highland's diary

一年で12記事目標にします。

映画『空の青さを知る人よ』(2019)雑感

・ファーストショット、画と言うよりくしゃみの「音」から映画が始まる(くしゃみのアップから全身のロングへの切り替え)。目を閉じてのベースの演奏に入れ込ませて他キャラの動作(ドアの開閉ショット等)、過去の回想カット、と音で繋いでいく(ライブシーンから木魚の切り替えの衝撃性)。現在に囚われず異なる時間軸、場所のカットが切り替わっていく、しっちゃかめっちゃかな編集(ここまでやるのは『トレイン・ミッション』以来?)
しかしそれらは主人公にとっての意味を持つもので、意識の流れによるものだというのが浮かび上がって来る。主人公がイヤホンジャックを外し、外部の音が入って来るタイミングでそのことが決定的になる。アバンタイトルの終わりにおいて、空のショットにカメラが上がり、『空の青さを知る人よ』のタイトル。
このアバンタイトルによって主人公のバックグランドを説明し、映画全体の象徴ともいえるシークエンスになっている。ここでまず100点!という感じなのだが、このアバンタイトルの使い方は新海誠を感じさせる(というか『君の名は。』)。
(というのも、新海誠の直近二作においては、冒頭のアバンタイトルにおいて映画の後の方のシーンを先取りして出しているんだけれど、このシーンってモノローグでも映像でも、ほとんど後のシーンを見れば分かるようなことしか言っていないので、本編の象徴や、予告編のような映像になっている。)
全体的にクライマックスでの走りや上昇、降下といった運動の取り入れ方など新海誠エッセンスを感じさせる映画だった。長井龍雪さんと新海誠さんは良い意味で触発し合っているのが伝わって来る。

・演出的には、室内を映す際に広角レンズのレイアウトを選択し、カメラが壁をぶち抜かないようなリアルなカメラ位置。
会話シーンでレイアウトに凝る。敷居を活用して区切った空間にキャラクターを配置することで意味性を持たせている。主人公の伸びやかでフェチを感じさせる芝居。特に脚部の自然な動作を強調。

岡田麿里さんは究極的には女性キャラの自意識にしか興味ないのでは?と思う。主人公の尖ったパーソナリティは良かった。修羅場を作ってそれに持って行くまでの手付きが個人的に好きなんだけど、今回はそこまでのあざとさや際どさはなくて抑制されていた。
ただ、しんのが最初に登場してそのことを主人公があか姉に伝えに行くシーンで、あか姉が作っているのがメンチカツで、ぐちゃぐちゃにかき混ぜている肉片が飛んで主人公の頬に付くシーンは最高。
(あと慎之介の追っかけをしていた女子高生は、結局それを口実にして主人公の方に近づきたかったようにしか見えなかったが、邪推だろうか。)

・最終的に慎之介としんのの男性キャラ二人は完全に蚊帳の外に置かれている(しんのの方もクライマックスになるまではずっと屋内で閉じ込められているし。)。結局のところ自身の夢の問題は自分で解決するしかないのだと思う。この題材であれば「慎之介が夢に向き合って立ち戻るまで」の過程に焦点化するストーリーになってもおかしくないのに、それをメインに据えずに、それを介して姉妹が互いに向ける想いとすれ違いを描いた作品になっている。そこがすごく現代的な様に思った。

・エンドロールで出て来る(その後を描いた)画は要らないという意見には全面的に同意するが、自分の場合どちらかというと「その後の話を自分たちで想像したかった」という理由。ただ、やはりそこまで作品内で描かないと気が済まない/そこまでやりたいというのが超平和バスターズの人たちなのだろうなと思う。

三本の指輪と拳銃、チョーカー、赤いリボン

 

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アイテムを活用した演出という観点から『天気の子』を整理してみたい。なお全て記憶で書いているので間違った記述があった場合は訂正します。

まず、『天気の子』で一番目立って使われたアイテムとしては一つは拳銃だろう。

 

拳銃

東京をさまよっていた帆高は風俗店の近くで拳銃を拾うが、拾った拳銃を最初に撃つのは映画開始20分くらいのところで、キャッチの男から陽菜を助けるために取った行動で、威嚇のために発砲する。しかしその後すぐ陽菜にその行動を非難され、拳銃を持つ手も震え、廃ビルの部屋の隅に投げ捨てる。

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そしてそれを機に、拳銃を発砲したことで刑事から追い回されるようになる。

クライマックスにおいて再び帆高は陽菜を取り戻すために立て壊されているビルに上るが、今度は立ちふさがっていた須賀を威嚇するために、以前投げ捨てたのと同一の場所にあった拳銃を拾って撃つ。次いで捕まえようとしてくる警官・刑事に対しても拳銃を向け威嚇し(三対一の構図)、投げ捨てて走ったところで一度警官に押し倒されている。

「拳銃を拾う」というフィクション性の強い、偶発性のある出来事をあえて起こし、それをもとに主人公にヒロイックな行動を取らせるというのがこれまでにない種の生々しさを持っている。

最初に撃ったときには突発的な衝動からわけも分からないまま撃ってしまったと言うに等しく、また、その強大で暴力的な力を引き受けるだけの覚悟や動機も持たないためにそれからすぐ投げ捨ててしまうが、後に拾ったときには大人たちに対抗するだけの明確な意志、覚悟を持っている。元々はやくざの遺失物として帆高に拾われ、警察といった社会の公権力に抗うアイテムとして使われるのがこの拳銃だ。

日時も経ってビルが立て壊されている最中なのに拳銃がたまたま同じ場所にあり、また、すぐ発砲できたというのもRPGのアイテムのようで何だか都合の良い使い方ではあるけれど、それはそれとして、拳銃はこの活劇における主人公の覚悟を象徴するようなアイテムになっていると思う。

 

チョーカー

チョーカーは一番最初に出て来るアイテムだ。

ファーストシーンで陽菜のいる病室において、病に伏している母親の手首につけられているのがこのチョーカーである。

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後に陽菜が再登場するときに、陽菜はこのチョーカーを首につけており、つまり母親のものが形見として陽菜に受け継がれていることが分かる。チョーカーには陽菜の瞳の色と同じ青い宝石が付いている。

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(厳密には、マクドナルドの制服を着て陽菜が再登場する際には首にチョーカーは着けておらず*1、その後水商売のバイトを勧誘されているシーンで初めてチョーカーを付けた姿が出る。これはマクドナルド店員の服飾規定のためというよりも陽菜が私服になっているタイミングで初めてチョーカーを見せたかったのではないだろうか。)

亡くなった陽菜の母親が陽菜と同じように天気の巫女であったのか、人柱になったのか、といったことは定かではないが、水玉のような宝石と相まって、母から受け継がれた天気の巫女としての業のようなものを感じさせる。

クライマックスで帆高が陽菜を地上に連れ戻した際、鳥居の前に倒れている二人の姿が映るが、ここで陽菜が首につけているチョーカーが割れている描写が1カット映っている。巫女として負った業から解放されたことの暗示だろうか。

そしてラストシーンで帆高が坂道で祈っている陽菜を見つけたときには、陽菜はチョーカーを付けていない姿である。

 

2本の指輪

最も多く画面にアップで映ったのはこの2本の指輪だろう。

脇役の須賀は左手の薬指に指輪を二つセットで付けている。初見時には分かりにくいと思われるけどこれは亡くなった妻の分も代わりに嵌めているという描写だろう。この2本の指輪は本作における須賀のストーリーを補強するような役割を果たしている。

須賀の指輪が目立って映るシーンは映画全体で7シーンある(逆にそれ以外のシーンではあまり映っていない)。

 

最初に映るのは、娘の萌花の引き渡しを交渉しているところでこの指輪を右手で触っている。ここは手がアップショットで映される。

作中で須賀がこの指輪を触る際は落ち着かなさげに、指輪を押し込むようにしている仕草が印象的だ。太めの指輪を2本同じ指にはめているとズレたり抜けてしまってもおかしくないためこの仕草が習慣になっているのではないだろうか。

同時に、亡くした妻のことを須賀はどこかで常に意識しているのだろう。

 

2回目は自室にて猫と共に一人きり、ライター仕事の交渉を電話でしていて失敗しているらしいシーン。

須賀は仕事のことでやけを起こしてが故か、思わず煙草に手が伸びてしまうが、そこで思いとどまってやめ、手に持った煙草を左手の中で折り曲げる。ここで薬指の指輪が映っている。

映画を見る限り須賀は右利きなので左手で煙草を吸うのはごく普通のことだろうけど、ここは須賀の主観ショットのように撮られており、煙草を折って潰すときの指と、指輪を付けている左手薬指とが同時に映るようなアングルになっている。

須賀が煙草をやめているのは引き取られた娘である萌花の引き渡しを望んでいるからであり、指輪は死に別れた妻のことを想起させるアイテムだ。

ここでは意図的に両者の文脈を重ねているように感じられる。

 

3回目は娘の萌花が陽菜や凪たちと遊んでいるところだ。ここでも須賀が指輪を触っているカットが挿入されている。

ここまでくると察せられるが、須賀が指輪を触っているカットが挿入されるのは、須賀の娘の萌花や、娘の引き渡しに絡んでくるシーンが多い。亡くした妻が残した娘を引き取ることを須賀は望んでおり、そのために禁煙も続けている。妻を亡くす前の家庭には萌花もおり、須賀はそれを取り戻したいと願っている。須賀が指輪を触る仕草によってそのことは強調される。

 

そして、3回目と4回目との間には、帆高が陽菜に指輪を渡そうとするシーンが入っている。

最後に帆高の前に一度立ちふさがり現実を説く姿を見ても分かるように、大人である須賀は帆高と対をなすような存在だ。そして死に別れた妻の指輪をはめている須賀と、これから指輪を陽菜に渡そうとしている帆高の姿は重ねて描かれていると分かる。

 

4回目に2本の指輪が映るのは、須賀が帆高を事務所から追い出してしまった後に、バーカウンターで突っ伏している須賀が出るシーンで、ここで左手に指輪が映っている。「酒とタバコで罪悪感に浸っている」ところであり、ここで、2回目のシーンではやめていたタバコを吸っている。やはり、「煙草を吸う」という禁忌と萌花の文脈とは重なっている。

帆高を追い出したことを夏美に責められた後、須賀は「一人が人柱になって天気が元に戻り救われるのならそれでいい」「誰だってそうだろ」と須賀は言うのだが、

このタイミングで須賀の左手がアップになり、ここで須賀は指輪を触っている(押し込んでいる)。

須賀が帆高を追い出したのは直接的には世間体のためであり、娘を引き渡してもらえるかどうか微妙な時期において咎を負いたくないという極めて現実的な理由である。

そして、帆高を追い出してしまうことで、須賀は「帆高が陽菜と共に居られなくなる」という事態の招来に手を貸してしまったことになる。

また、以前のシーンにおいて、須賀の娘は喘息持ちであり、(おそらく具合が悪くなるため)雨の日だとなかなか会わせてもらえないということが説明されている(だから陽菜に晴れを依頼した)。

つまり、晴れが戻り、そして娘に再び会えるためには、須賀はその選択を取ることを与儀なくされたということだろう。

ここで須賀が指輪に触っているのは「娘の萌花を引き渡してもらうこと」そしてそのために「東京が雨から救われ元に戻ること」、と「帆高が陽菜とともに居られること」とを天秤にかけたときに前者を選んだということでもある。「誰だってそうだろ」という須賀の台詞には、罪悪感を感じながらも「それで良かったのだ」と自分に言い聞かせているようなニュアンスが含まれている。

 

そして5回目は陽菜が空に消えたことにより東京の天候が晴れ、降り続いた豪雨により溜まった水を、須賀が事務所の窓ガラスを開けて引き入れるシーンで須賀の左手とともに指輪が映っている。このシーンで刑事が事務所に上がり込んで来て、須賀に帆高のとった行動について知らせている。

須賀が水を引き入れたことにより床の水位が上がるのだが、このシーンにおいて事務所の柱に萌花の身長が印として刻まれているのが映る示唆的なカットがある。妻の生前、萌花がまだここで育っていた頃に付けられた柱の印と、溜まった水の水位とが重なって映されているのである。豪雨とともに溜まった水は、陽菜が人柱となったことで止まったものでもある。

「人間は歳を取ると、大事なものの順番を入れ替えられなくなる」という、以前のシーンにおける須賀の台詞を想起させるようなカットではないだろうか。

須賀の時間は妻を亡くし萌花が引き取られていったところで止まってしまっている。このシーンにおいて、須賀は帆高を駆り立てる動機について察し、自分でも気づかないうちに涙を流している。

 

6回目はそれほど目立たないが、刑事から話を聞いた須賀が帆高に先んじて廃ビルで待っているシーンにおいて、帆高を制止するためにビンタするところで指輪が映っている。意図的な描写かどうかは定かではないがここは左手で帆高をビンタしており、合わせて指輪も映っている。

このシーンにおいて須賀は、心の底では帆高の取る行動や動機にシンパシーを感じながらも、あくまで大人として振舞わなくてはならないために帆高のことを考え説得し、飛び立っていくのを制止している。ビンタによって帆高を落ち着けようとする須賀の手には指輪が見える。そして、須賀もまた愛する人の指輪を携えている人であり、須賀と帆高の境遇は重ねられている。

この後、須賀は帆高を捕まえようとする警官にタックルして振りほどき、帆高を行かせている。須賀は自身の取った行動により警察に連行されていき、それによってまた娘を引き取ることがいっそう難しくなると思われるが、それでもここで帆高を行かせずにはいられなかったのだろう。このシーンの痛快さは、作中での須賀のストーリー全体の中でも白眉である。

 

7回目、最後に指輪が映るのは、こちらもわずかな描写であるが、エピローグで「陽菜のもとに早く会いに行け」と帆高に向けて手を払うときに(ここも左手である)指輪が映っている。当然のことではあるが、変わった後の世界においても須賀はやはり変わらず指輪を身につけている。

 

赤いリボン

帆高が陽菜の誕生日プレゼントにあげる指輪を百貨店で選んで購入するときに販売員として出てくのが前作『君の名は。』のヒロインである宮水三葉だ。

帆高の質問に対し「(もし自分だったら)3時間もかけて選んでくれたものだったらとても嬉しい」と笑顔で返答し、指輪を袋に入れ手渡すのだが、このときの袋は鮮やかなピンク色で、大きめの赤いリボンが付けられている。

更に、指輪をホテルで陽菜に渡すところでも、指輪が入っていた小箱はピンク色で、ご丁寧に赤いリボンも付いている。

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赤いリボンといえば、三葉が身につけているキーアイテムであると同時に、前作における「縁」を象徴するアイテムだ(正確には組み紐で、これをリボンの形にして付けたりしている)。

赤い組み紐が、あるときは三葉の髪留めになり、あるときは主人公の身につけているブレスレットになる。髪留め=ブレスレット=組み紐が過去から現在、未来を往還し、つながりを生むモチーフになっている。

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三葉から「赤いリボン」の袋に包まれて「指輪」を渡されるのはなかなかにニクい描写でもある。

また、そもそも帆高が最初に指輪をあげようと思い立ったのは陽菜が18歳の誕生日を迎えるということに気付いたからであり、それは立花瀧との会話の中で出て来た話である。実際、帆高が瀧に「誕生日だったらプレゼントあげなきゃ」と直接言われている。

これは前作の主人公二人によって今作の主人公である帆高に指輪が託されたという見方もできて面白い。

 

1本の指輪

かくして、帆高が陽菜に渡す1本の指輪も登場するのだけど、こちらについては分かりやすいだろう。

須賀の娘たちと遊んだ帰り、凪のお膳立てにより帆高と陽菜が二人きりになって帰るところで、帆高は指輪を渡そうとする。

帰り道に二人が電車に乗るところで、陽菜が窓ガラスに手をやって景色を見ているカットがあるのだが(ヒロインの手が映されている)、この手は左手であり、よく見ると薬指だけが微妙に他の指と分かれるように映っている。

指輪を渡す前のシーンから、エンゲージリングであることを示唆するようなカットを忍ばせているという訳である。

映画を見ていると分かる通り、この坂道での告白は、突風とともに陽菜が舞い上がるとともに身体が透けるといった事態(ヒロインの秘密が明かされるシーンの挿入)により頓挫してしまう。

次に帆高が告白を試みるのは警察に追われてホテルに泊まったときであり、今回は陽菜に指輪を渡すことに成功する。このときを逃すともうチャンスが残されていないというのを二人とも感じ取っている。そのため、当初は誕生日プレゼントとして用意した指輪をエンゲージリングとしてホテルで左手の薬指にはめる。「ずっと一緒だ」とここで告白する*2

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しかしその後すぐ夢の世界の中、陽菜は人柱となって空に消えてしまい、雲の上で、陽菜の身体が透けて指輪も薬指からすり抜けて落ちていってしまう。

翌朝、空から水たまりに落ちて来る指輪を帆高が拾うところで、陽菜が空にいることを帆高は確信する(つまり、今度も指輪を渡せていないことになる)。

連行された先の警察から逃げ出し、陽菜を取り戻すために奔走するところから本作のクライマックスが始まる(上映時間の上でも、ここからが三幕構成における三幕目にあたる)。

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そしてラストシーン、最初に指輪を渡そうとして失敗していた坂道に、帆高は陽菜に渡そうと考えている指輪を見つめながらたどり着く。そこで空に祈っている陽菜と三年越しに同じ配置で出会うところで映画は締めくくられている。

 

また、アイテムとして使われる頻度はそれほど多くないが、傘と手錠についても簡単に触れておきたい。

 

手錠

帆高は刑事に組み伏せられた際に片腕に手錠をはめられ、その状態のまま鳥居から彼岸に飛び立っていく。

手を繋いで陽菜と降下する際に帆高の片腕には手錠が残っている。「手錠を振りほどいた状態で飛び立っていく」ような絵が映えると考えたのだろう。

そして、片腕に付けられた手錠は、行った選択によって帆高が世界から課せられた責の象徴でもある。実際、この後3年間保護観察処分を受けるわけだが、ここで陽菜を取り戻す際に手錠を付けているのはそのことだけにとどまらないだろう。

また、ヒキの絵であったりで若干分かりづらいが、陽菜が空中で帆高の手を取る際には手錠に触れそれを伝って帆高の手を掴むような描写がある。

これは世界に反逆するような陽菜と帆高の共犯関係を表しているように見える。

 

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陽菜が雲の上に消えたのち、帆高が警察に連行されていく際ホテルの前に、晴れ女のバイトの際に使っていた黄色い傘が開いた状態で水たまりに転がっている。

晴れと共に陽菜が去って行ったことによる空白を、より強調して示す描写になっているだろう。

そういえばリーゼントの刑事の傘は黒色で、陽菜が最初のシーンで持っている傘は透明なビニール傘であったりと、演出効果を反映するため人物やシチュエーションにより傘の種類の使い分けもしているのだろうと思われる。

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このように、劇中で演出効果を持って使われたアイテムを見ていくと、「指輪」「チョーカー」「リボン」「手錠」に加え、またそれ以外にも、須賀の娘の萌花が花輪を作っていたり、夏美はブレスレットやミサンガを手首に多く付けていたりもしており、共通するのは、身につけるものとして円環のモチーフが多用されているということである。

これはどういったところから着想を得ているのだろうか。新海誠さんのこうした演出の手数については今後も注目していきたい。

*1:

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*2:24時になって日付が変わったタイミングで指輪を渡している。

『天気の子』(2019)初見時メモ

※ネタバレ有。

・出のショットは雨降る東京の空模様、街並みの全景からのクレーン降下、そしてモーションコントロールカメラのようなトラックバックからの窓ガラス打ち抜き、ヒロインの横顔が窓ガラスに反射した鏡像→実像を順に映す。ヒロインの登場シーンが虚像から映されるという非常に象徴的な使い方をしており、テーマに対する意識を感じさせ、同時に、1カット目からいきなりトラッキングショットに鏡像演出をぶちかましてくるという新海誠さんの演出家としての成熟をそこに見て取れるように感じられる。そもそも明確に演出意図を反映した形でこうしたショット群を配置するというのは以前には控えめであったことで、客観的な目線から風景や芝居を捉えるというエクスキューズを利かせていたのが、カメラ位置を含めて、前作に引き続き「照れ」が払拭され、吹っ切れていくような快さを感じられる映画になっていると思う。
ところで、オープニングシーンにおいては、主人公のモノローグでもって、過去の陽菜の行動が説明されており、「あの日、僕たちは世界の姿を決定的に変えてしまった…」のモノローグと同時にタイトルが出るのだが、後からそのシーンの回想が再度入る箇所で起こったことの説明があるし、また、後から分かるような内容のことしか言っていないのでこのアバンのモノローグは思い切って削って欲しかった!と、『リズ青』の台詞無しに紡がれるオープニングを思い出すにつけても感じてしまう(補助線を引いて分かりやすい作りにはなっているが)。
前作で結構変わったけれど、今作にいたって従来の新海さんのイメージはいよいよ積極的に払拭されてきている、という風に感じさせるのが、タイトル終わりに続く主人公が東京に来るシーンで、最初に映るのが新宿歌舞伎町の猥雑な街並みであるというセレクトである。美しくないものを徹底的に画面から排除してかかる手つきの前作までの新海誠に慣れ親しんだ層からすれば、これは明らかな挑発と感じられるはずだ。これまでの新海作品で出て来たような西新宿の街並み(都市開発のシミュレーション映像みたいな表現)ではなく、それこそ『CITY HUNTER』の舞台として出て来るような、東新宿の、猥雑な生活感ある街並みからこの映画の都市描写は開始される。それは都市全体に食い込むような描写を丸々引き受けるということでもあり、そのリアルに東京でロケハンしたような作りからの、エピローグで思い切りよく水没させることのカタルシスを生じさせている。


・視聴体験としては、そのどうにもリアルに過ぎる絵作りから、新海誠作品の映画内リアリティと現実世界との関係は、もう自分の好みやフェチにあまりフィットしないところまで行ってしまったと感じてしまったのだが(あそこまでリアルに近づけるとこれから先にあまり希望が持てない)、なので、最後にSF的風景に着地したという点には納得が行き、新海誠の次回作は案外こういった風景から始まるのかもしれないな、と後から妄想が膨らんだりもしました。


・これまでに出てこなかったようなものが出てきたりという点でいうと、ロケーションや生々しさのある乱闘シーンといったもの以外にも、例えばヤクザの落とした銃を主人公が「偶然に」拾うという展開である。こうした、フィクション性の強い、偶然性のある出来事をあえて起こし、それに続き主人公にヒロイックな行動を起こさせるというのはこれまでの私小説的な作りでは成し得ないことであり、以前まではそもそも、そういうシチュエーションを作っていなかった。事件性の導入にためらいがなくなったことで、主人公が最初に足を踏み出してヒロインを助けるという導入が可能になっており、フィクションの側により歩み寄っていることを感じさせる。


・主人公が拾った拳銃を取り出すのは映画開始20分くらいのところであるけど、ここで一度威嚇のために撃ったと思いきやその後すぐ廃ビルの踊り場に投げ捨て、後のクライマックスのシーンでは再びその場所で落ちてた銃を拾って再度使用している。RPGのアイテム並みに都合のいい拳銃の使い方をしているのは端的に言って良くないが(最初に拾ったことでそれで警官に追い回される、後から取り出して発砲する)、個人的には、拳銃の駆け引きが出てきたところでそれまで間延びしていた画面に一気に緊張感が出て来たところあると感じるため、そういう要素を出すこと自体には価値があると思う。
直近だと『グリーンブック』も退屈な会話劇と思わせておいて最初に銃の駆け引きをするあたりから緊張感が出てきたのだけど、やはり自意識の問題にとどまらず命の駆け引きをさせるというのは映画では重要なのだなと。「拳銃も出てこないような映画は見たいと思わない」と押井守も言っていたと思う。


・主人公二人の選択により、三年後、世界の姿が変わってしまっているのだけれど、そこに痛みはない。
二人が記憶や繋がりを失いながらも最終的には巡り合えた『君の名は。』からも抜け出て、最後には二人はそのままの思いや記憶を保っており、何の衒いもなく交われるのだなと感じた(ただしそれは、そこから希望が生まれるなどという安易なものではないというのが重要であるのだが)。
しかし三年という年月を間に持たせるあたりでまだ節度を感じさせるところではある。

前作は秒速5センチメートルの(仕切り直しという)要素が入ったけれど、今作は、主人公が突きつけられる選択を含め、『雲の向こう』につながるような要素もあった。

『雲のむこう~』のラストではヒロインは記憶を失いたくないが失ってしまい、約束の地も永遠に失われる。主人公はヒロインを抱きしめるのでそれっぽく締めており思わず誤魔化されそうになるが、実際には何も解決していない。実際映画序盤のシーン(ラストのその後)では主人公がそもそも一人で、隣には誰もいない。

『雲のむこう~』やその他のセカイ系作品群においてはヒロインが失われたところで、終わっており(あとから、失われたもの/死んだヒロインに主人公は感感傷的になる)、主人公のナレーションで片が付けられるが、天気の子では足を踏み出して救い出すところが変化となっている。

主人公二人の選択が世界を犠牲にしてでも相手を救うことを選んだ!ということそれ自体よりも、変わったのちの世界において、須賀から「世界なんてどうせ、もとから狂っているんだから。」と言われ、過去に追った選択によって世界が変わったことが夢のような話として否定されてもなお、「やはり僕たちは確かに世界の形を変えてしまったんだ」と過去の選択を積極的に肯定し、その決断に至った想いを忘れ去ろうとしないというところが真に感動的であり、このようなものが見れて良かったと思う。


・主人公くんの島でのバックグラウンドや「帰りたくないんだ…」のトラウマが描かれないのは好ましい。
これについては『君の名は。』で三葉の父親のバックグラウンドの大胆な省略を行っていたが、描いても大して面白い描写にならないよう/説明でしかないよう描写は削っていいという確信が前作で持てたのではないかと思う。
主人公は島では不幸ではないむしろ恵まれた生活をしていそうなくらいな高校生なのだけれど、それでも彼が家出をするに至ったトラウマは象徴的な絵を数カット映すことと、『ライ麦』を持ち歩いている描写だけであっさりと処理される。
特に『ライ麦』は象徴的であり、「高校生が感じる悩みはそういうものだよ」とどこか達観したような見方も感じられて驚かされる。というのも、従来の新海作品だとこうした自意識の問題をあくまで前面に出して取り扱っていたので、このような描き方はかなり意外でもあった。

・新海さんの「年の差」に対するフェチについて。
主人公とヒロインの「年の差」設定(というより展開)は『ほしのこえ』時から既にやっており、前作『君の名は。』においても大ネタとして活用されていたけれど、これまでは時間のズレから生じるシチュエーション自体への萌えからであった。
今回の「年の差」設定はSF的な仕掛けによるものではなく、物語の要請というよりは「そういう設定があると映えるから」「おいしいシチュエーションを作りたいから」と純粋にそういった理由で付けているように見える。
そもそも中学の姉と小学生の弟の二人だけで暮らせるのか?という疑問はどうしても生じるものの、「年下の子を護れてない自分の不甲斐なさを恥じる主人公」の美味しい絵を描きたいという動機の前にそうした疑問は雲散霧消するだろう。

そして主人公が島で高校を卒業すると同時に上京し、坂道でヒロインと再会したときに、主人公は大学生になっているがヒロインはまだ制服をきている。今作では「そういう絵を作りたい」という動機で設定を作っているように見えた。新海誠は紛れもないシチュエーションフェチの作家である。
(年の差が明かされるのはヒロインやキャラに意外性を持たせる試みの一環でもあるだろう)


・表現の大胆さ
250億円稼いだ映画の次作なので前作のキャラクターをてらいなく出すし(これまでもユキちゃん先生の『君の名は。』でのカメオ出演などはあったけれど、今作は滝君は特に長い。
何かスイカ切ったとか言ってるし)、ベスパに乗って出動する本田翼にカーチェイスなど、これ見よがしにアニメ的な要素も喜んで取り入れる。
クライマックスにかけては、宮崎アニメのようなモチーフも動員して絵の力を高めていたのが印象的だった。
主人公が崩れていく踊り場を駆け上っていくモチーフであったり、そして最後のヒロインを雲の上から救い出し手を繋いでからの落下は、『千と千尋』!(あれは『ef -the latter tale』OPではなく宮崎アニメ的表象でしょうと思う)


・時間配分についてメモ
上映時間110分ほど(108分くらいから黒幕エンドロール?)を4幕に分けると、

第一幕が入るポイントが二人が廃ビルの屋上、鳥居の横で互いに名乗って握手するところ。

第二幕のポイントは、須賀の娘たちと遊んだ帰り道、二人が田端の坂道を歩いているとき、空になって透けていく陽菜の秘密が分かるところ。

第三幕のポイントは、陽菜がホテルで朝消えてしまうところではなく、陽菜が空に消えたと落ちて来た指輪で知り、連行されていった警察署から逃げ、陽菜を取り戻すために走り出すところ。

で導入からクライマックスまで、教科書的に綺麗な配分がなされている。

ボーカル付き楽曲は全5曲あるが、前半のライター仕事のバイトシーンと晴れ女バイトのシーン(開始40分あたり)で1曲ずつ、クライマックスに2曲続けて、そして(エンドロール入り前の)エンドクレジットに1曲という編成。

・第一幕過ぎるあたりまで、プロダクトプレースメントと、ミュージックビデオの性急な編集(モノローグが詩になってたりするとこも含め)がやたらと目についたので、新海誠さんのCMとMVのパッチワークを見せられているような気分になった。これについては、新海さん自身が様々な仕事を請け負っていることのメリットを感じさせると思う。
そういえば『秒速5センチメートル』もコンビニ内の再現がとてもつもなくリアルだったが、特定の商品やブランドとコラボすることはほぼなかった。リアルさの追求と、コスト面の問題、設定制作において1からオリジナルで設定作った食べ物を出すことの手間を考えた際に、最初からコラボして商品を出すといった試みが有効であったのだろうと思われる。スポンサー推しもそうだが、外部からの引用の多さも目立つ。


・新海さん前作までは画面の最終チェックまでやって自分で色彩設計や撮影を直したりしていたけど今作からはそれはやめて監督業に専念した、と仰っていたけれどそれは映画の作りにも出ているなと感じます。一枚一枚の絵や背景美術に対する異常なまでのこだわりは後退し、編集で見せるような作りになっている。


・上手いと思ったシーン

・陽菜が去って嵐が去ったのち、須賀のオフィスの窓ガラスを開けた所で水が入って来る→自分の会えなくなっている子供の背の高さを記録していたところに水位が重なる。
・ホテルにて陽菜が浴衣を脱いで透けていく身体を見せるところは見る者にエロスを掻き立て、主人公と同時に観客にも見たいと本能的に思わせるが同時に存在の儚さを突きつける。


・総じての印象は、川村元気さんがプロデュースしているだけあって、口当たりの良い青春日本映画〜って感じでした(若い人が見てもこのノリはわかりやすい)。
拾われない伏線とか、背景描写の曖昧さとかに結構?となる部分もあるんだけれど、モチーフの連鎖でエモーションを高めていって、一気呵成の勢いで畳みかける。終盤はノンストップで振り切っていくので快感が強い。
後半のドラマが最も高まるシーンで必ず雄大で良い画を持って来るので、吊り橋効果によって観客を恋への同調に呼び込んでいるような、騙されたような感じは強いが、それも含めてテクニックであるだろう。
前作よりもプロットは整理されており分かりやすくて、感覚的に訴えかけるような作りになっている。こちらに筋の考察をさせるのではなく、映像の快楽で持っていこうとする意図が強く、そういう意味でのリピーターを増やそうとしているなと。
これまでやらなかったようなことをしたりこれまでは出さなかったようなものを出したりと、前作の要素を踏襲しつつ、これまでのイメージを払拭していく(作風を刷新していく)ところを感じさせるのだった。
2019/07/19 劇場にて鑑賞

『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』の海外受容について

金曜ロードショーで『未来のミライ』に続き『サマー・ウォーズ』が放映されるとのことで、細田守作品について以前より気になっていることについて書こうと思います。

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デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』について

まずは本作についての客観的な事実から述べます(以下に『ぼくらのウォーゲーム!』の説明を書いていますが、「既にそんなことは知っている」という人はこの部分読み飛ばしてくれて支障ありません)。

細田守の第二作目の監督作である映画『ぼくらのウォーゲーム!』は『サマー・ウォーズ』に直接インスピレーションを与えた作品として広く知られています。「電脳空間に発生した人工知能がインターネットを通じて世界中を混乱に陥れる」「発射された核ミサイルの爆発阻止のため主人公たちはそれに戦いを挑む」といった筋や、「クライマックスに至って観客と映画内の時間とが同期するカウントダウンが始まる」といったアイデアの面でも『ぼくらのウォーゲーム!』を踏襲、『サマウォ』は実質的な『ぼくらのウォーゲーム!』のリメイク作品として見られています。

また、独立した一本の映画としても『ぼくらのウォーゲーム!』は高い評価を受けています。

ヤマカンこと山本寛さんも公開当時2000年7月の日記において「(日本アニメーションにおける)惨状からの希望」と評し絶賛しており、

web.archive.org

最近でも、2019年6月に刊行された石岡良治さんによる著書『現代アニメ「超」講義』は序章を細田守作品論にあて、「2000年から現在までのアニメ史を概観する際に『ぼくらのウォーゲーム!』を起点に据えた」との説明が出ています。

 

本作はこうして批評的にとりあげられているのみならず、いわゆる一般のアニメファン層にもウケている作品です。

映画レビューサービスの「filmarks」でも、(スコア数には差があるものの)『時をかける少女』と並んで細田作品の中では最も高い評価を保持しています。

 

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細田守フィルモグラフィーの中では、今に至るまでに最も高く評価されている作品の一つでしょう。

卑近な例で言えば、細田守作品について語る際に『デジモン』シリーズの名前を出した著名人が持てはやされるなど、

togetter.com

語弊を恐れずに言えば、「玄人のアニメファンが名前を挙げる」というイメージも付いていると言えます。

 

 ぼくらのウォーゲーム!』の卓越性

本作がこれほどまでに高い評価を受けている要因として考えられるのは、一つにはその題材の持つ先進性でしょう。まず、『ぼくらのウォーゲーム!』のタイトルは『ウォー・ゲーム』(1983年、ジョン・バダム監督)から取られていると思われます。

 

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冷戦下のアメリカを舞台にしたSF映画ウォー・ゲーム』はペンタゴンの国防用コンピュータに侵入した10代のハッカー少年が遊びでゲームを始めたために、混乱したコンピュータがシミュレーションで全面核戦争ゲームを開始してしまうという筋でした。

黎明期におけるハッカー、ネットを題材にした『ウォー・ゲーム』が、ハードなタッチで核戦争の恐怖を描いていたとすれば、『ぼくらのウォーゲーム!』はそれらをずっと我々の日常の感覚に近いところで描いてみせました。

 それは現実世界においてPOSシステムを始めとした日常のインフラやメールを使っての交流といった、インターネットが社会全体に浸透していっている状況と基調をなしていますが、それらを子供の目線から手の届く、肌感覚で描いているところが先進性を持っています。前述の石岡さんの著作においても、例えばマシンの動作が重くなるという経験とデジモンバトルとを感覚的に結びつけており、身体感覚の延長線上でスケール感ある話を展開していることが評価されています。

ぼくらのウォーゲーム!』は我々の暮らす日常と、核ミサイルの暴走といった非日常とを近い距離で対比させて描くことにも成功しています。そして、ネットによる全世界の子供たちとの結びつきといった部分や、あらゆるシステムが統合されるネット、VR空間の表現などは、来るべき21世紀への展望を強く感じさせるものでした。

加えて、光ヶ丘や島根といった実際に存在する場所を舞台に設定しロケハンを行ったり、NTTに実際に取材し、(架空の便利なガジェットを使うのではなく)災害伝言ダイヤルや衛星携帯など有事の際に実際に使われるサービスをストーリーに取り入れたりといった、『デジモン』シリーズの一作品ながら現実世界との結びつきも強く持っています。

劇中で太一は一度も室内から出ず、デジモン同士のバトルもデジタルワールドや現実の世界ではなく、現実のインターネット空間の中で展開するという点もリアリティを持っています。

フィクショナルな作品ながら現実のインターネットやデジタルツールとの関わりを感じさせる面でも、その後のアニメ作品に先んじていると言えるでしょう。

21世紀に入ってからのアニメにおいてはテーマ的にも表現的にも、デジタルなものとの関わりが深化していっており、2000年に公開された『ぼくらのウォーゲーム!』は21世紀のアニメが見せる展開を予見していた作品と言っても過言ではありません。

自信が手掛ける『サマー・ウォーズ』よりおよそ10年早く、このような題材を取り上げた先進性も高く評価されて然るべきでしょう。

 

もう一つの要因としては、一本の映画として非常に高い完成度を見せている点です。

 上で述べたように、『ぼくらのウォーゲーム!』はテーマの持つ社会的・経済的な観点からも重要な作品と言えますが、それだけでなく、VR空間を表現するCGや、モーショングラフィックスの活用といったデジタル表現も幅広く映画内で活用されており、ストーリーを洗練された形で伝達することに成功しています。

 しかし、アニメファンを最も驚かせたのは何といっても映画における時間の使い方でしょう。

主題歌に合わせオープニングクレジットが流れてから、ラストカットのエンドロール、Windowsの画面上で映画が終わるまで、40分という非常に短い上映時間ながら、その時間を完璧で無駄のない使い方をし、開始30分に至るまでにドラマを一気にクライマックスまで持って来るレベルの高さは、まさしく映画体験として非常に強く印象に残ります。個人的にも、短い上映時間でここまでテンションを上げることが可能なのかと衝撃を受けた作品です。

 

後の『サマー・ウォーズ』にも引き継がれた、核ミサイル衝突までの制限時間のカウントダウンと映画の上映時間を同期させるアイデアも本作で初めて試みられていますが、それに限らず、ドラマを盛り上げるためのあらゆるテクニックを使い切っています。

 それは例えば、先に述べたテーマとの関わりで言えば、「日常と非日常のアンサンブル」を取り入れている点です。

 敵役のデジモンディアボロモン)の暴走を阻止するために太一たちは部屋のなかにいながら奔走しますが、その合間に他の登場人物や、周囲の人たちの状況もクロスカッティングで入っています。

 太一と光太郎、ヤマトとタケルは直接戦いに加わりますが、他の子供たちや周囲の人たちはそれを意に介さず日常を過ごしていたりしており、例えば核ミサイルのカウントダウンの数字と母親がケーキを焼き上げるまでの時間、丈の入学試験の残り時間が重なっていたりと、そのあざやかな対比によってサスペンス感を演出しています。日常と非日常との距離感は、テーマに絡んでいるだけでなく、対比と反復によって映画をいかに盛り上げるかといったところにも機能を果たしているのです。

そうした対比と反復、それを成り立たせるための、広角俯瞰のマスターショットを用いたレイアウト重視のスタイルなど、後に見せる細田守の洗練された視覚的スタイルも本作において既に確立されています。本作は『サマー・ウォーズ』の前哨戦であるだけでなく、まぎれもなく細田守が頭角を現した作品でもあり、映画美学の面からも瞠目すべき達成を成し遂げていたと言えるでしょう。

個人的にも、現時点までの細田守の監督作品で最高傑作は何か?と訊かれれば、(そう答えるのがクリシェであるとは知りつつも)『ぼくらのウォーゲーム!』と答えることだと思います。

 

ぼくらのウォーゲーム!』の海外受容

以上にも述べたように、幸い国内においては『ぼくらのウォーゲーム!』の評価は確立されていると考えていいでしょう。

では。本作は海外においてどのように批評されているのか?というのは兼ねてより気になっていたので以前ネットでチェックしてみたのですが

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RottenTomatoesで「細田守」のフィルモグラフィーの項を見ると、細田作品の中ではまさかの最低の評価が付けられおり、軽いショックを覚えます。

しかしそれと同時に、『Digimon - The Movie』(2000)って何のこと?となるわけです。

日本のアニメファンが『デジモン ザ・ムービー』と言われて思いつくのは、細田守が監督した一作目の『デジモンアドベンチャー』(1999)ですが、こちらは『ぼくらのウォーゲーム!』(2000)とは別作品であり、しかしRottenTomatoesには一作しか記載されていません。

 

詳細を見てみると、監督には『デジモンアドベンチャー』や『ぼくらのウォーゲーム!』とは関係のない山内重保さんや相澤昌弘さんの名前も載っており、ますます首を傾げます。どうも細田守の単独監督作品ではないようなのです。

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『Digimon - The Movie』のCritics Consensus(批評家の合意)を見ると、

 

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デジモンポケモンよりも良いが、しかしこの映画は凡庸なアニメーションによるありきたりな映画です」(直訳)

 となっており、皮肉にも、前述の日記におけるヤマカンさんによるレビュー(「『ポケモン』劇場版も確かに悪くはないが、『デジモン』に比べれば、赤子と兵隊」)とは真逆の評価を受けてしまっています。

ちなみにWikipediaの英語版で細田守フィルモグラフィーを確認してみても、長編映画の監督第一作目が『Digimon - The Movie』となっています。

 

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『Digimon - The Movie』という謎の映画の存在が気になるところですが、Wikipediaの当該ページなどを見ると、どうやら本作は

 

・『デジモンアドベンチャー』(1999年、細田守監督)

・『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』(2000年、細田守監督)

・『デジモンアドベンチャー02 前編 デジモンハリケーン上陸!!/後編 超絶進化!!黄金のデジメンタル』(2000年、山内重保監督)

 

の三作を合体させて、編集で上映時間を40分削られた上で、一作品にまとめて北米では公開されていたもののようです。クレジット上も「監督:細田守山内重保」と共同監督による作品となっています。そして台詞や構成を元の映画から大きく改変しているため、オリジナルの別作品として見られている模様。

 

北米でこのような流通がなされた経緯としては、北米において『デジモン』シリーズの劇場版を公開するという話になったときに、その時点で日本で公開されていた劇場版が上記三作であり*1、それぞれ20分、40分、60分と、単独で公開するには向いていない上映時間であることもあって*2、三つをミックスした上で上映時間を短縮、合わせて台詞の改変やシーンの削除等で整合性を取った感じのようです。

 

日本アニメの他の例でいうと、『超時空要塞マクロス』・『超時空騎団サザンクロス』・『機甲創世記モスピーダ』らをまとめて『Robotech』という一つの大河シリーズとして海外で放映するといったリミックス改変によるローカライズがなされていたケースがありますが、この種のミックスによるローカライズが『デジモン』シリーズにおいても行われていたことになります。

ネットを見ると、『Digimon:The Movie』はRottenTomatoesやIMDbなどの英語圏の映画アグリゲーターサイトでは酷評されていますが、AmazonのDVDページのレビューなどを見るとそこそこ高い点数が付いており、本作は本作でそれなりに思い入れのあるアニメファンが多いようです。

 

『Digimon:The Movie』自体を見ていないので何とも言えない面はありますが、いずれにせよ、『ぼくらのウォーゲーム!』はプロットに改変を加えられた上で、『デジモンアドベンチャー』一作目及び、『デジモンアドベンチャー 02』シリーズに属する別作品と抱き合わせで公開されたというのはほぼ間違いないでしょう。

 

『Digimon: The Movie』の問題点

このような流通形態がとられたことによって、『ぼくらのウォーゲーム!』は、批評的にも、デジモンを始めとするアニメファン的にも、公開当初無視されてしまったことになります。海外では、後から配信サイト等で視聴した一部のアニメファンのみが『ぼくらのウォーゲーム!』を映画単体で消費できているのでしょう(そのため、IMDbには独立した作品として登録されており一応そちらでは高スコアも付いています)。

しかし『ぼくらのウォーゲーム!』はその一本の独立した映画としての達成度が抜きんでているのであり、トータルでの完成度、つまり一つ一つのシーンやカットではなく、その全体での統一のされ方においてまさに優れた作品でした。

例えば「日常と非日常の対比」のような肝心の部分は、編集が入ることで崩れてしまうでしょう。表現やテクニックが、テーマや描きたいもの、観客に与える心理的効果に密接に結びついているこの映画において、そこに編集が加えられることや、抱き合わせで一本の映画に統合されることは、映画としての価値を無化してしまうことに等しい。

また、加えて言うと細田監督だけでなく山内重保監督もこのことで被害を被っています。

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デジモンアドベンチャー02 前編 デジモンハリケーン上陸!!/後編 超絶進化!!黄金のデジメンタル』は細田守監督による前二作とも打って変わって、山内監督の作家性が炸裂、敢えて言えば暗い部分を感じさせる作品です。分かりやすいカタルシスもあるわけではない。監督自身が「後編にかけて、観客に嫌な気分になってもらう」ことを目標に作ったというコメントも残しているほどです。

また、『02』は前二作とは表現のトーンも異なります。細田守による前二作は山下高明さんがキャラデザイン&作画監督を手掛け、シルエット重視のシンプルな線を基調とし、影無し作画のスタイルを貫いていますが、山内重保による『02』は部分的に影付き作画、線の艶が際立った色気のあるデザインになっています。

両者は線の手法やキャラデザインなども含め、スタイルも雰囲気もまるで違います。そしてデザイン面の違いは、まさに作品の持つ思想を反映しての違いによるものです。

 

もちろん流通の上で、このような公開形式になったことはある程度仕方ない部分はあるでしょう。東映アニメフェアのような公開形態は北米にはなく、三本に分けて一度に上映するといった公開の仕方もおそらくハードルが高い。しかしせめて、細田守監督による一作目と二作目をひとまとめにして同時に公開し、山内重保監督による二作目を独立して公開するといったやり方は出来たはずです。そのような元作品への尊重を欠いた結果が、『ぼくらのウォーゲーム!』の持つ独立した映画としての真価が批評的に無視されることに繋がってしまいました。 

前述のように、IMDbでは『ぼくらのウォーゲーム!』単体での評価も載っていますが、『Digimon: The Movie』と比べると圧倒的にレビュー数は少ないですし、それに、デジモンの濃いファンや、アニメマニアでない限りは、『Digimon: The Movie』をオリジナルと見比べようとはならないことでしょう。そもそも『Digimon: The Movie』が細田守監督による長編映画の第一作目として認知されてしまっているので、致し方のない状況です。

 

まとめ

ぼくらのウォーゲーム!』が一般のアニメファンや批評家からオフィシャルに評価される機会は英語圏においては実質的に失われてしまったと言っても過言ではないでしょう。

一般的に、ローカライズの仕方というのは、次世代の人がどのようにその作品を享受するかというのを決定づけてしまう。そして、世の中の多くの人はバージョン違いを細かく気にするマニアではない以上、それは不可逆な過程でもあります。

先日Netflixで旧『エヴァンゲリオン』シリーズが全世界に配信された際に、ショッキングなシーンの削除、エンディングソングの変更、あるいは字幕の改変等を行ったことで海外のファンから非難の声が上がるという事件がありましたが、考えてみればこれから『エヴァンゲリオン』を見る人は皆その改変バージョンを見て入門するわけなので、次世代においてはその改変バージョンが「当たり前」になってしまうことになる。Netflixの全世界における影響力を考えれば、これは海外の『エヴァ』ファンが吹き上がるのも当然のことと言えるでしょう。

逆に、日本のファンは海外オタクから指摘される前にもう少しこういった事情に敏感になった方がいいのではないかと感じてしまう。そのようなことを『デジモン』や『エヴァ』のケースなどを見ても考えさせられるのでした。

デジモン THE MOVIES Blu-ray VOL.1

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*1:ぼくらのウォーゲーム!』の正式な続編と見られる『デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲』(2001年3月)は当時まだ公開されていませんでした。

*2:元は三作とも東映アニメフェアで他タイトルと同時に上映された作品であったため変則的な上映時間だった。

『ヤミと帽子と本の旅人』と『セラフィムコール』

※この記事は両作品についてのネタバレを含みます。

 

数週間ほど前に、百合アニメ『ヤミと帽子と本の旅人』('03)を再見する機会があった。16歳の誕生日に突如として異世界に消えてしまった姉・初美を探し求め、「図書館世界」の管理人・リリスと共にさまざまな本の世界(異世界)を旅して回る妹・葉月を主人公に据えた冒険譚である。

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DVD第1巻の表紙絵(『ヤミと帽子と本の旅人VISUAL COLLECTION』所収、西田亜沙子さんの版権イラスト)

 

この作品は、いわゆる「時系列シャッフル」の構成をとっていることで知られている。例えば第1話の序盤で葉月は初美を追って異世界へ旅立っていくが、向かった先の「図書館世界」が出て来るのは第3話になってからであり、第1話の残りと第2話では、時間軸が後の方にある別の世界(「夜行列車の世界」)での話が語られる。また、葉月と初美との関係は第1話序盤では詳しく描かれず、第7話になって初めて、第1話以前の現実世界での二人のストーリーが明かされるようになっている。

事態の進行は直線的には語られず、時系列や場所のバラバラなシーンを視聴者は行き来し、終盤に至って初めて事態の全貌が掴めるようになる、というわけである。

今回ほぼ5年振りに本作を見返したのだけれど、改めて見てみるとそれほど難解な構成ではないなと感じた。葉月とリリスが行き来する個々の世界のストーリー(「竹取物語の世界」や「宇宙移民船の世界」など)はほぼ順序立てて語られるし、実際にバラバラになっているのは主にガルガンチュアをはじめとする錬金術師の世界の話(これは遠い過去から現在まで続いている)と、葉月と初美の現代世界での話である。見ている最中にこれらを脳内で再構成できれば特に支障はないだろう。意外にとっつきやすいように作られているのかもしれない*1

 

さて、大部分が数多のファンタジー世界でストーリーが展開される本作において、現代世界のパートは姉が旅立っていく第1話のAパート及び、第1話以前の二人のストーリーが回想される第7話、そして旅から戻った後の世界における葉月を主に描く最終話である。

最終話においては、異世界への旅から現世に戻って来たものの、結局再会した初美と添い遂げることは叶わなかったため、一人残されてしまった葉月の姿が描かれる。初美は真の姿であるイブ(図書館世界の管理人)へと還り、葉月と共に育った世界を含む数多の物語世界から自分の痕跡を消してしまった。

今回最終話を見ていて少し驚いたのは新規カットの少なさである。

図書館世界における管理人・イブとリリスのシーンも合間に入っているけれど、現実世界での葉月や初美の描写は第1話・第7話の映像を反復として取り入れている。

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第7話(過去に二人が過ごした時間)における、初美のホットケーキを葉月が食べるやり取りや、プールサイドでの交流。

図書館世界のイブによれば(旅を終えた後の)葉月は元いた世界に戻っておらず、別の分岐の世界に入っているようである。そのなかで葉月は過去の現実世界での出来事と同様の交流を初美と交わしている。それと同時に、葉月の中でそれらの記憶がリフレインしているという描写でもある。

以上のこれらのシーンは第7話とほとんど同じ流れである。

 

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そして時間軸は第1話の冒頭に戻って来る。深夜、初美の部屋に向かう葉月。第1話では時系列を細かく交錯させて描かれた回想がここでは時間軸通りに描かれ(1日前の出来事、1時間前の出来事…)、そして初美の16歳の誕生日が再び訪れる。

 

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葉月が寝ている初美にキスをしようとする(「PM11:59」という時計の表示)、ここまでほぼ全く同じカットが続いている。第1話ではこのタイミングでちょうど24時になり、16歳の誕生日を迎えた初美がそこで旅立って行くために接吻は叶わなかったのだが、

 

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最終話のここで初めて流れが変わり、初美は旅立って行かず、その先の二人が描かれる。葉月と一夜限りの逢瀬を交わすために、イブが再び初美として訪れたのである。

初美がここでまた旅立って行けば以前に起こった通りにことが運び、葉月は初美を忘れられず追い続けてしまうが、イブの介入により周回は回避され、そこで葉月の思いははじめて遂げられるのだ。

これまでの過去の描写のリフレインは、初美に未練を残した葉月を描くと同時に、この展開を引っ張り、変化をドラマチックに際立たせるためだったのである。

何と美学を感じさせる流用カットの使い方だろうか。時系列シャッフルの構成はこれがやりたいための方便だったのではないかと思えるほどである。

 

セラフィムコール

さて、ここで私が連想したのは、『ヤミ帽』でシリーズ構成および現代世界パートでの脚本を手掛けた望月智充さんが監督した『セラフィムコール』('99)の第5話「村雨紫苑〜夢の中の妹へ〜」及び第6話「村雨桜〜愛の中の姉へ〜」である。同作品は一話ずつ、それぞれ別のヒロインが主人公となる1クールのオムニバス美少女アニメであり、この二話分では双子姉妹の姉・妹がそれぞれフィーチャーされる。

 

この第5話と第6話はほぼ全く同じ映像を使っており、同一のカットを使いながら二人の声優がアフレコをし直すことで、姉妹双方の視点を巧みに切り替えてみせた。第5話、第6話ともに脚本:坂本郷*2、絵コンテ:望月智充

 

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 姉妹のうち吊り目な方が姉の紫苑で、垂れ目な方が妹の桜である。

 

一心同体な二人が、あることによって互いの関係に綻びが生じたのを機に、「仮想空間を構築し、その中で他者の身体に入って心身ともにその人になり切ることができるシミュレーションマシン」をそれぞれ使い互いに相手の真意を探ろうとするストーリーであり、それを同一の映像・同一の展開の中で二通りに実現させている。

双子姉妹の百合を表現するのにこれ以上の方法があるだろうか。

 一応種明かしとしては、二人が相手の人格に入り込むパートでは、シークエンスの順番を切り替え、あるいは同じ映像を使ったシーンでもモノローグの内容を変えることで別の視点から物語を語っている。

このような発想でストーリーを構成したTVアニメはさほど類例が見当たらず、その意味でも記憶さるべき話数であると思う。

 

カット流用は、『ヤミ帽』の場合はそれによって再現を表したり反復を作劇に活かすためであり、『セラフィム』の場合は二人の同一性を表現するためのものなので意味合いとしては異なるけれど、いずれにおいても映像単位で同じシーンを繰り返し呈示することを作劇に上手く取り入れており、発想としては通底するところがあるなと思う(また、奇しくも双方ともに姉妹百合でもある)。

 

 『ヤミ帽』及び、その後に望月さんがシリーズ構成・脚本を手掛ける『桃華月憚』における時系列シャッフルの手法は『セラフィムコール』の第4話*3から始まったというのは既に指摘されており、慶応大SF研の人が出した、望月さんへのインタビュー記事が掲載されている同人誌*4でもそういった話がなされていたと思うのだけれど、今回『ヤミ帽』を見て自分が連想したのは『セラフィムコール』第5話および第6話の手法なのでした。

 

桃華月憚

セラフィムコール』『ヤミ帽』とこれまで言及してきた以上、『桃華月憚』('07)についても触れなければならないだろうと思う。

 

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桃華月憚』は世界観としては日本神話を題材にとっており、神話が息づく古の土地「上津未原」およびそこに作られた桃歌台学園が主な舞台。その地を支配する豪族の一族や、学園を牛耳るソサエティや生徒会を巻き込み、神話的な宿命に翻弄されるキャラクターたちを描いた幻想的な物語である。

といっても物語の比較的多くの部分を占めるのは不条理ギャグやラブコメのような戯れであったりする。

そして『桃華月憚』は『ヤミ帽』と同じくORBITのアダルトゲームが原作、「監督:山口祐司、シリーズ構成:望月智充、キャラデザ&総作監西田亜沙子、音楽:多田彰文、制作:スタジオディーン」とアニメのメインスタッフもほぼ共通している作品である。

 原作およびスタッフが共通することを活かしてか、『ヤミ帽』とのコラボ回もある。『ヤミ帽』はメタ物語でありその中にいくつもの世界を内包できるという便利さがあるので、「『桃華月憚』の世界にやってくる」という展開も可能なのだ。 

第14話「旅」がそれに当たり、『桃華月憚』キャラと合わせて『ヤミ帽』キャラが総出演したスペシャルな回である。個人的にもこういうクロスオーバーは大好きである。

 

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脚本・コンテ・作画監督ともに元『ヤミ帽』のスタッフであるほか、BGMも『ヤミ帽』のものをそのまま持ってくるという念の入れよう。

こちらでもやはり一途に初美を追い求める葉月の姿が描かれた。実世界の時間軸ではおよそ4年越しに、初美を探し求める葉月の姿が描かれたことになる。

 

さて、『桃華月憚』の際立って特徴的な点として、2クールの作品であるが、『ヤミ帽』の「時系列シャッフル」のコンセプトを更に極端な形に突き詰め、「逆再生」をストーリー構成のコンセプトにしていた。

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「逆再生」コンセプトを図示すると以上のような感じになる(厳密にはこの通りではない話数もある)。

 

最終話から第1話へと、話数単位で時間軸が遡っていくのである。つまり放送第1話がストーリー上の最終話であり、放送の最終話が物語の第1話目となっている。

ポイントは、シーン単位ではなくあくまでエピソード単位で逆順になっているということで、これは単に因果関係が逆であるというのに留まらない。通常のアニメであれば話数の最後と次の話数の最初とが繋がっているのでスムーズに鑑賞できるが、「逆再生」アニメの場合は、2話分ストーリーを過去に遡った状態で次の話数がスタートするため、見ながら情報を整理しないとこんがらがってしまう。

たとえば、あるキャラがどうしてそういう状況に陥っているのか、次の話数で原因が明らかになるかと思いきや明かされなかったりするので、情報をその都度整理していかないといけない。

そのような感じで考えて見ていても、2クールの最終話(物語の最初)に辿り着く頃には、よく分からないままに見た最初数話(クライマックス)の細部は忘れてしまっており、物語の帰結がストーリーの最初から見てどうであったのか、辿り直すことも難しい。

ちょっと考えてもストーリーの全貌を掴むのは『ヤミ帽』と比べても数段は難しく、また、その構成の妙からエモーショナルな気持ちを体感するのも中々ハードルが高いことは想像が付くだろう。

(いくらかあるメリットとしては、ある話数で出てきたキャラで、これまでの話数で出てこなかったキャラは、登場時点で「このキャラはここで退場するのだな」と分かったりする。)

また、であればDVDで最初から逆順に見ていけばちゃんと理解できると考えられるかもしれない。しかしこのシリーズは「逆再生」であるにも関わらず、第25話の総集編などが示す通り、あくまで順番に鑑賞されるように作られているのだ。

ではこのアニメが提供する視聴体験が失敗しているかというと、決してそういう訳でもない。

本作の第1話であり最終話でもある第1話「桜」では、季節の桜や陽光のモチーフに託し、キャラクターが辿る別れと出会いをエモーショナルに描いてみせた。この1話の演出的ボルテージは凄まじく、ストーリーのことは何も知らない状態でも自然と涙を誘われてしまう。

 

 第一話「桜」脚本:望月智充、絵コンテ:山口祐司

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 キャラクターが宿命的に辿る末路は序盤の数話において示されており、やがては互いに別れを告げ、消えてしまうこの地におけるキャラクターたちの戯れには常にどこか悲劇的な匂いが付きまとう。最初の数話は「キャラクターたちは全貌を知っているのに視聴者は何も知らない」といった状態が続くためやや厳しいのだが、見ていくうちに、背景は分からないままでもこの雰囲気やキャラクターのことを好きになっていることに気付くだろう。

そして時が一巡し最終話であり第1話でもある第26話を迎える。キャラクターたちは今度は何も知らない状態であり、これから仲良くなるキャラクターたちの出会いや誕生、始まりの予感が淡々と描かれていく。そのあまりに素朴な出来に驚かされると同時に、これが正しく始まりであったことに対しては深い納得の念が抱かれる。そして何より、最初であり最後のシーンはあまりに切なすぎます。

これらのエモーションは逆再生でなければ得難いものであり、本作に無二の魅力を感じる人がいるのも分かる。

本作においてもやはり、映像それ自体というよりはその組み合わせや構成を捻ったものにすることで特殊な演出効果を生み出しており、望月さんの『セラフィムコール』『ヤミと帽子と本の旅人』と同じ系譜に位置づけられる作品と言えるだろう。

 

まとめ 

 『セラフィムコール』のシリーズにおいて試みた数々の実験から『ヤミと帽子と本の旅人』の時系列シャッフルの手法に辿り着き、『桃華月憚』の逆再生に至って極まる望月さんのストーリー構成の技巧は、その実験精神がストーリーに確かに寄与しているところがあった。そしてそれはアニメーションの表現それ自体の革新というよりは、語りの手法の先鋭化であったと言える。

そしてそれが俗っぽい美少女アニメやキャラクターの百合的な関係性において展開されたことや、ラブコメや不条理ギャグ、パロディ、アイロニーといった戯れを多分に含んでいたことが、美少女アニメでよければ比較的何でも許されたゆるい時代のムードも感じさせ、独特の魅力を放っているように感じます。

思い起こせば、最初に『セラフィムコール』のことを知ったのはturnxさん(現マルドロールちゃんさん)のブログであり、『桃華月憚』のことを知ったのは『カオスアニメ大全』での有村悠さんのレビュー記事だったように思います。そのときから年月は流れたなと感じる一方で、問題意識が10年前で錆びついているとは思われないようにやって行かないといけないな、と思いを新たにしています。

望月さんは次は『推しが武道館行ってくれたら~』のアニメに絵コンテで参加するみたいですね。平尾アウリ先生の漫画がどうアニメ化されるかはちょっと想像付かないですが、個人的にはやはり好きな演出家であり脚本家だなって思うので可能な限りは追い続けたいと思います。

 

 

*1:理解していると錯覚しているだけかもしれない。我々がタランティーノやノーランのおかげでそのような構成に適応させられているせいかもしれない。

*2:望月さんの変名。

*3:過去回想シーンの中で更に回想が入って…という具合に過去と現在の時間軸を交錯させることで、実際には大したことは起こっていないにも拘わらずただならぬ雰囲気を演出するという回だった。

*4:こちらで告知が掲載されている。 https://rtbru.hatenadiary.org/entry/40000728/1375019339 残念ながら紛失したので現在手元にない。 

OVA版『YU-NO』('98~'99) を見てみる

 

anime.dmkt-sp.jp

単純にマルチエンディングのADVゲームを線的なストーリーで進行するアニメに翻案することの難しさについては京アニ東映によるKey作品の映像化といった卑近な例を見てもその苦労の跡が見えるのであって、また、『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』('96)は、ともすれば電脳紙芝居と揶揄されがちなギャルゲージャンルにありながらそのゲームシステムにおいて高く評価されたゲームであり、ゲーム的なゲームをアニメ化するこの試みが成功を収めることの厳しさについては、『動物化するポストモダン』で『YU-NO』の紹介を読んでおらずとも察せられるのではないかと思います。

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』のゲーム版リメイク及びアニメ化を手掛けているのがMAGESであるというのは納得が行き、それこそ『Steins;Gate』のような「マルチエンディングでありながらトゥルーエンドを持つギャルゲー」の先駆けとなった大元の作品でしょうし、並列世界のようなモチーフや設定の作り込みも、5pbの「科学アドベンチャーシリーズ」等を展開しているMAGESとは親和性の高さを感じさせます。

ただ、『Steins;Gate』は当初よりアニメ化の構想を込みで制作されていたでしょうし、また、主人公の動機も明解であり、映画的な構成をとって一本道のストーリーに収束していく筋道は非常に分かり易かったと思います。何よりそれぞれのキャラクターにキャッチーな魅力があり十分に視聴者を惹きつけるに足るものでした。その点で『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』はやはり次元が異なって来るなと感じます。

期待値の低さを述べたようになってしまいましたが、これを書いている時点でアニメ版は9話まで放映されており、見る限りでは存外それらしい齟齬は起こしておらず「リフレクター・デバイスで用い主人公がプレイヤーと同様に過去に戻ってやり直している」「最終的な動機は父を探し出すことでそのためにアイテムを集める」「各ルート終わりになると主人公は元に戻され別ルートを辿り直す」の三点が大掴みに理解できていれば支障なく見れるようになっています。主人公の主観で物語を線的な流れとして捉えることでスムーズにアニメ化が可能になっているのでしょうか。自分の見立ては単に原作未プレイ者の杞憂であったのかもしれません。

どちらかというと『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(2019)のアニメを見始めたときに感じたのがリアリティの齟齬でした。

元のゲーム版で長岡康史さんが手掛けた原画から、リメイクの時点でグラフィックが刷新されてはいますが、その上にアニメ版はキャラクターデザインが大塚舞さんで制作会社がfeelという『この美』ラインの作画陣であり、そのちょっとしたチープさが親しみやすさに繋がっているようなデザインは、『YU-NO』のハードなリアリティと果たして相性が良いかというと疑問が残ります。主人公の振る舞いが時代がかっているというのもありますが、アニメを見ていてもキャラクターの言動や台詞は’90年代のままでキャラクターのリアリティだけ2019年になってしまったようなちぐはぐさはどこか付きまといます。最初に配置されているルートが未亡人となった義母との恋愛というのも、今のアニメファンからすると生々しさのある題材ですよね。

他方で、先に放映された話数における澪のルートでの関係性の発展など、随所に光る演出も見られ、瑕疵を補って余りあるだけの真価は有しているのであって、このシリーズの鑑賞もやはりゆるがせにはできないでしょう。

 

さて、一部ではよく知られているように、『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』('96)がアニメ化されるのはこれが初めてではなく、'98年~'99年にかけて成年向けアニメとして映像化され、全4話のOVAが発売されています。

手元にあるのはDVDで出た『YU-NO the Best』で、OVA全4話分を一枚でまとめたもの。

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 (DVDジャケットになっているキャラはおそらく澪とユーノ)

前半2話は監督が金澤勝眞さんで、ウィキペディアには『School Days』と『Gift』の演出家としての仕事が紹介されていますが、この人は『蛍子』という猟奇ホラーアニメの傑作を手掛けているし、また、りんしんのエロアニメ時代の名作『新世紀 淫魔聖伝』に原作として関わっていたりと、個人的にも信頼度は高い演出家である。また、作画監督高橋丈夫さん*1がいたり、後半のキャラクターデザインを『とある』シリーズで知られる田中雄一さんがやっていたりと謎にスタッフに恵まれているアニメでもある。
原作未プレイの身ですが、ゲーム版のシナリオを知らない分かえってフェアに見れるかもしれないと思い、このOVA版も見てみることにしました。概ね第一話および第二話が現代世界編、第三話および第四話がファンタジー世界編の二部構成になっているので分けて紹介することにしたい。

 

第1幕「誘惑する事象たち」, 第2幕「不連続体のコンチェルト」

とにかく冒頭がまずぶっ飛んでいる。

「会いたい…会いたいよ、パパ」(女の子の声)
剣ノ岬で待ち合わせをしているたくや
「あゆみさんたち、一体どこに行ったんだ?」

 

岩陰で美月とあゆみがやり取りしている。
「私たち、親友じゃない…」
美月があゆみに強引にキスする。
たくやはそれを覗き見ている。

 

突然たくやの横で緑色の光が現れて
少女(ユーノ)が出現
たくや「きみは一体…?」
少女、たくやに指輪をはめたのち消滅。

 

美月、たくやに気付き銃を突きつけ
指輪を渡すように迫る。
美月を止めるあゆみ

 

美月の発した銃声が鳴り、岬の離れた場所にいた澪が振り向く。

三人(美月、あゆみ、たくや)のやり取りをのぞき見している澪
澪の横にいきなり神奈出現。

 

次いで三人と二人それぞれの前に緑色の光出現
→皆違う次元に飛ばされる。

 

タイトル入り前の冒頭3分足らずでこれらの展開が矢継ぎ早に起こり、この場面でキャラクターを全員出して後の伏線となる描写を入れているのだが、初見だとキャラクターが誰で何が起こっているかも分からないし頭がおかしくなりそうな編集である。

OVA版だと主人公はリフレクターデバイスを持たず冒頭でユーノに渡された指輪の力で様々な次元(事象)に飛ばされているらしい。父親は全く登場せず、そのせいで主人公の動機が明確に定まっておらず色々な場面を連ねたような作りとなり、やや散漫な構成になっているのは否めない。

 

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キャラデザインの話ですが、OVA版のキャラクターデザインは骨格がしっかりしており陰影の描写も細かく、作画はこちらの方が2019年のTV版よりも良い。月並みな言い方であるけれどストーリーの奥行きを感じさせるデザインというか。ここから見るとTVシリーズのキャラデザインののっぺりした平板さが目立つ。

一方で(『AIKa』シリーズよろしく女性キャラクター全員がノルマのように全員パンチラしていくのがシュール過ぎるのは別としても)性行為シーンの挿入が唐突であったり、キャラのパーソナリティが見えなかったりと脚本や構成にはやや粗雑なところが目立つのが瑕疵といえる。

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保健医・絵里子先生のキャラデは完全にOVA版の方が良い(ちゃんと煙草吸ってるし)。

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澪は(テイストは違えど)ほぼ唯一デザインがあまり変わっておらず、どちらかというとTVアニメ版はOVA版のキャラデザインを現代風にリファインした感じになってますね。

 

OVA版で最も目につくキャラ改変は朝倉香織である。

TV版だと原作と同じくジオ・テクトニクス社の不祥事を糾弾するニュースキャスターであるが、OVA版だと他校の女子校生という設定になっている。

ジャーナリストであると同時に産業スパイであるという元の設定はある程度共有しつつ、ニュースキャスターの要素はオミットされ密かにたくややあゆみに接近し企業秘密強奪を企てる女子校生キャラに。あゆみの研究と企業秘密、報道とのつながりを描いている尺の余裕がないため改変したのだと思われます。

 

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上画像の場面で香織が(TV版と同様)超念石をジオ・テクトニクス社から盗み出すために石で水槽を叩き割ってそのタイミングでアラートが鳴るのだが、そこで駆けつけて来るのが別室で情事のやり取りをしていた美月とあゆみの二人のみである。これだと研究開発・運用を行っている作業員があゆみだけみたいな小さいスケールの印象になってしまうし、流石にこれは無理がないか…? 

また、香織は何故か女子校生の多数属する円光クラブのような場所の元締めをしており、神奈もそこに所属している。

 

OVA版は成年向けアニメですが、 前半2話に主人公が絡む性行為は一切なく、正気を失った澪を始めとしたインモラルさ漂う同性同士の絡み、美月によるあゆみへの誘惑、円光女性校生数人から企業秘密を迫られあゆみが受ける百合強姦*2、あゆみと豊臣との意に添わぬ形の性交など、どうもセックスをグロテスクなものとして描こうとする趣向が垣間見える。この辺りは金澤さんの作家性なのでしょうか。

 

それにしてもエンディング入りで最初に出るクレジットが「企画:乱 交太郎」なのは何とかして欲しかった。いや、成年向けアニメに変名クレジットが多いのは理解しているつもりですが、流石にこれは笑わせに来ていないか…?

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第3幕「分岐点のシンデレラ」, 第4幕「世界の果てで女神は唄う」

後半はファンタジー世界編である。

2話ラストで、指輪を道しるべとして主人公は未知のファンタジー世界へ旅立っていく(というかいきなり異世界に飛ばされる)のだが、ストーリーはそこから始めるのではなく、たくやと同じくらいのタイミングでたくやを追ってこの世界へトリップしてきた澪の視点からスタートする*3

澪が降り立ったファンタジー世界においては何年も経過しており、たくやは妻子(セイレスとユーノ)とともに家庭を築いており澪はいわゆる浦島太郎状態である。後からたくやの過去回想シーンが入り顛末が明かされるようになっている。

 

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ファンタジー世界で初めて登場したユーノやセイレスは田中雄一さんのキャラデザインですが、前半の青木哲朗さんキャラデのテイストとはまた異なり’90年代ラノベチックなキャラデ(『フォーチュンクエスト』の人とかをちょっと思い出す)に仕上げており抜群にアニメ的なセンスを感じさせますね。特に第3話の作画は素晴らしい。

 

後半2話では前半2話で出た現実世界のヒロインたちも皆登場し、加えてファンタジー世界でのキャラも加わるので大変ストーリーが混みあっているのですが、

OVA版で描かれている限りのメインストーリーをまとめると、

テラ=グラントという場所にある神殿ではこの世界の事象を全てコントロールすることができる。たくやとセイレスの子として育ったユーノはそこに連れ去られていき、たくや達の記憶を失くし世界の運命を導く巫女として祭り上げられる。

終盤でたくやは変貌したユーノに迫るがその姿を見てユーノとは気づかず斬りつけようとしてしまいその報復として致命傷を負ってしまう。

ユーノはその後たくやから指輪を託されたのち他次元に旅立っていき、(現実世界での)いくつもの並列世界におけるたくやとヒロインたちのハッピーエンドルートを目撃していく。

ストーリーは円環構造をなしユーノは冒頭のたくやとの出会いのシーンまで戻っていく。そして今回は全ての記憶を持っているらしいたくやと共に、二人は次元の彼方へと旅立っていくのだった。

 みたいな話でしょうか。

 

実際見てみるとおそらくオリジナル要素と原作のストーリーとで多少強引なかたちで辻褄を合わせており、また全体的に原作のダイジェスト的なものになっているのは否めないですが、エンディングにおいて冒頭シーンに帰って来る円環構造であったり、ファンタジー世界でのキャラの関係が現実世界に帰って行ったりと、恐らく原作にもあるであろうエモのポイントは感じられます。

澪のパーソナリティは前半と後半とで連続しており、全体を通じて比較的ちゃんと描かれているように感じました。そういえばOVA版でも結局神奈はどういう存在なのかはよく分からないままだったような気がします。

OVA版は原作信者からは糞改変と叩かれているようなのですが、原作未プレイの私からすると、もちろんダイジェスト感や破綻は無視できないけどそんなに悪いアニメでもないし、随所に好きな表現もありで、これはこれで良いんじゃない?と言いたくなる、そんな作品でした。

最後に、これから見ようとする人も少ないだろうので作画オタクにならってクレジットを起こしてみる。何か参考になれば幸いです。

 

第1幕「誘惑する事象たち」

監督 金澤勝眞
キャラクターデザイン 青木哲朗
脚本 工藤治
作画監督 高橋丈夫 作画監督補佐 瀬上幸雄
原画
瀬上幸雄 石丸賢一 田野光男 清水勝祐
綾奈舞衣 森山孝治 吉本拓三 木村剛
桜井正明 小川敏明 島田大助 川合正起 Gユニット

 

第2幕「不連続体のコンチェルト」

監督 金澤勝眞
キャラクターデザイン 青木哲朗 石原恵
脚本 工藤治
絵コンテ協力 ももいさくら
作画監督 石原恵 瀬上幸雄
原画
加藤やすひさ 石野聡
高橋丈夫
木村剛 土肥真 服部憲知 桜井正明 川合正起
スタジオアングル
加藤真人 小川敏明 島田大助 佐藤博之 HEE WON Co.

 

第3幕「分岐点のシンデレラ」

監督 矢越守(矢吹勉)
キャラクターデザイン 田中雄一
脚本 工藤治 かついまさお
絵コンテ 矢吹勉 絵コンテ協力 ももいさくら
演出 緒館比野麿 作画監督 七海修
原画
田野光男 瀬上幸雄 絵務師 清水勝祐
服部憲知 加藤真人 桜井正明
小川敏明 川合正起
スタジオアングル

 

第4幕「世界の果てで女神は唄う」

監督 矢越守(矢吹勉)
キャラクターデザイン 田中雄一
脚本 工藤治 ももいさくら
演出 山内博美 作画監督 中森吉春
原画
神原敏昭 黒山柳一 青柳重実 小橋正弘
藤宮博也 嘉村弘之 木村剛
丸英夫 南雲公明 今井武志 新井憲 八木元喜

 

*1:後に『狼と香辛料』シリーズ等を監督。エロアニメでは『そらのいろ、みずのいろ』を監督し高い評価を得ている。

*2:「百合テクで~」という表現が作中では使われている。

*3:澪がここでファンタジー世界にやってくるのはオリジナル要素らしい。

映画『バースデー・ワンダーランド』(2019)感想メモ

※基本的にダメ出ししてます注意。 

 

ファーストショットから人物不在のBG6連続、そこからパンアップするカメラ、主人公の登場、「空が青すぎて溺れそうになる…」とビートルズの歌詞のようなセリフを言う。続く場面での料理表現の異様な力の入りよう、そしてブランコに乗る伸びやかさの強調された芝居を見るにつき、日常的な芝居を描写する原恵一の才能をまざまざと感じさせられる一方で、学校での回想シーンをクロスカッティングで挿入するつなぎの野暮ったさ(回想に入ったのか学校に行ったのかが判然としない)に観客は既に幾ばくかの不安を掻き立てられることだろう。

この映画ではSAVE THE CATの法則で言われているような、観客がキャラクターの行動に共感し、好きになれるような掴みがないため、主人公のパーソナリティをよく分からないままに見なくてはいけなくなっている。この映画が冒険ものとして成功していないとすれば、そこに敗因があるのかもしれない。

映画全体を通じて目につく問題点は多数あるが、気にかかった要素を以下に順に挙げてみたい。一つ目はアカネの旅に同伴する、叔母のチィのキャラクターである


■叔母のキャラクター

ワンダーランドに入ったところで二人は、ピポとヒポクラテスによって、この世界から水が枯渇しつつあり色が失われていっていることが知らされる。しかしその場面において叔母さんのチィは平然と水をおかわりし、「話を嫌々聞かされている」という態度を隠そうともしない。この時点でこのキャラクターのことを「わがまま」としか認識できなくなる。

映画全体を通じ、チィの、他キャラに敬意を払わず勝手に動き回る行為がこのキャラクターの「自由奔放さ・元気さ」の表現として提示され、その振る舞いが作中で断罪されないところに、この作品はそういったことが普通にまかり通る世界観なんだなと脱力感に襲われる。
チィは勝手に冒険に付いてきた上に、アカネの後押しをするといった役割も果たさず、ついに世界を救うことに全く貢献せずに元の世界に戻っていく(車のドライバーになったことくらいか)。元の世界に戻って来てから、映画の最初にランプを売りつけた客に対してもすげなく放置するだけで終わり、疲労感を漂わせるだけで彼女自身のパーソナリティに変化も見受けられない。彼女のせいで物語がすっきりと終わらない。叔母さんのキャラクターは何故この映画に登場したのか。不要ではないのか。こうするくらいなら案内役・保護者としてワンダーランド内の住人を一人設定して同行させても良かった。
最後にしずく切りの儀式をする辺りで、これが(チィの見せどころとしては)最後のチャンスだぞ!と祈ったのだが、とうとう何もなかった。


■劇伴

音楽をかけるシーンのセンスのなさが目立つ。映画冒頭、ヒポクラテスの登場シーンは絨毯がめくれ上がる前から元気よく曲がかかりはじめるため、異世界への扉が開くことに何の驚きもない。ここは音楽のタイミングを後の方にずらすべきだった。
また、後半、ヨロイネズミの中で馬が現れ暴れるだけのシーンで、大詰めのクライマックスのような緊迫感に満ちた音楽が流れるところは思わず笑いそうになってしまった。


■旅の目的

本作はワンダーランドを舞台にした一種のロードムービーであるが、彼女たちの旅の当初よりの目的は、村で編まれたセーターを市に届けに行くことである。しかしセーターは審査に回されることであっさりとフェードアウトする(エピローグで1カット成功が示されるのみ)。旅の目的それ自体はどうでもいいものだということになってしまう。それがあくまでマクガフィンとして機能するものということが了解されるとしても、全く本筋と関係なくなるのはどうなのか。

そもそも「村長の母が作っているセーターが売れなくなっている」のは作中ファンタジー世界におけるその村の相対的な不幸であって、それが「世界の破滅」に帰属するものだと考えるのは錯誤であろう。そのため、セーターを届けに行くこと自体、後の、世界を救うという展開には関係のないものになっている。


■儀式を前にした王子と、ザン・グのパーソナリティの連続性

王子には、しずく切りの儀式を行うことに対する恐れがあり、それによって世界の破滅を招いてしまうのだけれど、王子の抱える弱さ/闇の部分がどのように解消されたかが分からない。
映画を見る限りだと、

アカネが王子に「この世界の美しさ」を伝え、王子は儀式に臨む
→「しずく切りの儀式は命をかけて行われる」という情報の開示
→アカネが儀式に失敗した王子を命を懸けて抱き留める

という風に物語が進んでいる。
何故情報の出し方がこういう順序なのかというと、王子が儀式への参加を決意するシーンで「命の危機」がほのめかされると、主人公はおちおち王子に儀式への参加を説くこともできなくなるからだろう。
かといって、映画内における当該のシーンを見ると、命をかけて行われる儀式に対する恐れを払拭するだけの説得力のあるイベントは配置されていない。王子には、それによって世界全体を犠牲にしても構わないと思えるだけの強い不安があったと考えられるけれど、それが、よそ者から「この世界が美しい」という事実を説かれるだけで解消されるものなのだろうか?

思うに、「王子の内面=ザン・グの意志」が直結しているように見えるのが良くない。王子の抱える闇の部分は王子のパーソナリティとして直接描くべきではなく、「自らの弱さに付け込まれて悪の力に利用されていた」といった見せ方にするべきだった。映画を見る限りだと「王子の内面=ザン・グの意志」に直接つながってしまう(そのように見える)ので、ザン・グの抱える闇の部分があっけなく解消されるのにどうしても違和感がある。

映画内においてアカネは「運命の少女」ということになっていて、そのことは二人が同じようなヒカリ虫を持っている描写で仄めかされているっぽいのだけれど、実態のないつながりであって、それが説得力を持つまでに至っていない。


■主人公の内面が変化する描写

終盤に主人公が命を賭して王子を救おうとするのも唐突で、ここは映画全体を通じて段階的に変化を描くべきだった。

ワンダーランド内において「前のめり」の力によって主人公は動かされているのだけれど、実際には最初の一度しか使われていないと終盤になってヒポクラテスから種明かしをされ、それは世界に入って行くところだけだという。ワンダーランド内で前のめりの力が使われたシーンは村からセーター届けに旅立つところだけれど、これは実際には嫌々ながら説得されて旅立ったということだろう。
終盤、王子を救う場面で、「前のめり」の力を借りて主人公が行動を起こすという描写にするなら、

最初は「前のめり」の力に強制されて、嫌々やる
→(人から言われて初めて、「前のめり」の力を借りて行動する)
→嫌と思いながらも、やるべきなのだなという意識から行動する
→自ら主体的に考え、積極的に行動を起こす

といった風に段階的に「前のめり」の力を内面化していくべきで、そうした過程がすっ飛ばされているためクライマックスに「前のめり」の力であっけなく命を懸けることの唐突感が凄い。感動を誘う場面であるのに特に感動できるところがない。
しずく切りの儀式では映像での盛り上がりとドラマの高まりが全く同期せず、いきなりボーカル付きソングが流れてアカネとチィが当然のように涙を流すのでギャグかと思った。

この映画においては主人公の動機やモチベーションの変化といった部分が圧倒的に不足している。最初に主人公は学校で友達がいじめられているのを放っておいてしまい、罪悪感を覚える。そこからの変化なのに、ファンタジー世界を通じての変化の内容が、いじめの看過という出来事と全く対応していない。ビフォアアンドアフターにおける変化も、さして重要なものではないかのように、本編後のエンディングロールであっけなく(仲直りが)示されるのみである。

そして冒険が終わった後、「私の世界は前より広がった、気がする。」という圧倒的説明台詞に本編のストーリーが集約されてしまい、またもや脱力感に襲われる。


■旅行ムービーと世界の救済

この映画が主人公の冒険を通じての成長を描くものではなく、日常生活の延長線上での旅行を描きたいのであれば、ストーリーの要素をもっとずっと削るべきであって、彼女たちのロードムービーに「世界を救う」という展開を強引に繫げていることが破綻を生んでいる。無理に世界の命運を握らせるのではなく、ファンタジー世界での旅行を描くアニメがあっても良いと思う。「世界を救う冒険」をさせたがるのはアニメ映画の呪縛のようなものなのだろうか。旅行や日常描写の多さは新しいことをやろうという試みの一つなのだろうけれどこの映画においてはあまり上手く行っていないように見える。

映画は、彼女たちの能天気な旅行と ザン・グによって破壊される街が交互に入る構成になっており、つまり「世界の美しさ」を示す部分と「世界を壊そうとする者」の部分とが並行して続いている。上映開始から70分くらいまでそういった流れなのだが、雄大な超ロングショットで世界が映し出されその美しさが示される、といった場面が三度も四度も出て来るといい加減飽きてくる。
シナリオ上のセオリーとしては、

世界の美しさに驚く
→しかしその世界は破滅の影が見られ、主人公たちはそれを感じ取る
→それを救うことに決める

といった順序があり、「美しさに驚く」といった場面は映画の中盤過ぎにさしかかるまでの時間をかけて何度も何度もやるべきではない。

 

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以上のような専らシナリオに起因する問題点は差し置いても、最初に羊の大群に襲われるシーンに始まり、全体的に演出や編集があまり上手くなくて、原恵一さんの代表作が『オトナ帝国』であるとするならそのホラー演出のキレの良さはどこに行ったのか。

結果として、「シナリオと演出は壊滅的だけどスーパーアニメーターによる作画表現は素晴らしい」という屈折した評価を下さざるを得なくなっている。実際、しずく切りの儀式のシーンを始め、作画表現の素晴らしさを感じるところはいくつもあった。あくまでカット単位での素晴らしさであって、ドラマと有機的に結びついた素晴らしさではないのが歯痒いけれど……。

細部で気になったこととして、カマドウマに弟子入りしたドロボがああなったことについての説明はあっただろうか?特になかったように見える。実は細部で説明されていたのを見逃していただけだろうか。