highland's diary

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映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にインスピレーションを与えたカートゥーン

 
※映画内容に関する大幅なネタバレを含みます
ダンサー・イン・ザ・ダーク(Blu-ray Disc)

ダンサー・イン・ザ・ダーク(Blu-ray Disc)

 

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は2000年公開のデンマーク映画、ラース・フォン・トリアーが監督しアイスランドのシンガーソングライターであるビョークが主演を務めた上で劇中の音楽を担当し、話題になりました。

アメリカを舞台に、生れつきの病気により徐々に視力を失っていくチェコ移民のシングルマザー(ビョーク)を主人公に据え、遺伝により13歳で手術をしなければいずれ失明してしまう息子を救うため彼女が悲劇に陥っていく様を描いたこの映画においては、現実の場面と、病気によりまた元来の夢見がちな性質により、白昼夢に陥った主人公の夢想の場面との二つの場面が並行して描かれています。
 
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現実の場面は彼女の覚束ない視界を再現したようなハンディカメラ撮影による手ブレ感ある画面で、色褪せたセピア調のトーン。また、彼女の不安定な意識の再現というのもあってかジャンプカットを多用したドキュメンタリー風の進行です。
 
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一方で、夢想の場面においては彼女の内面を表すように一変して華やかな色調の画面になり、デジタルの固定カメラの切り替えで、そのシーンにおけるリアリティを超越したミュージカルが展開されます。ミュージカル場面においても登場人物の服装が変わったり新たな小道具が加わるわけではなくあくまでそこになるありものを用い展開されますが(それは彼女の意識があくまでその場を起点として生じているからですが)、彼女はそれまでに見聞きしたミュージカル映画や音楽からサンプリングしたものと、その場における物音とを自由に組み合わせてそこに音楽を創造していきます。
無実の殺人容疑をかけられ、死刑を宣告され段々と悲劇的な状況に追い込まれていく残酷な現実と、美しく色鮮やかな夢想の場面とが対比され話は進行していきますが、最後の場面、彼女が処刑台に立たされる段になって彼女の処刑を前に集まった観衆(彼女を心配して集まった友人達もいる)を前に、彼女は映画においてそれまで並行して進行していた二つの場面が合わさったかのように、直接現実の舞台(処刑台)の上で聴衆にミュージカルソングで歌いかけます。
 
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この場面は現実の場面として描かれますが、それまでのジャンプカット進行が排されアップでじっくりと顔を映し、決定的な処刑の場面、そして訴えかけるようなラスト、エンディングに繋がっていきます。
この映画のプロットに影響を与えたカートゥーン作品があるらしいというのが監督であるトリアーの口から語られています。
セルマの処刑、そして失明は、作品のメロドラマ的な側面だ。ビョークに送った最初の脚本にはセルマの失明という設定は盛り込まれていなかった。だが、そのあとで私はとてもよくできたアニメを見る機会に恵まれた。1930年代に作られたワーナー・ブラザーズの作品で、ある警察官が人形を見つけ、恋仲にある女性の娘にプレゼントする。幼い少女は階段に座ってその人形で遊んでいるが、ふとした拍子にそれを落とす。すると少女は下を見ることなく手で辺りを探り、それを拾い上げるのだ。たったそれだけのことで観客はその少女が盲目であることが分かる。洗練されたすばらしい描写だった。

少女は母親の顔も街の様子も見ることなく、さまざまな音に囲まれて暮らしているという設定は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のそれに近いものがあった。少女の空想の中で人形は生命を持った存在となり、少女を連れて世の中を見て回る。少女は地下鉄の騒音からジェットコースターを連想し、ニューヨークのスラム街に咲き乱れる花園を作り出す。そして母親の顔をイメージするのだ。見る者の涙を誘う美しい作品だった。

(Interview  ラース・フォン・トリアーダンサー・イン・ザ・ダーク』より)

ここで監督のトリアーが言っているアニメ作品は、"The Enchanted Square (1947)"というファイマス・スタジオ制作のカートゥーン作品で間違いないと思われます(フェイマス・スタジオは1930年代を通じてディズニー社最大のライバルだったフライシャー・スタジオの後身となる会社)。ワーナーではなくパラマウントの配給、'30年代ではなく'40年代の作品ですが、筋が非常に似通っているのでほぼ間違いありません。パブリックドメインになっているのでリンクを貼っておきます。

archive.org

詳しくはこの記事でも紹介されていますが、日本でも雑貨や絵本などでポピュラーなキャラクターであるラガディ・アン人形(下画像はラガディ・アン&アンディで、左側がアンで右側が弟のアンディ)が登場するカートゥーンとして三本目に作られたものです。

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リンク先の記事では筋が紹介されているので参照すれば英語が分からなくても鑑賞できます。それで、この作品を実際確認してみると、

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なるほど、「すると少女は下を見ることなく手で辺りを探り、それを拾い上げるのだ。たったそれだけのことで観客はその少女が盲目であることが分かる」との言葉通り、この描写だけでこの少女が盲目であることの説明になっています。事実、この作品においてはこの描写以外は一言も彼女が"blind(盲目)"であるとの説明は入りません。台詞ではなく仕草で語る、まさに「洗練された描写」と言えます。

「優れた作画(=animation)はそれ一片だけでもインスピレーションを与える」というように、アニメーションは演技も現実そのままの模写ではなく誇張したいものを取り分けそれと捉えて描くわけですから、自然主義的な演技であってもそれはある種また現実のそれとは違った形で鮮明な印象を残すこともあるのだと思います。

何というか、今回の記事は「フライシャー・スタジオのアニメがこんな所にも影響を与えていた!」というのを発見したということでそれを指摘するだけのような内容なんですが、このカートゥーンが魅力的なのでそれについても書こうという趣旨です。

この作品自体、音から生じる空想の世界を色鮮やかに描いた一片として優れており、想像力の美しさを描き、現実世界では人形のような目として描かれる盲目の少女ビリーの眼に空想の世界では瞳孔が生じているなど、現実の場面と対置する形になっており『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に繋がっている点もあります。しかし何より、この作品は単体で見て優れているし、独立して鑑賞されるべきでしょう。最後に警察官が残す、少女の想像力を肯定するセリフである、
「顔に付いている眼で見る者もいる。そして心の眼で物を見る者だっているんだ」
"There's some who see with the eyes in their head, and there's some who see with the eyes in their heart."

という言葉も胸に残ります。映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の脚本には「結果的に間違った選択を続けその無垢さ/献身さ故に受難者となってしまう女性」というややサディスティックな側面があるのに対しそのようなイヤミが感じられないというのもこういった作品の良さでしょう。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を見た後は、その元に影響を与えたこの小品を鑑賞するのもいいのではないでしょうか。

この「魅惑の街角」"The Enchanted Square"(1947)はラガディ・アン人形が登場するカートゥーン作品としては三本目にあたりますが、一本目・二本目はともにフライシャー・スタジオの作品で、特に一本目はデイブ・フライシャー(フライシャー兄弟の弟の方)の監督作品です。

「魅惑の街角」とスタッフの多くが共通しているらしい"Suddenly It's Spring"はアニメーションのスタイルとしても似通っています。デイブ・フライシャーの"Raggedy Ann and Raggedy Andy"は「ラガディ・アン&アンディ」人形の誕生秘話とでも呼ぶべき話で、二人が造られ名づけられる過程も描いており、これも傑作です。人形が魂(anima)を吹き込まれ動き出す(motion)というモチーフは静止画の連なりからアニメーションが生起するのと歩調を同じくしているようでもありますね。

この二作品も合わせて鑑賞されるとよりキャラクターやカートゥーンへの愛着も深まり望ましいのではないかと思います。

「二つのお人形」"Raggedy Ann and Raggedy Andy"(1941)

https://archive.org/details/RaggedyAnnAndAndy

「人形の願い」 "Suddenly It's Spring"(1944)

https://archive.org/details/Cartoontheater1930sAnd1950s1

 次はできればまた近い内に(日本の)TVアニメに関して書きたいと思います。感想記事ばっかじゃなくてたまには考察系も書きたいですね。

 

(追記)2014.12.5

(以下蛇足)

映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』についても少し。「息子を思い立ち回ったところ、結果的に間違った選択を続けその無垢さ/献身さ故に受難者となってしまう女性というモデル」はやや脚本のサディスティックな部分で好き嫌いが分かれるでしょうが、冷酷の場面に際しては想像力の美しさで抗い「映画のラストは留保される」というあのエンディングに繋がるのは一つ観客にメッセージ性を託す上では効果的でしょうね。映画の直接的なテーマ性としては死刑制度への批判やチェコ(東欧)の共産主義と対比される形でのアメリカ批判なども乗っかっているのでしょうけど、あくまで想像力の持つ美しさを描き出した作品として評価したいです。

トリアーが採用している「ドグマ95」の撮影技法については、正直なところあまり上手く行っているとは思いません。記事を書くにあたってミュージカルシーンのキャプチャを取ろうとしたのですが、セルマがちゃんと映っているカットが少ないんですね。ミュージカルをちゃんと見せるという意図であれば、不適切な技法を選択していると思います。これはこれで映画として成立していたので良いんですけど、ビョークの音楽に助けられてる部分は大きいなあと思います。