highland's diary

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『ヤミと帽子と本の旅人』と『セラフィムコール』

※この記事は両作品についてのネタバレを含みます。

 

数週間ほど前に、百合アニメ『ヤミと帽子と本の旅人』('03)を再見する機会があった。16歳の誕生日に突如として異世界に消えてしまった姉・初美を探し求め、「図書館世界」の管理人・リリスと共にさまざまな本の世界(異世界)を旅して回る妹・葉月を主人公に据えた冒険譚である。

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DVD第1巻の表紙絵(『ヤミと帽子と本の旅人VISUAL COLLECTION』所収、西田亜沙子さんの版権イラスト)

 

この作品は、いわゆる「時系列シャッフル」の構成をとっていることで知られている。例えば第1話の序盤で葉月は初美を追って異世界へ旅立っていくが、向かった先の「図書館世界」が出て来るのは第3話になってからであり、第1話の残りと第2話では、時間軸が後の方にある別の世界(「夜行列車の世界」)での話が語られる。また、葉月と初美との関係は第1話序盤では詳しく描かれず、第7話になって初めて、第1話以前の現実世界での二人のストーリーが明かされるようになっている。

事態の進行は直線的には語られず、時系列や場所のバラバラなシーンを視聴者は行き来し、終盤に至って初めて事態の全貌が掴めるようになる、というわけである。

今回ほぼ5年振りに本作を見返したのだけれど、改めて見てみるとそれほど難解な構成ではないなと感じた。葉月とリリスが行き来する個々の世界のストーリー(「竹取物語の世界」や「宇宙移民船の世界」など)はほぼ順序立てて語られるし、実際にバラバラになっているのは主にガルガンチュアをはじめとする錬金術師の世界の話(これは遠い過去から現在まで続いている)と、葉月と初美の現代世界での話である。見ている最中にこれらを脳内で再構成できれば特に支障はないだろう。意外にとっつきやすいように作られているのかもしれない*1

 

さて、大部分が数多のファンタジー世界でストーリーが展開される本作において、現代世界のパートは姉が旅立っていく第1話のAパート及び、第1話以前の二人のストーリーが回想される第7話、そして旅から戻った後の世界における葉月を主に描く最終話である。

最終話においては、異世界への旅から現世に戻って来たものの、結局再会した初美と添い遂げることは叶わなかったため、一人残されてしまった葉月の姿が描かれる。初美は真の姿であるイブ(図書館世界の管理人)へと還り、葉月と共に育った世界を含む数多の物語世界から自分の痕跡を消してしまった。

今回最終話を見ていて少し驚いたのは新規カットの少なさである。

図書館世界における管理人・イブとリリスのシーンも合間に入っているけれど、現実世界での葉月や初美の描写は第1話・第7話の映像を反復として取り入れている。

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第7話(過去に二人が過ごした時間)における、初美のホットケーキを葉月が食べるやり取りや、プールサイドでの交流。

図書館世界のイブによれば(旅を終えた後の)葉月は元いた世界に戻っておらず、別の分岐の世界に入っているようである。そのなかで葉月は過去の現実世界での出来事と同様の交流を初美と交わしている。それと同時に、葉月の中でそれらの記憶がリフレインしているという描写でもある。

以上のこれらのシーンは第7話とほとんど同じ流れである。

 

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そして時間軸は第1話の冒頭に戻って来る。深夜、初美の部屋に向かう葉月。第1話では時系列を細かく交錯させて描かれた回想がここでは時間軸通りに描かれ(1日前の出来事、1時間前の出来事…)、そして初美の16歳の誕生日が再び訪れる。

 

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葉月が寝ている初美にキスをしようとする(「PM11:59」という時計の表示)、ここまでほぼ全く同じカットが続いている。第1話ではこのタイミングでちょうど24時になり、16歳の誕生日を迎えた初美がそこで旅立って行くために接吻は叶わなかったのだが、

 

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最終話のここで初めて流れが変わり、初美は旅立って行かず、その先の二人が描かれる。葉月と一夜限りの逢瀬を交わすために、イブが再び初美として訪れたのである。

初美がここでまた旅立って行けば以前に起こった通りにことが運び、葉月は初美を忘れられず追い続けてしまうが、イブの介入により周回は回避され、そこで葉月の思いははじめて遂げられるのだ。

これまでの過去の描写のリフレインは、初美に未練を残した葉月を描くと同時に、この展開を引っ張り、変化をドラマチックに際立たせるためだったのである。

何と美学を感じさせる流用カットの使い方だろうか。時系列シャッフルの構成はこれがやりたいための方便だったのではないかと思えるほどである。

 

セラフィムコール

さて、ここで私が連想したのは、『ヤミ帽』でシリーズ構成および現代世界パートでの脚本を手掛けた望月智充さんが監督した『セラフィムコール』('99)の第5話「村雨紫苑〜夢の中の妹へ〜」及び第6話「村雨桜〜愛の中の姉へ〜」である。同作品は一話ずつ、それぞれ別のヒロインが主人公となる1クールのオムニバス美少女アニメであり、この二話分では双子姉妹の姉・妹がそれぞれフィーチャーされる。

 

この第5話と第6話はほぼ全く同じ映像を使っており、同一のカットを使いながら二人の声優がアフレコをし直すことで、姉妹双方の視点を巧みに切り替えてみせた。第5話、第6話ともに脚本:坂本郷*2、絵コンテ:望月智充

 

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 姉妹のうち吊り目な方が姉の紫苑で、垂れ目な方が妹の桜である。

 

一心同体な二人が、あることによって互いの関係に綻びが生じたのを機に、「仮想空間を構築し、その中で他者の身体に入って心身ともにその人になり切ることができるシミュレーションマシン」をそれぞれ使い互いに相手の真意を探ろうとするストーリーであり、それを同一の映像・同一の展開の中で二通りに実現させている。

双子姉妹の百合を表現するのにこれ以上の方法があるだろうか。

 一応種明かしとしては、二人が相手の人格に入り込むパートでは、シークエンスの順番を切り替え、あるいは同じ映像を使ったシーンでもモノローグの内容を変えることで別の視点から物語を語っている。

このような発想でストーリーを構成したTVアニメはさほど類例が見当たらず、その意味でも記憶さるべき話数であると思う。

 

カット流用は、『ヤミ帽』の場合はそれによって再現を表したり反復を作劇に活かすためであり、『セラフィム』の場合は二人の同一性を表現するためのものなので意味合いとしては異なるけれど、いずれにおいても映像単位で同じシーンを繰り返し呈示することを作劇に上手く取り入れており、発想としては通底するところがあるなと思う(また、奇しくも双方ともに姉妹百合でもある)。

 

 『ヤミ帽』及び、その後に望月さんがシリーズ構成・脚本を手掛ける『桃華月憚』における時系列シャッフルの手法は『セラフィムコール』の第4話*3から始まったというのは既に指摘されており、慶応大SF研の人が出した、望月さんへのインタビュー記事が掲載されている同人誌*4でもそういった話がなされていたと思うのだけれど、今回『ヤミ帽』を見て自分が連想したのは『セラフィムコール』第5話および第6話の手法なのでした。

 

桃華月憚

セラフィムコール』『ヤミ帽』とこれまで言及してきた以上、『桃華月憚』('07)についても触れなければならないだろうと思う。

 

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桃華月憚』は世界観としては日本神話を題材にとっており、神話が息づく古の土地「上津未原」およびそこに作られた桃歌台学園が主な舞台。その地を支配する豪族の一族や、学園を牛耳るソサエティや生徒会を巻き込み、神話的な宿命に翻弄されるキャラクターたちを描いた幻想的な物語である。

といっても物語の比較的多くの部分を占めるのは不条理ギャグやラブコメのような戯れであったりする。

そして『桃華月憚』は『ヤミ帽』と同じくORBITのアダルトゲームが原作、「監督:山口祐司、シリーズ構成:望月智充、キャラデザ&総作監西田亜沙子、音楽:多田彰文、制作:スタジオディーン」とアニメのメインスタッフもほぼ共通している作品である。

 原作およびスタッフが共通することを活かしてか、『ヤミ帽』とのコラボ回もある。『ヤミ帽』はメタ物語でありその中にいくつもの世界を内包できるという便利さがあるので、「『桃華月憚』の世界にやってくる」という展開も可能なのだ。 

第14話「旅」がそれに当たり、『桃華月憚』キャラと合わせて『ヤミ帽』キャラが総出演したスペシャルな回である。個人的にもこういうクロスオーバーは大好きである。

 

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脚本・コンテ・作画監督ともに元『ヤミ帽』のスタッフであるほか、BGMも『ヤミ帽』のものをそのまま持ってくるという念の入れよう。

こちらでもやはり一途に初美を追い求める葉月の姿が描かれた。実世界の時間軸ではおよそ4年越しに、初美を探し求める葉月の姿が描かれたことになる。

 

さて、『桃華月憚』の際立って特徴的な点として、2クールの作品であるが、『ヤミ帽』の「時系列シャッフル」のコンセプトを更に極端な形に突き詰め、「逆再生」をストーリー構成のコンセプトにしていた。

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「逆再生」コンセプトを図示すると以上のような感じになる(厳密にはこの通りではない話数もある)。

 

最終話から第1話へと、話数単位で時間軸が遡っていくのである。つまり放送第1話がストーリー上の最終話であり、放送の最終話が物語の第1話目となっている。

ポイントは、シーン単位ではなくあくまでエピソード単位で逆順になっているということで、これは単に因果関係が逆であるというのに留まらない。通常のアニメであれば話数の最後と次の話数の最初とが繋がっているのでスムーズに鑑賞できるが、「逆再生」アニメの場合は、2話分ストーリーを過去に遡った状態で次の話数がスタートするため、見ながら情報を整理しないとこんがらがってしまう。

たとえば、あるキャラがどうしてそういう状況に陥っているのか、次の話数で原因が明らかになるかと思いきや明かされなかったりするので、情報をその都度整理していかないといけない。

そのような感じで考えて見ていても、2クールの最終話(物語の最初)に辿り着く頃には、よく分からないままに見た最初数話(クライマックス)の細部は忘れてしまっており、物語の帰結がストーリーの最初から見てどうであったのか、辿り直すことも難しい。

ちょっと考えてもストーリーの全貌を掴むのは『ヤミ帽』と比べても数段は難しく、また、その構成の妙からエモーショナルな気持ちを体感するのも中々ハードルが高いことは想像が付くだろう。

(いくらかあるメリットとしては、ある話数で出てきたキャラで、これまでの話数で出てこなかったキャラは、登場時点で「このキャラはここで退場するのだな」と分かったりする。)

また、であればDVDで最初から逆順に見ていけばちゃんと理解できると考えられるかもしれない。しかしこのシリーズは「逆再生」であるにも関わらず、第25話の総集編などが示す通り、あくまで順番に鑑賞されるように作られているのだ。

ではこのアニメが提供する視聴体験が失敗しているかというと、決してそういう訳でもない。

本作の第1話であり最終話でもある第1話「桜」では、季節の桜や陽光のモチーフに託し、キャラクターが辿る別れと出会いをエモーショナルに描いてみせた。この1話の演出的ボルテージは凄まじく、ストーリーのことは何も知らない状態でも自然と涙を誘われてしまう。

 

 第一話「桜」脚本:望月智充、絵コンテ:山口祐司

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 キャラクターが宿命的に辿る末路は序盤の数話において示されており、やがては互いに別れを告げ、消えてしまうこの地におけるキャラクターたちの戯れには常にどこか悲劇的な匂いが付きまとう。最初の数話は「キャラクターたちは全貌を知っているのに視聴者は何も知らない」といった状態が続くためやや厳しいのだが、見ていくうちに、背景は分からないままでもこの雰囲気やキャラクターのことを好きになっていることに気付くだろう。

そして時が一巡し最終話であり第1話でもある第26話を迎える。キャラクターたちは今度は何も知らない状態であり、これから仲良くなるキャラクターたちの出会いや誕生、始まりの予感が淡々と描かれていく。そのあまりに素朴な出来に驚かされると同時に、これが正しく始まりであったことに対しては深い納得の念が抱かれる。そして何より、最初であり最後のシーンはあまりに切なすぎます。

これらのエモーションは逆再生でなければ得難いものであり、本作に無二の魅力を感じる人がいるのも分かる。

本作においてもやはり、映像それ自体というよりはその組み合わせや構成を捻ったものにすることで特殊な演出効果を生み出しており、望月さんの『セラフィムコール』『ヤミと帽子と本の旅人』と同じ系譜に位置づけられる作品と言えるだろう。

 

まとめ 

 『セラフィムコール』のシリーズにおいて試みた数々の実験から『ヤミと帽子と本の旅人』の時系列シャッフルの手法に辿り着き、『桃華月憚』の逆再生に至って極まる望月さんのストーリー構成の技巧は、その実験精神がストーリーに確かに寄与しているところがあった。そしてそれはアニメーションの表現それ自体の革新というよりは、語りの手法の先鋭化であったと言える。

そしてそれが俗っぽい美少女アニメやキャラクターの百合的な関係性において展開されたことや、ラブコメや不条理ギャグ、パロディ、アイロニーといった戯れを多分に含んでいたことが、美少女アニメでよければ比較的何でも許されたゆるい時代のムードも感じさせ、独特の魅力を放っているように感じます。

思い起こせば、最初に『セラフィムコール』のことを知ったのはturnxさん(現マルドロールちゃんさん)のブログであり、『桃華月憚』のことを知ったのは『カオスアニメ大全』での有村悠さんのレビュー記事だったように思います。そのときから年月は流れたなと感じる一方で、問題意識が10年前で錆びついているとは思われないようにやって行かないといけないな、と思いを新たにしています。

望月さんは次は『推しが武道館行ってくれたら~』のアニメに絵コンテで参加するみたいですね。平尾アウリ先生の漫画がどうアニメ化されるかはちょっと想像付かないですが、個人的にはやはり好きな演出家であり脚本家だなって思うので可能な限りは追い続けたいと思います。

 

 

*1:理解していると錯覚しているだけかもしれない。我々がタランティーノやノーランのおかげでそのような構成に適応させられているせいかもしれない。

*2:望月さんの変名。

*3:過去回想シーンの中で更に回想が入って…という具合に過去と現在の時間軸を交錯させることで、実際には大したことは起こっていないにも拘わらずただならぬ雰囲気を演出するという回だった。

*4:こちらで告知が掲載されている。 https://rtbru.hatenadiary.org/entry/40000728/1375019339 残念ながら紛失したので現在手元にない。