(2000)でしょうか*5
 
心象風景というのを描く上で、どちらも共通して用いているのは「現実の町並みのディティールを取り込み、デフォルメし拡大することで、風景を異化する」手法です。

f:id:ephemeral-spring:20160922214547j:plain

ほしのこえ』(2002)
 
たとえば信号や踏切や標識は、日常性と隣り合わせのアイテムでありながら、キャラクターの心情を象徴する記号として出てくるんだけど、それら町のディティールをデフォルメしてレイアウト上に配置することで、視聴者にその存在を強烈に意識させます。
 
最近になって山本寛さんが(従来の新海作品を称して)「『背景』への注力と『作画(芝居)』への敬遠」と いみじくも指摘していましたが*6、元はアマチュア自主制作からスタートした制作環境や、背景描写で世界を描くという姿勢からも、『エヴァ』や『カレカノ』で使っていたような上記スタイルを要素として取り込んだ*7のは極めて相性が良かったと思う。
ただ新海誠さんのスタイルにはもちろん独自の個性や違いがもちろんあり、たとえばアナログアニメにはなかったデジタル撮影での光の表現(赤や青を入れる)などですね。
 

f:id:ephemeral-spring:20160923005225p:plain

「桜花抄」『秒速5センチメートル』(2007) での、スペクトル分解されたような光の表現
 
新海作品においては『カレカノ』の「心象風景としての町がある」というスタンスからもう一歩進んで、日常風景の細部の美しさをすくい上げることで、世界の美しさがキャラクターの尊さの感情と結びつき、互いに際立たせ合うエモーションが生まれている(どちらが良い悪いという話ではなく)。
また、キャラクターが風景を見つめるといったシチュエーションで、新海作品においては多くがキャラクターの主観カットでなく風景の中に人物を入れ込ませるように描かれているのも印象的です。
カレカノ』の場合は「世界」と「キャラクター」のリアリティを分離していて、写真のようなリアルな密度の「世界」とマンガ的な「キャラクター」の心象風景とを計算して分けている
 
もちろんTVシリーズと違って劇場アニメのリアリティであるから当然とはいえますが、新海作品がロングショットを基調とし、世界とキャラクターを分離せず「風景の中に配置した人物」を描くのは、何より世界とキャラクターとが不可分なものという価値観があり、両者が一体化する特別な瞬間を捉えたいという確かな欲求があるからだと思います。
 

f:id:ephemeral-spring:20160923042518p:plain

「コスモナウト」(このシーンはとりわけ素晴らしい)

■風景/場を共有するということ

f:id:ephemeral-spring:20160923155407p:plain

f:id:ephemeral-spring:20160923155433p:plain

 君の名は。』においても、二人が「吸い込まれるように」景色を見つめる場面が繰り返し出てきます。

キービジュアルにあるように割れる彗星は分岐そのものを象徴していて、それゆえ希望であり絶望でもあり得るのですが、直接的には災厄たる結果をもたらすその彗星を、無条件で「美しい」と肯定してしまえるというところには胸打たれるところがありました。

上に貼った2カットの場面は映画序盤に、大人になった二人の回想としても出てきます。ところが大方の解釈に従えば、三葉が浴衣を着て彗星を見ていた世界線では三葉は生き残れないので、大人三葉がこのシーンを回想しているとすれば筋が通らないことになります。だからここでこのようなカットを入れるのはある種錯覚によるトリックというか、マジックをしかけているのかもしれません。

ともあれ、ここでは二人の視点を相補的に見せていて、違う世界線にいる二人であっても同じ日同じ時間に同じものを見上げて「同じ風景を共有したこと」が、二人の繋がりを生んでいるように見える。それが非常に面白いと思う。

 

ここで自分が思い浮かべたのは新海監督が過去に手掛けた『はるのあしおと』のOPムービーでした。

思い人と別れ都会から田舎に帰郷した後、臨時教師として新生活を始める青年・樹を主人公にしたminori作品『はるのあしおと』。その内容とリンクしてこのムービーでは、主人公とヒロインとの気づかぬ内の結びつきと、出会いへの予兆が季節のモチーフとともに散りばめられている。

f:id:ephemeral-spring:20160922223112j:plain

はるのあしおと』OPムービー(2004)


以下は、このムービー制作時に新海監督本人がコンセプトとして書いたというテキストからの抜粋です。 

それぞれ、互いが未来において大切な存在となることをまだ知らずにいるが、その予兆は既に映像中に充ち満ちている。知らずにすれ違っていた駅のホーム、運命の赤い糸のように風に舞っていたリボン、気づかぬうちに同じ道を歩いていたし、同じ景色を眺めていた。樹の手に舞ってきた秋の綿毛は少女たちの手からこぼれたものだし、少女が無邪気に口に入れたナツハゼの実は樹がそっと触れたものだった。木造の校舎から聞こえてくる歌声に、樹は足を止めていたこともある。アパートの下でふと足を止めた少女は、樹が寝転がって聞いていたラジオの曲に耳を澄ませていた。これから出会うことになる大切な人の気配に、それぞれが気づかぬうちに触れていた。

Other voices -遠い声-

「同じ道を歩いていたし、同じ景色を眺めていた」ということが、出会いの予兆として存在し、そしてその人の気配を感じるというシチュエーションが、相手との繋がりに転化するというロマンがここに描かれています。『はるのあしおと』OPは純粋にそのモチーフのみで構築された、その意味でもっとも純度の高いフィルムなのかもしれません。

そしてこの、「同じ「風景/場」を共有することで繋がりが生まれる」というのは新海誠さんの他の作品においても共通するモチーフであって、それが過去の新海作品においては、

ミカコとノボルが地球の思い出を語る「たとえば、夏の雲とか。冷たい雨とか。秋の風の匂いとか。傘にあたる雨の音とか。春の土の柔らかさとか。……」という共鳴のモノローグであり、あるいは雪のように「秒速5センチメートル」で落ちる桜の情景だったのだと思います。

それらは特別なつながりを信じられる思春期の純粋さやイノセンスとも結びついているものだけど、決してそれだけにとどまるものではなく、特に近作においてはより深い部分で価値観として根を下ろしているのではないかと『君の名は。』を見ても感じます 。

 

f:id:ephemeral-spring:20160923171547p:plainf:id:ephemeral-spring:20160923172903p:plain

君の名は。』において二人が彗星を仰ぎ見る上記シチュエーションは1200年に一度の彗星を見たという一回性・体験性が際立っており、(世界中の人が見ていたとはいえ)それだけで特別なものとしてある。そして当該シーン以外にも、二人は同じ特別な「風景/場」を共有しています。


奥寺先輩と瀧がデートで通る橋を、その後に三葉が通りがかるという風なシーンがありますが、「片割れ時」と同じく「時を隔てて同じ場所にいる」というシチュエーションもこの映画には繰り返し出てきます。「すれ違い」を視覚的に演出するためにこのような見せ方になっていると思うのですが、そもそも「すれ違い」というのは「同じ場所にいながら、時を隔てていたり、心の壁や、現実のしがらみといった障害によって言葉を交わせない」……という状況から起こるもので、やはりすれ違いというのは同じ場を通じて二人を見せることで、特別な意味を持つものなのだと思います。

もちろん、二人は入れ替わりを通じて接点を持つ前から相手の環境を先に体験している、というのもあり、そうして共有した視界がある、というのも大きいのですが、そうした精神的なつながりを失ってなお、 特別なものの存在を信じ「手の届かないものに手を伸ばす」ことにより最後は相手に辿りつくことになります。

というのも、
分岐した世界の収束とともに夢の記憶やつながりは失われても、

大人になった二人はともに彗星を見たという経験を特別なものとして持っており、
それと同じく糸守町の風景というものを心に抱き続けて生きてきたはずです。特に瀧においてはそれが原体験になっているような描写がありますが、三葉にも多かれ少なかれ同様のことがあるのだと思います(髪に結んだ組紐のつながり以外にも)。

時を経て二人は邂逅を果たすことになりますが、

共通体験により結びつきが生まれるというものが根底にあり、二人がそう生きてきたからこそ、最後に巡り合うということがある種の必然性をもって感じられるのではないでしょうか。そのようなことを少し考えました。

というあたりで、やや分量書きすぎてしまったので続きは次回書きます。

(続き↓)

highland.hatenablog.com

 

(追記)2016.9.24
ブコメにて「リボンではなく組紐」と指摘くださった方がいたため記述を一部変更。
 
※「誰々からの影響が~」とか書いているところで不敬だと感じられたら申し訳ありませんが、別に元ネタがそれであるとかそういうつもりは毛頭なく、比較するためにこのような書き方になっています(もちろん必ずしも作家論的な見方に囚われるべきではないでしょう)。個々の作品のオリジナリティはあくまで尊重すべきで、作家の影響関係の問題はそれとは別だと思います。また、多くは憶測を含んだ内容であることもご留意ください。
アニメクリエイター・インタビューズ  この人に話を聞きたい  2001-2002

アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい 2001-2002

 

 

Febri Vol.37

Febri Vol.37

 

 

 

新海誠美術作品集 空の記憶~The sky of the longing for memories~

新海誠美術作品集 空の記憶~The sky of the longing for memories~

 

 

*1:君の名は。』映画パンフレット内での氷川竜介さんの言

*2:因みにこの演出について新海監督自身は『Febri Vol.37』掲載のインタビューにおいて「音のリズム」「107分の中でテンポ良く見せるため」「読点のようなもの」と語っている

*3:庵野秀明アニメスタイル」、『美術手帖 増刊 アニメスタイル第1号』美術出版社、2000年。このインタビュー記事は新海監督も読んでいたとのこと

*4:庵野監督の『彼氏彼女の事情』(98)も弟に貸してもらい、あのエッジの効いた演出の学園ものと『エヴァ』のラスト2話の手法は、『ほしのこえ』を作る直接的なきっかけだと言えます」クリエイターズ・セレクション vol.2│バンダイチャンネル 2016年9月23日閲覧

*5:もっと言えばそれ以前の「遠い世界」「囲まれた世界」になると一層『エヴァ』の影が顕著になる。余談ではあるけど、『ほしのこえ』のノボルの声優は『カレカノ』の有馬総一郎役で声優デビューした鈴木千尋さんをキャスティングしていて、二人の姿が何となく重なってしまう部分もあります

*6:山本寛 公式ブログ - 君の名は。 - Powered by LINE 2016年9月23日閲覧

*7:少なくとも『秒速』までの時期の話ですが

マイベスト<美少女アニメ>エピソード10選

今回、以下の企画に参加させていただきました。「作品としてはベストに選ばないけど好きな話数」がコンセプトとのこと。

unmake.blog133.fc2.com

・「マイベストエピソード」選出ルール

・ 劇場版を除くすべてのアニメ作品の中から選出(配信系・OVA・18禁など)
・ 選ぶ話数は5~10個(最低5個、上限10個)
・ 1作品につき1話だけ
・ 順位はつけない

自分のオリジナルではなく、他のブロガーさまの企画に乗っかって書くという点について、まずはご容赦いただければと思います。もちろんその分の責任もあるので、本腰を入れて書かないといけません。

今回は自分のテーマとして、「(広義の)美少女アニメ」からセレクトするということにしました。「美少女アニメ」という枠自体にとりわけ深い意味はないのですが(なのであまりツッコまないでくださいね)、名作回が極めて多いであろう「メカもの」「スポ根」「アクション」……などを封印したうえで、見どころのある回を勧められればと思いこの枠にしました。とっつき易そうという意味もあります。

とはいっても、枠にはあまりとらわれず、美少女ゲーム原作からニチアサまで思いつくままに好きな回を入れたので、ダイレクトに好みが出ているかと思います。

話数単位ということで、1話完結回をわりと多めにして、以下のようなセレクトになりました。

迷い猫オーバーラン!』第1話「迷い猫、駆けた」

f:id:ephemeral-spring:20160831192751j:plain

監督・脚本・絵コンテ・演出:板垣伸作画監督石川雅一

 『迷い猫』、意外と好きな人が多いみたいで個人的には嬉しいです。バラエティに富んだ内容の中でも、1話は総合的に見てレベルの高い回だと思います。

『迷い猫』は各話監督制のほぼオムニバス形式でありながら、シリーズ全体で一つの筋に通ったストーリーをするということをやっています(これについて、放映当時はいろいろと毀誉褒貶がありましたが)。

で、普通に考えてこういった形態の作品の1話ってすごくハードルが高いと思うんですよ。

・まず、1話の役割として、舞台設定や各キャラクターの人物像・背景についてはしっかりと 説明しなければならない。

・2話以降の監督がどう原作をアレンジするかがわからないので、原作の世界観・キャラから逸脱し過ぎてはいけない。加えて、2話以降の内容については責任が取れないので、1話で出した要素や伏線は話数内で全て完結させなければならない。

・もちろんエピソード内にドラマの盛り上がりを作り、一本の作品として見応えあるものにしなければならない。

 以上の三条件が前提として課されているわけで、まずこれを全て達成した1話になっているのが凄い。

 内容を見ると、ストレイキャッツの面々と芹沢文乃、梅ノ森千世、三人くらいの視点でイベントをパラレルに進行させたり、結構アクロバティックなことをやってるんですよね。かなり強引な説明台詞も、インパクトのあるマンガ的な絵を積み重ねることでテンポ感を持続させている。

アバンタイトルの意表を付くパンチラもそうですが、「一秒も無駄にしてはならない」という意識のもとで作られているのが分かる。出崎さん風に言えば「時間を無駄にしてはいかん!」という感じ。

 また、それだけでなく、この挿話はヒロインである芹沢文乃(伊藤かな恵)のパーソナリティを掘り下げた回になっているのが高ポイントです。

あくまで彼女は記号的な「ツンデレ」で「意地っ張り」ヒロインなんだけど、それを単に記号的に処理するのではなく、弱者を救うことに敏感であるという描写を重ねることで、過去の生い立ちからパーソナリティを説明している。それでいて変に湿っぽくならず、泣かせとコメディのバランスで見せるのが優れていると感じます。

板垣監督のコメディとしては『ベン・トー』とも『てーきゅう』とも違った感触があって、そこも魅力です。

 苺ましまろ』第2話「アナ」

f:id:ephemeral-spring:20160831193235j:plain

脚本:横手美智子/絵コンテ・演出:神戸守作画監督:阿部達也

日常系美少女アニメの金字塔である『苺ましまろ』。

1話で伸恵家周辺の4人を描いて、2話はアナ・コッポラの初登場回ですね。

2話はアナのエセ英国人キャラによって生じるコミュニケーションの齟齬を徹底的にギャグにしている。転校初日の話から始まり、学校での会話劇があり、最後に名字が出ることで全体のオチになっている。

「間」を活用したギャグがツボにハマる回で、アナが膝を付くとか、美羽がへたれこむとか、ギャグカットを出すタイミングが見事。

f:id:ephemeral-spring:20160831193332p:plain

加えて、おそらくアナと重ね合わせる形で、「桜」がフィーチャーされています。転校先での失敗や、悲喜こもごもも含め、新たな出会いを祝福するって意味も感じられますね。地面の溝に桜の花びらが溜まっていたり(情景)、アナの気持ちを代弁するかのように桜が排水口を下流に向け流れて行ったり、こういう丁寧な描写が地味にいいです。

f:id:ephemeral-spring:20160831193839p:plain

2話での「ぐぬぬ……」は後にネットミームになった。

 神戸守ファンの間では昔から6話「真夏日」がかなり評価高くて、この前のアニメスタイルでの特集でも結構6話の話題は多かったですね。もちろん6話も技術的に凄いことやってる回ですが、2話は「原作の『苺ましまろ』の面白さを、一番最初に的確にアニメで表現した」回というところがあって、魅力に感じています。

 余談ですが、神戸守さんのコンテ回は苺ましまろバッカーノ!がオススメ。

 『セラフィムコール』第7話「柊彩乃〜<私>という逆説(パラドクス)〜」

f:id:ephemeral-spring:20160831194426j:plain

 脚本:村井さだゆき/絵コンテ・演出:原博/本橋秀之

セラフィムコール』は1999年放映の深夜アニメ。

小津映画やサンダーバードのパロディをやったり、はては固定カメラの長回し・時系列シャッフルなど、実験的な要素を数多く取り入れたことで知られています。そのせいか、今や美少女アニメ混迷期を象徴する怪作」みたいに語られることの多くなったシリーズですね。

ちなみに、熱い『セラフィム』語りとしてはturnxさんの以下の記事が印象深い。

ヒロインオムニバスアニメとセラフィムコール - 生ビール

 

(そういうわけで、)今となっては(熱心なファン以外は)『セラフィム』をシリーズ通して見る意味はそれほどないかと思うのですが、エピソード単位で見ればわりに楽しめる回も多く、中でも7話は出色の出来です。

7話は25歳の英語教師・柊彩乃をヒロインとした「数学アニメ」がコンセプトになっています。 初見時、数学の定理や論理学をそのままストーリーの構造に取り入れている点に驚かされ、「こういう着想からのお話の作り方もあるんだ」と、感心したところがあります。もっとも、こういう発想で脚本を書く人は、アニメ界で村井さだゆきさんくらいでしょうけど。

f:id:ephemeral-spring:20160831204024p:plain

お話のアイディアは、大体「『ゲーデル不完全性定理』の道具立てを用いて作品を入れ子の構造にし、それにタイムパラドックスを絡め、無限ループにする」というもの。非常に観念的なテーマですが、「扉を開く」ことを契機に「自らを解き明かす」という幻想的な演出になっている。それでヒロインの心情に沿ってお話が進むので、自然と見ていられるんですよね。こういう、ロジカルでいて気の利いた構成は好きです。

裏テーマとして示される「愛」が、観了後に不思議な感動を残すところが気に入っています。やや大げさに言えば、裏『千年女優みたいな話になってるんですよ。

フタコイ オルタナティブ』FILM-03「エメラルドマウンテン・ハイ」

f:id:ephemeral-spring:20160831195617j:plain

 脚本:金月龍之介/絵コンテ・演出:平尾隆之作画監督:山本佐和子

「電撃G's magazine」の読者参加企画『双恋』のアニメ化第二弾であり、探偵モノとしてリアレンジされた『フタコイ オルタナティブ』。

下町ラブコメディともアクションともスラップスティックともつかない独特の作風で、オンリーワン感の強い作品です。

探偵事務所に居座ってる沙羅・双樹の白鐘姉妹少女と 主人公・双葉恋太郎 は二人ではなく三人で居るのが心地よい関係で、その共同生活を続けようとしている。つまりモラトリアムなんですが、それがいつか終わってしまう予感というか、 どこか刹那的な感じもあって、それが作品全体に叙情をもたらしています。ドラマ的には7 話から9話までの流れがハイライト。

3話「エメラルドマウンテン・ハイ」は、主人公とかつて関係のあった桃衣姉妹が登場する回。桃衣姉妹からの依頼遂行に重ねる形で、過去が回想される。清算されるかつての桃衣姉妹との関係が、今の白鐘姉妹との関係に照射されることで、三人で居られる現在がより一層愛しく感じられる。同時に、失われた夢や思いへの追憶から、痛みが残る。

挿話としてはコーヒーの銘柄である「エメラルドマウンテン」の使い方が上手く、有り体にいえば、自販機で買える缶コーヒーは日常に埋もれているちょっとした「特別な何か」なんだけど、現在から見れば過去への苦い思いみたいなニュアンスもある。

内面描写としての「エメラルドマウンテン・ハイ」をはじめ、ちょっと異様な雰囲気も目立つ回です。平尾隆之さんの、ホラー嗜好が出た回かもしれない。

フタコイの特色でもあった、時系列を入り組ませる構成や反復芸がもっとも効果的に活かされている回でもあります。

白鐘姉妹との馴れ初め話である7話「双葉恋太郎最初の事件」と併せて見るのがオススメ。7話はモラトリアムな空気感の演出が素晴らしいです。

『Gift ~eternal rainbow~』10th Gift「奪われた過去」

f:id:ephemeral-spring:20160831195950j:plain

脚本:香村純子/絵コンテ:きみやしげる/演出:古賀一臣/作画監督:東海林康和

『Gift』は美少女ゲーム原作アニメで、制作スタジオはオー・エル・エムの岩佐チーム(後のWHITE FOXですね)、キャラデは田中基樹(=天衡)さんという変わり種。

 Giftの10話といえば以前は『Shuffle!』の空鍋とセットで語られることが多かった回で、ヤンデレヒロインと化した木之坂霧乃の「(一人)糸電話」(9話)が原作クラッシャーとして話題になりました。

喰霊零以前のあおきえいの面目躍如として語られることの増えた空鍋回に比して『Gift』はそれほど聞かれなくなりましたが、特に10話は見るべきところも多い回です。

f:id:ephemeral-spring:20160831200030p:plainf:id:ephemeral-spring:20160831200138p:plain

嫉妬で豹変し、爪を噛み切る霧乃。宮崎羽衣さんの演技も光る

 
二人の思いが通じ合うことで願いを叶える魔法のような力「Gift」がこの作品のキーアイテムで、それは人を幸せにするためのものだけど、裏切りと結びついて人を暗黒面に落とすこともある。その暗黒面が出たのが9話から10話にかけての展開だといえます。

10話のシナリオが優れているのは小道具の使い方です。プライベートなつながりとしての糸電話に加え、思い出を補強するぬいぐるみとカップ。願いを叶えても誰も幸せにならない皮肉を表すかのように掛かり続ける虹と、止まない雨。

幼馴染の霧乃は主人公との思い出が仇となりピアノ曲を最後まで弾けなくなっていて(このピアノを挿入曲として使うのも良い)、それは糸電話のエピソードに繋がる。

f:id:ephemeral-spring:20160831200459p:plain

 この糸電話の作劇。後のねらわれた学園『たまこ』に比べると描写の厚みはそれほどないけど、与えるインパクトは十分。本編で1話から描かれてきた、ヒロイン二人の修羅場の総決算ですね。

To Heart』第13話「雪の降る日」

f:id:ephemeral-spring:20160831201528j:plain

脚本:山口宏/絵コンテ:高橋ナオヒト/演出:高橋ナオヒト、深沢幸司/作画監督:斎藤英子、千羽由利子

初代To Heart』(’98)といえば、間違いなくギャルゲー原作アニメのマスターピースの一つです。

ギャルゲーのヒロインであっても立体的なデザインで描き、そこに肉体を伴って存在するかのようなリアリティを重視する。何気ない日常に焦点を当て、生活の描写を克明に描く。大林宣彦の青春映画みたいな渋い作風なんですが、それでもこの思想の一端は、ゼロ年代に入ってからの京都アニメーション美少女ゲーム原作アニメにも引き継がれていると感じます。

ベスト作品に選ぶような作品の挿話から選ぶのは反則かもしれませんが、まあこれを選ばなければ、自分に嘘を付くことになってしまうので。最終話は何回も見返して、そのたびに感嘆します。

この回は、前の12話に引き続き志保とあかりの回ですね。クラスでひらくクリスマスパーティーがあり、その買い出しにかこつけて志保が主人公の浩之ちゃんと抜け駆けデートしてしまう。それを知って幼馴染のあかりがもやもやしてしまう、ってところまでが前の回の話で、最終話で、いよいよクリスマスパーティー本番の話です。

この回のハイライトシーン二つあって、一つ目は風邪で欠席したあかりのお見舞いに行った志保とあかりが会話するところ。二つ目はパーティ当日に風邪を治し、遅れて家を出たあかりを浩之が迎えに行くところ。

前者のシーンはある意味三角関係の修羅場なシーンなんだけど、大袈裟に感情を吐露したり愁嘆場を演じるでもなく、二人ひたすらに淡々と会話を交わすだけです。それでもドラマ上決定的なことが行われているという感じがひたすらに伝わってくるのが凄い。

ドラマ上は志保がここで引き下がるわけですが、湿っぽいところがなく、爽やかな青春の1ページという具合にまとめてしまうのがすごいというかズルいというか。

後者も名シーンです。有名な、キスをしないラストシーン。キスをしない代わりに、マフラーをかける芝居があって、こういうところが本当に美しいです。

ef - a tale of memories.』第2話「upon a time」

f:id:ephemeral-spring:20160831201908j:plain

 脚本:高山カツヒコ/絵コンテ:帆村壮二/演出:大沼心作画監督:潮月一也、古川英樹

アニメブロガーのガキモードさんもブログ記事で書いているように、新房シャフトの作品は基本的に感情移入をはねつける、異化効果の側面が強い。まどか☆マギカのTV版などもその延長線上にあるように思う。

その一方で大沼シャフトのefは凄く没入感の強いフィルムになっていて、新房さんがセーブかけちゃうようなところを全力で一点突破していくようなところが心地良かったシリーズ。特に1期はどの回を見ても抜群に面白かったと思う。

(10話のカウントダウンにしても、正攻法だとああいう見せ方は全然思いつかないはずなんだけど、じっさいに見てると非常に効果的なんですよね)

 

1話で主役と成る三組の男女の印象的な邂逅を描いた後、キャラクターがそれぞれに抱える背景を描き、物語のスタートダッシュとなる2話。

帆村荘二さんの絵コンテはわりと大沼さんの1話よりソリッドな作りで、アップとロングのつなぎ、広角・望遠の入れ方が映像のダイナミズムを感じさせる。ナメものの象徴主義、線路と光。それは静かな予兆を感じさせるもので、この挿話の演出として最適だったと思います。

寄せる雲/波の叙情が印象的で、それがラストにガッと結集してくる感じがする。 

ラストからエンドロールにかけて、次回へのヒキの演出が素晴らしい。この高揚感はちょっと忘れられないです。

ふたりはプリキュア!』第8話「プリキュア解散! ぶっちゃけ早すぎ!?」

f:id:ephemeral-spring:20160831202457j:plain

脚本:清水東/(絵コンテ・)演出:五十嵐卓哉作画監督:爲我井克美

 プリキュアに選ばれたなぎさとほのかの二人が初めて喧嘩をしてしまうけど、それにより距離が縮まるという回で、バディものとして二人の絆を深め確かめ合う、今後の礎となるエピソード。素晴らしい百合回ですね。

恥ずかしながら、初代プリキュアはリアルタイムでほとんど見ていなかったんですよね。この挿話は後追いで見てとても面白かったので記憶に残ってます。もっとも、プリキュアファンの間に限らずかなりの有名回なので、自分が語るほどでもないのですが。

構成も演出もお手本のような上手さ。ハコ書きしてみると、驚くほど圧縮されたストーリー。

ほのかの幼馴染をきっかけに二人に気持ちのスレ違いが生じるんだけど、相手と自分との相違を認め、友達としての一歩を踏み出すまでの話を丁寧に描く。プリキュアとしての絆を確かめ合うアイテムや、戦闘シーンイベントまでも全て本筋に絡ませて無駄のない構成になっているのがポイント。

冒頭からのマシンガントークに気を取られているうちに展開に自然に呑み込まれてしまう導入の上手さもさることながら、東映演出家のお家芸のような反復/対比の積み重ねと、エモーショナルなシーンでのカッティング、光と影の演出。

f:id:ephemeral-spring:20160831202716j:plain

ここの技巧的な切り返しもふつうの発想じゃなくてなんか凄い。ほのかのソツのなさと、置いてけぼりにされるなぎさの感じ

 『青い花』第1話「花物語

f:id:ephemeral-spring:20160831202958j:plain

 脚本:高山文彦/絵コンテ・演出:カサヰケンイチ作画監督:木本茂樹

 はあ、小林七郎さんがいた時期のJ.C.STAFFの尊さ……。

 

美少女アニメ」と言うには違和感がありますが、原作が「マンガ・エロティクス・エフ」に連載されていた百合マンガということで、セレクトとしてはありだと思います。

 万城目ふみ(ふみちゃん)と、奥平あきら(あーちゃん)が、高校入学と同時に再会する。

この1話は初めて見たとき、脳天をガツンと殴られたような衝撃がありました(ノイタミナの『放浪息子』より前でしょうか)。これ以上ないくらいに無駄のない構成と演出で、1話でちゃんと完結している。というかあまりに綺麗にオチていて満足してしまったので、「もうこの1話でこのアニメ終わりなんじゃないのか?!」と瞬間的に思ってしまったくらい。

私事ですが、少女漫画のアニメ化について、個人的な興味から調べていた時期があって。『カレカノ』『花より男子』『ホスト部』『メイド様』『君に届け』『ハチクロ』等のタイトルについて、アニメ版の1話を原作マンガと比較して、どう映像化しているかについて調べていました(結構面白いんですよね、こういう作業)。その中でも、『青い花』は抜群に上手いという感触を持ちました。

つまり『青い花』の1話も、原作と比較してどう足し算/引き算をしているか、という観点で見て面白い1話なんですよね。ラストに向けて、どのような描写をプラスしているか。行間を絵にするにあたってどの台詞を足して、どのモノローグを削っているか。どう構成をリアレンジしているか。それはどういう目的によるものか。

青い花』のアニメはそういう楽しみ方をする余地もあるだけの、充実した映像化だったと思います(もちろん、原作抜きに見ても最高に楽しめるはずです、念の為)。

放課後のプレアデス』第8話「ななこ13

f:id:ephemeral-spring:20160831203542j:plain

 脚本:浦畑達彦/絵コンテ:春藤佳奈、佐伯昭志/演出:玉田博/作画監督:橋口隼人、空賀萌香

 最近のアニメで印象に残っている回はこれですね。作品自体については特に説明は不要でしょうか。

太陽系外までの探索ミッションに赴くななこの視点で、宇宙の寂寥感と家族との距離感が重なり、彼女にとってプレアデス星人が特別な存在である理由も語られる。

ななこにとっては半日の出来事でもすばる達4人にとっては三ヶ月間のこと(ウラシマ効果)で、それでも景色を共有したい思いと絆の強さが、0.25光年をギュッとゼロまで縮める。

シンプルな構成だけど、人智で把握しきれないスケールの宇宙の事象や距離に、人間の感情を仮託するっていうのがロマンチックで、良いエピソード。

ひかる回の4話にしてもいつき回の5話にしても、それぞれに彼女たちが自らに化した限界を越えていく話になっていて、8話もまたななこが家族や仲間を巡り答えを見つけ、踏み出す姿が描かれていたように思います。

エッジワース・カイパーベルトオールトの雲

f:id:ephemeral-spring:20160831203614p:plain

f:id:ephemeral-spring:20160831203723p:plain

ここはpowers of tenですよね。SF的サブテキストも駆使してテンションを高めてくれる。

f:id:ephemeral-spring:20160831203901p:plain

あくまでお遊びではあるけど、ななこはボイジャー計画・パイオニア計画を更新する探査機のつもりで太陽系の果てに赴く。彼ら無人惑星探査機の自意識・孤独を描いた『人類は衰退しました』3巻のエピソードも思い出されます。

 


総括

・サトジュン作品から何か選ばなければ手落ちかな~と思っていたのですが、カレイドスター魔法Tai!も、単体というより全体の流れで好きなところがあって選ばなかったです。

・あと、こういうセレクションだとついつい『瀬戸の花嫁』『ギャラクシーエンジェル』『うる星やつら』とかの傑作回を入れたくなってしまうのですが、「ギャグ枠」になってしまうので外しました。

・もし1作品1話の条件じゃなかったら、『ギャラクシーエンジェル』の好きな回だけで10枠埋めてしまうっていうくらい『ギャラクシーエンジェル』シリーズは好きです(自己紹介)。

 企画に参加して、じっさいに書いてみて思ったのは、自分に正直に選んでいくと、自分の好みとか価値基準とかが明確になってきて面白いな~っていうことですね。人からもそれが見えてしまうと考えると、正直ヒヤヒヤしますけど……。ブログに書かないまでも、アニメファンの人であれば自分の「ベストエピソード」を考えてみるのも、何かしら発見があって面白いかもしれませんね。

 

・『迷い猫オーバーラン!』はバンダイチャンネルで1話無料、『ef~a tale of memories~』もバンダイチャンネルで視聴可能です。苺ましまろ』『フタコイ オルタナティブ』『Gift ~eternal rainbow~』『ToHeart』『ふたりはプリキュア!』『放課後のプレアデス』はdアニメストアで視聴可能(2016/08/31現在)。

・『セラフィムコール』『青い花』は現在配信している動画視聴サービスがないので、DVD・BDからどうぞ。

 

 

 

『シン・ゴジラ』(2016)感想メモ【ネタバレ】

 

f:id:ephemeral-spring:20160803155659j:plain

 

ようやく自分の中でも冷静さが出てきて感想が書けるくらいになりましたが、初回はかなり圧倒されたし、抜群に面白いと思いました。

これを書いてる時点でパンフレットもまだ手をつけてないしネットの考察記事とかも幸い(身内の人が書いたもの以外は)あまり読んでないです。二回目も一応見ましたが一回目見たときに書き散らした感想メモにあまり付け足すことなかったです。 

感想も全然まとまらないですが、思いつくままに書いてみます。以下長文(7000字程度)。

 


 

○まず自分の立ち位置としては、特撮はともかく『ゴジラ』シリーズについては見てたりするけど、さして個人的な思い入れはありません。申し訳ないですが。『シン・ゴジラ』が「ゴジラ」の新作としてどうかというのはよく分からないし、どうでもいいところかもしれない。 

 とはいえ、『シン・ゴジラ』というのは、「新」であり「真」であり、「シンちゃん」(樋口真嗣監督)のゴジラという意味までは含みとしてあるのかな、とは思って見てました。「新」というのは、シリーズの仕切り直しというか、ゴジラの再定義ということで、怪獣が全くの未知の存在であるまっさらな状態で「ゴジラ」というディザスターに直面した「今」の日本の話になるということですよね。未曾有の事態を虚構のない現実で対処するという。その意味で、「現実対虚構」みたいなフレーズは正直鼻につくなと思ってましたけど非常によく本質をついていると思いました。まあこのフレーズもおそらく庵野が監修してるんですよね。 

○『ゴジラ』シリーズにはあまり興味ないし、『クローバーフィールド』みたいな前予告もシラケるとか正直思ってたんですけど、「庵野秀明」および「スタジオカラー」の名前が冠されている以上見ないわけにはいきません。 

○映画が始まって、まず東宝ロゴマークが二回出ます。二回目に出たのは円谷英二が撮影した当初バージョンか何かで、明らかにわざとこれ持ってきてるんですよね。そこからドーンドーンと音が鳴って青バックに白字で東宝映画作品」って文字が明朝体で出る。まだタイトルも出てないんですけどこの時点でもう「ヤバい」と思いました。往年東宝映画へのオマージュだか何か知らないですけどやっぱりこういうのやるかという感じで。エヴァ以後の庵野監督というのは作品に関するありとあらゆるディテールや、作品外のポスターなどの広報に至るまで「デザイン」しコントロールしなければ済まないような人ですけど、やっぱオープニングからエンディングテロップに至るまでそれが来るかと思い身震いしました。 

○タイトルが出て本編が始まり、遭難船が無人で見つかりますね。「ゴジラ」シリーズに興味ないとはいえ1954年版『ゴジラ』とかは前に見てるので海上遭難船の被害から話始まるのはそれと同じかなと思って、一方で無人船というところで『パトレイバー劇場版』なのかなとかどうでもいいことを思いました。まあその後のシーンでヘリでビル街ぬって襲撃とかもパトレイバーぽかったですけど。 

 

ゴジラ多重進化するってアイディアは面白いと思った。最初に第一形態のゴジラの全貌が映されるところで観客は、イメージが違うので「えっこの怪獣は何?」って思うわけじゃないですか。僕は「ゴジラ以外にも怪獣出るのかな」とか素朴に思いましたし。それが進化してゴジラになって「これがゴジラだったのか」となるわけで、意表を突く感じで面白いと思いました。 


ゴジラ対日本の話をするということで、全体として官僚&テクノクラートが大活躍する話になるというのはまあ分かるんですよね。有事の際の対処として意思決定はトップダウンでなされることになるし、大きな話をするのであればそれが適している。少なくとも、間違った選択ではない。 

○それで、全体の構成としては、 

  • まずフッテージやニュースで得られる情報を通じてゴジラが察知され、それと並行してトップダウンで対処案が練られる。この時点では官僚にとってはまだ実在感が薄い。 
  • 対処が追い付かず東京が破壊されたところで官僚が現場に出てここで接点が生じ、実感が出る。 
  • そのあと自衛隊出動、米軍機も駆り出して対処するも通常兵器で太刀打ちできず東京火の海に。 
  • ここでニュース音声が流れ過ぎてくなか再度長谷川は無力感・歯がゆさにとらわれる。 
  • その後長谷川と石原さとみ初めとして根回しにより、外交戦略で国連の核攻撃を回避し矢口プランで対処し一旦事態は収束を迎える。 

という、雑に認識するとこんな感じ。

で、官僚が活躍する話なのは上記のように納得できるんですが、それにしても非常に潔い構成というか、並行して描かれるゴジラ来襲の現場よりもまず政治家のドラマをドスンと据えてますよね。そして、こうした有事の際の権力発動に際し手続きに要する煩雑さを、一つ一つに要する長さ自体を省略しはしても、過程の存在自体を結して省略しはしないというのは非常に胆力が要ることで、その描写を手抜きせず積み重ね続けるというのはある意味非常に泥臭いことをやってるなと思うわけです。そして、それでこそ全体の表現として効果を発揮しているのかなと。 
 たとえば自衛隊の対戦車ヘリがゴジラに最初射撃しようとする場面、 発砲許可の確認とるときでさえ何本も電話繋がっていくのは、はらはらさせられると同時にやきもきさせられるわけですよね。 
 そうした描写を積み重ね続けられるという確信があるというのが何というかすごい。それが最終作戦遂行に至るまでの、国力結集の説得力を生み出してますね。 
アメリカ側の代弁者としての石原さとみと、政治家気質の長谷川博己が出世コース捨てて根回しするみたいなドラマも用意されてますけど、それまでの分厚い蓄積と比べればそれがほとんど免罪符じゃないかとすら思えるくらいです。 

○映画全体に言えることですが、レイアウトがよくて、(特撮シーン以外でも)良い絵が一杯ありますよね。 

  • 実相寺昭雄的な構図感覚(ヘリの機体とか人間の口とかの極端な局部アップ、ナメ、シンメトリー、画面の分断)+岡本喜八のカットつなぎやテンポ、が合わさった随一のもので、このソリッドさにはクラクラさせられたし、オタクがこれ嫌いなわけないです。レイアウトオタクであればレイアウトだけでご飯何杯でもいけるような映画ですよ。 

○官僚組織の集合を表現するために会議シーンが何度も繰り返されるわけですけど、それでも決して単調にならないようにはしていて、見ていて飽きないです。 
最初の官邸会議シーンでのカッティング増やして緊迫感ましてく感じとか、その後の災害対策本部で矢口プラン指導して 会議が 有機的に回り始めてからの ダイナミックで躍動感あるカメラ 移動とか、上手い具合に変化もついてるし対比になっている。 

 あと、ああいう多人数並ぶ会話シーンで、演出意図/視線誘導としてのフォーカス送りをあまり使っていないのがいいですよね。一回目で気付いたのは二箇所だけあって、縦並び会議で総理に意志確認を迫るとこと、平泉成と補佐官が会話するとこ(実際にはあと二、三か所さりげなく使ってますが)。本当に見せ場のとこでしか使ってない。これだけ多人数の会話シーンが多い映画でこれは珍しいと思う。 

これはつまり、 
○各カット内で「見せたいもの」がはっきりしているということで、そのため、見せたいもの・人物にだけ焦点(フォーカス)があたった、被写界深度の浅い画面が頻出します。 
かつカット内でアクションを完結させるので、カット数がこれほど多いわりに意外に映像としては見やすくなっているのではないかと思う。 
「アニメ並に情報量が制御された画面」の為せるわざといったところでしょうか。 

○では会議シーンではその制御された画面で何を見せたがっているかというと、「顔」を見せたがっているとしか思えませんよね。 
 ほとんど明滅するかのごとく去っていく関係閣僚の無数の顔、そして役職(テロップ)。 
 別に登場人物の顔自体に変化があるとか、顔で物語るといった見せ方ではないんですが、とにかく一つ一つの顔、顔、顔を印象づけようとする。 

 ○組織というものの表現として、無数の「顔」に加え、わざわざそこまで出さなくていいだろ、と思うくらいに出る「役職テロップ」が機能している。あとはそれらを有機的に交差させる。ひたすらその繰り返しと言ってもいい。こういう、もはやどっちかというと物量推しではないかという表現もすごいと思いました。「コロンブスの卵」的な(?) 、まあ『日本のいちばん長い日』や『沖縄決戦』でやってることに近いかも知れないんですけど。

 そして、確かに顔アップの繰り返しは多いですけど、ジジイ連中の年期経た皺とかは面白い顔も多く、結構見てられるんですよね。それが平泉成や大杉連の年季行った顔でも、泉修一のふてぶてしい顔でもいいんですけど。 
 大杉連とか北野映画のやくざのイメージだったですけど一国総理の役柄をちゃんと背負えているし、キャストもいいですよね。 

演技については、台詞は演劇みたいにとても流暢(というか棒読み)で、増村監督みたいに基本的に俳優にあまり演技させない演技指導なところはありました。

 だから、別に石原さとみの演技の巧拙それ自体がどうというのはあまり問題ではないんですけど、それにしてもあの石原さとみはどうも自分は受け付けないところがありました(多分そう言っている人かなり多いんでしょうけど)。何というか、あのキャラクターの背負っているドラマに見合うだけのものがないと思ってしまったんですよね。それは単に外形的な顔もそうなんですが。石原さとみ出すならもっと違うキャラクターをあてがっても良かったんじゃないかとか思ってしまって。 

○あと誰か言ってたかもですが、裏で手を引いて利権貪ろうとする悪人とか、無能な人が劇中に誰も出てこないのはやっぱいいですね。お粗末な政治ドラマに終始することがなく、なんというかガチな感じがしていいです。 


特撮に触れてなかったですが、特技監督:樋口さんの尽力もあってか、パノラマティックな絵作りは凄くよかったですね。 
 まず最初に第一形態が多摩川侵入して、香川新橋で上陸してくるわけですが、ここのレイアウトは左右で分断して船が押しのけられてる川の混沌と、そのすぐ横の住宅街とに分けていて、不気味な混沌が日常生活に侵入してくる感じにぞくぞくさせられました。 

  • その後最初に第一形態の全貌が現れ車押しのけるとことかはどっしりした固定カットで、望遠レンズの圧縮で蹂躙される町並みをとらえていて、下手にカメラワークつけないのが規模感出ていて良いです。というか『クローバーフィールド』っぽいあの手持ちカメラは無力感がやばかったですね。 
  • 第一形態がマンションのしかかって押し崩すとこは前半のハイライトですね。 
  • そして、最初の来襲時は平面的に捉えられていたゴジラが、進化を経て二度目に上陸したときには、現実として対処せねばならない存在として二点透視で捉えられる、あおりでダイナミック。 
  • その後もパノラマ鳥瞰図とゴジラの不気味な局部アップの対比で持たす持たす。 

○余談ですが、特撮怪獣映画の魅力ってシンプルに言えば「スケール感」と(ごく個人的には)思います。 

 標識とかビルとかオブジェのような「日常の風景」が怪獣との対比であんなに小さくちゃちなものに見える、みたいな。それがミニチュアセットで再現されたものであれば、二重・三重にスケール感の違いが際立って一層効果を発揮するわけです。で、そういう感性は少なからず『シン・ゴジラ』でも刺激された部分がありましたし、質感の際立たない、CGのゴジラではありましたけど、単純に良いもの見れたなって感じもします。

ゴジラが東京上陸して夜間に停電起こして、ゴジラの周囲から同心円状に灯りが消えて周りの世界がふっと暗くなっていくところが、すごくいいですよね。ああ文明が消滅し世界が終わるんだなって感じなんですけど、同時に思わず綺麗だなって思ってしまう。 

○そしてゴジラがいきなりの火炎放射に続いてビーム発射で米軍機を撃ち落とし、一気に東京を焼け野原にしますよね。一気にやるのがいいんですけど、ほとんど官能的な美しさも湛えているし、燃える霞ヶ関とかが映るところで、まず一度涙ぐんでしまいました。 


○で、ここまできてようやく「ヤシオリ作戦」の話ですね。 

「ヤシオリ作戦」の段取りは、 

  • 自衛隊建機小隊および民間企業関係者面々がビル屋上に集結。 
  • まず無人新幹線JR で爆破し、 陽動。 
  • 米軍機ミサイル空爆攻撃し、ビル破壊でゴジラ足止め。 
  • 自衛隊建機第一小隊に加え、コンクリートタンク車両タンクローリー部隊が出動し、凝固剤注入で凍結作戦するも一度失敗しゴジラ立ち上がり移動。建機第一小隊全滅
  • 追加で無人在来線爆弾で、再度足止め。 
  • 建機第二・第三小隊出動し、凝固剤注入で凍結。 

って感じでした。 

○核攻撃でなく、日本中から物資や技術を集めてゴジラを凍結させるぞ!ってことで、まあ当然、日本中から電力集めてポジトロンライフル発射した(でしたっけ)ヤシマ作戦エヴァ)を踏まえたものではあるんですけど、「日本の国力総結集でゴジラに立ち向かっていく」感がしてやっぱ熱いですね(米軍協力もありますが)。 

「現実対虚構」みたいなのを最も如実に感じるのもここですよね。やってることは非常に荒唐無稽で、無人在来線爆弾とかリアリティ超越してるのでバカみたいなんですけど、日本の現実の「そこにあるもの」で、かつ現実考えうる手段で対処していくというのが非常に堪らないんですよね。 

 

○非常にベタとは思うんですけど、「ヤシオリ作戦」のとこで自分は感極まってしまいました。 

■第一に、まず自衛隊マーチ」をあそこで流すという選曲ですよね。しかも何か劇中の環境音っぽく流してる(明白にそういう描写はないんだけど)。 
 自衛隊ヘリ&戦車総出撃の蒲田作戦のシーンでなくあそこにかけるというのも「ええっ」って感じなんですけど、しかもクライマックスに思い切り既存曲使うという、その図太さというか心意気に感動しました。 

 やや話ずれますが、『ゴジラ』リスペクトで有名な『クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦』でも自衛隊戦車が芝生地で敵巨大ロボを迎え撃つシーンで「自衛隊マーチ」流すんですよね。 

 『温泉大決戦』はわりと本格的に怪獣特撮映画の迫力をアニメで出している作品で、それで中盤にスピーカー付き戦車が出てきて「自衛隊マーチ」流してるんで、おおっとなるんですけど、あれはあくまで自衛隊出てるし正統派オマージュという感じなんです。 

 それに対して「ヤシオリ作戦」であれ流すのは、何が何でもクライマックスであれ流す!というか、非常に気合い入ってるなあという感じがして打ちのめされてしまいました。 
 あと、巡航ミサイルの発射シーンで記録映像混ぜて使ったりするのも、映像再現技術が未発達だった時代の昔の戦争映画によくあるやつですよね。過去作品の韻を踏んでいるのかは分からないけど、ついカッコいいなと思ってしまう。タランティーノとはまた違う意味で、高度な「大人の遊び」をやっているという感じがして。 


■第二に、最終作戦のクライマックスで、絵的にどれほど面白いもの出すかと思えば、口に多数の管突っ込む(デカイ建機だが管に見える)という非常に地味な絵面で、でもその荒唐無稽な作戦を大真面目に(官・民の)職人が仕事として遂行してるっていうのがわかる。わからせる。それがもう堪りませんでした。しかも長谷川に加え、後方指揮で待機してる民間企業も面々もいちいち写るし。 

 あと、フランス政府との遅延交渉も含まれますけど、根回しのプロセスが描かれていてそれまでのドラマの蓄積もあるんですよね。そこで感極まってしまったんです。

 

ラストカットで、いつ動き出すか分からない凍結状態のゴジラが屹立してるというのは、そのまま今の日本の現実と地続きになっているという象徴的なもので、そういう状況認識は意識せざるを得ないのですけど、個人的にそういう読みは直接的すぎる気もして、他の人に委ねたいと思います。


EDテーマ・テロップ

■絵コンテを見ると摩砂雪さんはじめ結構「エヴァ」主要スタッフががっつり入っていて驚いた。カラースタッフ総動員。

■テロップの企業一覧が画面覆うのは熱かったですね、そこまで取り入れてデザインするかっていうか。あざといけど、この映画自体も日本企業結集のその産物ですって言ってるというか。 


 

○ということで、『シン・ゴジラ』は徹底的に自分の好きな要素だけで構築された映画にように思えて、自分としては全力で肯定するしかないのですが、あまりに自分の好みに刺さりすぎて客観的に評価することが出来ないので、人に薦めたいとかはないんですよね。国境を越えるような映画ではないと思うし。今の日本についての状況認識とか、あるいは「特撮」や「怪獣映画」というジャンルの枠組みなしにこの映画見るというのが、そもそもどういう視聴体験になるのか想像できないところがあります。 

 

○冷静にダメ出しするとすれば民間人の顔とかがなかったけど、下手に個人でもってマスを代表させるみたいなメロドラマは、それこそ監督も嫌いそうだし、自分もそれが見たいか?と言われたら疑問符がつく。もちろんそこで賛否あるだろうというのは分かるんですけどね。

 

庵野秀明に関して言えば、こういう着想でこういうものを出してこれるというのは間違いなく才人といえるわけですけど、軽々とこなしているのではなく、どの作品作るにも常に全力いっぱいいっぱいで、自分の持てる手管を全て出し切って作ってるというのが分かるので、そういう意味で、作家としての愛着はあります。生み出してる作品が図らずも似通ったものになるのも、セルフパロディだからではなく、そういう身を削って作ってる側面があるからだろうし。 

 

○あと、余計なことかもしれませんが言うと、日本国力結集して、あらゆる政治的手腕も駆使して対抗するからといって、右翼のプロパガンダみたいなことはないですよね。というか「改憲プロパガンダ」みたいに言われるみたいですが。樋口真嗣監督だって「『未来少年コナン』のオープニング曲はプロパガンダソングっぽくて嫌い」みたいなこと平気で言っちゃう人ですけど、それと、あそこで自衛隊マーチ流すのはまったく別の話でしょうって感じだし。 いずれにせよ、ナンセンスな批判と思いますが。

『12人の優しい日本人』(1991)

 

12人の優しい日本人』がGyaoで今月末31日まで見れる。

CMが頻繁に入ってウザいけどできれば是非見てもらいたので下手な文章ですが紹介文を書く。

12人の優しい日本人』はアメリカ映画『十二人の怒れる男』の日本翻案版として作られた同名舞台劇の映画化。

脚本は三谷幸喜。監督は『櫻の園』の中原俊。考えてみれば『櫻の園』もそのまま演劇の話であるし、劇中で流れる時間と視聴者の時間がほぼ同期している作品だ。

この映画を最初に見たのは10年以上前にたまたま見たのだけれど、それでも当時は感銘を受けたし、三谷幸喜ってすごい人だな〜という感じ。Gyaoで公開してたので久々にに見たけどやっぱり良かった。

ちなみに『十二人の怒れる男』は陪審員制度の話で、裁判の判決を巡る議論を交わし被告人が有罪か無罪かを判断する法廷劇。
シチュエーションを一室内に完全に限定した上の話になるので、空間と役者さえいれば撮れるたぐいのドラマである。『十二人の怒れる男』といえば低予算でも面白い映画が作れることの代名詞的存在だ。逆にいえば、密室の中で生じる議論のうねりそのものを劇化しなきゃいけないので、そこが演出家としては腕の見せどころとなる。繰り返し何度も映像化されているのはそれもあるのだろう。

この『十二人の怒れる男』の定型が優れているのは、ノー回想シーン・ノー再現シーンで、実際の法廷そのものは視聴者は見ておらず、もちろん実際の事件状況は分からない中でそれについて陪審員たちは議論を交わすわけで、あくまで真実は可塑的なもの、簡単に歪められてしまうとして存在せざるを得ない。あくまで真実は「藪の中」という『羅生門』的な世界観。

場当たり的な都合や情緒で事実関係が歪められ、オーラルな議論の中ですり抜けていく情報量そのものが緊迫感を生む。
最後にはもちろん有罪・無罪の判決が出るわけだけど、その結論の是非について容易な価値判断を差し挟むことは許されない。


では『12人の優しい日本人』はどうかというと、こちらもオリジナルの要素は大きく引き継いでいて、仕事で帰りたがる会社員がいたり、賢明な判断をくだす老人役がいたり、全体の展開も、トイレ休憩を挟んだり、細かいところでは部屋にファンが回ってたりするところまで、多くの要素を引き継いでいる。

異なるのは、『怒れる男』が大理石の荘厳な法廷に象徴されるような固い法廷劇であったのに対し、こちらはあくまで口当たりのいいコメディとして作られていることだ。老若男女12人は、当直が一人付いてるだけの安普請のボロい施設の密室で議論を交わす。 

そして、『優しい日本人』の翻案の優れている点は、この12人の人物像にある。オリジナルの『怒れる男』ではヘンリー・フォンダ演じる陪審員8号が、(いくら中立的なドラマとはいっても)道義的に正しい人物として特権化されて(贔屓されて)描かれているのに対し、『優しい日本人』ではそういった、明確に感情移入を許す頼り甲斐のある人物は排除されている。最初に全員一致の判決を覆すヘンリー・フォンダのポジションはいかにも独断に陥りやすそうな弱々しい男役者が演じているし(そしてそれが逆にオリジナルにないようなハラハラさを生んでいるが)、賢明な老人役も実質はただの頑固ジジイである。その点ではオリジナル版以上に中立的な目線もある。

加えて、アメリカ版になかった展開として、被害者への情緒的な同情や議論への付和雷同、なあなあの妥協によるとりあえずの折衷案、本音と建前の乖離、責任逃れ・無責任の体系......といった、議論に際しての日本人的な人物像が戯画化されて描かれている。

いわばそこでは、法学的な厳密なはどうでもよく、議論の進め方そのものが主題となる。『優しい日本人』は『怒れる男』の日本ローカライズ版として作られているが、カリカチュアライズされた人物像を自覚的に描くことで日本人そのものに関わる問題を前景化させてもいる。というか、日本人であれば多かれ少なかれ「あー議論の場でこういう感じのことする人居るよね」と思うところはあるはず。

もちろん豊川悦司演じるニヒルな弁護士が発言しだしてからの後半の議論のまとまり方はいかにもよくできたシチュエーションコメディらしいものであるし、ダイアローグの上手さも三谷幸喜独特のものである。そして、冒頭の出前をとるところから、もうそれぞれの人物の特徴を必要最低限の台詞で描出していく手際の良さもやはり感心する。だけれど、二転三転するこの前半部分だけでも十分に面白いものであると思う。

オリジナル版と比較すると、『12人の優しい日本人』は、当初の無罪判決を覆し有罪の嫌疑をかけるところから始まるのも面白い。『怒れる男』は当初の有罪判決を→無罪に覆す話なので、「被告人の少年を救う」という流れが一貫してあるのに対し、『優しい日本人』はたとえ判決が変わったとしても無罪が有罪になることになり、それは本意ではない。彼らはいわば議論のために議論をしている。

「演劇は関係性の芸術」という言葉が思い出される。12人の議論のテンポがピアノ音のようにアンサンブルを奏で、投票の割れにより人物は幾何学的な配置を描く。舞台的な誇張の利いた演技により流動的なうねりが生じ、予想外ながら必然性をも感じさせる結論が導き出される。この映画はあくまで舞台の映画化だけれど、フレーミングが上手いので、舞台を見ているような感覚と映画的な部分を上手く両立させている。

 

 演劇版の『12人の優しい日本人』は見たことがないけど、三谷幸喜は映画より演劇の方が面白いらしいとも聞いているので気にはなる。あと有頂天ホテルラヂオの時間も勧められたのでまた見ますかね~。

 

12人の優しい日本人【HDリマスター版】 [DVD]

12人の優しい日本人【HDリマスター版】 [DVD]

 

 

藪の中 (講談社文庫)

藪の中 (講談社文庫)

 

 

『ガールズ&パンツァー 劇場版』関連映画一覧など

 個人メモ、把握している範囲で。なお自分は軍オタでも戦争映画マニアでもありません、一応。案外長くなってしまった。

 

【第二次大戦の戦争映画】

  •  『1941』('79年米) 

 ウサギさんチーム澤梓による「ミフネ作戦、行きます!」のコール!

 スピルバーグといえば、これ以後もいくつも戦争映画大作を撮っていますが、記念すべき第一作目はこのタイトル。『JAWS』のセルフパロディから始まり、「太平洋戦前夜でもハリウッドは好き勝手やってました」というようなバカ騒ぎ映画で、人死にはありませんが、それでもドイツ軍人だけはしっかり始末してるとこがスピルバーグらしいです。水島監督は、以前からこの映画好きだったぽいですが。

 ミニチュア特撮の「見立て」に失敗しているという理由から、岡田斗司夫は自著でこの映画を「失敗作」と書いています。戦闘機の特撮シーンは確かに同じ構図の繰り返しでやや飽きますが、インディ・ジョーンズ的な追いかけっこなど全体にわたってドタバタで楽しい映画です。

『1941』で三船敏郎は二発大砲を撃って観覧車を回転軸から外していましたが、砲口が二つあるM3中戦車ならば一回の発射で外せる、加えて観覧車を転がすことで単に観覧車破壊だけでなく撹乱作戦になる……、というような理屈から楽しくアレンジしたと思われます。

パリ・ダカール・ラリーを題材にしたフランスのアクションコメディ(というよりギャグ映画)『ル・ブレ』('02)にも、観覧車が軸から外れて転がり(CG)、その脇でカー・チェイスをするというアクションがありますが、この映画では「転がった観覧車が横倒しになりその隙間に挟まれた人間が生き残る」というのがあります。僕は『ガルパン 劇場版』初見のときに「戦車が横倒しになるのを活かすアクションがあったら良いな」と思ったのですが、『ル・ブレ』ではそういうのをやってます。

 

戦略大作戦(Blu-ray Disc)

戦略大作戦(Blu-ray Disc)

 

 「リパブリック讃歌」をかき鳴らしながらオッドボール軍曹(ドナルド・サザーランド)がシャーマン戦車で駆けつけてくれる!お馴染みの戦車映画で、市街地で戦車で殴り込みをかけ、気持ち良いくらいに破壊しまくる。キャラクターの濃さとサスペンス描写。B級戦争戦争映画でこれ以上にそれぞれのキャラクターが立ってるものはないでしょう。

まんま当時のヒッピーみたいなオッドボール軍曹はじめ、全体的にだらしないならず者部隊という感じの面々を、イーストウッド一人がいい感じに締めていると思います。

同監督、同じくイーストウッドがメインで出演のナチ潜入モノ、荒鷲の要塞』('68米)と組み合わせて見るのが良いでしょうかね。『荒鷲の要塞』はアクションの物量も随一で『戦略~』に引けを取らないし、寡黙な職業軍人が粛々と任務を遂行し敵を葬り去る、ジリジリするような鍔迫り合いのサスペンスが楽しめます。『ガルパン』劇場版のBGM「無双です!」は『荒鷲~』のテーマとフレーズやアレンジが似通ってるところがありますね。

荒鷲の要塞(Blu-ray Disc)

荒鷲の要塞(Blu-ray Disc)

 

 

バルジ大作戦 特別版 [DVD]

バルジ大作戦 特別版 [DVD]

 

 ウサギさんチームの「WW2戦車モノ」その1。劇場版パンフレットにポスターのイメージがパロされた。パンツァー・リートがフルで使われる。

戦車戦は数が多く見応えあります。時代ということもありブルーバック合成や特撮を使ってるとこが多いのが今見るときついかな、とも思いますが、雪中での戦いが良いです。ただあまりお勧めはしません。

 

 ウサギさんチームの「WW2戦車モノ」その2。TV版では「玲萬言橋」でも言及。

最近亡くなったジョン・ギラーミン監督の代表作。

キャラクターはやや薄いながら爆破アクションは多く、戦車がスピーディに走り回ったり、市街地を蹂躙したり。黄金伝説のスコア、微妙に合ってないと思うのは私だけですかね。

 

鬼戦車T-34 ニューマスター [DVD]

鬼戦車T-34 ニューマスター [DVD]

 

 ウサギさんチームの「WW2戦車モノ」その3。

ドイツ軍の捕虜にされたロシア兵が戦車T-34で脱走する映画で、人情ドラマ。

T-34は最大速度:50km、連続航続距離:300kmと非常に機動力が高いらしく、それを存分に活かし戦車が花畑、原野、市街地、と軽快に疾走します。

狙いとしては、ソ連のプロパガンダの意図が明確に透けて見えるのが難点ですが、ソ連映画的なモンタージュ・シークエンスも、戦車アクションも凝っており結構見応えがあります。キューポラがシュコっと開いて顔をだすとかディテールもいいし、また、戦車という陸戦兵器と、ロシアの自然、国民、地理的風土との奇妙な結びつきも感じられる。あとは「カチューシャ」も。

T-34が暴れ回る映画といえば『戦争のはわらた』('77年英・西独)も、戦車シーン・塹壕戦の戦闘描写が凄まじいので未見の人は是非見て欲しいです。

 

 ウサギさんチームの「WW2戦車モノ」その4。蛸壺屋の『ゆきゆきて戦車道』でも大胆にパロディ対象にされました。

原題は"Patton"で、そのままアメリカのパットン将軍の伝記映画。海外ではむしろ歴史映画、伝記映画の大作として評価が高いです。『大戦車軍団』というB級っぽい野蛮な邦題が付けられてますがアカデミー作品賞も獲ってるA級作品。

アメリカのパットン将軍、イギリスのモンゴメリー将軍、ドイツのロンメル将軍を三つの軸として描いています。破天荒に振る舞い、常に歴史・戦争と共に生きた、パットン将軍という人のキャラクター、生き様の話。戦車戦も、アフリカ戦線の戦いとか大規模で見応えあります。

脚本を書いているのが地獄の黙示録』('79米)フランシス・フォード・コッポラですが、「時代の波に追われ地位や居場所が失われゆく者への目線」という意味では、『ゴッドファーザー』などとも通底するものがあるな、という感じです。

 

 TV版では、4話で言及。吉田玲子氏もインタビューで言及。

f:id:ephemeral-spring:20160206214602p:plain

イギリスのモントゴメリー将軍(本人は出ません)考案のマーケット・ガーデン作戦の映画で、多数の兵力を投じ、ドイツ側より優勢だったにもかからわず計算外の要因等により失敗に終わった作戦の顛末を描いています。

映画としては、望遠で戦車・装甲車両がワーッと一杯並んでるような画が多いですが、橋の上での攻防や、対戦車砲との戦いが見応えあります。ただ、この映画単品で見ても戦局の推移とかはかなり分かりにくいです。資料を参照するといいかも。

↓ちなみに、日本での映画公開後まもなくのころ雑誌「PANZER」('77年10月号)でもマーケット・ガーデン作戦の戦史ドキュメントが載ってました。

f:id:ephemeral-spring:20160206210920p:plain

 

 米・英(・仏)独それぞれの視点から、連合軍によるノルマンディー上陸作戦の全貌を扱った、ドキュメント映画。『ガルパン 劇場版』では特報でのパロディを始め、プロモーション等で言及がありました。吉田玲子氏も言及。

ヴェルレーヌの詩の電報の元ネタにあたる話が出てきます。あとは大洗海岸オマハ・ビーチ。戦車は、少しですが、チャーチル戦車やシャーマンが出てます。

典型的なアメリカの戦争映画大作といった感じですが、戦闘シーンは大規模な空撮ショットと、動員された人員の多さが見所。あとは予告でも使われてるカジノ爆破(劇場版でのKV-2のホテル撃破が似てる)など。

戦場でイギリス兵がバグパイプ吹いてたりとかも興味深いです。

 

  • 『フューリー』('14年米)

 一応ガルパンとコラボしてます。タイガー戦車の実車が出て、中盤にはシャーマン戦車との戦闘もあるという触れ込みです。

いわゆる戦車アクションとしてのケレン味やカタルシスは注意深く排除された、正統派の戦争映画です。通過儀礼を経て、新兵が戦争軍人としての振る舞いを身をつけていき、最後にはそこから離れざるを得なくなりますが、その刻印は消えないでしょう、といった。

いわゆる「家」としての戦車がコンセプトで、そのため戦車内の描写に凝っています。

 

  • 『ヨーロッパの解放』('70-'71年ソ)

 ガルパンとコラボしてHDリマスター版が発売された、ソ連映画の連作。 独ソ戦を戦局ごとに扱った再現ドラマで、総上映時間は7時間超。国家プロジェクトとして製作された大規模なプロパガンダ。戦争映画としてはボンダルチュクの『戦争と平和』('66-'67年ソ)とかと比べそれほど評価は高くないです。

監督のユーリー・オーゼロフは同じく連作『モスクワ大攻防戦』('85年ソ)も手がけている。
 
アンツィオ大作戦 [DVD]

アンツィオ大作戦 [DVD]

 

 OVA版のパンフレットでオマージュされたこれも一応関連あるといえばありますが、ロバート・ミッチャム演じる従軍記者が主人公の映画。ローマ解放を描いた映画は他にもある。

 

地獄のバスターズ〈デジタル・リマスター版〉 [DVD]

地獄のバスターズ〈デジタル・リマスター版〉 [DVD]

 

 これはガルパン一番くじの何かの版権を見て思い出しましたが、イタリアの「マカロニ・コンバット」モノの代表的な一作で、特攻大作戦』('67年米)的に、脱走捕虜を訓練してナチスの本部に潜入し、V2ロケット運搬中の列車を襲撃するというB級アクション映画。『イングロリアス・バスターズ』でまた注目されました。

↓『地獄のバスターズ』アメリカ公開時のポスター。

f:id:ephemeral-spring:20160206023858j:plain

機関銃乱射されてバッタバッタとドイツ兵が血を流さず倒れていく感じはB級らしいノリですが、職業軍人としての男同士の結びつきの群像劇で、列車周辺のアクションも熱いです。

戦車は全然出ないですが、元祖の方の特攻大作戦も癖強い役者と演出で面白いですよ!

f:id:ephemeral-spring:20160530003327j:plain

 

余談として、「マカロニ・コンバット」モノの『砂漠の戦場 エル・アラメン』('69年伊)には、エル・アラメインの戦いで実際に使われたセモベンテ自走砲などイタリア戦車が登場しているらしいですが、未見。リー・ヴァン・クリーフ主演の『地獄の戦場コマンドス』('68年西独・伊・仏)とか、体張ってて面白そうなんですけどね。

 

  • 『サハラ戦車隊』('43年米)
サハラ戦車隊 [DVD]

サハラ戦車隊 [DVD]

 

 M3中戦車リー映画で、広大なサハラ砂漠を戦車一台で走り続ける。

戦時中に作られたアメリカ映画で、『1941』が名前をとっているルル・ベル号が出てきます。ルル・ベル号の戦車長を演じているのはハンフリー・ボガートですが、自戦車を愛馬のように扱い話しかけます。戦車での戦闘シーンはほぼないですが、アメリカ兵、イタリア兵、ドイツ兵それぞれの思惑が交差するドラマになっています。

 

ウィンター・ウォー ~厳寒の攻防戦~ [DVD]

ウィンター・ウォー ~厳寒の攻防戦~ [DVD]

 

  対ロシアの冬戦争を扱った代表的なフィンランド映画。

 

 ↑の 冬戦争の継続としての「継続戦争」の、タリ=イハンタラの戦いを扱ったフィンランド映画の近作。海外版BDが入手可能。戦車はKV-1や三突、T-34が出る。

戦史好きな人の中では、フィンランドは結構定番らしいですが、どういう経路から入るんだろう…。

 

  • 『ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火』('12年露)
ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火 [DVD]

ホワイトタイガー ナチス極秘戦車・宿命の砲火 [DVD]

 

 『ガルパン』TVシリーズと同年にロシアで制作された、ドイツのタイガー戦車VSソ連戦車のアクション映画。Ⅳ号戦車等も出る(らしい)。未見。

 

  • 『大脱走』('63年米)

 「大脱走マーチ」そして、メインタイトルシーンとの関連もありますが、(実話ベースながら)多彩な濃いキャラクター、サスペンス感ある駆け引き、爽快なアクションと、'60年代戦争娯楽映画の王道。

ガルパンが意識しているらしい「戦争というシチュエーションを借り、極限状況で頑張る人たちを描く」娯楽映画という意味では、これとかナバロンの要塞』('61)とか『特攻大作戦』とかですね。

 

  • 『肉弾戦車隊』('59年米)
世界の戦争映画名作シリーズ 肉弾戦車隊 [DVD]

世界の戦争映画名作シリーズ 肉弾戦車隊 [DVD]

 

 原題"The Tanks Are Coming". ジークフリート=ラインの戦いを題材にしており、こちらは『サハラ戦車隊』と異なり対戦車戦が複数あり、パーシング等アメリカ戦車も多く登場し、面白い挙動をします。こちらでも見れます

 

プライベート・ライアン [Blu-ray]

プライベート・ライアン [Blu-ray]

 

 オマハ・ビーチの戦いでの、耳元を掠める銃弾など3D音響の使い方や、細かいカット割りによる主観的な戦場の表現が革新的だった『プライベート・ライアン』。『ボトムズ』ほかアニメ作品でも多く参照されており、全アニメ・映画ファン必見。音響的に指標になった(by岩浪音響監督)。

 

  • 『バンド・オブ・ブラザーズ』('01年米・英)

 ポスタービジュアルがオマージュされる。英米共同制作のドラマシリーズ。このシリーズのドキュメント風描写を意識した(by鈴木氏)。

 

  • 『西住戦車長傳』('39年日)

軍神として知られた西住小次郎大尉(みほのモデルですね)を題材にした菊池寛の小説の映画化で、八九式中戦車など実車が数多く登場しているようです。これに収録されてるようです。単品でのDVD発売やリバイバル上映が待たれます。

 

日活100周年邦画クラシック GREAT20 ビルマの竪琴 HDリマスター版 [DVD]

日活100周年邦画クラシック GREAT20 ビルマの竪琴 HDリマスター版 [DVD]

 

 「埴生の宿」(「HOME!SWEET HOME!」)が使われてる往年の名作。これも水島監督のお気に入りでしょうか? '85年にカラー&キャストリニューアルでリメイクされてますが、どちらがより有名でしょうかね。これは白黒の方が良いんですが。

 

  • 『ソドムの市』('75年英・仏)

 広義の意味での戦争映画、風紀委員の名前の由来となる(皮肉?)。「劇場版にオマージュシーンあり」とのこと(by鈴木氏)。すごく上品に撮ったエグいモンド映画という感じなので、一般ファンにはあまり勧められません。

 

【第二次大戦以外の戦争映画】

レバノン [DVD]

レバノン [DVD]

 

 戦車とひまわりとの取り合わせ。

レバノン内戦を扱った映画で、センチュリオン戦車の内部からの兵士の視点で物語が進行する。

以前、萌えミリを否定しておられる某アニメブロガーの人が、「『ガルパン』を見るくらいなら『レバノン』も同時に見ろ!」というような趣旨のことを書いていたのが忘れられない。

同じくレバノン内戦を扱ったイスラエルのアニメ映画戦場でワルツを』('08年)は、アリ・フォルマン監督自身によるインタビュー&回想形式で戦争体験が綴られる。こちらも特殊なタッチのアニメーションだが市街地で戦車が描写されている。

 

二百三高地 [Blu-ray]

二百三高地 [Blu-ray]

 

 この映画である必要性はありませんが、日露戦争内の「203高地の戦い」を描いたエピックな再現ドラマ。お金のかかってる時代の日本映画という感じで、高地での対要塞砲の戦い、突撃し無力に命を落としていく新兵たち、泥沼の戦場が余すところなく再現されています。長い。Amazonプライムでも見れる。

監督は『トラ!トラ!トラ!』('70日・米)山本五十六周辺のパート等にも参加し、太平洋戦争映画もいくつか手がけている舛田利雄で、わりと骨太な演出。

 

これも広義の意味での戦争映画。「雪の進軍」。

 

西部戦線異状なし [DVD] FRT-003

西部戦線異状なし [DVD] FRT-003

 

  第一次大戦の代表的な反戦映画。「蝶に気を取られていて→撃たれる」の流れがこの映画の有名なラストシーン(塹壕)と同じ、ということなんですが、これはそう指摘するのは野暮だという感じも。ダイソーとかでDVD見かけたら買っていいと思います。

仮にそういうネタだったとしても映画ネタというよりは歴史ネタの部類な気がする。

 

【戦争映画以外の映画】

 "Säkkijärven polkka"は実際に継続戦争中に地雷解除のため周波数を合わせて使われたとのことですが(もちろんそれは初めて知りましたが)、アキ・カウリスマキ監督のこの映画の主題歌でもあります。


"Leningrad Cowboys Go America" by Aki Kaurismäki

 グラサンとリーゼントがトレードマークのロックバンド「レニングラードカウボーイズ」が主人公の音楽&ロード・ムービーですが、北野武のギャグ映画みたいなシュールで不思議なトーンの映画で、色々なアイディアがあり楽しめます。

続編のレニングラードカウボーイズ、モーゼに会う』(’94年)も含め、「ポーリュシカ・ポーレ」や「カチューシャ」などロシア民謡の演奏シーンも多く、焚き火を囲んでのコサックダンス(?)も見れます。二作ともに、悲哀をコメディタッチで見せるユーモアがある。未見の人には勧めたい。

 

プロジェクトA [Blu-ray]

プロジェクトA [Blu-ray]

 

 ジャッキー・チェン映画の、定番。終盤にかけてどんどんテンポを増し畳み掛けるようにカットを重ねるということで、水島監督が制作時に言及したとのこと。

加えて「いすゞジェミニ 街の遊撃手」のCMですね。これはyoutubeとかで検索してみてください。

 

  • 『Mad Max: Fury Road』('15年豪)

 岩浪音響監督が盛んに口にする『マッドマックス』四作目。

『Fury Road』の公開時期的に、『ガルパン 劇場版』と関係があるとすれば音響などポスプロ段階に限られるかな?と思いますが、『マッドマックス』トリロジー('79-'85)は関係あるかも、水島監督アクションでの「オプティカルフロー」を感じさせるような画作りとかは、こういったところに由来するのかもしれない。

カーアクションでは、車がジャンプで川越えするアクションのあるということで、トランザム7000』('77年米)が『ガルパンFebri』エンサイクロペディアで言及される。

 

 『1941』と同じくダン・エイクロイドジョン・ベルーシ主演の奔放なミュージカル・コメディで、カー・チェイスもあり。水島監督はこの映画、お好きそうですが。

ガルパンのBGMでいうと「M4シャーマン中戦車 A GO! GO!」な感じですね。エルヴィス・プレスリーのイメージらしいですけど。

孤児院廃止を阻止するために義援金集める話なんですが、だんだん状況が悪化していく脚本と、歯止めが利かなくなるスラップスティックが見所。

 

  • 『素晴らしきヒコーキ野郎』('65年英)

 『史上最大の作戦』のややコメディ的な部分のある英・仏パートや、『バルジ大作戦』を監督したケン・アナキンによる監督作。

フランス人、ドイツ人、イギリス人、イタリア人、日本人がそれぞれ参加し飛行機レースするコメディ映画。

 

 原恵一監督作で、水島努は絵コンテ・演出で参加。今見ると、いい時代だなあという感じです。

これには自衛隊の戦車(スピーカー付き)や戦闘車両が多く登場し、芝生地で巨大ロボに対抗します。

水島監督が「映画」として新しく『ガールズ&パンツァー 劇場版』を制作するにあたっては、過去に監督もしくは演出として参加した、『クレヨンしんちゃん』劇場版のような活劇がプロトタイプとしてあるように思う。

この作品はアニメで特撮的なスケール・重量感を再現しているのが見所で、個人的には『地球防衛軍』のモゲラっぽいどっしりしたデザインのYUZAMEロボがわりと気に入っています。

  • クレしんパラダイス! メイド・イン・埼玉』('99)

『爆発!温泉わくわく大決戦』と同時上映の短編で、水島監督のアニメ初監督作(映画監督としても)。カオス。

 

 『クレしん』劇場版シリーズの、原恵一からの交代第一弾で、デジタル初移行ということもあり、当時はわりと批判も多かったはず。遊園地での大規模なアクションがある。ジェットコースター!

全体としては水島監督のギャグ・パロディ作家としての才能が炸裂した作品で、テーマらしきものは勿論ありますが、次々とフェイズを切り替えていく漫画映画的構成で、統一感は薄く、いい感じに理屈がなくて、笑えます。

また、多彩なリアリティ・ラインを行き来し、身体感覚に訴えかけてくるようなところがあると思います。

 

 水島監督による『クレしん』映画第二弾で 西部劇をモチーフにしたループ作品であり、メタ映画。水島監督にとって映画とはこういうものであろうか、とも考えられます。

そういえば、『ヘンダーランド』 のス・ノーマン的な巨大雪だるまも劇場版に出てましたよね。

 

  • 『戦艦バウンティ号の叛乱』('35年米)
  • 戦艦ポチョムキン』('25年ソ)
  • 『ケイン号の叛乱』('54年米)

 歴女チームが言及した、艦船で反乱を起こす系の映画繋がり(おそらく)の三作。小ネタ集。映画としては記念碑的作品『ポチョムキン』を見とけば、良いですかね…。クレイマーの『ケイン号』もメインタイトルとかかっこいいですけどね。

 

  • 『荒野の七人』('60年米)

 『七人の侍』翻案のアメリカのスター集結の西部劇。『夕陽のカスカベボーイズ』の元ネタの一つにもなっている。「黄金伝説」『大脱走』と同じくエルマー・バーンスタインの手がけたこの映画のメインテーマが劇場版でオマージュされた(?)ようです。

 

  • 『夕陽のガンマン』('65年伊) 

 マカロニ・ウエスタンというところだと、代表的なレオーネ&イーストウッド映画で、決闘シーンも白眉。『夕陽のカスカベボーイズ』で意識されてる西部劇の一つでもあります(おそらく)。

遊園地のウエスタンランド(?)のところでは、この映画のモリコーネのスコアっぽいBGMが使われていたような…。水島監督もそういうのお好きそうで。なお『戦略大作戦』の西部劇っぽいシーンのパロディ元になっていたのは 『続・夕陽のガンマン』('66年伊)ですね

 
<参照>

数々の名戦車映画へのオマージュと戦車愛が炸裂! 戦車が戦車として戦う魅力に溢れた『ガルパン』

アニメ音楽丸かじり(170)水島努監督の巧みな音楽用法が光る『ガールズ&パンツァー』劇場版サントラ | WEBアニメスタイル

(BGMの「Home!Sweet Home!」はビルマの竪琴からだろうけど、木下恵介監督版二十四の瞳』('54年)でも少し使われてるので、シチュエーション的にそれもあるかもしれないと思う。原恵一『はじまりのみち』('14)繋がりもあるし)

まあこういう推測とかは、後々コメンタリーとか色々なメディアで明かされたり明かされなかったりするでしょうからね。

 

自分からは以上です!

ガールズ&パンツァー 劇場版 オリジナルサウンドトラック

ガールズ&パンツァー 劇場版 オリジナルサウンドトラック

 

 

いまだ語り尽くせぬアニメ『ガールズ&パンツァー 劇場版』

※『ガールズ&パンツァー 劇場版』を見ていない、あるいは楽しめなかったという方にはおそらく毒にも薬にもならない記事です。あとネタバレです。

 

f:id:ephemeral-spring:20160206015441j:plain

【感想】(10000字超え)

『ガールズ&パンツァー 劇場版』は水島努監督の過去のTV作品に何となく思いを馳せながら去年12月に観に行ったのですが、「いままで見たことのないような映画で、アニメだ!」と思い、それ以来劇場で何度も見てしまった。 

久々に、半々くらいの比率で「理解したい」という欲求「体験したい」という欲求を同時に掻き立てられるアニメだったというのが大きいと思う。劇中のミカの台詞にすっかり騙されたように何かを見出そうとしていたのかもしれない。

 ソフトが早く出れば買って見たいなと思うのですが、ソフトで見るとまた違った見方をするだろうから、体験としては変質してしまうかもしれない。

だから、劇場で見た際のとりあえずの感想を、メモ代わりに残しておこうと思います。 

 

▼映画の体験性としては、やはり音の印象だ。正に『プライベート・ライアン』を昇華したのかな、とも思わせるような耳元をヒュンッっと掠め空気を揺るがす砲弾の音響に、戦車によっては厚い装甲を感じさせる鈍い衝突音や、跳弾音

戦車戦では、俯瞰、アオリと多彩なアングルを駆使しカメラは戦況を間断なく捉え続け、スコアで展開を主導しフェイズを次から次へと切り替え続ける。

選抜戦では特にロケーションをふんだんに活かしアイディアを投入しまくり、遊園地と3Dレイアウト=箱庭感で、3DCGで構築した空間で箱庭っぽい遊び場で、ミニチュア戦車を走らせ回るような可愛らしさもどこかしらあり、それに全体にわたりごっこ遊びの文脈で小ネタが昇華されてるところ(台詞でもアクションでも)が面白いと感じた。

(そもそも戦車道自体が特殊コーティングとかそういうお約束で担保されて成り立っている世界であるから、箱庭的な遊び場をシチュエーションにするということ自体が心なしか批評性を持って感じられるところもある)

また、それと同時にキャラクターの成長を最も気持ちのいい演出で見せてくれるところがよく、記号的なキャラでありながら天丼ネタを上手く処理している。風紀委員の挫折を経ての再生や、カチューシャが他チームと入り乱れ共同作戦を組むといった描写がそれにあたるだろう。それらを通じては、組織論的に色々と面白いことも言えると思う。たとえば、チームプレイでいかにして自己のポテンシャルを発揮するか、といったようなことや、信頼できる人員をどう使うかといったことだけど。

良い演技を一杯入れよう、アクションはリアリティを底上げしよう 、というところからは映画としての佇まいが感じられ、キャラクター性に寄ったギャグの 積み重ねで気分を上げるファンムービーでもあった(しかし、歴女チームは見事にほぼ歴史の話しかしていない)。

天丼ネタの一つには、狂言回し役で出てくる継続高校の子たち(彼女らだけ後半に中継をTV画面を通して見ている)の戦車道への言及があり、映画全体がそれに挟まれオチがつく形になっている。

エンディングの最後では、中盤の「去っていく学園艦→西住みほの悲しげな顔」と重なるように、「西住みほの綻ぶ顔→水平線に見えてくる学園艦」が映される。当初の目的であった日常の回復の完遂が示唆されると同時に潔く幕切れとなり、終わり方は丁度これでいいと思えるものだった。

 

▼大まかな視聴体験としてはそのようなものだったけど、客観的に眺めてみて、

すぐに思うのは、『ガルパン』の劇場版は、TV版の続きであるだけでなく、実質的にはそのリメイクとして作られているということだ。

廃校を阻止するための試合という(主にプラウダ戦以後の黒森峰戦だが)展開をもう一度やり、西住母との関係だって仄めかしはするもののそれ自体で完全に和解までは行かない。

また、重戦車マウス撃退の再演や、チハ戦車とポルシェティーガーとで英国戦車追い詰めるところなど、TV版を見ている人であればすぐに想起するよう、それ自体への言及も数多くなされるし、そもそも最終二話の対黒森峰戦のアイディアの多くは劇場版でも使われ、選抜戦のプロトタイプになっていることも分かる。

しかし、「リメイクだ」ということ自体ではそれは「AとBは同じ」と言っているに等しく、内容については何も語っていない。

問題となるのは、メインの筋としては「廃校の決定を阻止するため勝負に出る」という同じ展開であることを観客は当然察するだろうということで、こういった方面については観客からの批判も当然考えられるだろう。第一「3分でわかる~」で、TV版が大洗を廃校の危機から救う話だったことが明言されているし、その点で「同じ展開である」ことは観客は容易に察せられるはずだ。

劇中でも、『劇場版』での廃校絡みの展開の前提とかは、もっと観客に違和感を抱かせないよう巧妙にもできたはずだろうけど、逆に、あえて明快な構図にして明示的に描いて見せている。そしてむしろ戦車戦の展開や個々の関係に注目させよう、といった気概を感じさせるのだ。

「廃校阻止のため試合勝利を目指す」というそれ自体が、一致団結展開のためのエクスキューズであって、「その前提を共有させた上で盛り上げる」というくらいであることを隠そうともしていないくらいで、ここまで踏み切った展開にできること自体が強みだ。

つまり、表現それ自体への注力があるのであればメインの筋は、共感できるよう一つの軸に絞った方が良い。そのためにあえてそれまでの雛形を用いてより強固な形で再現する。

「ストーリー自体は非常にシンプルながら、ドラマのディティール描写に力を込める

映画として作られており、また、そこにこの映画の成功はある。

その意味で、岩波音響監督が盛んに言及する『マッドマックス4』が、直線運動のみという単純なシチュエーションと対立構図に絞り多くのドラマをそこに投入したのとは確かに近いものがある。

 

▼この映画は描写として、静の部分動の部分も作りこまれており、記号的ではあるにしてもキャラの息づく存在感が確かにある。西住みほが久々に実家帰りして入った部屋は陽光の差し込む中でホコリがさり気ない形で舞っており、そこから流れるように過去の回想にも誘われる。

セリフがない、というようなシーンの殆ど無いこの活劇において、鮮やかに描かれるこの回想はきわめて強い形で印象づけられる。

アクション自体ももちろんこの映画の主要な要素を占め、世界観を形作っている。

水島監督の演出的な特性、あるいはアニメ的な問題かもしれないけど、ダブルアクション・トリプルアクションやスローモーションなどの、時間的に厚みを持たせるテクニックもこの映画ではそれほど使われていない(大洗市街戦の肴屋本店のとこでダブルアクション、対大学選抜戦のカール戦でスローモーションとトリプルアクションがいずれも効果的に使われているものの)。こういった重厚なアクションであれば通常はもっと多用されてもいいくらいと思う。

『ガールズ&パンツァー 劇場版』は基本的に一瞬で勝負が決まる反スローモーションな世界であり(特に中央広場での「残り5両」以降はそうだろう)、その意味で、アクションの次元ではあくまで緊張感を保ち続けているのだ。

時間を引き延ばす必要のないほど、アクションが詰まっているともいえるけど。

しかし、一方で重厚なアクションというものもありながら、あくまでキャラクターの賑やかさや可愛らしさを保った明確な「漫画映画」的(byアニメ様)的な活劇でもあり、安心して楽しめるという要素を担保している(逆に言うと、スーパーマーケット的な漫画映画でありながらアクションで手加減はしないということでもある)。

(漫画映画的なノリの良さ・快楽原則は、あの西住まほの台詞に合わせ逸見エリカがスッと書面を出すタイミングの良さなどに代表されるもので、期待に応え気分を盛り上げてくれる)

危機的な状況におかれても、全編を通じてキャラがノリの良く楽しんでいる感じを忘れていない。戦車を扱ってはいてもその挙動の可愛らしさを通じて、それを体感させている。「観覧車先輩、お疲れ様です!」といった、あくまでスポーツものとしてのノリや要素もそういったところにハマっている。

エキシビジョンマッチでは途中敗退したウサギさんチームが「私たちの分まで頑張って〜!」「河嶋先輩ガンバーっ!」(余談ですが大野あや「ぶっ殺せー!」が好きです)と応援してるとこが挟まり、部活モノっぽい(部活じゃないけど)ノリをそこで再確認させてくれる。

そして単にコンセプトの問題だけでなく、それを実現化するにあたっては膨大な労力と時間が投入されてことと思うし、それに対しては敬服せざるを得ないという気持ちもする。『ガルパンの秘密』や『ガルパンFebri』を読んでいるだけにより一層そうだ。

 

▼一般論として、起伏のあるドラマを描け、毎回インターミッションを挟むTVシリーズとも違って、あくまでひとつづきの体験として、巻き戻しの利かない状況で鑑賞されることが前提となる映画では、ドラマというよりは全体を通して描かれる主題が前景化される。『ガールズ&パンツァー 劇場版』の場合、そのうちの一つが「戦車と女の子、戦車道」というあの世界観であるけど(会長・蝶野が理事長と直談判する真面目なシーンでさえ背景には戦車道の世界観を表す絵画がデカデカと目立つ)、実際に劇場で一続きに鑑賞してちゃんと満足感と体験性が担保されるのは、映画的な工夫の数々によるのではないか。

 

▼『劇場版』は全体で、二つの長尺の試合に挟まれるような構成になっているが、最初の前哨戦的なエキシビションマッチでメインメンバーが試合の流れの中で顔出しして、そこはまたフラッグ戦であり、「一発逆転もあり」な試合だ。その試合ではまだ敵味方も入り乱れた形で描かれ、全貌が一挙には把握できない混乱した戦場になっているが、

それに対し、対選抜戦での30両対30両は敵味方がはっきりと統一され描かれ、何よりフラッグ戦→殲滅戦という設定により相互性・両極性を極めた戦いが展開される。要はあの闘いがハイライトですというのが、エキシビジョンマッチを配することでこの上なく明確になり、試合のテンポを徐々に増していくあの流れと同様に、映画全体の時間の流れを形作っているはずだ。

 

▼『劇場版』に繰り返しでて来るモチーフとして、一つには高低差を活かした配置があるだろう。エキシビジョンマッチで聖グロを囲繞する大洗知波単連合チーム、大学選抜戦で高地をいち早く占拠するひまわり陣営、遊撃戦を仕掛けた後に遊園地の野外ステージで一塊にされ選抜チームに取り囲まれる大洗陣営の、計三回そのシチュエーションがでて来るはずだ。更には高地で取り囲まれるシチュエーションはTV版11話にも共通して出て来る。

映画において、繰り返し出て来るモチーフに対しては、観客はそれ自体に意識的になるはずだ。見通しの良い高地を取る&多数で一挙に取り囲むという方が有利であり、それをやられると不利になるということが、感覚的なレベルで叩き込まれる。高地よりナビゲーションを行うアンツィオチームもこれに加えられるだろう。

そしてその配置のイメージにより、二度目以降は「また来たな」というスムーズな移行となり、また一方ではそのイメージを覆し、他方ではそのイメージを乗り越えていくという、飽きさせない面白さがあるのが良いなと。

 

▼また、ドラマパートと試合・戦闘シーンで共通して現れるモチーフもある。

ここで思い出しておきたいのは、そもそも劇場版のシナリオの縦軸で、主なドラマ的主題となっているのは西住姉妹二人の関係に加え、島田愛里寿と西住みほとの関係だということ。

前者については、姉妹が共同するセリフのない運動が、ラストの三つ巴の戦いと、中盤の回想シーンで、共通してある。戦車道の家元に育ち子供の頃から二号戦車で遊んでいたような彼女ら二人にとっては姉妹で共同作戦のプレーを演じられるという機会自体が、この戦場以外にはないだろう特別な場だとも考えられる。空砲で妹の四号戦車を送り出す姉の動きは、回想時代の妹の手を引く姉と逆位置にデザインされているけど、その前に姉が一瞬淋しげな表情を浮かべるのは行為自体の躊躇いと同時に、この試合をこうした形で決着をつけることの是非、あるいはここで終わらせてしまっていいのか、というような問いかけが感じられるのだ。

後者については、島田愛里寿と西住みほがボコを挟んで対峙し手を伸ばすというボコミュージアムでのシチュエーションが、同じ動作の形で劇中の中央広場の戦いで再演されているのが分かる。動き出したヴォイテクの乱入を見てみほと愛里寿の両者は怯んで攻撃を逃すのだけど、終盤戦の煮詰まったところでああいった描写が入るのはやはり両者に同じ反応をさせることで二人の同質性を際立たせるためだろう。「同じ振る舞いをするキャラ」が同一性を意味するのは当然の帰結だ。両者ともに共通してボコに肩入れしている人物であり、彼女らのその同質性は幾度か示唆されている。この描写が白熱したバトルの渦中に挿入されることで、見る観客が一瞬冷静になり両者の当初の動機に立ち返るという余地を設けている。

あの島田愛里寿(および島田流)はこの『劇場版』での戦いの理由を形作っているような存在で、愛里寿は同じぬいぐるみを通じてみほと対比になっているんだろうけど、そこで愛里寿の彼女の過去や動機は伺えないし(時間の都合でカットされた可能性もある)、大学選抜のメンバーとの関わりも特になく孤立のヒーローという感じなのだ。そこを探ってみても何かあるというわけでもないだろうけれど、みほは大洗&学園艦奪還、愛里寿はボコミュージアム復興のため戦い、結局特に両者の利害は勝敗のドラマと関係なくwin-winになってしまっているという批判はなされ得る。それについては以後にまた述べたい。

 

▼加えて、(ドラマパートと試合・戦闘シーンで共通して現れるモチーフということで)もう一つ言うと、一旦廃校が決定し各々の生徒が転校のためバスに乗ってそれぞれの地に分かれて行くところでは、3D構築のバスがエキシビジョンマッチでの戦車と同じような動作をし、Y字路に分かれていく描写がある。そういった仲間の集合離散のモチーフも、全編を通じて描かれており、テーマの一つとなっているだろう。

しかし、ここで、窓際から見たバスが分かれていって「ああ、皆バラバラになってしまうんだな……」というカットですかさず「でも戦車道選択の生徒は皆一緒らしいけど」という台詞が入ってくるのだ。あくまで映像の次元ではそういうテーマを描くけど、台詞を通じてはエクスキューズにより皆の団結を安心させるというところが、この映画に関して自分が象徴的だと思うところだ。

ともかくも、以上に述べたような映画的な工夫の数々によって『劇場版』の筋立ては、(ドラマ的にはTV版の続きであるものの)流れとしてまとまったものになり、ドラマがアクションを生み、アクションがドラマになるという連動があると感じた。

 

▼欠点について

次第に指示が高まるに連れフェードアウトしていった感があるけど、『ガールズ&パンツァー 劇場版』に対して当初からあった批判としては、廃校阻止展開の再演というところ以外では、

  1. 物語的な決着の付け方と試合の勝敗とを重ねてこなかった
  2. カチューシャの見せ場があの後目立ってなかった
  3. チーム間での垣根を超えたまとまりが特に深まったわけではない

といったものがあった。

1については最後に述べるとして、

2に関しては、カチューシャのドラマ自体は殲滅戦であるにもかからわずカチューシャ機一両のためにプラウダ校全滅するという戦術的には非常に非合理的なやり方ではあったけど、そうまでしてその後に大きな見せ場の活躍をしなかったということが言われる。しかしカチューシャがあそこを通じて学んだこと自体に意味を置くとそれはまた違ってくるだろう。キャラクターの次元では、あの後混成チームで新たな作戦に乗り出すということ自体に大きな意義があり、その細部にまで注意が及ぶか及ばないかという問題になる。

3については、各チームのメンバーをタンクごとにモジュール扱いしている以上、元々ある程度は犠牲にせざるを得ないところはあるんだけど、この批判も先述のカチューシャのシーンで否定されるし、それに、それぞれチームごとに作戦名を皆でゴリ押ししあうような作戦会議シーンと比べれば、試合シーンでの共闘オペレーションぶりは驚くべきほどだ。

最後に1についてはどうだろうか。

改めて考えてみれば、島田愛里寿は、(母親に西住流打倒について言い含められていたものの)「ボコミュージアムの閉鎖を防ぐため」というあくまでパーソナルな動機により戦っていたわけだが、島田愛里寿側の敗因は、主に遊園地に試合が移行してからは各中隊長の判断に任せ指揮系統として不連絡になり、傍観していたからというのも大きく、その孤立という性質自体によって足を掬われた感もある。

また、愛里寿とみほとはボコミュージアムで既に一度遭遇していたわけだけど、彼女の方から、思わぬところで再会した西住みほに対し反応をしているというところはない。ボコを渡すところでは西住みほについて「あそこで会った」と知っていたようなので、それ以前のタイミングで気付いていたことになる。単に感情の起伏を表に出さないということなのか、あるいはヴォイテクを挟んで対峙するところで悟ったのか?……

西住みほと島田愛里寿の目的は別に反目し合ったものではなく、共に矛盾なく実現し得るので、可能であれば両方とも実現させて問題はないが、ドラマの次元ではそれでは勝敗にかからわず目標が達成されるのであれば勝負にそもそも意味が無かったのか?とも思えてしまう。たとえば二回目以降に見る人にとっては、ドラマの前提があまりに人工的に仕立てられたものに思え虚しく覚えたりもするだろう。

細かく言えば、島田流師範のママが投資すればボコミュージアムはどうにかなるにしても、廃校阻止は契約や沽券の問題であり、個人の力でどうこうできる展開ではないからこの場合そちらがどうしても勝つ必要があるのだけれど、とすれば愛里寿側が負けるということを込みでその点を結果にどう反映させるかという工夫が必要で、今回はそれがなかったといえる。

しかし一方で、そこに関して違う捉え方をすることもできる。

僅差の戦いで大学選抜戦の試合が終わったとき、島田ママと西住ママが共に「ハーっ」と安堵の息を付くというシーンがある。実際このときの母親にしてみれば勝敗の行方云々よりも、子たち自身が真価を発揮して試合が出来ているかに重点があり、安全に決着が付いたこと自体に価値があるのだろう。「次はわだかまりの無い戦いがしたいものですね」という話もするが、それはがやはり真意だ。

ガルパン』世界であれば勝敗それ自体が重要ではなく、彼女らの目的に合致してそれが達成され、その過程で伸び伸びと試合が出来ていることの方がむしろ重要なのだ。

だから、勝敗の行方が活きるような付加的な筋立てを付加し、利害の問題を持ち込むことは、エンタメとしての『ガルパン』らしさとはトレードオフに働いてしまうため、結果的にサービス精神あるこの展開はバランスを取っているとも言えるのだ。

せめてボコミュージアム復元について蛇足であっても単なる寛容以外の理由付けがあっても良かったかも。戦車戦の被害の地割れで温泉が湧いてお金が確保できたりとかして……って『サマーウォーズ』か!

 

▼(この際だから好き勝手書くと)自分はガルパン劇場見るとロンゲスト・ヤード』('74年米)見返したくなる、と以前ツイッターで書いた後に、その理由を考えることがあった。

断っておくとアメフトものの『ロンゲスト・ヤード』は誠にアメリカンな精神を反映したといえる名作(勝利を収めた後には、そこに至るまでの葛藤や倫理的な判断について全く顧みることのない)だけど、主人公は刑務所内の囚人を集めてアメフトチームを形成して、所長率いる看守チームと戦うことになる…という筋で、B級だし、ガルパンとは似ても似つかぬ映画だ。

ただ、この映画は後半40分くらいを決勝戦の一試合のみに振り分けてじっくり描いてるんだけど、それまで各々のドラマを背負って描かれて来たメンバーたちが、試合になると清いまでのロングショットでひとまとまりに捉えられ、作戦会議で顔を寄せ合う集合シーンも下からカメラを空に向けて撮り、ごついマスクに隠れてメンバーの区別すら付かない、という状態にしてしまうのだ。

ガルパン劇場版でも、試合では、戦車内描写や、キャラクターの掛け合い・連絡、区別はもちろん維持されるけど、戦車外の描写では甘い描写を廃し、外部からは正に「戦車の中から声が聞こえる」的な状態で、それでもって即物的な映像の次元でも、迫力や満足を感じさせることに成功している。

結果的にだけど、そうした感覚を『ロンゲスト・ヤード』と紐付けて思い出したのかもしれない、と思う。これに関しては私の 単なる気の迷いですが。

 

▼大して個々の内容についても語ってないのにダラダラと書いていたら長くなってしまった。

思わず長くなってしまったけれど、おまけに書いていた内容もあるので以下に載せますね。

 

おまけ1

周辺的な細部(絵コンテなど)について

▼『ガルパンFebri』インタビュー記事から、工藤辰己さんおよび小林敦さんの演出パートは大雑把に分かっており、また、水島監督のパートはその残りであるとも分かる。それによって『ガールズ&パンツァー 劇場版』&『3分ちょっとでわかる!! ガールズ&パンツァー』の絵コンテ・演出担当パートを推測すると以下のような感じ?

f:id:ephemeral-spring:20160207235629p:plain

演出の方は特に推測入ってるので多分色々間違ってますね……間違ってたらすみません!(ソフト出たらちゃんと訂正したい)

とはいえ、絵コンテに関しては、水島監督はエキシビジョンマッチ(ペンギンまで)および、試合後半部分(ミカ「皆さんの健闘を祈ります」以後)、そして会長の宣言~選抜試合開始までの、いわばつなぎ部分を担当していることが分かる。水島努さんといえば、僕は「でかいぬいぐるみが暴れ回る」ようなのが妙に好きな人というイメージがあるんですが、どうなんですかね?

小林敦さんの絵コンテはと言えば、TV版のものを参照する限り、「PAW!」「BAM!」といった小林源文の劇画的な擬音と、戦車内の細かなディテール描写の指定、表情芝居などが個人的に見どころです。他方で、水島監督の絵コンテは「ドラえもん」的なあっさりしたタッチの書き込みながら的確な指示で指定しているという印象で、対象的な両者のものによってこの映画の絵コンテは構成されている。

また、両者のコンテパートを横断してなされる描写の数々から見ても、そのシンクロ具合、バトンタッチ、あるいは劇場映画としてのコントロール具合が伺えるはず。

実際にはもっと入り組んでいる?と思われますが、大まかには小林敦さんが中盤にかけてのドラマパートおよび後半戦の前半を担当し(でもボコミュージアムのシーン(ここがD?)はやはりしっかり水島監督自らやってますね)、残りの戦車戦をほぼ水島監督が手掛けるという、構成に合わせたシンプルな配分が伺えます。

ちなみにガルパンではスローモーションやダブルアクションなどをあまり使っていないという話を先にしたけど、小林敦さんは例外的にTV版ではダブルアクションを何度か使っているし、6話の対サンダース戦の終盤でもサスペンス描写に合わせ砲弾スローモーションが使われていたはず。

 

小林敦さんの絵コンテパートで自分がとりわけ好きなシーンは、確約を取り付けて帰ってきた会長と桃ちゃんが再会するところ。

大体のカット割りは

「机をリヤカーで運ぶ河嶋桃がゼーハーしてるとこを横構図で映し、あんこう提灯付き二宮金次郎のカットアウェイが入る。重みに耐えかねた桃ちゃん(正面から)が顔を出し見上げると、そこで桃ちゃんの視点にスッと移行し、正面顔の会長がこちらを向いて何でもないように立っている。そこで呆然とする桃ちゃんの切り返しを挟み、先ほどのポン寄りでバストショットの会長が『ただいまー』とやや気の抜けた風で答え、抱きつく桃ちゃんを会長が介抱する…(横ロング)」

という感じだったと思う。小道具や、カットの重ね方も好きなんですが、自然と桃ちゃんの視点に入り込んでいるとこが良いです。

元々会長は何もしていないようでいて、生徒会二人だけでは指揮を取れないというところがあり、その空白を埋めるためそれまでずっと気を張っていたツンデレ系キャラが、そこで張り詰めていたものが切れ、それまでの弱音も安堵も綯い交ぜになって堰を切ったように泣き出し、思わず駆け寄ってしまう…というさり気ない良いシーンを、気持ちに寄り添う形でとても自然に見せていると思います。

角谷杏も、サンダースのC5Mギャラクシーを生徒会メンバーで結託して呼んで、というのを影でやっておきながら「これで処分されずに済むね」と自分に何の功績もないようにそれを口にする飄々としたキャラです。

「大洗の子たちみんなの思いを背負って立つ」彼女の役回り、キャラクター性も、ドラマパートでは正面から逃げずに向き合うという形でよく表されていたと思う。

 

▼あとは、西住しほさんの「戦車道にまぐれなし(偶然での勝敗など無い!)」の宣言→湯呑みをバンと置く動作、をカット割らずに一続きの動作で見せてるとこも好きなんですよね。あそこは下手にカット割らない方が逆にインパクトを発揮するシチュエーションと思います(素人がエラソーに語っててすみませんが…)。アクションを契機とするカッティングでパンっとリズムをつけインパクトを出す手法も同時にあり得るのですが、割らないことで動きそれ自体に存在感を出す、という選択肢もあるということですね。その後の役員「大学選抜に勝ちでもしたら…」→会長「分かりました!」のどアップも快楽ですよね。

 

▼戦闘シーンのとこで好きだった描写(ここは水島監督のコンテパートですが)は、ウエスタンランド付近でのアリクイさんチームのパーシング撃破。

「トスした砲弾をボスッとグーパンで打ち出すように装填した後にももがーがレバーをグッと引っ張るという力強い身体描写、それに重なるように三式が旋回して回り込みながら砲弾がぶっ放され→撃破!」の流れ。

装填→レバー→ぶっ放される砲弾(瞬時に撃破)の流れが、凄く身体動作の延長線上に戦車の挙動があるという感じでグッと来るんですよね。砲撃が腕の挙動の延長線上にあるカットつなぎで、勿論3DCGや作画チームの功績も大きいでしょう。OVAアンツィオ戦」での「ガン=カタ」というのもそうですが、ああいう「身体動作が挙動にダイレクトに連動するような感覚」の描写は、実はガルパンにはそれほどない描写だと思うので、あそこは良いですね。

 

小林敦さんコンテの戦闘シーンだとやはり、継続高校のシーンが凄い良いですね…どこにいるか配置が分からない戦車内描写から始まり、全景が映ったと思ったら空を舞ってる……。演奏に合わせて同時録音のアクションで期待を煽る感がヤバいです。演出以前に、クロスカッティングにして二段オチにするという、あのアイディア自体すごいけど。

 

▼また、劇中においては、POV(厳密にはそう言うよりは、車体上の固定カメラ)を使ったいくつかの長いカットがある。POVがあまり適切な言い方じゃないと思うのは、戦車戦では、純粋な意味での長い主観カットは中央広場での三つ巴のとこの、キューポラから顔出した西住みほの主観カットくらいだったはずと思うから。髣髴とさせるのはロボットアニメや映画というよりはFPSジャンルのゲームで、また、ジェットコースターを駆け下りる体験のアトラクション的なものだったりするけど、ソフトの進歩もあってなのか、そういうメディアクロスオーバー的なものも以前よりアップデートされた表現で楽しめるようになっていることが感慨深かった。そして、日本の2Dアニメでも、CGレイアウトを駆使し立体的なカメラ移動やPANが見られるようになって久しいと思うけど、そうした表現の制約が解放され、濫用されることで、かえって以前までの面白さがなくなるというのも考えられると思う。『ガールズ&パンツァー 劇場版』では、そうした表現が効果的であると同時に、映画としての面白さを少しも削ぐことないやり方で使われていて、そうした体験にまた感動したりもしました。

 

ガルパン劇場版の2カット目は紅茶片手のダージリンとペコから、砲身内カメラでグッと引いていって観客は戦場に引きずり出されるので度肝抜かれるけど(更にはそれ以前の紅茶、そして「3分でわかる~」のSDキャラからの流れなのだ)、極端なアップからのロングでスケール感を出す『Gロボ』の今川監督的なダイナミズムも感じさせる。

そもそもガルパンは女の子と戦車というそういう主題である以上、そうしたコントラストを十全に活かせる素材なのだ。また、ヌッと突き出た主砲と車体とのレイヤーが形成する、遠景と近景のコントラストなども見過ごせない。比較的単純な形でスケール感を醸し出すそうしたキメカットが実際見せ場として使われているのが分かるだろう。

考えてみれば砲塔が平気でカメラの方を向くとか、BT戦車の砲口に吸い込まれていくカメラとか、カメラすぐ横を掠める砲弾とか、アニメの仮想的なカメラだから出来る(とは今は言いづらくなったけど)表現も数多い。実車ではないようなタンクの動きも面白いしね。

アクションについて、『ガルパン』は「戦車戦で人が死なない」という前提のイメージを全編を通じて作っているけど(吶喊した西隊長がキューポラから上半身出した状態で跳ね飛ばされるとことか、流石に挽肉になるだろうと思うけどw)、思うにこの前提もかなり効果的で、「キャラの存在を脅かすのでなく、純粋にアドレナリンを迸らせるためにしかアクションが機能しない」という、考えてみれば恐るべき体験を作ってしまっている…。

 

▼これも余談ではあるけどさきに書いた2カット目はTV版4話、Cut255の「砲身内カメラ 007のオープニング風」のリベンジ?  

f:id:ephemeral-spring:20160216232246p:plain

 

おまけ2

highland.hatenablog.com

それでは、今日は疲れたのでこれくらいで。合わせて全部で20000字くらいになっちゃってますが、読んでもらえた方はありがとうございます。

ガルパンFebri

ガルパンFebri

 

 

2014年アニメOP&ED10選とか

明けましておめでとうございます。

2014年TVアニメOP・ED10選を去年の内に上げるつもりだったのですが上げ忘れており、もう冬アニメも始まっているタイミングで何ですが折角なので上げようかと思います。

 ちなみに年末年始も劇マスBDを見たり『魔法使いTai!』を見たり冬コミで人に買って来て貰ったのをチェックしたりしてました。渡部圭祐原画集は分量もかなりのもので解説もいいしでかなり満足度高かった。掲載分は作画MADと被ってる部分もそこそこありで比較的チェックがラクでした(あと『ジャスティーン』はdアニで見れるので)。

 『劇マス』はようやくコメンタリ付きで見ましたが、意外だったのは中盤の、しっとりした緊張感を引っ張る部分がガッツリ神戸守さんコンテだったことで、分量的にもTV1エピソード分くらいじゃないだろうか。コンテでのアイディア出し含め、流石だった。

『眠り姫』は錦織さんのコンテですが、PV・MV的なものってアイマス以前から氏は好きですよね、まあグレパラとかもありますけど。


俗・さよなら絶望先生 OP 「リリキュア GOGO!」 - YouTube

「ちょっとした百合的要素」を遊びで組み入れるのもこの時からやってるんだ、と再確認。

 という訳で、脱線しましたが、OP・ED10選です。話数単位での10選を選んだので、OP・EDについても選んでみようという趣旨です。OP・ED併せて20個選ぶのは今回ちょっとキツいので併せて10個のセレクトです。

 ところで「OP・ED10選」というこの企画、特に選出の際に決まった基準やルールがあるという訳ではなさそうですが、OP・ED映像のいわゆる「完成度」の基準として自分が考えている要素は三つあって、それは「コンセプトの体現性」「楽曲とのマッチング」「映像的快楽」です。

 TVアニメのOP・ED映像の性質を考えると分かりますが、まずOP・EDは基本的に本編であるアニメエピソードの導入部もしくは幕切れを飾るものであり、例えばその内容と独立したMV等ではなく(もっともMVにも曲やアーティストに併せたコンセプトがあります)、従って本編の内容とは無関係ではいられないということ、そして通常は楽曲付きで鑑賞されるものであるということ、そして映像としては、アニメ本編のようにリアルな空間を構築する必要性からある程度解放され、純粋なイメージやコンセプトを突き詰める事も可能であるということです。

その三つからそれぞれ先述の条件が弾き出されます。また、毎回の放送で流れるという意味ではたとえば、その一回性を利用できる映画のオープニングタイトルとも違った性質を帯びてくると考えられます。

ということで、2014年のTVアニメのOP・EDから10個セレクトしてみましたが、あまり上に挙げたような観点は気にせずに結構好き勝手選びました。

野中乳揺れ。サビの長回しの感じ素晴らしい。「ドキッ」のカットとか、歌との合わせがニクいです。女の子の瞳孔にハート入れる表現って良いですね。普通にやったらエロ漫画みたいになっちゃうと思うので演出の匙加減ですけど。

  • 『ピンポン THE ANIMATION』OP(4話~)

松本大洋の漫画を大平晋也が仕上げたらこうなる、という。アニメートの快楽なんだけど、松本大洋のキャラと世界観という枠内にちゃんと嵌ってる感じもありで。

  • 『プリパラ』OP1

ミルキィホームズ』な感じのOP。女の子が変身するまでっていう仕立ての、こういうくらいのOPが良いですね。サビ部分の変身BANKは曲調がアップテンポに変化する曲に合わせサビ部で加速するアクションがGood。OPだからこれくらいやっても良い。みれぃの変身BANKの描き方がとにかく好きなんだけど、ここはパート割れしてないのかな。そのカットから、渡部明夫さんに続いて吉原達矢さんカットで〆という流れもいい。

『ハナヤマタ』OPの方がキャッチーさは上だけど、「コンセプトの体現性」の上からはこっちに軍配が上がる。最初の浮遊からの下界へと沈んでという、浮遊や飛翔のモチーフも本編と重なり合うし、その世界で彼等の目指すところまで、というストーリー部をやってるのもそう。全編にわたってチェスのイメージで統一してるのもまとまってる。前半の白・黒とカット毎の色変えもチェス盤を意識してるんでしょうね。色彩はキャラと背景とで同化させるのに合わせて、心象ともマッチングさせたりとか。密着マルチの使い方・カメラワークは上手い、色彩&撮影処理はさすが。

<参考>

アニメOPEDの“スピード感” - OTACRITIC

http://d.hatena.ne.jp/ukkah/20140616/p1

絵コンテ・演出・原画:石浜真史のOP。いわゆる「白石浜」。『Aちゃんねる』OPの進化系的な突き抜けたテロップワーク・シーン転換・デザインセンスに加え、石浜氏の影なしベタ塗りの艶っぽい絵の魅力。リップシンクのとこも4人全員芝居が違ったりと芸が細かい。

テロップ一体型のOPについては、歴史的に色々あると思いますが『R.O.DOVA(2001~2002)がテロップをグラフィックに組み込み、同時期の『あずまんが大王』(2002)のOPがテロップをオブジェクトとして出してキャラと同居させていて、その辺りからアニメ制作がデジタルに移行していったのとも絡んでテロップを演出に取り入れるOPが発達していったと思う(タイポグラフィのシャフト、湯浅、ufoのまなびストレートドルアーガの塔、etc.)。

で、その『R.O.D』と『あずまんが大王』の両方にアニメーターやキャラデで参加してたのが石浜さん。というか、石浜さんは『エイケン』のキャラデもやってて地味にパタ様の影響も受けてない?という。

石浜氏はアニメーターとして新房・細田・舛成と個性派演出家との付き合いがあって多彩な引き出しを持っているのが演出家としても強いですね。一人原画としてやって全てコントロールするのは、原画として絵を描きたいというのもあるでしょうが逆に言うと人に任せることが出来ないという所も感じてしまいますが、、、。

  • 『ソードアートオンライン2』ED1 ●『ソードアートオンライン2』OP2(19話~)

前者:『SAO2』ED1は幾何学的な破片とかもそうですが『進撃』ED1のようなスケッチ調のタッチの絵で6コマ作画とかの感じに、プラスしてブルートーンで統一した色遣いというのが個人的にツボです。コンセプト的には過去のトラウマとしての詩音、そしてシノンというキャラを詩音が受け入れ取り込むような感じ。演出はキャラに思い入れがある人がやってると分かります。

後者:『SAO2』「マザーズ・ロザリオ」編のOP。このチャプターの主役といえるユウキと、彼女率いるスリーピングナイツをフィーチャー。

鹿間さんはじめアクションアニメーターの集結もそうなんだけど、『SAO』を長い間やってきた足立さんならではのOPという感じ。カット構成とかが、ちょこちょこ『流星のロックマン トライブ』OPに似てるのも楽しい。

  • 『魔法戦争』ED

またも石浜氏の一人原画。何でかというと、石浜氏の仕事で今年一番ビビッと来たのがこれなんですね。多分、(テロップではなく)歌詞を取り入れたりとかMV的な映像の作り方を徹底してるからのように思います。

どちらもweb系作画のOP・ED。『Solaメソ』EDは江畑諒真作画で、過去と現在のキャラが交錯。ヤマノススメ17話でもキャラが前方に向かってくる、同一カット内で複数キャラ動くなどカロリー高いカットを多くやっていましたが、カメラワーク込みで演出からやってるとフレームイン・アウトのタイミング含め計算出来るのがあってやはり華があります。予備動作・揺れ戻し・髪揺れと、このリアルなタメツメスタイルはリバイバルがあるかもしれません。

牙狼』OPはこのキャラデザインに仁保さん沓名さんはじめweb系作画集結。色遣いや、全て原画で動いてる感じが素晴らしいです。本編もエフェクトや特効は凝ってますね。

作画的見所のあるOPは多かったけど、神風動画制作OPのようなセルをCGで動かしたりする試みも見られましたね。

【おまけ】

アニメじゃないけど多分今年一番反応したOP・EDの一つ。

金田伊功がアニメにハマる確実な切っ掛けになった自分としては、メモリアルなOPかもしれない。けど、実写版『キューティーハニー』と同じくやはり粗の方が目立ってしまった。ポージング&タイミングまでは合わせられるけどフォルムがダメなので映像的快楽が薄い。まあ、元々パロディでしかないといえばそうなのでそれで良いんだけど。

  • ちなみに

今「OP・ED職人」と目されてる人ら周辺(そうでない人も)演出家別に2014年にそれぞれ手掛けたOP・ED数(監督作含)をカウントしてみると

---------------------------------------------------------------------------------------

長井龍雪 4

小野学 4

中村亮介 3

石浜真史 3

橘秀樹 3

URA 3

鈴木利正 3

出合小都美 2

山本沙代 2

梅津泰臣 1(監督作のみ)

鈴木典光 1

鈴木博文 1

江畑諒真 1

大張正巳 1

下田正美 1

大畑清隆 0

山下敏成 0

中澤一登 0

 ---------------------------------------------------------------------------------------

その他大沼心・イヌカレー・龍輪さんらシャフト(系)演出家陣はver.違い含め色々とありましたね。

2015年は梅津さん(新房さんとこ以外にも幾つかやる予定)大畑さん(WORKING!!3期とか)あたり多分注目。

ということで、以上です。あまり総論的な話は観点がとっ散らかってしまうので苦手ですし、次は何か観点を絞って書こうと思います。

ちなみに1月は諸事情あって多分ブログもTwitterもあまり出来ないと思われます。至らないですが今年も宜しくお願いします。