highland's diary

一年で12記事目標にします。

『天気の子』(2019)初見時メモ

※ネタバレ有。

・出のショットは雨降る東京の空模様、街並みの全景からのクレーン降下、そしてモーションコントロールカメラのようなトラックバックからの窓ガラス打ち抜き、ヒロインの横顔が窓ガラスに反射した鏡像→実像を順に映す。ヒロインの登場シーンが虚像から映されるという非常に象徴的な使い方をしており、テーマに対する意識を感じさせ、同時に、1カット目からいきなりトラッキングショットに鏡像演出をぶちかましてくるという新海誠さんの演出家としての成熟をそこに見て取れるように感じられる。そもそも明確に演出意図を反映した形でこうしたショット群を配置するというのは以前には控えめであったことで、客観的な目線から風景や芝居を捉えるというエクスキューズを利かせていたのが、カメラ位置を含めて、前作に引き続き「照れ」が払拭され、吹っ切れていくような快さを感じられる映画になっていると思う。
ところで、オープニングシーンにおいては、主人公のモノローグでもって、過去の陽菜の行動が説明されており、「あの日、僕たちは世界の姿を決定的に変えてしまった…」のモノローグと同時にタイトルが出るのだが、後からそのシーンの回想が再度入る箇所で起こったことの説明があるし、また、後から分かるような内容のことしか言っていないのでこのアバンのモノローグは思い切って削って欲しかった!と、『リズ青』の台詞無しに紡がれるオープニングを思い出すにつけても感じてしまう(補助線を引いて分かりやすい作りにはなっているが)。
前作で結構変わったけれど、今作にいたって従来の新海さんのイメージはいよいよ積極的に払拭されてきている、という風に感じさせるのが、タイトル終わりに続く主人公が東京に来るシーンで、最初に映るのが新宿歌舞伎町の猥雑な街並みであるというセレクトである。美しくないものを徹底的に画面から排除してかかる手つきの前作までの新海誠に慣れ親しんだ層からすれば、これは明らかな挑発と感じられるはずだ。これまでの新海作品で出て来たような西新宿の街並み(都市開発のシミュレーション映像みたいな表現)ではなく、それこそ『CITY HUNTER』の舞台として出て来るような、東新宿の、猥雑な生活感ある街並みからこの映画の都市描写は開始される。それは都市全体に食い込むような描写を丸々引き受けるということでもあり、そのリアルに東京でロケハンしたような作りからの、エピローグで思い切りよく水没させることのカタルシスを生じさせている。


・視聴体験としては、そのどうにもリアルに過ぎる絵作りから、新海誠作品の映画内リアリティと現実世界との関係は、もう自分の好みやフェチにあまりフィットしないところまで行ってしまったと感じてしまったのだが(あそこまでリアルに近づけるとこれから先にあまり希望が持てない)、なので、最後にSF的風景に着地したという点には納得が行き、新海誠の次回作は案外こういった風景から始まるのかもしれないな、と後から妄想が膨らんだりもしました。


・これまでに出てこなかったようなものが出てきたりという点でいうと、ロケーションや生々しさのある乱闘シーンといったもの以外にも、例えばヤクザの落とした銃を主人公が「偶然に」拾うという展開である。こうした、フィクション性の強い、偶然性のある出来事をあえて起こし、それに続き主人公にヒロイックな行動を起こさせるというのはこれまでの私小説的な作りでは成し得ないことであり、以前まではそもそも、そういうシチュエーションを作っていなかった。事件性の導入にためらいがなくなったことで、主人公が最初に足を踏み出してヒロインを助けるという導入が可能になっており、フィクションの側により歩み寄っていることを感じさせる。


・主人公が拾った拳銃を取り出すのは映画開始20分くらいのところであるけど、ここで一度威嚇のために撃ったと思いきやその後すぐ廃ビルの踊り場に投げ捨て、後のクライマックスのシーンでは再びその場所で落ちてた銃を拾って再度使用している。RPGのアイテム並みに都合のいい拳銃の使い方をしているのは端的に言って良くないが(最初に拾ったことでそれで警官に追い回される、後から取り出して発砲する)、個人的には、拳銃の駆け引きが出てきたところでそれまで間延びしていた画面に一気に緊張感が出て来たところあると感じるため、そういう要素を出すこと自体には価値があると思う。
直近だと『グリーンブック』も退屈な会話劇と思わせておいて最初に銃の駆け引きをするあたりから緊張感が出てきたのだけど、やはり自意識の問題にとどまらず命の駆け引きをさせるというのは映画では重要なのだなと。「拳銃も出てこないような映画は見たいと思わない」と押井守も言っていたと思う。


・主人公二人の選択により、三年後、世界の姿が変わってしまっているのだけれど、そこに痛みはない。
二人が記憶や繋がりを失いながらも最終的には巡り合えた『君の名は。』からも抜け出て、最後には二人はそのままの思いや記憶を保っており、何の衒いもなく交われるのだなと感じた(ただしそれは、そこから希望が生まれるなどという安易なものではないというのが重要であるのだが)。
しかし三年という年月を間に持たせるあたりでまだ節度を感じさせるところではある。

前作は秒速5センチメートルの(仕切り直しという)要素が入ったけれど、今作は、主人公が突きつけられる選択を含め、『雲の向こう』につながるような要素もあった。

『雲のむこう~』のラストではヒロインは記憶を失いたくないが失ってしまい、約束の地も永遠に失われる。主人公はヒロインを抱きしめるのでそれっぽく締めており思わず誤魔化されそうになるが、実際には何も解決していない。実際映画序盤のシーン(ラストのその後)では主人公がそもそも一人で、隣には誰もいない。

『雲のむこう~』やその他のセカイ系作品群においてはヒロインが失われたところで、終わっており(あとから、失われたもの/死んだヒロインに主人公は感感傷的になる)、主人公のナレーションで片が付けられるが、天気の子では足を踏み出して救い出すところが変化となっている。

主人公二人の選択が世界を犠牲にしてでも相手を救うことを選んだ!ということそれ自体よりも、変わったのちの世界において、須賀から「世界なんてどうせ、もとから狂っているんだから。」と言われ、過去に追った選択によって世界が変わったことが夢のような話として否定されてもなお、「やはり僕たちは確かに世界の形を変えてしまったんだ」と過去の選択を積極的に肯定し、その決断に至った想いを忘れ去ろうとしないというところが真に感動的であり、このようなものが見れて良かったと思う。


・主人公くんの島でのバックグラウンドや「帰りたくないんだ…」のトラウマが描かれないのは好ましい。
これについては『君の名は。』で三葉の父親のバックグラウンドの大胆な省略を行っていたが、描いても大して面白い描写にならないよう/説明でしかないよう描写は削っていいという確信が前作で持てたのではないかと思う。
主人公は島では不幸ではないむしろ恵まれた生活をしていそうなくらいな高校生なのだけれど、それでも彼が家出をするに至ったトラウマは象徴的な絵を数カット映すことと、『ライ麦』を持ち歩いている描写だけであっさりと処理される。
特に『ライ麦』は象徴的であり、「高校生が感じる悩みはそういうものだよ」とどこか達観したような見方も感じられて驚かされる。というのも、従来の新海作品だとこうした自意識の問題をあくまで前面に出して取り扱っていたので、このような描き方はかなり意外でもあった。

・新海さんの「年の差」に対するフェチについて。
主人公とヒロインの「年の差」設定(というより展開)は『ほしのこえ』時から既にやっており、前作『君の名は。』においても大ネタとして活用されていたけれど、これまでは時間のズレから生じるシチュエーション自体への萌えからであった。
今回の「年の差」設定はSF的な仕掛けによるものではなく、物語の要請というよりは「そういう設定があると映えるから」「おいしいシチュエーションを作りたいから」と純粋にそういった理由で付けているように見える。
そもそも中学の姉と小学生の弟の二人だけで暮らせるのか?という疑問はどうしても生じるものの、「年下の子を護れてない自分の不甲斐なさを恥じる主人公」の美味しい絵を描きたいという動機の前にそうした疑問は雲散霧消するだろう。

そして主人公が島で高校を卒業すると同時に上京し、坂道でヒロインと再会したときに、主人公は大学生になっているがヒロインはまだ制服をきている。今作では「そういう絵を作りたい」という動機で設定を作っているように見えた。新海誠は紛れもないシチュエーションフェチの作家である。
(年の差が明かされるのはヒロインやキャラに意外性を持たせる試みの一環でもあるだろう)


・表現の大胆さ
250億円稼いだ映画の次作なので前作のキャラクターをてらいなく出すし(これまでもユキちゃん先生の『君の名は。』でのカメオ出演などはあったけれど、今作は滝君は特に長い。
何かスイカ切ったとか言ってるし)、ベスパに乗って出動する本田翼にカーチェイスなど、これ見よがしにアニメ的な要素も喜んで取り入れる。
クライマックスにかけては、宮崎アニメのようなモチーフも動員して絵の力を高めていたのが印象的だった。
主人公が崩れていく踊り場を駆け上っていくモチーフであったり、そして最後のヒロインを雲の上から救い出し手を繋いでからの落下は、『千と千尋』!(あれは『ef -the latter tale』OPではなく宮崎アニメ的表象でしょうと思う)


・時間配分についてメモ
上映時間110分ほど(108分くらいから黒幕エンドロール?)を4幕に分けると、

第一幕が入るポイントが二人が廃ビルの屋上、鳥居の横で互いに名乗って握手するところ。

第二幕のポイントは、須賀の娘たちと遊んだ帰り道、二人が田端の坂道を歩いているとき、空になって透けていく陽菜の秘密が分かるところ。

第三幕のポイントは、陽菜がホテルで朝消えてしまうところではなく、陽菜が空に消えたと落ちて来た指輪で知り、連行されていった警察署から逃げ、陽菜を取り戻すために走り出すところ。

で導入からクライマックスまで、教科書的に綺麗な配分がなされている。

ボーカル付き楽曲は全5曲あるが、前半のライター仕事のバイトシーンと晴れ女バイトのシーン(開始40分あたり)で1曲ずつ、クライマックスに2曲続けて、そして(エンドロール入り前の)エンドクレジットに1曲という編成。

・第一幕過ぎるあたりまで、プロダクトプレースメントと、ミュージックビデオの性急な編集(モノローグが詩になってたりするとこも含め)がやたらと目についたので、新海誠さんのCMとMVのパッチワークを見せられているような気分になった。これについては、新海さん自身が様々な仕事を請け負っていることのメリットを感じさせると思う。
そういえば『秒速5センチメートル』もコンビニ内の再現がとてもつもなくリアルだったが、特定の商品やブランドとコラボすることはほぼなかった。リアルさの追求と、コスト面の問題、設定制作において1からオリジナルで設定作った食べ物を出すことの手間を考えた際に、最初からコラボして商品を出すといった試みが有効であったのだろうと思われる。スポンサー推しもそうだが、外部からの引用の多さも目立つ。


・新海さん前作までは画面の最終チェックまでやって自分で色彩設計や撮影を直したりしていたけど今作からはそれはやめて監督業に専念した、と仰っていたけれどそれは映画の作りにも出ているなと感じます。一枚一枚の絵や背景美術に対する異常なまでのこだわりは後退し、編集で見せるような作りになっている。


・上手いと思ったシーン

・陽菜が去って嵐が去ったのち、須賀のオフィスの窓ガラスを開けた所で水が入って来る→自分の会えなくなっている子供の背の高さを記録していたところに水位が重なる。
・ホテルにて陽菜が浴衣を脱いで透けていく身体を見せるところは見る者にエロスを掻き立て、主人公と同時に観客にも見たいと本能的に思わせるが同時に存在の儚さを突きつける。


・総じての印象は、川村元気さんがプロデュースしているだけあって、口当たりの良い青春日本映画〜って感じでした(若い人が見てもこのノリはわかりやすい)。
拾われない伏線とか、背景描写の曖昧さとかに結構?となる部分もあるんだけれど、モチーフの連鎖でエモーションを高めていって、一気呵成の勢いで畳みかける。終盤はノンストップで振り切っていくので快感が強い。
後半のドラマが最も高まるシーンで必ず雄大で良い画を持って来るので、吊り橋効果によって観客を恋への同調に呼び込んでいるような、騙されたような感じは強いが、それも含めてテクニックであるだろう。
前作よりもプロットは整理されており分かりやすくて、感覚的に訴えかけるような作りになっている。こちらに筋の考察をさせるのではなく、映像の快楽で持っていこうとする意図が強く、そういう意味でのリピーターを増やそうとしているなと。
これまでやらなかったようなことをしたりこれまでは出さなかったようなものを出したりと、前作の要素を踏襲しつつ、これまでのイメージを払拭していく(作風を刷新していく)ところを感じさせるのだった。
2019/07/19 劇場にて鑑賞