highland's diary

一年で12記事目標にします。

TVアニメ『彼氏彼女の事情』の演出について――セレクティブ・アニメーションの美学

以下に掲載するのは5年ほど前に、批評誌のアニメルカ特別号『反=アニメ批評 2014summer』に私が寄稿させていただいた、TVアニメ『彼氏彼女の事情』についての文章の全文です。

highland.hatenablog.com

彼氏彼女の事情』のBD-BOXが先ごろ発売されたので、その販促に何かできることがないかと思い、アニメルカの編集をされている高瀬さんのご許可もいただけたため、過去に書いた記事をブログ掲載しようと考えるに至りました。内容については一字一句変えていません。

これは元々は違う場で発表に使った内容を(アドバイスをいただきながら)記事用に加筆訂正し、載せていただいたものでした。2014年にもなって1998年のTVアニメについてのこのような文章を批評誌に載せていただけたのはとてもありがたいことだと思いますが、それから5年後の2019年になって本作のBD-BOXが発売され、追加で色々な新事実が明らかになるなどとはよもや思っておらず、面白いことだなと思います。
このときの自分の悪癖として「インタビューを引用しまくる」ということをしてしまっており、 これについて反省も多いですが、これはこれで何がしかの論点の整理に役立つかもしれません。今の自分が書くとするとより細かいトピックに限定して分析的に書くか、あるいはもっと作品論寄りの、これとは異なる問題意識で書くと思います。

ご興味ある方はお読みいただければと思います。ご批判やコメント等いただけましたら幸いです。

 

TVアニメ『彼氏彼女の事情』の演出について――セレクティブ・アニメーションの美学

1.はじめに

 GAINAXJ.C.STAFF制作、庵野秀明監督によるTVアニメ『彼氏彼女の事情』(1998~1999)(以下『カレカノ』)は、津田雅美による少女漫画を原作としながら、その独特な演出が話題になった作品でもあった。ここでは主にその演出面に着目することでアニメ版『カレカノ』を振り返ってみたい。

 『カレカノ』は庵野が監督したアニメ作品の中でも数少ない漫画原作の作品であり、また原作のエピソードをほぼ忠実に映像化している作品でもある。庵野監督の他の多くのアニメ作品が原作なしのオリジナルか、あるいは『ふしぎの海のナディア』のように原作つきであってもオリジナルの要素を多く含んだものであることを考えると、映像作家としての庵野秀明の作品の中でも『カレカノ』は原作である漫画の比重が大きかったという意味で特異な存在であったといえるだろう。そこで他作品とは別に、原作との兼ね合いという観点からアニメの細部を検証する必要があると考えられる。

 また、庵野秀明のアニメ作品に関しては、とりわけTVシリーズ新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996)(以下『エヴァ』)の第25、26話(TV版最終二話)を引き合いに、リミテッド・アニメーションを極限まで突き詰めるという傾向にあると言われる*1が(これについては後述)、『カレカノ』においても同様のことがいえる。しかし、『カレカノ』においては、いわゆるリミテッド・アニメーションの手法を突き詰めるというだけでなく、「漫画の印象をアニメに落とし込む」という、映像作品としての『カレカノ』のコンセプト*2とも結びつく形でそれが実現しており、興味深い題材であるといえる。

 ここではTVアニメ版『カレカノ』について論じるが、まずは、マンガ原作がどのようにアレンジされ映像化されているか(そしてどのような要素がオリジナルで追加されているか)を具体的な事例に則して見ていき、 それから本論の結論部へと繋げることにする。

 しかし、『カレカノ』についてその演出スタイルを見て行くとしても、勿論TVシリーズ全体を通して見ると演出スタイルも一様ではない。第3話以後は写真から背景シーンのレイアウトを起こして使うようになり、第4話以後は意図的に色彩を抜くようになっている*3等のスタイルの変化もあるし、各話に演出や作画で参加した今石洋之平松禎史鶴巻和哉などのアイディアが取り入れられている部分も多い。

 TVアニメ『カレカノ』の特徴として挙げられるものとしては、まず脚本段階で原作に忠実であるということで、第1話においても強調する部分は台詞を長くしていたりするものの、漫画の台詞を抜かずにほぼそのまま脚本に再使用している。シリーズを通して見ても、序盤に入る「これまでのあらすじ」ナレーションを除き第24話前半、第25話のオリジナル回以外は原作の台詞をほぼそのまま使用しており、省略や追加されたシーンは随所にあるものの、提示する順序の変更や時系列の組み替えもほぼ見られない。そして、演出面での特徴としては、信号や街並みなどの実写から書き下ろした背景が場面間に挿入される一方で、キャラクターの映るシーンでは薄いトーンの背景や心情を投影したイメージBGが使われ、そのリアルな背景とキャラクターが同居するシーンがなく(劇メーション手法が取られた第19話は例外といえる)、また漫符も積極的に使用され、しかも画面としては漫画の書き文字やコマ内での構図(やコマの形)をそのまま再現している部分があるなど、漫画のコマをそのまま取り入れたような画を使っていること、『エヴァ』や『ラブ&ポップ』同様のキャラ紹介や場面解説のテロップ挿入、第19話での劇メーション、更には音響面などが挙げられる。まずは、これらの演出手法について見ていくことでそれらがどのような効果を果たしているかを検討する。

2.背景と人物の乖離と同調

 前節で述べたように、『カレカノ』の演出面の特徴の一つは、実写調のリアルな背景が呈示される一方で、そのリアルな背景とキャラクターが同居するシーンがほぼないということである。これは、キャラクターの動くシーンで通常の背景として呈示される教室や家庭(あるいは描かれておらず心情に対応したカラーのイメージBGが使われる場合も含む)と、実写をもとにした背景カットやリアルな背景描写(そこにはキャラクターが描かれていない)として呈示される風景とで乖離が生じているということである。これについての演出的な意図として監督の庵野は、「まず最初の背景のみのカットで「学校」「家」などの場面を示しておいて、その後カメラで教室や廊下などを映した後キャラを見せれば「このキャラはずっと教室にいる」という理解が成立するので、あとはキャラの心象風景としてBG(背景)を置いて、教室の最低限の記号として窓や机を書いておけば済むので、そのために最初のBGオンリーは限りなくリアルにしておく」という趣旨のことを述べている*4。つまりは舞台となる場所を呈示する順番としては漫画に倣っているわけだが、キャラの心象風景だけを描いていては場所の情報が抜け落ちるので、シーンの冒頭などに背景を情報として提示するのだという。

 また、背景が写真ベースでリアルなものになっているのは、第3話以後はレイアウトから背景を起こすのが非効率なので写真ベースにした*5という理由によるところがある。これによって、キャラが動くシーンでは場所や場面を背景によって呈示する必要がほぼなくなり、純粋に心象風景を描くことに注力することが可能になっていると考えられる(また同時に、背景の描かれていない少女漫画のコマをそのままの印象に保ちつつアニメの画に落とし込むことが出来るようになっている)。

 そして『カレカノ』では写真ベースの背景に加えEDでも多くの話数で実写映像(主に都内の高校や駅周辺を撮影した映像*6)が用いられている。これら実写映像をアニメに取り入れることは視覚的な違和感を生み出すが、リアリティを底上げすることに繋がっていると言われる。つまり、アニメ内で描写される内容は少女漫画的な「ファンタジー」であり「視聴者の夢」であるため、キャラクターの映るシーンは実写的な背景と本質的に相いれないものであり、したがって両者は分離されざるをえないが、背景(やED映像)として用いられる実写映像(や、更には校内の風景やコンビニの看板や信号、道路標識、自転車置き場などの実写ベースの背景)が視聴者の日常的現実感覚に訴えるものとして作用し、作品世界に同調させることにつながっている*7。一方でキャラクターのリアリティを心情描写で掘り下げ、他方でそのリアルな背景画のカットにより視覚的なリアリティを補完していると考えられる*8

 実写パートは『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年、以下『EOE』)においても用いられている。が、その当初の構想は、『エヴァ』の出演声優陣が物語の役柄そのままのキャラクターとして(たとえば三石琴乃葛城ミサトを演じる、というように)出演する実写ドラマであった。その案を持ちかける際に庵野が実写パートのプロデューサーに語った意図は次のようなものであった。

 「アニメの世界に実写を入れることによって、閉塞したアニメの世界を打破したい。同時に、安全な自分だけの世界に安住しているアニメ・ファンたちを、外の現実に直面させたいのです」*9

 この実写ドラマパートは実際には満足いくようにはいかず公開時には別の実写パートに差し替えられたが、映画館の観客席などの現実の風景を映すもので、アニメファンに対し「現実に帰れ」と露骨に訴えかけるようなものである点は変わらなかった。 『EOE』の実写パートがこのような悪意が見られるものであったのに対し『カレカノ』のED、次回予告などの実写部分に関してはもちろんであるがこのようなものはみられない。『カレカノ』の主な視聴者層は『エヴァ』ファンのようなコアな層ではなくフィクションへの過度の耽溺からは無縁なティーン層やファミリー層であったろうし、そのようなメッセージ性はおそらく不要だっただろう。むしろ、本編から実写のED(ED曲を歌っているのも本編の主役を演じている声優二人である)、声優のアテレコ現場を映す次回予告とシームレスにつなげることでアニメ本編の世界と現実の世界とが陸続きになっているかのような感覚を与えるものとなっている。なお、後述するように、監督の庵野が声優をアニメとリアリティを接続するものと捉えていたことともこれは無関係ではないだろう。

 また、実写をもとに起こした背景の部分も、無機的なものでありながら心情表現に資している部分が多い。信号や標識、街角の風景などがそうである。信号は事態やその変化を示すサインとして機能し、おおむね赤信号は閉塞した事態、青信号は好調、黄信号は不安定さをそれぞれ体現するものとして使われる【図1】。主人公二人の関係などが好転すると赤→青に切り替わり、現状への疑問を表すモノローグに重なるように青→黄に信号が切り替わる(第2話)。

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図1 アニメ第3話より

 二人の関係が未発達なものであることを示す「工事中」標識【図2】などは、モノローグの内容と重ね合う形で用いられるが、一方で信号も標識も街角の風景も、脚本上のセリフと独立して表現として使用されるカットも数多い【図3】。

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図2  アニメ第4話より

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図3  アニメ第2話より

 また、第3話においては主人公(の一人)有馬の幼少期のトラウマについて「鉄とコンクリート(と雨)」のモチーフが原作から追加され、後の話でも繰り返し登場するが、この脚本上のモチーフは演出とも重ね合う形で用いられ、赤背景に雨が降り、工場群のシルエットが浮き出るカット【図4】が繰り返し用いられる。これはどちらかというと心象風景の方にカテゴライズされるであろうが、幼少期のトラウマにより傷つき荒んだ心理状態を上手く表現したものであり効果的な心情表現となっている。

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図4  アニメ第3話より

 道路標識、信号、電柱(『エヴァ』でも多用された)など日本人であれば皆馴染みのある対象物を用いての心理描写は数多く見られるが、その効果はカット単体ではなくシークエンス単位で捉えるのがよく、台詞との兼ね合いでなされている表現も少なくない。

3.漫画をアニメに持ち込むということ、画面構成とコマの形

 漫画のアニメ化というところから言うと、漫画で一般的に使われていた「空に飛ぶ星」「頭に流れる汗(いわゆる「しずくマーク」)」などの漫符を最初に取り入れたのはTVアニメ『きんぎょ注意報!』(1991~1992)であると言われる*10。また、「背景やキャラの顔にスクリーントーンで縦線を入れる」(いわゆる「ガーン」の表現)をアニメで初めて使用したのは『ちびまる子ちゃん』である*11。このように、漫画(特に少女漫画)のアニメ化について見ていくと、それまで漫画特有だった表現が徐々にアニメでも使われ出し違和感がなくなっていく、という流れがある。たとえば、TVアニメ『会長はメイド様!』(2010)においては漫画の擬音や書き文字もそのままアニメ上で違和感なく再現している部分も多く見られるが、東映が’90年代半ばに制作した『ママレード・ボーイ』(1994~1995)などのいわゆる「トレンディアニメ」枠のTVアニメにおいては漫画的なイメージBGや漫符は取り入れられていても擬音や書き文字などはあまり用いられていない。

 また余談ではあるが、『カレカノ』制作の際に監督の庵野秀明は「ギャグと少女漫画」という切り口から『きんぎょ注意報!』を参考にしたようである*12。確かに表面的に見ても漫符を多用したり、端正な「ノーマル」のキャラ造形から誇張された「ギャグ」にキャラが一気に切り替わる*13など、コメディ描写の面では『カレカノ』は『きん注』に影響を受けているかもしれない(なお、『きん注』監督の佐藤順一も『カレカノ』第18話に絵コンテで参加している)。

 再度『カレカノ』に話を戻すと、『カレカノ』では漫画の書き文字やコマ内での構図(やコマの形)をそのまま再現している部分があるのが特徴である【図5】。また、モノトーンでグレースケールの漫画の絵の印象に近づけるためにモブキャラクター以外のキャラに関しても色を抜いており【図6・7】、これについては他の作品ではあまり見られることのない独自の処理である。もちろん漫画の構図とコマをそのままアニメに持ち込むことで印象を崩さずに映像化できるが、色を抜いたり書き文字を再現することを通じてより近い印象を再現できるだろう。

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図5  アニメ第1話より

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図6  アニメ第6話より

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図7  アニメ第6話より

 監督である庵野自身もインタビュー内で述べているように*14、映像一般においては、演劇用語でいうプロセニアム・アーチ(額縁舞台を指し、演技空間を規定する語)が固定されているため(TVやスクリーンの画面の大きさやサイズは固定されている)、漫画の大きさ、形の自由なコマ割りとは性質の異なるものである。したがって、たとえば縦長のコマをそのままアニメの画面に落とし込もうとする場合、縦長の画を作っておいてカメラをPAN UP(もしくはPAN DOWN)させて映していく、というのが手っ取り早い手法である(現に『カレカノ』においてもそのようにPANで処理されたカットは多い)。が、そのような置き換えをせずに漫画のコマの印象をそのまま持ち込むことが庵野監督の意図であった。【図8】は原作の【図9】のシーンに対応するアニメ版の画面であるが、ここにおいては映像における固定画面の原則は無視されているように見える。この一連のシーンでは原作の1コマ1コマがそのまま形を変えずにアニメの画面に持ち込まれ(画面の両側がマスキングにより塗りつぶされ)、それを次々に映していくことでシーンが展開されている。

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図8  アニメ第1話より

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図9  漫画第1巻、ACT1、ページ47より

 固定画面の原則を無視したこのような画面の見せ方は、鶴巻和哉らが絵コンテを担当した第六話において顕著に表れている。キャラが白抜きでモノトーン調や薄いカラーになり、吹き出しのセリフや書き文字、漫符などもそのまま再現されている。なお、第6話は口パクを省略していることもあり動画枚数が少なくまとまっており*15、止め絵中心の構成により動画枚数を抑えつつ漫画の印象を映像に落とし込む効果的な演出に成功している(なお、鶴巻は第四話において、主人公の妹らの回想シーンをモノクロにし、原作でスクリーントーンが貼ってある箇所をグレーで塗って表現するという手法*16を用いており、その後白黒技法がそれ以前より積極的に使われ出すようになった)。また、シリーズ全体を通しシネマスコープサイズのような横長の画面も多用されている【図10】。

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図10  アニメ第1話より

 ここで、画面のサイズやアスペクト比が一定しないことについて考えを深めるために、庵野が『カレカノ』後に監督することになる実写映画『式日』(2000)についての竹熊健太郎の評を参照しよう。

スタンダードサイズのビデオ画面やビスタサイズシネマスコープサイズの35ミリなどさまざまなサイズの映像を織り交ぜ、画面も縦長になったり横長になったりと自由に変化する実験作だった。観た瞬間に「ははあ、監督はマンガのコマがやりたかったのだな」とピンと来たが、本人に聞いてみたら、やはりその通りで、アニメにせよ実写にせよ、決まった画角の中での絵作りをしていると、マンガの「コマ」の自由さがうらやましいのだという*17

 『式日』は主人公の男性が映画監督であり、彼がカメラで撮影したという設定の劇中劇のパートを縦長の画面として処理することがあるが、庵野が固定されたアスペクト比に捉われない画作りを志向していたという事実はここからも伺える。『カレカノ』の場合、漫画の印象をアニメにそのまま持ち込むというコンセプトとも相まって多様な画面構成となっている。

 映像の場合、漫画の自由なコマ割りと違って画面のサイズが固定されて画一的になるのは確かだが、分割画面にしたり、カットインを挿れたり、レターボックスやマスキングを用い画面をあえて狭めたりすることで、PANに頼らずとも画面に多様性を持たせることができる。【図11】などは、原作漫画のコマ編成をそのまま再現したカットである。その意味で、映像画面(スクリーン)は漫画のコマというよりページに相当するものとしても考えられる。

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図11  アニメ第7話より

 ゼロ年代に入ってからは新房昭之監督のシャフト制作の作品においてもシネスコを用いたりして画面アスペクト比を変える演出は多用されているし、近作ではノイタミナ枠のTVアニメ『ピンポン』(2014)でも漫画のコマ割りを描画で再現し漫画の視線誘導をアニメ上で行わせるような処理がなされたりと、少なくとも現在ではこれらのアニメ表現は当時と比べそれほど前衛的なニュアンスは与えないようになっていると考えられる。

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図12  アニメ第7話より

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図13  漫画第1巻、ACT10、ページ73より

 【図12】は原作のコマ割りをそのまま再現したシーンであるが、このコマ割りは原作においては、誇張されたキャラ絵からシリアスタッチな絵への移行、表情の変化を見せ、さらにそれを通じて思索する様子や心情的な変化を伝える意図があるコマ割りであり、視点(映像だとカメラ)を固定してその中で変化の動きを追う、コミカルながら映像的な演出といえる*18。通常、漫画でのこのコマ割りを映像で再現しようとすればコマ間の動きを補って入れるか、間に中割りを入れない形で見せるとしてもこの一コマ一コマごとを画面に当てはめてO.L.(オーバーラッピング)などで切り替える手法が考えられる(実際原作の【図13】のコマなどはアニメではコマ間の動きを補う形で処理されている)が、『カレカノ』第七話においては白画面にこの四つのコマを右から順にフェードインさせる形で処理しており、映像の影響を受け漫画で成立した手法が、今度は映像の側でそのまま再現されるという再帰的な現象が起こっている。『カレカノ』が漫画での印象をアニメに落とし込む、という点においては先鋭的な表現を選択しているといえる。

 一般に、漫画のアニメ化に際しては漫画の持つ枠(コマ割りや、漫符や台詞などの記号)を画一的な画面サイズや、音声などのアニメ的な枠組みに添ったものに置き換える処理がなされることで原作漫画の持つイメージが解体されてしまうという側面があるが、こういった処理によりその点が克服されることになる。

 

4.セルアニメに捉われない表現、破壊衝動

 『カレカノ』では第19話で用いられた劇メーション(実質ペーパーアニメ)を初め漫画をトレスした線画、写真、クレヨン画などセルアニメに捉われない様々な素材の絵が用いられている。第12話では親子二人の蜜月が崩壊することの象徴として写真(セル描き)を破る表現【図14】、第8話では「作り物めいた穏やかな日々」を否定することの象徴としてタップ台に置かれたセル画を手で引きはがす表現【図15】がなされる。これらの表現は、いずれも各回において象徴的なモチーフとして用いられ演出上の効果を果たしているが、セル画などの素材をそのまま出すことでアニメーションそれ自体を解体してしまうかのようでもある。GAINAXでの庵野監督の過去作品を見ると『トップをねらえ!』第6話における最終決戦は原画での直接的な表現を越えた想像をかきたてるような線画の止め画で表現され、『ふしぎの海のナディア』第22話ではエレクトラの凄惨な過去の回想シーンがあえてモノトーン手描きでスケッチされて木炭を使ったような風合いの背景になり、あわせて人物も手描きの調子が出たものになった。また、『エヴァTVシリーズ終盤においては制作現場の逼迫状態を示すかのように次回予告にセリフ付きの原画や絵コンテがそのままの状態で使用された。これらの手法はいずれもその場面場面において効果的な演出として機能することを意図されているが、アニメーションの仕組みを解体していくような趣のある表現でもある(特に第25話、第26話における実写や、コンテの絵をそのまま使う手法は制作における時間、労力のリソースがない部分から模索して出て来たものだろうが、「あえてその手法が」選択されたという事実は重視されるべきだと考えられる*19)。

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図14  アニメ第12話

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図15  アニメ第8話

 『カレカノ』の話に戻ると、第19話ではほぼ全編ペーパーアニメの劇メーションが展開され、セルアニメと写真との融合など実験性の高いエピソードになった。そしてEDではまさしくその本編のアニメーションにより作られた世界自体を解体するかのように、本編で使われたセル画が燃やされる映像が使用された。

 また、最終話である第26話は、「殆ど全編が、漫画のコマを映像に移し換えたかたちとなっている。画面の中に漫画のコマのような枠が作られ、キャラクターはその中に配置。色はポイントのみにつけられ、大半がモノクロ。背景も、漫画のように白地か点描、模様等。セリフも大半が、画面に文字で表示されている」*20という「漫画の印象をそのままアニメに落とし込む」というコンセプトを突き詰めたような内容となった。

 ここでは、素材の取り入れでセルアニメの枠を打破したり、アニメーションにより作られた世界の虚構性を露呈させ解体してしまうような処理が行われている*21(なお、アニメーションの仕組みを明かしその虚構性を浮き彫りにするような演出自体は、既に国産第一号のTVアニメである『鉄腕アトム』(1963~1964)において、手塚治虫の原作漫画に準ずる形で視覚的ギャグ表現の一環として行われている*22が、庵野の方がセルアニメーションの素材自体をそのまま出すような所がある点でより先鋭的であるといえる)。

エヴァTVシリーズ放映後の『アニメージュ』のインタビューで庵野はこう述べている。

 「〔引用者注:TVシリーズエヴァ』の〕最終回をああいうふうにしたのは、もう一つ、セルアニメからの解放を目指したということもあるんですよ。頭のカタいアニメファンが、セルじゃなきゃアニメじゃないと、思い込んでいるのもイヤだなって。」*23

 セルアニメ-ションの中に写真や線画など異質なものを持ち込み表現の幅を広げること、アニメーションそれ自体をアニメにおいて解体すること、その場にある限りのリソースを用い最大限効果的な見せ方を行うこと(「完全主義者による間に合わせの芸術」*24)、そしてそれがセルアニメーションに対する破壊衝動と結びついていること、これらは『カレカノ』においても見出された庵野秀明の作家性の一面だったといえる。

 『エヴァ』においては制作現場が逼迫していく終盤にかけて、特に第25、26話には動画枚数が少なくなっていき次回予告においても素材をそのまま出してきているし、これらTV版最終二話における実写や止め絵の手法も制作における時間、労力のリソースがない部分から模索して出てきた所があると思われるが、『カレカノ』の最終回における漫画の再現は動画枚数やリソースが足りないのが理由ではなく明らかに意図的なものである。第一、この手法は、動画枚数は削れてもコストの削減には役立っていないように見える。実際、原作のコマを画面上にレイアウトしてトレスしセル画にした後に通常のアニメの作画作業を行い、なおかつ完成フィルムに後からビデオ編集でテロップ付けをする必要があるためかなり労力を要する手法のようだ*25。終盤において総集編が続くなど制作現場が厳しい条件下で使われた表現もあっただろうが、最終話の漫画再現に関してはコンセプトを突き詰める意図で使われたのだろうと思われる。

 

5.演出手法のまとめ

 『カレカノ』について、漫画に倣い、場所状況を呈示するための背景を前もって出すことでキャラのシーンで背景を極力書かずに心理描写を行う手法、レイアウトを起こす手間をなくすために写真ベースの背景を使用すること、漫画の画面構成や色の印象をできるだけ変えることなくアニメに落とし込むこと、セルアニメ-ションの中に写真や線画など異質なものを持ち込み表現を広げること、またアニメーションそれ自体をアニメにおいて解体する手法などについて触れてきたが、これら以外にも、セリフやキャラクターの顔が滲む心理描写や、BANK(カットの使い回し)の多用が挙げられる。BANKについては、たとえば教室のドアを開閉するカットは基本的にBANKを使用しているがドアを正面からでなく側面から撮っているカットを使っているのでBANKとして汎用性の高いものになっており多用されていた。

 アイキャッチやテロップ出しなどの文字演出もある。フォントに凝ったタイトルや、現代アートを思わせるタイポグラフィアイキャッチなど美的な彩りを加える効果も大きく、漫画のモノローグシーンにおける文字列の並びを再現するようなものもあった。が、基本的に解説や説明を入れたりまた、印象的な語句をテロップで入れて更に強調したりするのは伝達手段として文字情報(さらに言えば音声も)を信頼しているからだろう。

 また、『エヴァ』同様に、岡本喜八監督に影響を受けたというカットの切返しのリズムで見せるというやり方*26も同様に踏襲されているといえるが、各話に参加した演出家の裁量に委ねられている部分も大きい。

 ここまで『カレカノ』において用いられてきた独自の演出手法を列挙してきたが、これらは、実験性が重視されてドラマが寸断されているような部分もあるが、概ねリソースの限られたTVシリーズアニメの制作現場において、なるべく動画枚数や労力をかけない方法論を選択し、その範囲内で最大限の演出効果を狙っているという風にまとめられるだろう。

 ところで、日本のTVアニメーションで主流になっているのは欧米のフル・アニメーションとは異なる形でのリミテッド・アニメーションであり、それは虫プロ手塚治虫らにより導入された手法がもとになっている。「リミテッド」は使える動画枚数が限られているという意味であり、止め絵やBANK、口パクなどの部分的な動きを取り入れることで枚数を削っている。自由に枚数を使えない分、止め絵の効果的な見せ方や映画的な画面構成、BANKシステムなどの独自の表現が編み出されていったことが知られている。

『アトム』は回を重ねるにつれて、“必要最低限の絵だけで物語を語る”独特のスタイルを固めていった。それは“いかに動かすか”ではなく“いかに動かさずにすませるか”という、アニメーションの本質とは逆方向への模索であったが、同時に、“動きのない画面に動きを見せる”という、奇妙な表現への道を開くことにもなったのである*27

 なお、ここで言及されているような、部分的な動きで効果的に見せようとする日本のリミテッド・アニメーションの形式を再定義するものとして、顔暁暉は 「セレクティブ・アニメーション」(クリエーターがある架空世界をうまく表現するための美的選択として、(画面内の)動きを選択的に制限するアニメーション)という概念を提唱している*28。その分類に従えば、『カレカノ』はフル・アニメーション的な部分もリミテッド・アニメーション的な要素も取り込んだ「ミクスト・アニメーション」に該当するのだろうが、最終話で選択された、漫画の絵を切り替えて見せていく手法などは「エクストリーム・リミテッド・アニメーション」に当たるといえる。またこれまでにみた、シリーズを通して行われている演出法もセレクティブ・アニメーション的手法を突き詰めたものと見ることが出来る。

 日本のリミテッドアニメにおける一理念である「いかに動かさずに済ませるか」(そしてその中でいかに効果的に見せるか)という思想(「セレクティブ・アニメーション」と読み替えられる)は、『エヴァ』においても止め絵の効果的な使用、場面つなぎの動きの省略、口パクの省略などで追求されており、それに対して霜月たかなかは「“動きのない場面に動きを見せる”必要性そのものを、切り捨ててしまった」と指摘している(いわば、“動きのない場面に動きを見せる”を逆転の発想で克服しているといえる)が、先に触れた、漫画に倣った背景の呈示の仕方や、漫画の画面構成や色の印象をそのままのアニメに落とし込み静止画のスライドで見せることなどを通じ、漫画的な手法や見せ方を導入することによって、『カレカノ』においてはそれがより極まった形で実現していると考えられる。漫画における手法をなぞることが最小限の手間で高い効果を与えることに繋がったため、そうした演出上の効率論が「漫画の印象を映像上で再現する」というコンセプトと結びついた形で成功しているといえるだろう。

 また、セレクティブ・アニメーションにおいては、動きの面では制約がある分、カメラワークやモンタージュを用いて静止画や動きを効果的に見せることが重要となるが、 映像のリズム感を作り、シーンやキャラを演出し、更に物語をより理解し易いものにするために台詞を含めた音響面が重要となる。『カレカノ』での庵野はほぼ全話の脚本に加え音響監督も兼任しているが、台詞を含めた音響面を監督である庵野がコントロール下においていたというのも極めて重要であるように思われる(実際には『カレカノ』で庵野が音響監督を務めていたのは、『式日』後に行われた林原めぐみとの対談における「アニメーションは、アフレコから先の感覚だけは実写に一番近いね」「音の作業は、実写に感覚が近い。」「絵に対して、肉付けとか、厚みとか、そういう部分は生の声に頼らざるをえない」 などの発言*29に表れているように、庵野監督は、「リアルさ」「生っぽさ」と言うことに関してアニメの限界を感じており、そこでアフレコでの声優の演技や音響の面でそれを克服しようと考えていたこともあるだろう。また、芝居や演劇のような部分を持ち込もうとしていたことも大きい*30)。

 なお、いわゆるリミテッド・アニメーションにおける制約下において時に実験的な手法がとられるという点からは庵野や手塚だけでなくアニメ史的には、画面分割や、ハーモニー処理や三回PANなどの止め絵の効果的な見せ方を導入した出崎統や、制作的な条件から画面の平面的な構成、奇抜な色遣い、カッティングのリズムで見せる手法をとった新房昭之も挙げられるだろう。たとえば新房昭之も漫画原作のTVアニメを多く手掛けているが、独自の演出コードで原作漫画を読み替えるものも多かったのに対し、庵野の『カレカノ』は漫画のテイストをそのまま持ち込んでいる点で際立った対比を成しているといえる。

 

*1:トーマス・ラマール『アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-』藤木秀朗監訳、大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、2013年、p.236

*2:月刊アニメスタイル 第6号』(スタイル、2012年、p.138)において、『カレカノ』に主要スタッフとして参加した今石洋之は「『カレカノ』は、マンガをそのままアニメ化しようという庵野(秀明)さんのコンセプトがありましたから。アニメと違って、マンガは色がないとか、背景がないとか、文字が出るとか、コマ割りがあるとか、そういうことをアニメでも表現してやろうという命題があった」と述べている。

*3:小黒祐一郎『アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい 2001-2002』、講談社、2011年、p.337~339

*4:同書、p.337

*5:同書、p.337

*6:「エンディング調査隊」『彼氏彼女の事情カレカノパラダイス〜』 http://karekano.gravi.info/survey.htm (2014年6月27日閲覧)

*7:WEBどうかんやまきかく「現実と非現実の彼岸、その少女マンガ的表象 または、「劇メーション」再考」『彼氏彼女の事情 雑記四篇』1999年

*8:同書

*9:吉原有希『ドキュメント『ラブ&ポップ』』小学館、1998年、p.115

*10:岡田斗司夫オタク学入門』新潮社(新潮文庫)、2008年、p.44

*11:同書、p.44

*12:月刊ニュータイプ』1998年10月号(角川書店)の幾原邦彦との対談より

*13:佐野亨 編『アニメのかたろぐ』、河出書房新社、2014年、p.27

*14:小黒、前掲書、p.338

*15:平松禎史Twitterでの発言より https://twitter.com/Hiramatz/status/364296348671025152 (2014年6月27日参照)。こちら http://togetter.com/li/544546 からも参照できる。

*16:小黒、前掲書、p.339

*17:竹熊健太郎「デジタルマンガの現在」、『ユリイカ』2006年1月号(38巻1号)、青土社、p.185

*18:秋田孝宏「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』(NTT出版、2005年、p.168~170)においては、漫画における、固定された構図のコマを並べることによる動きの示し方とそれに対する映画からの影響について例を挙げて説明されている。

*19:長岡「島編とエヴァのあいだ」『灰かぶり姫の灰皿』 http://d.hatena.ne.jp/c_a_nagaoka/20070610/1181480425 (2014年7月12日参照)

*20:小黒、前掲書、p.378

*21:カレカノ』第一九話の劇メーション処理などがアニメ世界の虚構性を露呈させること、そしてその意味付けについては、先に引用したWEBどうかんやまきかく「現実と非現実の彼岸、その少女マンガ的表象 または「劇メーション」再考」(『彼氏彼女の事情 雑記四篇』所収)でも触れられている。

*22:顔暁暉「セレクティブ・アニメーションという概念技法」山本安藝+加藤幹郎訳『アニメーションの映画学』臨川書店、2009年、p.292~295

*23:「あんた、バカぁと、言われてみたい。」『月刊アニメージュ』1996年7月号、徳間書店

*24:吉原、前掲書、p.132. 庵野秀明の制作姿勢を評して言われた言葉。

*25:平松禎史Twitterでの発言より https://twitter.com/Hiramatz/status/364379722584559618 (2014年6月27日参照)

*26:「『新世紀エヴァンゲリオン』をめぐって」『STUDIO VOICE』1996年10月号、INFASパブリケーションズ

*27:霜月たかなか「アニメよアニメ!おまえは誰だ」『ポップ・カルチャー・クリティーク 0. 『エヴァ』の遺せしもの』、青弓社、1997年

*28:顔、同、p.272. なお、著者である顔はこの論中でリミテッド・アニメーションについて考えるにあたっては、必ずしも虫プロ以降の日本のリミテッド・アニメーションに捉われない、一般的な意味でのより広いリミテッド・アニメーションを念頭に置いている。

*29:庵野秀明庵野秀明のフタリシバイ―孤掌鳴難』、徳間書店、2001年、p.247

*30:同書、p.73. 『カレカノ』について、「芝居っていう部分をちゃんとやりたい」との発言がある。

好き/嫌いに対する私の立場

未だに、自分の好きな作品を貶されると死ぬほどムカつくし、自分にとって何の価値も見いだせない/あるいは嫌いなものが褒められているとイライラしてしまう。こればかりは本当に成長しない。

 

本当はそのような状態からは脱した方が良いのかもしれないけれど、一方で、これは人間だから(そのような認知を持つのは)ある程度しょうがないとも思う。作品に強い思い入れを持つオタクの人は、特にそうなのではないだろうか。

 

ただ、人に対して「私の気分が悪くなるから作品を批判しないで」とは全く言えないし言いたくない。自分にとっての「好き」が相手にとって「嫌い」であるというのはごく普通にあり得ることだし、「嫌い」を口にすること自体は全く悪いことではない。

 

その代わりに、相手が自分の好きな作品を批判した場合には、(ある程度相手にも共有され得る根拠をもって)正当に反論します。「好き」「嫌い」はあくまで個人に帰属するものですが、「批判」や「称賛」は客観的な次元の話であり、それについてはこちらから反論する余地があります。そのように処するのがフェアというものでしょう。

 

それが好きな作品に対するdisであっても、正当な批判であれば甘んじて受け入れなくてはいけないし、時には、自分のその作品に対する評価を考え直すことにも繋がります。ただ、不当に貶められた場合には当然反論したくなるし、反論するのが正しい。

 

「好きなアニメの批判を聞かされたためにアニメを見れなくなった」「アニメを批判するのは正しくない」と言い出す人が前にいて、togetterにもまとめられていたけれど、それはそもそも自分の中で作品への見方や価値観が確定されてなさ過ぎだと思います。「好きなものを否定されるのは悲しい」こと自体は感情として理解できるけれど、自分の見方を持てていればそこで自信を失わなくて済むはずだし、そこで相手に反論したり、自分に納得させたり、あるいはその怒りをモチベーションにして創作に励んだりできる。

 

 「アニメ見れなくなった」までは仕方ないにしても、「批判されたせいでアニメを楽しめなくなったから、作品への批判をしないで」は流石に身勝手すぎるし、オタクとして以前に人間としてどうかと思う。「(自分にとっての好き嫌いも含め)正しい評価を下す」という権利を人から奪ってはいけないし、批判それ自体はそもそも悪いことではない。

 

逆に、「好きな作品の話だけする」「高評価しか付けない」レビュワーやブロガーの人はあまり信用できないようにも感じている。「好き」「嫌い」であったり「ここはいいけどここは悪い」といった部分にはその人の基準や考え方が表れており、そこが見えてこないと、何にでもとりあえず高評価を付けるのかなと思ってしまう。実際、嫌いなものを語るときの網の目が細かいレビュワーの方が、褒める際のレビューも信用の置けるものであることが多いです。

 

そもそも、「好き or 嫌い」「良い or 悪い(評価に値する or 値しない)」「面白い or 面白くない」はそれぞれ別の評価軸であり、本来は弁別して然るべきものです。

「これは嫌い」と言われたからといって、それは「その作品は(客観的に見て)評価に値しない」と言われているわけではないし、そこが分かれていないと、「批判すること=嫌いを述べること=やってはいけないこと」になってしまうのだと思う。

また、客観的な見地から悪い評価を付けられたからといって、自分にとっての「好き」が否定されたわけではないし、それを不当な評価だと感じるのであれば反論することができる。

 

なので、これら三つの基準をごっちゃにして、「嫌いなものの悪口をとりあえず言いまくる」といった振る舞いをする人がいたら、その時はその人のことは「害悪」と認定して全く差し支えないと思う。

 

「嫌いなものを語るのは良くない」「人が好きなものを批判するのは良くない」は作品に対する正当な批評、公正な評価の敵であり、それを人に対して強要するのは本当に良くない。

(アニメや映画についての評論をやっている人が「悪い評価を口にするのはやめています」とオープンに発言したり、「批判的なことを言うのはいけないことだ」という不条理な言説が支持を集めたり、作品に対し批判的なコメントを発した著名人のことを、その内容を吟味することもせずに皆で一斉に叩いたり、といったことが日常的に起こっているのが日本の言論空間の現状です。それはもしかすると和を重視し、ディスカッションを忌避する国民性に由来するのかもしれませんが、そういった民族学的な考察についてはひとまず措きます。)

 

不当に作品をdisられた場合はこちらから反論しましょう。正当な評価であれば甘んじて受け入れるか「相手は相手、自分は自分」と割り切りましょう、そうすることで自分の精神も保てるのではないかと思います。

『バトルアスリーテス 大運動会』5話のちょっとした技巧

昨年も記事で取り上げた作品だけれど、『バトルアスリーテス大運動会』(TV)5話にこれは!と思う描写があったので書いておきたい。なお展開は割とネタバレしてます。

 

バトルアスリーテス大運動会』(TV版)のあらすじについて一応述べておくと、

西暦4999年、世界最高クラスのスポーツエリートたちが年に一度の「大運動会」に参加し、王座に輝く宇宙撫子〔コスモビューティー〕を目指しトーナメントを繰り広げている世界。その登竜門となるのが衛星軌道上に位置するスポーツ専門大学「大学衛星」へ進学することであり、その大学衛星に進学する生徒を選り抜くために設けられた訓練校から話はスタートする。

主人公である神崎あかりは宇宙撫子の母を持ち、競技について天性の資質を秘めているのだけれど、物語開始時点においてはまだ才能を開眼させておらず、競技でも万年ビリの意気地なしで、弱音ばかり吐いている*1

臆病をこじらせまくった結果「あかりハウス」と書かれた段ボール箱を常に持ち歩いており、何かくじけそうなことがあるとすぐにその中に籠って隠れてしまう。

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そんなあかりを献身的に支えるのが関西出身の柳田一乃である。あかりの体たらくに対し普段は容赦なくツッコミを入れるものの、主人公のことを思って何かと面倒を見てくれるいわゆるツンデレキャラであり、声優を担当した久川綾さんによる関西弁の演技もこのキャラのパーソナリティに絶秒にマッチしている*2

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さて、本題に移ると、5話ではあかりは訓練校でトップの成績を持つジェシー・ガートランドに対戦を申し込まれてしまう。

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あかりの母である伝説の宇宙撫子・御堂巴を崇拝するジェシーは、その血を受け継いでいながらヘタレで弱い存在であるあかりのことが許せず、激しい敵意を抱いているのだ。あかりはこれまでで最大の苦境に立たされたと言っていいだろう。
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ジェシーから激しい叱責を受けた末に一騎討ちを申し込まれてしまい、またも落ち込んだあかりはやはり「あかりハウス」に籠ってしまう。

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そこで、普段はつれなくあかりを叱責している一乃も今回ばかりは見かねて、普段は見せない側面を見せ、あかりに諭すようにして、素直な激励の言葉を飛ばしてくれる。

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言葉を言い終えた一乃はあかりに呼び掛ける。
「出てこい、あかり」

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だがここで、その声を聞いていたあかりが横のトイレから登場する。あかりは実は「あかりハウス」の中におらず、たまたまトイレに入ったタイミングで段ボール箱を外に置いていただけだった。あかりは一乃の励ましの声を、トイレの中から聞いていたのだ。

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あかりは感激してトイレから出て来て一乃に抱きつき、涙ぐみながら、めげずに頑張る意志を伝える。

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だがそこでシリアスなムードになるかと思いきや、

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ハッとした一乃が「お前ちゃんと手洗ったんか?」とあかりに訊き、「あっ…」「ドアホー!!」とそこでギャグに流れるのだった。

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さて、一通りの流れを全部書いてしまったが、このシーンの流れで優れているのは
あかりが一乃の激励を「あかりハウス」の中から直接聞いているのではなく、トイレにいながら傍らで聞いていたということである。

あかりがこの激励を「あかりハウス」の中で直接聞いていたとするとどうだろう。確かにそれでもやっていることは変わらないのだが、それはこれまで何度も繰り返されてきたことであり、劇的な要素に欠ける。ここで「それまで100パーセント弱気だったあかりが行動を変える」ためには、それだけの説得力を持つ描写が必要になる。

一般的に、我々の中には刷り込みとして、「対面での会話で口にする言葉は必ずしも真実であるとは限らない」という発想があります。相手の前だと気を遣って真実を言わないか、打算が入るため都合の悪い部分を抜かしてしまったりする。

 

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自分がいない場所で、自分に関して口にされる言葉に人はとても敏感です。第三者である自分に対する気遣いがなくなることで、往々にして「相手が本音では自分をどう思っているか」を知ることになる。それが陰口であれば相手への信頼が一挙に崩れ、それが誉め言葉であれば相手からの確かな信頼を感じられることでしょう。「相手の言葉を陰から聞く」というシチュエーションには確かにそうした決定的な作用があります。そしてその効果をこの展開は活かしているのではないか。

 

ただ、それだけだと例えばここで一乃が他の人に対してあかりの話をするところをあかりが聞いていたという描写でもいいはずだけれど、その場合は効果が半減してしまうだろう。ここでのあかりは外ならぬあかり本人に対し激励の言葉をかけているのであり、そうであるからこそあかりは一乃の真っ直ぐな言葉に心動かされ、反応を返すのだ。

 

繰り返しになるが、このシーンにおいて行われていることは「一乃があかりを叱咤激励し発破をかける」「あかりはそれを聞いてやる気を取り戻す」の二つであり、それはこのシーンを「一乃が直接面と向かってあかりを励ましている」シーンに置き換えても、やっていることは何も変わらない。

しかしあくまでその二つの要素は保ちながら、「あかりが一乃の言葉を隠れて盗み聞きしている」という風にワンクッション置くことで、ここでのあかりの心変わりを説得力を持って描くことに成功しているのである。

 

また、あかりがトイレから登場することは一乃にとってと同時に視聴者にとってもサプライズにあたり、ここでの一乃と同様に視聴者も意表を突かれ、半ば強引な形で展開を受け入れざるを得なくなる。その驚きの要素が、こうした展開を退屈させない、刺激的なものにしてる。

それに加えてシーン最後にはしっかりとオチまで付けて、湿ったムードになり過ぎないように計算もされていることが分かる。

(ちなみに、ここでギャグに流れるのは、このアニメがラブコメとしての要素を持っているからだろう。つかず離れず、友達以上恋人未満の状態を持続させ、それを完結させないまま常にサスペンスを生み出すことがラブコメの主題である。)

 

5話の脚本は黒田洋介さん。

こうした展開をさらりとやっているところに、黒田洋介という脚本家の、シチュエーション作りの上手さが表れていると思う。

さて、もう少し話を進めたい。

このシーンの説明の最初に「落ち込んだあかりは『あかりハウス』にこもってしまう」とただ書いたけれど、ここには誤魔化しの要素が入っています。

というのも、「あかりがジェシーに対戦を申し込まれるシーン」から、この「一乃があかりを叱咤激励するシーン」の間には二つのシーンが入っており、それは「1.あかりが部屋で一人落ち込んでいるシーン」と「2.王鈴花が二人の勝敗で賭け商売をしようとするのをジェシーが止めるシーン」である。

1.

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2.

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1.のシーンを見ていると、対戦を申し込まれたあかりが「自分の部屋で一人で落ち込んでいる」ということが分かるので、「あかりが外であかりハウスに籠って落ち込んでいる」というシーンが出てきたときに、冷静に考えるとそこには不自然なところがあるはずである。なので、「実はその中にはいなかった…」という展開が後に出てきたときに、それをよりスムーズに受け入れることができるだろう。


実際には、「あかりがあかりハウスに籠って落ち込んでいる」シーンの最初には、あかりハウスの前を通りかかった一乃が「こないなとこにおったんか。」とあかりに対して呼び掛けるセリフがあり、つまり「一乃はあかりハウスを偶然に見かけて呼び掛けた」という描写になっている。


これはたとえば小説のような媒体で文章に起こしてみると、「あかりがあかりハウスに籠っているのを一乃が見つける」という描写が入ったときに一気に不自然さが明るみに出るだろう(何故そんなところにあかりハウスがあるのか?となる)。しかし映像作品では、「あかりハウス」を映像に出してしまえば否が応でも視聴者はそれに説得されてしまい、一乃と同様にこのシーンで勘違いを起こしてしまう。

そしてその上で、2.のシーンが挿入されているのは効果的だ。1.のシーンと、「あかりハウスに籠るあかり」のシーンの間に別の挿話が入ることで、二者はダイレクトには繋がらないため、これも不自然なところを軽減するのに役立っている。


脚本上の展開についてこれまで述べてきたれど、このシーンにはもちろんのこと演出も必要十分に貢献している。
あかりがあかりハウスの中にいないことが分かるシーンで、それまでのカットにおいてはトイレのドアを示す「W.C」の文字をさり気なく画面内に入れることで、次に続く展開が不自然なものにならないように布石を打っている。

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一乃があかりハウスを階段手前で見かける箇所についても、カメラが右から左にPANするのに合わせて一乃が画面左からフレームインしてくることで、ここで突然に出て来るあかりハウスを画面内にさり気なく位置づけることに成功している。これらはシナリオ上での仕掛けを活かすための演出として位置づけられるだろう。

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絵コンテ:村田雅彦/演出:小村敏明


バトルアスリーテス大運動会』はシリーズを通してとても充実した内容だったけれど、あかりと一乃、ジェシーとアイラたちの生々しい気持ちのぶつかり合いが描かれている前半が特に好きだ。
シリーズ構成を務めた倉田英之および、黒田洋介両氏のシナリオが展開に弾みをつけ、感情の生々しさやキャラクターの魅力に貢献しており、両氏は他作品でも見るべき仕事を多く残していると思う。

*1:なお、OVA版のあかりは初登場時から大学衛星の新入生代表でありほとんど真逆。

*2:久川綾さんの関西弁キャラで実質的にケロちゃんであり神尾晴子であり保科智子

大月俊倫さんと『ラブひな』、『残酷な天使のテーゼ』の作詞

皆様いかがお過ごしでしょうか。2018年とは何の関係もない話題です。 

 『アニひな : TVアニメ「ラブひな」ナビゲーション ver.1』を読んでいたら、監督の岩崎良明さんとプロデューサーの大月俊倫さんが対談している記事があった。

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大月俊倫さんと言えば『エヴァンゲリオン』のプロデューサーとして有名で、 キングレコードに所属しながら『少女革命ウテナ』や『機動戦艦ナデシコ』『スレイヤーズ』に製作として関わった伝説的な大物プロデューサーである(現在は引退している)。

また、岩崎良明さんものちにJ.C.STAFF美少女アニメのキープレイヤーとして『ゼロの使い魔』や『ハヤテのごとく!!』を監督し、2019年には『ぼくたちは勉強ができない』を監督することが決定している実力派だ。

さて、この対談の中で、大月さんが『ラブひな』OPテーマの「サクラサク」(作詞作曲:岡崎律子、歌唱:林原めぐみ)について語っている箇所が面白かったので紹介してみたい。

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景太郎がね、自殺するんだよ(大月)」という衝撃の見出しが目を引くが、

OPテーマ制作にあたって大月さんが岡崎律子さんにオーダーした内容がここでは述べられている。長文にはなるがここで引用したい。

大月まず詞と曲は岡崎律子さんでやりたい、というのが私の中でかなり初期からあったんですよ。じつはね、『ラブひな』のアニメ化を決めたとき、私が勝手にイメージしていたストーリーがあるんです。その話ってのは、景太郎がね、自殺未遂しちゃうんです。なんとか命は助かるんだけど昏睡状態に陥って26話分の夢を見るんだけど、その夢にはお爺さんが出てきて、回を重ねるごとに人数がどんどん増えていくわけ。それは要するに死者の世界から生者の世界に景太郎を呼び戻す役目の人なんですよ。

岩崎:その話は今日はじめて聞きました。で、景太郎はどうして自殺したんですか?


大月 :つまりね、女の子にはモテないし浪人するし、将来に絶望してなんですよね。でも26話分の夢を見て死者の世界と生者の世界を行き来しているうちに「生きるとはどういうことか」を理解していって、それて「生きなければ!!」と悟ったところで目が覚めるわけ。そのとき、夢だったはずのひなた荘の住人が景太郎を囲んでいて景太郎をみつめている、そこでパッと終わるっていうのが私なりに考えた構成なんですよ。じつは岡崎さんには原作を読んでもらう前にこの話を説明したんですね。そしたら、すごく感動してくれて、ここからオープニングとエンディングのあの2曲ができたんですよ。歌詞の中で「手を伸ばして」とか「祝福の時は来る」って言葉があるけど、それは生者の世界から、なるたちが手を伸ばして景太郎を招いているということなんです。

だからね、アニメの主題歌の作詞や作曲を依頼するとき、原作を読ませるとかってのはナンセンスなんですよ。作品のコアのコア、真っ赤な溶岩みたいな部分をグッと相手に手渡すしかない。私は他の作品でもこういう方法でやってますし、私が担当したアニメの主題歌が内容と合っているともし評価されるとすれば、こういう方法を採用しているからなんだよね。

 作品のエッセンスとして聞かせる内容が、原作にはない完全オリジナル設定というのもすごい話ですが、それがまたなんか凄く…『エヴァンゲリオン』ぽさがあるというか……。

大月さんのような、作家性の強い名物プロデューサーは、今の時代だと少ないでしょうね。そしてこの対談での発言通り、「サクラサク」の歌詞にはこの裏設定が反映されている。

途方に暮れた昨日にさよなら
ふつふつと湧きあがるこの気持ち
何度でも甦る 花を咲かせよう
思い出はいつも甘い逃げ場所
だけど断ち切れ 明日を生きるため
祝福の時は来る 手をのばして

「思い出はいつも甘い逃げ場所 だけど断ち切れ 明日を生きるため」もそう考えると意味深な内容であると言える。

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ちなみに、大月さんがここで話してるお爺さんたちは、実際にアニメ版でよく登場している。ただ、岩崎監督は当初の裏設定知らなかったという話なので偶然か?赤松さんの原作でどうだったかは自信ない。


ともかく、私がこれを読んで思い当たったことは、大月さんはレコード会社のプロデューサーとして音楽面で多くのアニメに関わっているが、(この対談が行われた2000年の)時点ではそういったポリシーを持っていたのだとすると、『エヴァンゲリオン』の主題歌作成にあたってもそういった方針を採用していた可能性が極めて高いのではないか。

TV版 『エヴァンゲリオン』のOPであり、現在でも高い人気を誇る「残酷な天使のテーゼ」について、作詞を担当した及川眠子さんは「企画書と最初の2話を早送りで見て2時間ほどで書き上げた」と数年前に暴露して物議を醸していた。

getnews.jp

otapol.jp

interview.utamap.com

残酷な天使のテーゼ - Wikipedia

これらによると、

キングレコードのプロデューサー(大月さんのことだろう)から『哲学的な』『難しい歌詞にしてくれ』と作詞の依頼を受けた」といったことや、「未完成の第2話までのビデオと企画書のみを渡された状況での発注であり、ビデオは早送りで視聴、企画書も熟読することはなかった」といったことが及川さんの口から語られている。

また、作詞家と作曲家とが一度も会うことなく制作された歌であることも分かる。

そして歌唱を担当した高橋洋子さんも、レコーディングの時点では、アニメの内容を全く知らされておらず、「オープニング映像も、第1回の放映を自宅で見たのが初めて」だったという。

 これらの内容から、プロデューサーを担当した大月さんを批判する向きもあるけれども、大月さんは「原作を読ませるといったことはナンセンス」「作品のコアの部分のみを伝えるべき」というポリシーに基づくことであったのかもしれない、と考えられる(それだけでは説明つかない内容もあるけれども)。

大月さんのポリシーは、畢竟すると「あえて作品の全体像を提示しない」ということでもあったのだろう。おそらく、それによって、音楽を制作する側にはある程度の自由さを与え、感性を働かせる余地を作り出す*1。もっとも、『エヴァンゲリオン』での関わり方は特殊であっただろうし、他作品ではもう少し踏み込んだ形で楽曲を作成させていると思われる。

庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン
 

 『スキゾ・エヴァンゲリオン』によると、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』において大月さんが関わった内容としては、主に企画を通す段階で設定とか内容についての話があった、そして制作会社選びの交渉を行い、プラス25話と26話(有名な最終話)のネタ出しに関わったことが述べられている。

ただし、庵野さんが大月さんの前でエヴァの話をあまりしたがらなかったので、制作中には(大月さんは)作品には一切不介入であったらしい。

その代わり、制作中は会うたびに観念的な話や社会情勢の話で駄弁っていたとのことである。

(こうしたことはそれほど役に立っていたいう風に見なされないけれども、プロデューサーや編集者の役割として、「クリエイターの思考を触発する」という一面があることを考えると、間接的に役割を果たしていたといえるかもしれない。)

なので、エヴァの場合は、大月さんのポリシーというのとは別に、結果的に(主題歌についても)関わり方がそのようにそうなっていたという可能性はある。

残酷な天使のテーゼ」の作詞と大月俊倫さんの関係について、そのようなことを考えたのでした。

 

◆これだけではやや物足りないので、もう少し記事に内容を加えます。

大月さんの旧『エヴァ』以降のフィルモグラフィを見てみたい。

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シスプリ』『ぱにぽにだっしゅ!』『ネギま!?』などは顕著だが、「女性声優が多人数出る」ような美少女アニメを多く手掛けていることが分かる*2

 「美少女キャラいっぱい出して、キャラソンやエンディング、挿入歌をそれに合わせて多数展開する」という手法を活用していると思えないだろうか。

 『シスタープリンセス Repure』などはとくに、各ヒロインごとにエンディングテーマが用意され、しかも声優や歌手の名義ではなく「ヒロインが(キャラの名義で)エンディングをうたっている」という形式を採用していた。

 今では浸透している手法であるけど、これについては『シスプリ』が先鞭をつけたのではないだろうか(これ以前にもあるのかもしれないが)。

 

それでは、2018年はお世話になりました。2019年もよろしくお願いします。 

キネ旬総研エンタメ叢書 アニメプロデューサーの仕事論

キネ旬総研エンタメ叢書 アニメプロデューサーの仕事論

 
 
 

*1:オタクの人はどちらかというと「本編の内容を深く理解して作られた歌詞」を褒める傾向にあると思うので、その真逆と言えるかもしれない。たとえば『AIR』や『リトルバスターズ!』といったKEY作品の歌詞は、本編の内容を反映した歌詞になっており、歌詞の内容を解釈することでストーリーをさらに読み込むことができる。他方で、そういった方向に頼らずにテーマソングを作る方法論も存在するのだと言える。

*2:加えて『ラブひな』繋がりで言えば、堀江由衣さんの参加しているアニメが多く、岡崎律子さんが主題歌を担当した作品もいくつか入っている

映画『若おかみは小学生!』/反射についてのメモ

冬コミケの季節ですね。私は京都大学アニメクリティカさんのところの新刊に映画『若おかみは小学生!』についての記事で参加しています。

映画『若おかみは小学生!』の経済性についての試論

というタイトルで、あの映画の脚本ないし演出が、いかに効率的に物語を伝えているかといったことについて書いています。

 手に取って読んでいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。私としては、ほかの方の寄稿記事も楽しみです。

さて、経済性については上記の記事で書いたのですが、そこで書けなかった内容として、今回は反射について書こうと思います。

最後に劇場で見たときにこういうツイートをしたのですが、これだとあまり上手く説明できてないなあと思っていました。

これはDVDソフトが出るまで待ちかなと思っていたのですが、先日『講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!』(原著:令丈 ヒロ子、著:斎藤 妙子)に当該カットのキャプチャが載っているのを発見した(!)ため、以下に引用します。

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元ツイートにあるように、これは両親を亡くしたおっこが祖母のお世話になるため花の湯温泉に電車で向かうシーンで、窓ガラスの反射に映るおっこの表情と、おっこが見ている(と思われる)親子連れ三人の反射した姿も画面に映り込んでいます。父母を亡くしたおっこが、両親と話している子どもの姿を見ており、言うまでもなく両者は対比されています。

さて、先ずはこのカット、改めて見るとめちゃくちゃ層が入り組んでるんですよね。映っているものの種類ごとに分けるとおそらく以下のようになっています。

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 画面内にあるもののうち、実物が映っているのは手前にいるおっこの頭のみです。おっこの表情と、反対側の座席に座っている親子連れは窓ガラスへの反射で映っています。そして向かい側の窓ガラスに映っている親子連れの姿も、二重に反射して映り込んでいます。それに加えて、おそらく窓ガラスに透けてトンネル内のケーブルが映っています(この像はおっこの頭にもかぶさっているので反射ではなく透過で合ってると思う)。

四種類のレイヤーが一つの絵の中に重なって映っているという手の込みよう。このカットが発揮している効果としては、以下のようなものが挙げられるかと思う。

まずは

反射を使うことで、親子連れとそれを見ているおっこの表情とを(切り返しを使わずに)一つの画面の中に収めている。

ここで窓ガラスの反射を使わなければ、窓側にカメラを設定しておっこの頭をナメる形で親子連れを映す必要があり、それだとおっこの表情が映らない。おっこの表情を映すためにはカットを割って「親子連れ」→「おっこの表情」と2カット使う必要があり、それだとこのカットの持つ抒情性や、さり気なさが失われる。

親子を見ているおっこのアンニュイな表情と、親子の姿とを一つの絵に収めることで浮かび上がってくる情緒というものがあると思う。

また、厳密には「見ている」のではなく、「見ているように見える」というのもポイントで、観客が想像力を伸ばす余地をそこに与えている。

もう一つの効果としては、

親子三人の姿を反射を通して映すことで、ここでのおっこにとって「親子連れ三人」というイメージは失われてしまったもの、不確かなものになっていることを示す。

というのが挙げられる。

鏡面反射ではなく、窓ガラスへの反射・映り込みを通して何かを映すと、被写体は(透過率50パーセントくらいの)半透明な姿でそこに映り込む。つまり、直接映せばはっきりした形でそこに表出するものが、反射を通して映せば、どこかぼやけて不確かなイメージと化す。虚構や空虚さといったものをそこに付与することが出来るのだ。

父母を亡くしたおっこにとって、その姿はぼやけた虚像*1として感じ取られているような印象を与える。

しかも、(私の記憶が正しければ)この次のカットでは、電車がトンネルから出て窓外の景色が明るくなったところで、この反射は消えて、窓ガラスには鏡像のおっこだけが映るようになる。

このカットの流れには、本作の全体としてのテーマが反映されているように思えないだろうか……?

事故で両親を失った後も「幽霊と化した両親」と交流することができるけれども、やがてトンネルを抜けて明るくなるように変化することで、漠然とした像であったそれは消える(そして自分の姿が残る)。そういうことを語っているように見える。

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そもそも映画内において幽霊たちは透けた形で出てくる不確かな存在だ。だからこそ両親が常に実在のもののように出てくることに不気味さがあるのだけれど、幽霊と化した両親も幽霊たちと同様に、異界の存在である。最後におっこは両親および幽霊たちといった異界の存在と別れ、そこでホワイトアウトして映画は締めくくられる。

私の深読みや勘違いかもしれないけど、こういうさり気ない描写によってテーマが散りばめられているのだとしたら、それはとても芸が細かいことであると思う。

もちろん、こういったカットを見て観客が即座に「これはこういう意味で~」みたいに意識的に理解するわけではないだろう。しかしこういった表現がサブテキストとして細かに散らされることで、無意識に刷り込みが行われ、映画全体のテーマに説得力を与えていく。

そして本作は、反射・映り込みの表現の精緻さが注目を浴びた作品でもあった。

これについては勿論、作品内の世界のリアリティの底上げする効果があると考えられるけれど、他方で、鏡像を多く使うことで生・死の境界の不確かさや、異界への通じやすさといったイメージを際立たせる効果もあるのではないだろうか。

それでは追加で、他のカットでどのように反射・映り込みが使われているかを、先述の『講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!』に載っているキャプチャで確認できる範囲で見ていこうと思う。

先述のカットの前に出てくるカット(本からキャプチャをトリミングしてしまったので端が変になっていることはご容赦ください)。

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こちらは窓外の景色が窓全体に反射して映っており、それを見ているおっこの表情が同時に透過で映っている。窓内と窓外の両方の像が重なっており、こちらもカットを割らずに、見ている主体と見られているものとを映すことに成功している。おっこが思いに沈んで、目から見た景色が漠然としたイメージとして映っていることを示唆しているようでもあります。

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こちらは旅館に着き、自分の部屋に最初に入ったときのシーン、ウリ坊を見つける直前あたり。

写真立てに入った両親の写真(の上のガラス板)に、挿し込んだ光によって窓枠が反射で映り込んでいる。これによって、両親の姿が半透明なものに見える(実際には透明ではない)ようになっている。観客に対し、両親の「幽霊のような姿」を印象づける効果があるだろう。

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水領さんの車に乗って買い物に行く途中、おっこが事故のPTSD過呼吸に陥り、その後おそらく車中で休ませてもらっているところ。

サイドミラーにおっこの表情が映り込む。こちらもおっこの表情と、おっこにとって見えている両親の姿とを同時に映す経済的なレイアウト。死んだ両親の姿がナチュラルに見えているが、「サイドミラーのおっこ」が同時にフレーム内に映っていることで、それがあくまでおっこの視線を通じてだけのものであることが強調される

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おっこが水領さんに初めての浴衣を着せてあげるシーンにアクセントを加える映り込み。この水晶玉の表現はびっくりするほどキレイでしたね。こちらも二重に像が映り込んでいる手の込みよう。

レイアウトの意図を汲み取るならば、幽霊の存在を感じ取れるおっこと、霊能はないが占い師である大人の水領さん、二人の存在の重なりを印象づけることでしょうか。

それほど数は確認できませんでしたが、映画全体において、反射の表現がときに意義深く用いられているということは言えるでしょう。

 

反射・映り込みという表現一般について振り返ると、そもそも反射というのは現実を直接映すのではなく間接的に像として見せることで、歪められたリアリティをそこに現出させる神秘的な技法でもあります。

下の画像はジェレミー・ヴィンヤード『傑作から学ぶ映画技法完全レファレンス』(2002年、フィルムアート社)より。

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古今東西の映画やコミックで用いられている技法であるとは思いますが、

殊に日本アニメにおいて、反射という表現の持つ神秘性を哲学の域にまで高めたのは、よく知られているように押井守さんの『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だと思う。

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頻繁に出てくる水面への映り込みや、光の反射の表現。

それら表現が個々に象徴的な意味を有しているというよりは、作られた虚構の世界/夢と現実というテーマに沿った描写が、映画全体にサブテキストとして散りばめられている。それによって、地と図の反転によって境界があいまいになる、あるいは夢のような形で世界を現出させるという主題に結びつく。

そして日本アニメの後続の作品においては描き出された仮想の現実、箱庭的な虚構の世界といったものを表現する際には、(押井さん自身のものも含めて)鏡面反射・映り込みというモチーフはしばしば用いられるようになった。

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機動警察パトレイバー 2 the Movie』
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劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』
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『SSSS.GRIDMAN』#09

加えて、今敏さんのこれも印象深い。

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自我同一性、夢と現実の境目の揺らぎをテーマにした『パーフェクトブルー』は鏡面反射を使った表現の見本市のような作品になっている。

左の方は未麻が部屋で自身のブログページを見つけるシーン、鏡写しを使った不安定なレイアウト、真っ赤な色味と相まって不安感を急速に高める。右は有名な本田雄パート。鏡像の未麻と本体とが共に動くのを手前から映してるという、トリッキーなカット。

連想で言えば、最初に紹介した『若おかみは小学生!』のカットと形態的には似ている表現を、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』第2話(コンテ:坂田純一、演出:堀口和樹)で見つけることができる。

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思春期症候群によりだんだん(比喩的でなく)他者から存在を認識されなくなっていき、追い詰められていく桜島麻衣。

窓ガラスに反射した麻衣の半透明の姿、そしてここで彼女がその像を見ているという表現によってその事態がよりはっきりと視覚化されている。

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ここで麻衣は梓川咲太から目を逸らしながら会話している(後に向き直る)。

「私のこと、覚えてる?」という麻衣の質問に対し咲太が肯定の言葉を返す、そして麻衣は自分の姿の映り込みを見ながらそれを聞くという描写。ガラスの反射を使うことで、ここでの麻衣の不安げな表情をとらえることに成功し、同時に、麻衣が自己の存在の不確かさを気にかけていることが浮き彫りになっている。


段々取りとめのない話になっていきそうなのでこれくらいで終わりにしようかなあと思います。

冬コミで寄稿させてもらった文章の方もよろしくお願いします。

 

講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!

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*1:という言い方は理科的には正しくないけれど

舛成孝二さんと鈴木博文さんのEDアニメーション【検証】

今期のアニメ視聴と並行して『バトルアスリーテス 大運動会』(TV)を少しずつ見ている。

今期だと『ゴブリンスレイヤー』でも組んでいる倉田・黒田コンビが全話脚本を担当し、正統派なエンタメでありながら同時になかなかエグい展開もありで見どころは多い。放映時期は1998年~1999年。

’90年代を通じスタイリッシュ美少女アニメで名をはせたスタジオであるAICが制作しているだけあって美少女キャラばかり登場するオタクアニメ、そしてその中でも女性主人公で、かなり「百合」要素も強く感じさせる作品だ。何せ第2話にして添い寝展開がある。テレ東の夕方放送アニメだが、今放映されてたらTwitterで百合オタクが騒いでいただろうなと思う。

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画像左の青髪キャラの声優は川上とも子さん。

 それはさておき、

『バトルアスリーテス』のEDアニメ

EDアニメーションのクレジットを見ていて気付いたことがあった。

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OP・EDの演出にスタジオゑびす*1の二人(菅沼栄治舛成孝二)が参加してるけど、

EDアニメは鈴木博文さんの一人作画

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かわいい。

こういう感じのデフォルメ調の、手描き感あるアニメーションになっている。

鈴木博文さんのEDアニメ仕事

鈴木博文さんといえばNARUTOキャラクターデザイナーであり凄腕のアクションアニメーターと知られているけれど、単独でEDアニメーションを制作することも多い(撮影技術を持っているため絵コンテ・原画・仕上げまで自分一人で出来る)。『NARUTO』での仕事以外に、

近年では

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  • 『世界征服~謀略のズヴィズダー』完成版ED

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等を担当。これらは見たことある人多いのではないだろうか。

あるいは時期を遡ると、

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なども単独で手掛けている。『メダロット』は本編見てないのに引用して申し訳ない。

これらのEDのうちいくつかにも『バトルアスリーテス』同様にデフォルメの利かせたラクガキっぽいタッチのものを見ることができ、

鈴木博文さんの作画wikiにもその旨の記載がある(2018/10/31 閲覧)

同姓の鈴木典光までとはいかないが、彼の手掛けたEDも多い。
その仕事を覗いてみるとラクガキ調な仕上がりなモノが多かったりする。
メダロットバトルアスリーテス大運動会、てなもんやボイジャーズ、モンコレナイトNARUTO、なのは第一期等。)

鈴木博文さんがバリバリのアクションアニメーターとしての仕事をしながら、こういったスタイルのエンディングアニメーションを手掛けていることはやや不思議だなと思っていたのだけれど、これは鈴木博文さんが舛成孝二さんのEDアニメに影響を受けたからではないかと思いついたのだ。

 舛成孝二さんのEDアニメ

舛成孝二さんといえば『R.O.D』シリーズや『かみちゅ!』の監督として知られているけれど、’90年代のAIC作品を中心に2018年現在に至るまで、EDアニメーションを数多く演出している人でもある。

自身の監督作のEDまで含めると膨大な数にのぼるので一部を紹介すると、

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これが初のED仕事ですかね。*2

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岸田隆宏さんの一人原画。

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こちらも岸田隆宏さんの一人原画。

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これらは全て'90年代。『天地』シリーズ絡みが多め。

時代変わって、自身の監督作でのED

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こういう絵筆の感じが残る温かみのあるアニメーションが多い。舛成演出のEDが大体どういうテイストかは理解していただけたのではないだろうか。*4

さて、アニメ誌「アニメージュ」2002年1月号に掲載された舛成孝二さんのインタビュー小黒祐一郎さんがインタビュアーを担当する「この人に話を聞きたい」)において、舛成さんのEDアニメーションについて述べられている箇所がある。

(なお、インタビュー全文はこの本 ↓ に再録されている)

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舛成:スタジオユニコーンという会社に入りました。最初の頃は、「今のアニメの画」をちゃんと描こうとして取り組んでたんですよ。

――ああ、美形キャラとか、美少女とかを。

舛成:そうです。でも、どうやっても巧く描けないんですよ。 動画をやってて、一番楽しかったのが『メイプルタウン物語』とか、そういう作品でした。へにょへにょした画とか、ちょっとラフなタッチの画が好きだったんです。

このインタビューには小黒さんの注釈として

天地無用!』のエンディング以来、現在の『ココロ図書館』まで、彼はヘタウマ系の、あるいはラフなタッチの画のエンディングを何度か作っている。絵コンテで描く画も、ああいった感じの画なのだそうだ。

との記述がなされている。

舛成孝二さんの絵コンテのうち、今手元にあって見れるのがTHE IDOLM@STER』第7話「大好きなもの、大切なもの」・第23話「私」の絵コンテの抜粋*5だけなので、以下にこれを転載する。

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かわいい。

また、絵コンテ以外で舛成孝二さんの(おそらく)素の絵が見れるアニメとしては、

1999年にWOWOWで放映されていたD4プリンセス舛成孝二コンテ回(第7話「東方帝都学園24時 瑠璃堂どりす」)がある。

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…まあ、映像的にはへちょいのでわざわざ見なくてもいいとは思う。この回だけこういう特殊な感じになっています。

D4プリンセス』はEDの電波ソングが有名だけど今見てもまあまあ楽しめます。

このときの舛成孝二さんはこういうコンテや演出をやるような人でもあった。

舛成孝二さんと鈴木博文さんの共同仕事

話が戻るけど、舛成孝二さんのこういったスタイルが鈴木博文さんに受け継がれたと思う根拠としては、’90年代後半~’00年代初頭にかけて、この二人はタッグを組んで数多くのエンディングアニメーションを作っているからだ。*6

演出:舛成孝二、作画:鈴木博文のコンビで作ったEDアニメーションを調べてみると、

先に挙げた『バトルアスリーテス』ED(1997年)以外に、

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 舛成孝二さんの監督作。アニメーター豪華で作画的見所多くてオススメ。ヒロインの声優はデビュー当時の堀江由衣さん。

  • 『アンドロイドアナMAICO2010』ED(1998年)

同じく舛成孝二さん監督で、ラジオ番組制作とアンドロイドを題材にとった作品。

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DVDが手元になかったので拾い物の画像だけど、こういう感じの絵が動いてるEDですね。この作品はお仕事アニメの傑作なんだけれど再評価の機会がなかなか来ないです。

  • 『デュアル!ぱられるんるん物語』ED(1999年)

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という感じに色々組んで作っている。

この時期になるとデジタルの導入が見られますね。舛成さんがこういった、手描き風のふにゃふにゃした絵とCGを組み合わたりといった演出をやられて、鈴木博文さんもそれを自身の中に取り入れたのではないかと思う。

余談であるが『デュアル!』は確かあおきえいさんがAICの撮影時代に参加した作品だったかと。

また、鈴木博文×舛成孝二さんのコンビとしては見逃せないものとして、

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 かわいい。

リスキー☆セフティ』は舛成孝二さんの監督作で、これは昔話の紙芝居のはずが何故か宇宙戦艦とかうる星やつらとかパロディがやたら入る回。

これは舛成孝二さん自身のコンテ演出ではないですが、2クールアニメで枚数を減らす回を作ろうとなったときに鈴木博文さんがこの特殊な紙芝居パートの作画やることになったということは、EDアニメーションといったものを通じた二人のタッグの強さを伺わせる。

『リスキー~』はレイアウトが地味に良くて、天使と悪魔のチビキャラの視点から見た部屋の広さといったものも上手く表現されているし、けっこう良作だと思う。

ちなみに、舛成孝二さんと鈴木博文さんが最後に二人で制作担当したEDアニメは 

  • 天地無用! 魎皇鬼』(第三期)ED(2003年)みたいですね。

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この二人の関係ってどこかで分かったりしないかなあと思うのですが。ネットで検索かけても特にヒットしないし、『R.O.D』(OVA)のオーディオコメンタリーとかで言及がありそうですが、そこまで掘る気力が……。岸田さんとの絡みも多いし、鈴木博文さんてスタジオゑびすと関係あったりするのでしょうか?

 舛成さんから鈴木博文さんのスタイルへの継承

 そして舛成さんとタッグを組んで以降に、鈴木博文さん単体で手掛けたEDアニメーションはというと、

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ラクガキみたいなちびキャラの顔がデジタルで飛び交うアニメーション。

『てなもんや~』は月村了衛さん原案、新房昭之監督という異色のアニメ。石浜真史さんによると、月村先生と新房監督は制作中「いかにして『仁義なき~』シリーズのパロディを作品に多く盛り込めるか」ばかり話してたという。 

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こちらは手描き調で名作劇場っぽい。

こちらも舛成孝二さん監督作ですが、EDアニメーションは鈴木博文さんが椎野隆介さんという方と共同で担当。デジタルの移行期にあって、こういった絵でエンディングを作る手法は舛成さんとのタッグで取り入れたものかもしれない。*8

そして、鈴木博文さんのこうしたテイストは、上に挙げたメダロット』『なのは』(とかモンコレナイト』、『NARUTO』)EDのようなスタイルへと受け継がれていくことになる。

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鈴木博文さんといえば『NARUTO』の仕事がやはり多いので、都留稔幸さんと組んで

膨大な数のEDアニメを作っていますが(自分は未チェック)、作画や演出で参加したEDにもこういったテイストが流用されているかもしれない。

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ちなみに、比較対象として、舛成孝二さんとタッグを組む以前に鈴木博文さんが手掛けたEDアニメーションも存在する。

たとえば

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こちら鈴木博文さんの単独アニメーションだけど、キャラも空間も写実的で、本編と全然変わらないタッチになっている。

また、こどものおもちゃOVA(1995年)のEDアニメーションを都留稔幸さんと共同でやっているようだ。DVDで出てなくて、今はおそらく見る手段がない……けれど、こちらもキャラは本編と変わらないタッチで描かれているようだ(手描き調でデフォルメを利かせた感じではない)。

 

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https://twitter.com/Anime_VHS/status/701430182805053440

クレジットを見るとOVA版は鈴木行さんが監督でJ.C.STAFF制作なんですね。

TV版の方は再放送で見てましたが、大地監督特有の、ハイテンションでまくしたてるようなテンポと可愛いキャラ絵が印象的でした。

さて、

鈴木博文さんの現在の仕事

に戻ると、

影絵のシルエットで見せる処理が『まどか』辺りから増えてきて(というかシャフト作品での仕事ですね)、

OVAクビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い(2016年)のEDなどもそういった感じである。

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この辺りになるとテイストがだいぶ変化しているように見えるけれど、

一方で、それまでのスタイルを取り入れているようなところもある。

  • 『劇場版 魔法少女まどか マギカ[新編]叛逆の物語』ED(2013年)

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これもそれっぽい。TV版と同じくシルエットで見せるようなスタイルですが、背景はラクガキのようなデフォルメ調ですね。
これまでのスタイルを取り込みつつ、発展系という感じもする。

(「君の銀の庭」は映像だけ抜いてくるのがもったいないくらいの名エンディングですが、ご容赦ください) 

やっぱり新房作品での仕事が最近ではまた増えてますね。

まとめ
  • 舛成孝二さんの手掛けたEDアニメーションは自身の絵柄を反映した、ヘタウマ系の、あるいはラフなタッチの画のものが多い。
  • 鈴木博文さんのEDアニメーションも似たテイストのものが多く、これは舛成孝二さんとタッグを組む中でそのスタイルを取り入れたのではないか。
  • 鈴木博文さんは舛成孝二さんのEDアニメに影響を受けたがそれを取り込む形で発展させている

…と、ここまで書いて思ったけれど

岸田隆宏さんが作画を担当したEDアニメーション

も舛成さんと似たようなテイストが多い。

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舛成さんEDと似たようなタッチ。

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同じく大森貴弘監督作。この作品、今になって思うとけっこう百合ですね。

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岸田隆宏さんキャラデ。これも本編は見たことない(DVD買ったら見れるのか?)のでED画像だけ引用するのは後ろめたい…。

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有名なEDアニメーション。大畑清隆さん演出。

こちらはややズレるかも。そういえばこのEDの女の子を根拠に『シスプリ』=『ビューティフルドリーマー』説を唱える人とかいましたね。本編は今となっては別に見なくていいかと思う。

鈴木博文さんと同様、岸田隆宏さんも’90年代に舛成孝二さんとタッグを組んで多くのEDアニメーションを作っていて、二人は共通するテイストを持っているのだなあと思います。

ただ、舛成さんと岸田さんはスタジオゑびすの同期という感じだし、岸田さんが元々こういうテイストを持っているというのも考えられるので、一方的な影響関係ではないかもしれません。

おまけ

上述の通り、鈴木博文さんは『まどマギ』『なのは』をはじめ新房昭之作品のEDも多く手掛けているけれど、鈴木博文さんが初めて新房昭之のEDを手掛けたのはOVAそれゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコII』(1997年)の第3話EDが初!ということが調べていて分かった。かなり古くからの縁ですね。『コゼットの肖像』を作ってから疎遠になっていたのが、『まどか』TV版以降はまた組み出すようになっているかと思う。このEDはメカが出るところが佐々木正勝さん?

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最後に

それにしても、OPやEDアニメーションって本編を全く見ずしても語れてしまうところはあって、そればかり言及するのってあんまり良くないような気もしてしまいますね。現にこの記事でもいくつかのタイトルでやってしまったので反省したい。

色々脱線したけれど、まあ要するに、こういうラフなタッチのアニメーションって良いなと個人的には思います。’90年代や’00年代にはこういうテイストのEDがおそらく今より多かったかもしれない。作画的にはそれほど注目されないだろうけれど、作品の雰囲気には十二分に貢献する。

EDアニメは、作品の顔であるOPアニメと違って色々な表現を試せるところがあって、『きまぐれオレンジ☆ロード』(1987年)ED2の砂絵アニメをはじめ、表現主義的なスタイルのものが現に多く作られてきているし、また、そうであって欲しいと思う。

こういったものがより注目されると良いのかもしれない、と感じて書かせていただきました。

 

かみちゅ! 大全ちゅ?!

かみちゅ! 大全ちゅ?!

 

 

*1:今なお現役で大活躍している松原秀典さん(『この世界の片隅に』『サクラ大戦』シリーズのキャラデ)、岸田隆宏さん(『lain』『まどか』のキャラデ)、菅沼栄治さん(『こどものじかん』『ましろ色シンフォニー』監督)、舛成孝二さん等が在籍したすごいスタジオ

*2:このEDは元々岸田隆宏さんがやる予定だったのだが、忙しさを理由に岸田さんが断ったところで舛成さんが仕事を横から取った感じらしい。

*3:『エルハ~』は’90年代的な異世界転生ものだけど、珍しく中東風の世界観であったり主人公の女装展開や百合もあったりで今でも新鮮に見れるかと思う。OVA第一期を見るのが良いかと思います。

*4:ただ、舛成さんの近年のEDアニメ仕事は作品本編のテイストに合わせたものが多く、あまりこういう感じではない。

*5:某同人誌で見れる。怒られたら消します。

*6:鈴木博文さんはEDアニメ以外にも『R.O.D』のOVAとか、舛成監督作にアニメーターとして参加することも多い。

*7:リスキー☆セフティ』同様、『ココロ図書館』も映像的に派手なことは何もやっていないんだけど、静かで温かみのある雰囲気を持ち、この時期のアニメにしてはあまり古びていないと思う。彩度の低い落ち着いた画面や、音響が主な理由だろうか。

*8:ここにではあまりそういった話はしてないですが、舛成さんと組んだ『フォトン』EDと、鈴木博文さんが単独で手掛けた『満月をさがして』EDなどを比較すると、CGと作画の組み合わせという面で影響も感じられる。

2017年下半期新旧映画ベスト10

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年はアニメの記事もちゃんと書く予定です。

2017年は3年ぶりくらいに映画見た本数が150本切りました。とはいえ五つ星映画で上映会もやったし、岩井俊二オールナイトで『スワロイテイル』『リリィ・シュシュ』も初めて劇場で見れたし、わりと満足度高い。というわけで、余計なこと言わずに下半期見た映画の新旧ベスト10を。

上半期は以下の通りです。

highland.hatenablog.com

 

〇『セルピコ』('73)

組織(警察機構)の中で理想を突き通そうとして疎外感を味わう男(刑事)のドラマで、題材はいかにも’70年代アメリカであるが、構成がよく出来てる。アルパチーノ扮する主人公の兵士が、銃弾を食らって病院に搬送されるシーンから始まり、回想で「どうして恨みを買うことになったのか」という過程を順に追っていく。ルメット監督作だが、ルメットの映画って余計なことしないから演出的には好きなんですよね。緊迫感が高まる対話シーンで、ルメットはごくシンプルなバストショットの切り返しを使うんだけど、切り返すことで緊張感が高まっていくという作りで、これがドキュメント感がある。

 

〇『フランケンウィニー』('12)

うーんこれは良かった。パペットアニメなのだけど、劇中の人物がパペットで作った映画を上映するところから始まり、つまりパペットを使ってパペットアニメを作ってる異化効果なシーンになっている。これがなんか凄くノスタルジックを掻き立てられて感動する。あと終わりの場面も画が好き。

 

〇『ベイビー・ドライバー』('17)

今年は新作の実写はあまり見なかったけど、これは見に行って満足感あった。とにかく省略、省略で不要なシーンを飛ばすやり方が上手い。あのターミネーターみたいな不死身の男とか、いちいち漫画的なキャラ造形が良い(エドガー・ライトなので)。

 

〇『エスター』('09)

ネタバレ厳禁ながらオチがわりと知られててミステリの文脈でよく紹介される映画なのかな。でもこれは凄く緻密に作られたスリラー。距離感の演出が絶妙だ。アニメ的に絵コンテに起こせる映画。

 

〇『心の指紋』('96)

ディア・ハンター』を撮ったマイケル・チミノの遺作。

凶悪犯で末期癌余命一ヶ月のアメリカインディアンの少年が、担当の白人エリート医者を人質に取ってナバホ族の聖地を目指す。その過程で心が通じ合うという、ロードムービー。という説明だけで分かるけどとにかく色々と属性詰め込んでていやいやこんなん泣くでしょって感じなのだが、チミノの演出はこのドラマに全力で説得力持たせようとしてて素晴らしい。あのオチを使ったのは英断だと思う。あとアリゾナの荒野がすごく美しく撮られてる。Netflixで見れる。

 

〇『裸の銃を持つ男』('88)

これはtwitterで誰かが感想呟いてて見ようと思ったのかな。大筋のストーリーは大したことないが、個々のシーンがめちゃくちゃ笑えるシチュエーションコメディ。無類の面白さのコント集だった。ピンマイク付けっぱなしだったせいでトイレに行ったときの音声が大音量で実況されるギャグが好きだった。Netflixで見れる。

 

『スクリーム』('96)

メタホラースリラー。ホラー映画マニアの高校生たちが、ホラー映画のお約束とかベタなネタを劇中で話すのだが、その「お約束」に準える形で猟奇殺人事件が行われていく。メタ映画なのだが、メタの水準が観客の「次の展開はこうなるんじゃないか」という期待と、映画の作劇との間に起こっているので、映画の展開と観客との間で駆け引きが起こっている。すこぶる面白かった。ホラーって本来すごく理知的なものだということが分かる。Netflixで見れる。

 

〇『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』('81)

エクソシスト』の原作者で有名なブラッティの、二本しかない映画監督作のうちの一つ。

ベトナム戦争PTSDで精神に異常を来した者たちが隔離されている精神病院に、軍医が派遣されてくるところから話が始まる。中盤までは観念的な議論や台詞も多いし、いかにも小説家の作った映画だなという気がするのだけど、後半の展開であっと言わされて最後には感動してしまった。個々の小さなエピソードが後半に活きてくる作劇って好きかもしれない。

 

『ある子供』('05)

ダルデンヌ兄弟の映画はこれまで4本ほど見てるけど、どれも傑作しかなくてどうなってるのかと思う。彼らの撮る映画は、イタリアのネオレアリズモ(市井の人々に焦点を当て、演出的な作為を廃したドキュメント感や不条理な筋書き)を現代的にやっているようなところがあるけど、これはストーリーも含め凄く『自転車泥棒』を彷彿とさせる映画。ひったくりのシーンが物凄かった。

若いカップルが子供を産んで、でも男の方が倫理観クソなので彼女に隠れて子供を売人に売っちゃうんだけど、彼女がめっちゃ怒ったので赤ちゃん取り返して来ましたみたいな話なので、人によっては胸糞だと思う。単純に話でいえば『サンドラの週末』の方が好き。

 

〇『アルカトラズからの脱出』('79)

これは本当にすごい緊迫感の脱獄映画で、傑作だった。これほどドラマも描写もしっかりしてる脱獄映画って他にほとんどないと思う。Netflixで見れる。

ドン・シーゲルって監督として何かやる気ない人なのかなってイメージが勝手にあって、というのも、『ダーティハリー』を監督したときにシーゲルがやる気なかったからイーストウッドが実際には半分以上のシーンを演出してて、実質的にイーストウッドとの共同監督みたいな状態だったらしい。それを聞いてたのであんまり良いイメージなかったのだけど、これとか『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』('56)とか見るとすごく緻密に作ってあるので、もっと他にも見なきゃなあと思いました。

という感じの10本でした。2017年は人から励ましを受けることもままあったし、2018年はもっと頑張りたいと思います。

 

あと「こみっく☆トレジャー312018年1月21日(日)というイベントで、漫画の同人誌を出せれば出す予定です。今から作業して間に合えばですが。また告知とかするかもしれませんが、よろしくお願いします。気が向いたら買ってください。