highland's diary

一年で12記事目標にします。

劇場OVA『フラグタイム』(2019)感想

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同じく劇場OVAとして公開された『あさがおと加瀬さん』に続き佐藤卓哉さんが監督を手掛け、『加瀬さん』は新書館の百合レーベルより刊行された漫画が原作でしたが、今回は純粋な百合レーベルではない、秋田書店の少年誌レーベルより刊行された漫画が原作の作品となりました。

制作会社が違うこともあり、作画に関わるスタッフは前作と大きく異なるのですが、音楽担当のrionosさんをはじめ色彩設計、撮影、編集といったセクションの方は共通しており、こうしたポスプロ関連の陣営が共通していることで前作と共通したテイストを残すフィルムになっています。

ファーストショットは黒背景に時計の刻むチクタクという音から始まり、砂地に映し出される文字、そこから公園の砂場、海岸の浜辺と映し出され、それら両者がともに「砂時計」のモチーフで繋がっていることが示されたところで、舞台は主人公のいる学園へと移っていきます。

このシークエンスからも分かるように本作においては砂場や海岸、砂時計、更には鳥や電柱といったイメージがしばしばインサートされ、学園を舞台にした二人のドラマを引き立たせています。

砂場は幼稚園や幼少期のイメージと結び付いており、これはトラウマや本心を幼少期の自分として表現する演出でしょう(『エヴァ』とか『アイマス』とかで見られたような)。

海岸のモチーフはラストで、映画版のキービジュアルにあるような、二人が屈託なく逢瀬を交わせる場に繋がっていきます。

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砂時計は砂場と海岸の両者を結びつける媒介となるもので、冒頭のシークエンスにおいても時間が停止すると同時に遊ぶ子供たちや、浜辺に寄せる波が止まるイメージが描かれています。

随所に挿入される、砂場に映し出される文字は心象風景であると言えますが、この演出が発展していった真骨頂と言えるのは、森谷さんが村上さんのベッドの引き出しを開けた時に、砂場の土が最初に画面一杯に映るシーンで、これは鮮烈なイメージで思わずどきっとさせられた所です。

村上さんの単語帳は実際に原作でもかなり闇を感じさせる描写で、「ベッドの下は見ないでね」という言わば誘い水となる台詞を受けた森谷さんが、村上さんが奥に秘めた内面を直視することを選択した局面で出て来るものです。それだけの強い表現として描く必要があり、不気味さを演出する効果的な見せ方になっていました。

以上でも述べたように『フラグタイム』はイメージ先行型のフィルムで、見方によっては前衛映画と言っても良い作りだったので少し驚かされました。そしてこれはもちろん「静止して隔絶された空間を通じコミュニケーション/ディスコミュニケーションを描く」という本作の題材と結び付いたものなのですが、ことによると本作の制作環境と結び付いた作りであるかもしれません。

前作の『加瀬さん』の方は、佐藤監督が長年パートナーとして組んでいる坂井久太さんが総作画監督を務めていることもあり、イメージの飛躍は抑え目な代わりに、一つ一つの表現(レイアウトや作画)についてじっくり愛着を持って作られている感じが出ています。

逆にティアスタジオで制作された『フラグタイム』は、艶のある作画のキャラクターをあまり動かさない方向性で、音響と美術で見せる静的な趣向(オーディオドラマ的と言うべきか)になっており、アニメートそれ自体ではなくイメージを主体に構成していく作りになっています。そしてそのことによって、逆説的に、佐藤監督の作家性を『加瀬さん』よりも強く感じさせるものになっていました。

本作の評価についてはざっくり以上のようにまとめられそうなのですが、他方で、さと先生の『フラグタイム』の原作を既読の状態で鑑賞した身としては、微妙な気持ちになったのは事実です。

以下では映画の感想について話を移し、本作についての個人的な考えを述べてみたいです。なお、劇場で一回見ただけの感想なので記憶違いがありましたら訂正します。

 

まず指摘しておきたいのは、映画版『フラグタイム』は、基本的には漫画版と同じ流れのストーリーなのだけれど、台詞であったり演出だったりの細部を変えることで、違う内容とメッセージになっているということです。つまり、実際のところ、直ぐ様それと見て取れる大きな改変はないのだけれど、細部を変えているので違った印象を受ける作品になっています。

映像化の際になされた改変はいくつかありますが、自分が決定的だと思ったのは、

  1. 主人公/森谷さんが最初に村上さんのスカートをめくるまでのシーンで、モノローグをなくしている。
  2. 最後に主人公と村上さんが廊下で言い合いの喧嘩をするシーンで、周囲を取り囲む生徒たちがいなくなっている。

の二点です。この二点があることによって、印象も意味合いもだいぶ違ったものになっていると思います。

 

ノローグについて

まず1.についてですが、モノローグ全般について述べると、映画を見た方は主人公のモノローグがそこそこ多いためあまりそう感じなかったかもしれませんが、原作のモノローグはこれでも割と削っていて、主人公の赤裸々な内省や一人語りはそれほど露骨ではなく、自意識過剰な感じがあまりなくなっています。

漫画の方は、ほぼ一貫して主人公の内面に視点が入り込んでいて、主人公の本音や欲望を滲ませた明け透けな独白に自己を重ねる形で読者は読むし、村上さんが主人公に対してする挑発には「お前はこういうことがしたいんだろ?」と読者も同時に言われているような感じもして来ています。

映画版ではそういう露悪的なニュアンスがなくて、そのため、奥手でコミュ障な主人公が村上さんの言動に翻弄されていくという図式は漫画版と変わりないですが、内部に視点が入り込むのではなく「一対一の対話」で、外から眺めている感覚に近いため、不器用ながら相手に手を伸ばしていこうとする意味合いが最初から強く出ていました。

つまり、モノローグを削ったことで主人公/森谷さんの自意識は原作と比べ希薄なものになっています。

原作と同じ流れながら印象を変えているシーンの例として、例えば原作での第1巻80頁前後に当たる、保健室にて保険医さんの目前で時間を止めて主人公が村上さんにキスをするシーンがあります。

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映画版ではこのシーンの流れは、最初に村上さんが主人公に挑発するような調子でけしかけることで、主人公が時間を止めてキスする流れだったと思うのですが、原作では主人公が衝動的に時間を止める選択をして、その後願望を正直に吐露する流れになっています。

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このシーンでの「時間を止めてキスをする」という行動や、起こるイベントの内容、「自分がしたいことを主体的に表明し相手にぶつける」という結論それ自体は原作でも映画版でも同じです。

しかし、原作では(作中での表現を借りれば)主人公の「変態」「童貞」っぽさを感じさせるシーンが、映画版だと村上さんの方が小悪魔的な感じで主人公をけしかけることで、主人公のぎこちなさという要素は消え、むしろ「村上さんに翻弄される」という主人公の立ち位置が前景化しています。原作にあった、主人公の欲望/願望の要素が削られることで、異なる印象を与えるシーンになっていると言えます。

こうした、「自意識を削ぐ」「(欲望を除き)清潔化する」アレンジについては他シーンでも見られ、その最たるものは、1.に挙げた「主人公/森谷さんが最初に村上さんのスカートをめくるまでのシーン」でしょう。村上さんと森谷さんの物語の起点となるこのシーンにおいて、主人公がその背景となる心情や生い立ちについて述べるモノローグは大胆にカットされており、主人公の動機については間接的に仄めかされるに留まっています。

本来であればいきなりスカートをめくるという行動は唐突であり、その後ろ暗い気持ちが明かされることで初めて了解されるような事態と言えますが、それを示すモノローグがあえて削られていることで、この行為はあくまで「二人が関係を取り結ぶきっかけ」としてのみ前景化することになっています。ここにおいても「自意識の希薄化」及び「対話の表現への移行」が顕著に見られます。

 両者の違いについて、

・【原作】:主人公の内面に入り込んで村上さんに迫っていく構図

・【映画版】:一対一の交流を見ている感じ

とここではまとめておきましょう。

そしてこれは、一概に原作の要素を損なうアレンジであるという訳ではもちろんありません。むしろモノローグを最低限必要な量にまで削り、非言語的なものにしたことで映像としてより洗練されたものになっているとも言えます。

注目すべき点としては、このアレンジは、映像化に伴うモノローグの省略を機に起こったものであるかもしれないということです。前提として、時間芸術である映像では漫画のように多くのモノローグを乗せることが出来ず、また、多くのモノローグをナレーションで読み上げることは映像としての情緒を損ないます。

主人公のモノローグを削るためには、主人公がもっぱらモノローグを発することで説話を進めていくという原作漫画のスタイルからある程度脱する必要があり、そのため「一対一の対話」が際立つようなアレンジになったのではないでしょうか。

そうすると、両者の相違はメディアの違いによる変奏だと考えられて面白いです。

 

クライマックスシーンについて

2.については、作品のテイストというよりはそのメッセージの部分において影響を与えている変更点です。

森谷さんと村上さんが廊下で言い合いの喧嘩をするシーンで、原作では周囲を取り囲む生徒たちがいて衆人環視のもとでこの対話はなされるのですが、映画版では二人以外の誰の姿も見えない状態で、二人は本音でぶつかり合います。

原作でも映画でも、このシーンが作劇全体においても重要な意味を持つのは、それまでの物語では一貫して森谷さんが語り部として話が展開しますが、ここで初めて他者である村上さんのモノローグが入ってくることによります。それまでは主人公の推測を通してしか表されてこなかった村上さんの心情が直接入って来ることで、相手との本音での関わり合いが生まれるのと同時に、「一人の話」から「二人の話」へと作品の持つ意味合いが変わって来ます。

しかし、このシーンの描写は映画と原作とで異なったものになっています。

映画だと自分と相手だけの世界に入り(雑味のない状態で)、これまで互いに抱いていた感情に答えを出すシーンになっていますが、これは原作だと、二人の会話に被さる形で周囲を取り囲む生徒の台詞が途中から入ってきて、それを切っ掛けとして村上さんのモノローグもまた入ってくるという感じになっています。重要な点としては、村上さんが森谷さんに対して抱いている自身の気持ちに気付くきっかけを、普段村上さんに接している(森谷さん以外の)他の生徒が引き出しているということです。

そしてそのことによって、そこで彼女たち二人の関係から、ほかの皆んなを巻き込んだ関わり合いにまで話が膨らんでいく感じが生まれています。

つまり、映画だと主人公のモノローグ→村上さんのモノローグと展開することで「一人の話」から「二人の話」へと変わっていくのですが、これは原作だと「一人の話」から「二人の話」に広がるのと同時に、それを見守っている「みんなとの関係」にまで膨らんでいっています。そしてそのことによって、「みんなを前にして自らの本音を率直に出す」という性質が付与されています。

まとめると、話の水準の推移は以下のようになっていると言えるでしょう。

・【原作】:「一人の話」→「二人の話」→「みんなとの関係」

・【映画版】:「一人の話」→「二人の話」 

実際、原作ではこのシーンにおいて二人の気持ちは他の人たちにも知られることになり、彼女たちのその後の境遇にも少なからず影響を与えていることが分かります。

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原作ラストの上ページのシーンは映画版でもあり、モノローグの内容も多くが残っていますが、映画版だと「みんなとの関係」にまで波及は起こってないため、二人を取り巻く環境の変化はあくまで限定的です。クライマックスでの二人の言い合いが、「みんなを前にして心情を吐露する」というシーンではなくなったことで、映画版では森谷さんと村上さんの(同性愛の)カミングアウトもなかったことになっています。恐らくは「なかったことにした」というよりは、描かなくていいものとして「省略された」という方に近いのだと思いますが、いずれにせよ異なる質の結末になっていることは確かです。

映画版の作り手(ここでは仮に監督だとします*1)が、この二人の最終的な関係をどのようなものとして提示したかったのかについては、ラストシーンの描写に如実に現れています。

原作でもアニメでも、ラストシーンは最後、校内で別々のグループにいる二人が目配せするシーンで、この時に他の生徒も映っています。そうして映画版でのオリジナルの描写として、映画のラストに持ってくる絵が、キービジュアルにあった「浜辺で二人が歩いているイメージ」のショットになっています。ラストカットに浜辺のイメージが出た後、二人が足跡だけ残して消えるという描写です。

この演出は、二人の「恋愛関係がバレてしまっている」という描写の代わりに入れられたものだと思われますが、映画版の監督は、百合的な関係をどこか「秘匿されるようなもの」として提示してきている印象を私は受けます。映画版では、二人の関係性についてはあくまで「二人の間だけに通じるもの」として結論付けられているからです。

森谷さんの能力的に秘匿のイメージで映画をまとめたかったのかな、という風にも思いますが、ただ、森谷さんの能力が消えて行くことで、周囲の人たちとの関係にも変化があるというのがストーリーの本懐なので、映画版は原作と比べてどこか物足りない印象も受けます。

監督の意図としては、「みんなと通じ合えなくて上手く行かなくても、好きで分かり合える人が一人いればいい」という映画版のテーマに着地させるために、雑味となるような要素を削ぎ落としたのでしょう。あるいは百合作品として純度を高めたいということによるのかもしれません。

ただ、本音でのコミュニケーションから逃げていた主人公が、プライベートな関係や、人前で隠しておきたいことも含め丸裸にされることで吹っ切れるというこのラストシーンは原作漫画全体を通じても大きなカタルシスを生む部分であり、映画版ではそれをあくまで二人きりの対話のシーンにしたことで、そのシーンが作品に影響を及ぼす範囲は限定されてしまっています。

原作と映画版のラストにおける二人の関係は、それぞれ以下のようになっていると言えるでしょう。

・【原作】:二人の関係は特別だけれどオープンなものになる。

・【映画版】:二人の関係は特別なものであり他者からは秘匿されている。

 

最後に

1.及び2.の変更点を見てみることで、原作から映画版へ翻案される際に方向性の転換が起こっているということを見てきました。

個人的な感想としては、映画版への翻案を通じ原作の価値を損なうようなことはしていなかったと思うのですが、監督の美意識で作品全体を覆っていくといった面は感じられ、自分が良さを見出していた部分は削られていたような感じも受けたのは事実です。もっと毒っ気のある脚色が見たかった身としては、好みド直球とまでは行かない感じでした。

実のところ、自分は原作を元々読んでいて、アニメ化されるという報を見た時「岡田麿里脚本で映像化されるのを見たかったな」と思ったのです。

岡田麿里脚本イコール「あけすけな台詞」「露悪的な展開」「共感性羞恥を思いきり刺激されるシーン」「叫びながら互いの感情を赤裸々に吐露するクライマックス」なイメージを持ってしまうのは流石に安易ですが、実際に漫画を読んでいて岡田麿里作品のテイストを感じたのは事実ですし、岡田さんがもし脚本をされるとしたら、上で述べたような点について拾った脚色をしてくれるかもと思ったからです。ご本人も百合作品の仕事で実績の多い人ですし、岡田麿里さんが脚本書いたバージョンも見たかった…!と思いました。

ただ、このような感慨を抱かせてくれるほどに演出と作画が良かったとも言えるので、いずれにせよ視聴推奨な作品ではあります。映像ソフト化されれば良いのですが。

 

「フラグタイム」オリジナルサウンドトラック

「フラグタイム」オリジナルサウンドトラック

 

*1:もちろん実際にはプロデューサーや原作サイドの意向によって決まる部分は大きいですが。

’10年代のTVアニメ各年ベストを決めよう

2010年代ももう終わりに近づいているので、’10年代のTVシリーズのアニメ*1からベスト10を選ぶ恒例の企画をやろうと思いました。

その際、全期間全作の中から10作選ぶのではなく、各年でベスト1を1作品ずつ選出しようと決めていました。いわゆる「’10年代ベスト」といった言い方をしたときに、普通は前者の選び方をすると思うのですが、それだと重要作が多く出た年の作品に偏ったり、また、その人が一番アニメを見ていた時期のものの比重が高くなってしまう(もちろんそれもまた醍醐味とは言えますが)のではないかと思います。

どちらかというと、各年ごとに1作品ずつベストを出した方が、リアムタイムでの感覚が反映されて良いのではないかと考えました。後追いで見ることももちろんありますが、10年間を通してリアルタイムでシーンを追っていたことの蓄積というのはあると思います。

また、TVシリーズ作品に限る理由としては、その方がリアルタイム感が強く反映されるのと、劇場版の場合は「映画」として受け止められる側面も強いという都合によっています。

暫く前からTwitterで「#10年代アニメ各年ベスト10」のハッシュタグを作ってこの提案をやったところ、乗ってツイートをしたりブログを書いたりしてくれる人も多数いたので、まとまった段階でこちらで勝手に集計もしようかなと思っています。

ハッシュタグの作り方が稚拙なせいで、「TV」を入れ忘れたり、「各年ベスト10」の「10」は紛らわしいのでは?と後から気付いたりしました。)

一応、「年をまたぐ場合は開始した年でカウントする」「続編になっているものは基本的には別作品扱い」くらいは考えていたのですが、特にレギュレーションもなしに緩い感じで始めたので、ざっくばらんな結果を出せればいいかなと思っています*2

「そんなレギュレーションとか知らないし自分の基準で選んだベストなのだから数えてくれとも言っていない」と人によっては思われるだろうし、あくまで「こちらで勝手に」集計させていただく形にします……一応集計については真面目にします。

集計すると言っておいて何ですが、個々人のベストについて貴賤なくチェックしたいと考えており、特にブログで記事書いてくれる人がいたらその人のベストは気になるし読みたいな、と思います。

proxia.hateblo.jp

千葉集さんに記事を書いていただきました。どうもありがとうございます。

www.icchi-kansou.com

いっちさんに記事を書いていただきました。感謝いたします。

とりあえず、自分も各年ベストの10作品を決めました。

客観的な評価という観点もありますが、どちらかというと一人の視聴者としてどれだけ楽しんだかという視点での選出です。

 

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2010年 - 探偵オペラ ミルキィホームズ

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第1話で結局4人がトイズを発動できないままに終わったというのがわりと衝撃で、これだと作品の前提が成立しなくなってしまうけどどうやって展開していくのか?という気持ちになったのですが、第12話まで溜めておいて、最後の対アルセーヌ戦でついにトイズ発動してからの怒涛のアクション炸裂でカタルシスを感じさせてくれました。

私的には、『ギャラクシーエンジェル』シリーズにハマって全話見たタイミングで本作を見ることができたので、ナンセンスギャグの似通ったテイストと、「G4」でのギャラクシーエンジェル声優陣参戦もあり、スムーズな流れで『ミルキィ』シリーズにハマっていくことができました。

頭身低めのキャラがデフォルメされた表情で金田調にぐりぐり動く、沼田誠也さんの作画テイストが全編に行き渡っているような感じが凄く快感でした。中野英明演出回の異様なテンション、吉原達矢作監回の破壊的なギャグ作画表現も忘れがたい。

この前久々に人と一緒に最終話だけ見返す機会があったけれど記憶していたより何倍も意味不明でボコボコしたアニメで笑ってしまった。

ウテナ』以後のJ.C.STAFF作品を支えて来た巨匠の美術監督小林七郎さんは本作が実質的な引退作になり(4人が過ごす屋根裏部屋の時代がかった汚さも素晴らしかった)、手描きで背景美術を手掛ける主要スタジオだった小林プロが解散したことで時代としても一区切り着いた感じになりました。

『ミルキィ』シリーズはその後、2016年の劇場版でひと段落着いたところで桜井弘明監督にバトンタッチし、大晦日特番の形で散発的に続編が作られましたが、アイドルユニットのミルキィホームズ解散と共に2019年には終わりを迎えました。'10年代は『ミルキィ』シリーズに始まり『ミルキィ』シリーズに終わったと言っていいでしょう。

 

2011年 - 放浪息子

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志村貴子作品のキャラが志村貴子っぽい塗りで動いている!」と第1話にして全アニメファンの度肝を抜いた本作ですが、ロケハンで撮影した実写の写真を加工したレイアウトに、撮影段階でボカシやハイライトの処理を付けて水彩っぽい塗りを表現、更に被写界深度の演出を付けて見せたいものを際立たせることで画面を制御しており、全11話のシリーズでこれを最後まで破綻なく作れたのは凄過ぎると言わざるを得ません。

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アニメにおいて、「実写ベースの細密なレイアウト」と「撮影段階でのルックのコントロール」の両者はともに'10年代を通して深化していったテーマだと言えますが、本作は2011年にして既にその到達点に立っていたのでは?という気もします。
第1話で二鳥くんがトイレで女装に着替えて出て来るとこで、トイレから出て来てサッと走り去っていく二鳥くんが女子トイレの標識の前を通るのをカメラが映しており、実際には男子トイレから出て来たことが分かると同時に、「男子→女子」への転身を視覚的に鮮やかに表現しており、そのカットで心鷲掴みにされた記憶があります。

(個人的には志村貴子さんの漫画は、時間的飛躍のあるコマ割りと、キャラクターの入り混じる群像劇の要素によって微妙に読みづらいと感じているので、『青い花』や『放浪息子』のように、優秀な演出家により映像化され整理されるとより一層好きになるパターンがあります。)

たまに断片的に見返すことがあるのですが、放映当時より魅力が色褪せない作品の一つです。

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原作の中学生編のエピソードをノイタミナの放映枠全11話に合わせ再構成しており、第1話が二鳥くんのカメラ目線の独白というやや実験的な描写で始まり、それから第3話までかけて独白を交え二鳥、高槻よしの、千葉さおりの三人それぞれの関係性を表現し、整理した上で本筋の話に入っていくのも良かった。

あまり岡田麿里作品というイメージなかったのですが、そういえば『あの花』('11)もこれも『ブラック★ロックシューター』('12)も岡田麿里全話脚本で、この時期の岡田さんのノリにノッてる感すごい。

本作で演出として参加したイシグロキョウヘイさんは後にノイタミナで『四月は君の噓』を監督、撮影監督を担った加藤友宜さんはTROYCAの設立後『やがて君になる』を手掛けました。


2012年 - 戦国コレクション

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前年に放映された『戦国乙女~桃色パラドックス~』('11)は現代の女子学生が戦国世界に転生する話であったと記憶しているのですが、同じくゲーム原作枠の『戦国コレクション』は総勢20人以上の女体化戦国武将が架空の戦国世界から現代にやって来て、各話数において戦国武将の現代での生き方を描いたオムニバス形式の作品でした。

やはりほぼ全話を映画パロで構成したサブカル的な趣向が話題になりますが、ふだん美少女アニメではあまり触れられないような泥臭い題材や市井の人たちにクローズアップした回も多く、各話シナリオの妙なアベレージの高さを含めて、’10年代の『セラフィムコール』('99)と評するに相応しい作品でありました。

セラフィムコール 第三話「洋菓子の味」 [DVD]

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『スティング』回は元ネタの流れをなぞりつつ小技の効いた脚本で楽しませてくれたり、『バグダッド・カフェ』の回は元になった映画は個人的に全然好きじゃないのにこれは良アレンジであったりと、何かと思い出深い作品です。大谷吉継の回だけヨーロッパが舞台で、BGMなしで表現主義的な背景の異色回ながら出色の感動作であったのも印象的です。原作ゲームのグラフィックを素朴なタッチにリファインした柴田勝紀さんのキャラデザインも良かった。基本的に1話完結や前後篇2話のエピソードが多いので、一つ一つを抜き出せば小さくまとまっている面はあるのですが、各話エピソードの充実さという意味では'10年代アニメの中でも随一のものだったと思います。

 

2013年 - 琴浦さん

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例え安易であると言われようが、心を読めてしまう能力を持って生まれた琴浦さんがそれが故に友人と決裂し家庭不和を起こし母親に見捨てられ精神崩壊していく様を描いた第1話Aパートは衝撃であり、あなた達はアニメでこういうのが見たかったのだろう、と突き付けられる感覚がありました。AパートからBパートでガラリと流れが変わるのが快感なのですが、第1話の絵コンテには色調の指定もしてあったのをやたらはっきりと覚えています。

しかし、以上のパートもあくまで物語の前座として最大限の演出効果を狙ったが上のアレンジであり、本筋においては、そうしたバッググラウンドを背負った琴浦さんが真鍋くんやESP研メンバーとの交流を通し人間不信を解消していき、母親とのすれ違いにも決着を付けるまでを描いていたのが何より感動的であり、実直でウェルメイドなドラマを展開したラブコメとして本作は思い返されます。

アニメ終了続きが気になって原作読もうとしたら原作は絵柄全然違うし、しかもアニメはオリジナルの展開で最終話までやったので漫画で続きは読めないし、そのためアニメの二期もあまり望めないと知りちょっとした目眩を覚えたのを記憶しています。

本作のことは純化された美しい記憶になっているのですが、正直なところ今見たら全然違う印象持つかもしれなくて一番見返すのが怖い作品でもあります。


2014年 - ソードアート・オンラインII

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SAOの第1期は放映当時は真面目に見ていなくて後追いで全話見てハマったので、SAOは第2期からリアルタイムで見ることになり、何だかんだこれまでで一番楽しんで見ていたシリーズだったなと思います。

銃撃戦をフィーチャーした新機軸の「ファントム・バレット」編~外伝的な位置付けの「マザーズ・ロザリオ」編までを映像化したシリーズで、その充実さにおいてもピカイチですし、取り分けラストを飾る「マザーズ・ロザリオ」編はSAOシリーズの懐の深さを感じさせ、ここまで追って来て良かったなと思わせてくれました。

数多のアクションシークエンスを始め、第13話のトラウマシーンといった竹内哲也さんの八面六臂の活躍も印象深いです。佐藤信子さん(長井龍雪さんの変名?)が手掛けた、シノンをフィーチャーしたリリカルなED1も良かった。

現在放映中の『アリシゼーション』まで追っているのですが、'10年代を通じて現在80話くらいまで展開していると知り驚かされます。それにしても、SAOはいわゆる「俺TUEEE系」の筆頭として挙げられることが多いですが(確かに願望充足型のファンタジーであることは事実ですが)、それでもレベルアップしていくまでの過程においては不能感を味あわされることも多く、劇場版の『オーディナル・スケール』でもARでの戦闘を強いられそれまでのプライドが折られる展開があるのであって、そういう語られ方をすることには未だにあまり納得が行っていません。

 

2015年 - 六花の勇者

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ライトノベル原作のハイファンタジー作品ですが、このタイトルと題材でハードコア版『11人いる!』をやるとは思ってなかったので新鮮だったのと、魔族を倒す以前の、7人の勇者間の腹の探り合いだけでほとんど全話使ってしまうストイックさは全面的に買いたいと思いました。

7人全員が結界で森に閉じ込められたという舞台設定で、会話主体の密室劇を展開しながら常にアクションを伴わせて飽きさせない作りになっていました。

高橋丈夫監督が直近の『女子高生の無駄づかい』に至るまで多用している)回り込み、スライド、旋回とやたら動く立体的なカメラワークを心理戦のストーリーテリングに活かしていくのも良かったです(多用し過ぎて終盤になって目に見えて体力なくなって来ているのも少し面白い)。フレミー役の悠木碧さんも好演を見せ、その圧倒的に陰を背負ったそのヒロイン像を醸成していました。

ただ、第12話までかけて謎解きのカタルシスを味あわせてくれたのは良かったのですが、最終話の終盤でいきなり次の章に向けた新しい展開が入って来たことでストーリーも仕切り直しになり、典型的な「俺たちの戦いはこれから」ENDを迎えたことで凄まじい脱力感を覚えたのは事実です。

ですが、それまでの話数はかなり楽しんで鑑賞していたのは事実であり、オチがどのようなものであってもその過程まではなくならないと考えるので、本作についてはやはり評価したいと考えます。

'10年代のアニメは1クールものが増えたことで、原作数巻分の展開をギュッと圧縮して映像化するシリーズ構成の技術が培われましたが、この作品のようにライトノベル第1巻の内容を1クールかけて緻密にやった例はそれほど見当たらず、そうした意味でも稀有な作品です。

 
2016年 - Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-

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第1話で一挙に10人前後の人物を主役として登場させ、リアルタイムで進行する出来事についてザッピング形式で視点を切り替えていくストーリーであることが示され(新城カズマの『15×24』っぽい)、これで本当に1クールでまとめ切れるのか不安になったのですが、そうした懸念が完全に杞憂であったことが分かり印象に残っている作品です。

本作に脚本として参加している高木登さんがシリーズ構成をやった『デュラララ!!』シリーズ等であれば、サブエピソードも交え2クールや3クールで展開したであろうストーリーを、高速早回し台詞とグルーヴ感ある圧縮展開で強引に12話にまとめたことでかなり面白いことになっており、また、それでありながらアイテムや設定、伏線も中途半端にせず総勢10人のメインキャラ全員についてちゃんとオチを付けてまとめた切った手腕にはひたすら脱帽させられました。

主人公は妄想科学シリーズによく出るタイプのこじらせたオタク像といった感じですが、森塚駿のキャラクターはナチュラルに志倉千代丸さん感あって好きです。

最終話でも例を見ない長回し的手法がありましたが、神戸守さんがやった第5話や、それに続く第6話、第7話、同じく神戸さんの第10話などはひたすらアバンギャルドな見せ方に酔いしれました。演出的にも2016年で一番尖っていた作品は、『Re:ゼロ』と並んで本作であったようにも思います。

 

2017年 - プリンセス・プリンシパル

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「きらら版『ジョーカー・ゲーム』」の前評判*3や、物語途中のエピソードから始まる第1話があまりピンと来なかったので少し敬遠していたのですが、入れ替わりスパイ作戦でサスペンスを展開する第2話からぐいぐいとハマっていき、写し鏡のような「二人のプリンセス」を巡る顛末が語られる第8話の百合で一気にテンションが最高潮まで高まり、1ファンとして作品の虜となるに至りました。

ちせをフィーチャーした第5話も、江畑さんの展開する剣戟アクションと相まって名回と名高いですが、暗号表奪取のため連絡員の死体をモルグから探し出す作戦に絡めてドロシーと父親をめぐる悲劇をやった第6話も個人的に忘れがたいサブエピソードでした。洗練された台詞回しも快く大河内一楼さんの脚本に惚れ直した作品でもあります。王国の状況を鑑みれば展開的にまだ語り残している点の多い終わり方ですが、自分などはとにかくキャラクターを見たいという側であったのでそれでもオールオッケーな部分がありました。続編も待たれます。


2018年 - ダーリン・イン・ザ・フランキス

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2018年は支持を集めるオリジナルアニメが何作もあった年ですが、個人的には『ゾンビランドサガ』や『SSSS.GRIDMAN』のノリにいまいちハマることが出来ず、瞬間最大風速ではかなり良かったはずの『ダーリン・イン・ザ・フランキス』や『レヴュースタァライト』の結末にも予定調和感や脱力感を覚えてしまい、『宇宙よりも遠い場所』は客観的に見てかなり完成度の高い作品であるとは思いつつも、年間ベストに挙げるほど好きかと言われるとそうでもなかったため、苦慮した年ではありました。

ダーリン・イン・ザ・フランキス』はその中にあっても視聴中とても楽しんで見ていたと感じています。当初は旧ガイナックス作品の意匠を多分に取り込んだ設定や、性的なニュアンスに若干たじろいていたのですが、群像劇については描きたいものがストレートに伝わって来るところもあり、世界設定についても興味を持って鑑賞できました。

TRIGGER×A-1の豪華スタッフ一点投入で、高雄統子さんが演出処理まで担当し照明芸が冴え渡る第5話など年間ベスト級の話数はいくつもありました。

第20話前後から核心の設定に当たる侵略者VIRMの話が入って来て、それまで積み上がって来た群像劇の内容が寸断されたような感触があり、最終話までの展開を見てもどこか取って付けたようなまとめ方になっており不満足な点は残るのですが、リアルタイムで見ていて最も楽しんでいたのは本作であるのは事実です。


2019年 - 約束のネバーランド

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とにもかくにも神戸守監督にこのような適任の題材(しかもジャンプ原作のメジャー枠)を振ってもらえてありがとうございます、とプロデューサー各位に感謝の意を表したい作品でした。『Occultic;Nine』もそうですが、アニメでガチガチのホラーやサスペンスをやっている作品って意外とあまりないので、こういう題材が、それを上手くやれる人の元に届くことは望外の喜びです。窃視のようなカメラ位置を選択しいつ見つかるか分からないスリルを味あわせたりと、常に緊張感を出すための仕掛けが用意されていて間延びすることを知らないシリーズでした。POVのトラックショットや、じりじりと三次元方向に動かすカメラなど、3Dの恩恵を受けた演出も多く散見されました。第7話などを見るにつき、神戸さんはいまだに新たな見せ方を開発していっているのだなと思わされます。

シスタークローネが自室で話しかけている人形はアニメオリジナルのようなのですが、あの人形は台詞では全く言及されていなくて、ただシスターの一人語りを誘い不気味さを醸し出すためのみに使われており極めて映像言語的な使い方でした。神戸監督のOVA電波的な彼女』でもやたら執拗に人形を映しているし、人形のああいった使い方は好きなのかな?と思います。

 

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まとめ

こうして見ると、意外とあまり迷わなかったなと思います(2012年は『ココロコネクト』、『ブラック★ロックシューター』と若干迷いました)。選んだ作品のリストを振り返ってみると、特に後半にかけてはA-1/CloverWorksが手掛ける大作の割合が高くなり、これはアニメ業界の再編成の流れもあるかもしれませんが、自分の好みが大衆的なものになってあまり捻くれなくなって来ているのかなと感じました。

また、サスペンスやホラーをやっているようなシリーズに惹かれる面もあり、優秀な演出家やスタッフの手により翻弄されたいという潜在的な欲求もあるように思います。

各年ごとに1シリーズという縛りで選んでみると色々と発見もあり面白かったので、アニメファンの人は余裕があって気が向いたらやってみることをお勧めします。

 

*1:Netflix限定アニメのような、TV放映ではない配信アニメもメジャーになっているのですが、WEBシリーズも含めた「シリーズもの」を便宜上「TVシリーズ」と呼称しています。

*2:「TVアニメ」とは一応タグに書いていなかったのですが、暗黙の内にTVシリーズ作品限定で選んでくれている人が多く、これはこれで興味深いことかもしれません。 

*3:百合版『DARKER』と称する人も居たみたいです。

キング・ヴィダー『群衆』(1928)

世界名作映画全集100 群衆 [DVD]

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アニメとはほぼ全く関係ない話題ですが、『群衆』の話をしようと思います。

 ※この記事は作品についての全面的なネタバレを含みます。

 

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格安DVDで見たら、パッケージ裏の解説文が本編を1秒も見ていなくても書ける内容しか書いてなくて面白かったです。

 

1928年のアメリカ映画ということで、ちょうどサイレントからトーキー(発声映画)の端境期にあたる時期に公開されたサイレント作品。ゴダールが言及していたり、「映画ベストセレクション」的なやつにも入ったりもしておりそこそこ著名な作だと思います。

原題はそのまま『The Crowd(群衆)』で、古典に相応しい、シンプルなテーマを感じさせるタイトルと言えるでしょう。

導入

1900年7月4日、合衆国の124回目の独立記念日という特別な日にその男の子は生まれました。「この子はきっと大物になる」「多くの機会を与えよう」と父親は決めました。

その父親は男の子が12歳のときに亡くなりましたが、その遺志を継ぐことによってよってますます、「大物になる」という少年の意志は強くなりました。

21歳になったとき、青年になった男の子、ジョン・シムズは機会を求めて人口700万が集う大都会・ニューヨークに乗り出しました。

大物になるためには、群衆に飲み込まれない傑出した存在にならなくてはならない……

 

少年期の主人公が父親の死を告げられるシーンは、1分きっかりの長回しで撮られており(父親の亡骸が階段を通ってから、少年がその階段を上がって来るまで)、サイレントで長回しというのはその間インタータイトルが全く入らない(つまり実質的にも台詞なし)ということなので、なかなか根性が要りそうな試みです。

映画の全体通して、随所でカットを割らずに芝居をさせることによって、登場人物の感情を途切れさせないようにしようとする工夫が見られます。

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その後、 21歳になってニューヨーク行きの船に乗ってやって来る主人公。

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この時のショットは絵に描いたような「都会に夢見て上京して来る若者」の図になっていて笑ってしまいます。カメラが重い時期のサイレント映画は、一枚絵の構図で簡潔に物事を表現することが要請されることから、しばしば漫画のコマみたいな画になっていると思う。ちなみに右側の人はこれ以降のシーンで全く出て来ません。

ニューヨークに到着してからのシーンでは、人々の行きかいや車の往来が多重露光によるモンタージュで表現されています。このシークエンスはちょっと長いですが、大都会NYの目のくらむような圧倒的な群衆を、その猥雑さを込みで効果的に表現しています。若干ソ連映画っぽいですが、『カメラを持った男』('29)より前なんですね。

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そして、大都会を映すシークエンスから、その中での主人公の姿に滑らかに遷移していきます。

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(ミニチュアの)摩天楼の側面をなめるように映し、窓ガラスを抜けて室内に入っていくカメラワーク、ここもかなり現代的な発想で驚いた。

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NYに定住し始めた主人公は保険会社の事務社員の一人として雇用されています。

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ナンバリングを振られている多人数の労働者、官僚的手続きを思わせる書類の事務作業、個性を感じさせない規則的な並びのデスクなど、ここを取り出すとなかなかにディストピアっぽい絵になっています。

同じデスクと作業者が一様に延々と並んでいるオフィスなど、本作での群衆を見せる演出はオーソン・ウェルズの『審判』('62)にも影響を与えたとされています。

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『審判』

定時になった瞬間に皆一斉に帰るところも両作ともに同じですね。

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『審判』のビジュアルが後のディストピアSFに影響を与えていることも考えると、『群衆』の映画史における意義も一層感じられるようになると思います。

また、それに続く、職場に併設されている洗面所のシーン。

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多人数が往還する通路を合わせ鏡の洗面所にすることで、人の波が無限に続いていくような印象を与えています。通常の劇映画ながら、群衆を演出するにあたっては大胆に表現主義的な手法を採用しています。

 

また、映画の後半のシーンで、ビーチにてバカンスを楽しむシムズの家族(主人公が妻子をもうけた後)。

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ビーチで主人公が楽器を鳴らして歌っていると、横で昼寝をしている老紳士に叱責を受けるのですが、この会話シーンの両者のカットでは一方が主人公のシングルショットですが、もう一方はビーチにびっしりと埋まった群衆のショットです。

このビーチのシーンの前半では、シムズら家族4人が映っているカットでは徹底して4人以外が映らないように撮られていますが、先行するビーチの群衆のショットによって、フレーム外にいても、 そこには常に群衆がひしめいていることが示唆されています(実際の都市生活者にとってそうであるように)。

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先ほどのシムズのショットと、ビーチに埋まった群衆のショットとは古典的な切り返しのモンタージュで繋がれていましたが、この切り返しによって、家族の団らんであってもそれは絶えず群衆と隣り合わせであるという事実が浮かび上がってきます。こうした、大胆な画の切り替え(単数⇔複数)は、サイレント期の映画ならではですね。

 

少し展開を先に進め過ぎました。

続きのあらすじ

保険会社で働き始めたシムズは、同僚のバートに誘われたダブルデートで
知り合った女性と結婚し、二人の子供をもうけます。

当初は先行きが明るく、周囲の凡人を馬鹿にしていたシムズでしたが、
そこから5年経っても同僚と比べてなかなか昇進できませんでした。

シムズの尊大な態度と実際の境遇との間にはだんだんと開きが生じてきて、それが妻との不仲にも繋がっていきます。

そんな折、広告のキャッチコピーのキャンペーンに応募していたシムズは
自身のコピーが採用され、幸運にも賞金の500ドルを獲得します。

歓喜する二人は、子供たちにすぐに帰って来るよう伝えますが、
急いで帰って来た娘はそこで交通事故に遭ってしまう……

 

まずは結婚して間もなくのシーンから。

夫からの小言の多さ、あまりのクズっぷりに耐えられなくなり離婚を決意した妻が、主人公を見送った後に、葛藤の果てにやはり翻意するまでの感情芝居。ここは1分10秒きっかりの長回しで捉えられています。

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この時の夫に向ける想いの複雑さ、葛藤を表すと同時に、この後妊娠したことを夫に告げるので、それを引き立てる溜めの意味もあるでしょう。

 

その後、妻の出産を仕事先で知って主人公が駆けつけるシーンも見どころ(ここでまた、病院で妻を待つ多人数の夫たちに出合わせ、自分の子と妻を見つけ出せるのか?とサスペンスになるのも面白い)。

看護師に案内され、扉を開けて病棟にゆっくりと入っていく主人公。カメラは主人公の背中に貼りつきゆっくりとドリー・インし、主人公と一緒に入っていきます。ここは看護師に案内されてから病棟内で妻を見つけるまでを、カットを割らずに40秒ほどの長回しで捉えています。

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ヒッチコックバルカン超特急』('38)のラストとかもそうですが、こうやって、内側にあるものに対して期待を持っている人物と一緒にカメラが扉の中に入っていくカットって不思議とカタルシスがありますね。ここでベッドの配置が三角形の構図になっているのも効果的で、主人公の期待の高まりを上手く演出しています。

 

娘が交通事故に遭う悲劇的なシーンでは、野次馬として蟻のように群がってくる群衆のイメージが、やはり鮮烈な構図で目に焼き付きます。

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『卒業』('67)のラストシーン、大喝采の逃避行を遂げた若い二人が乗り込んだバスで、その乗客が全員年の行ったおじさんおばさんで、皆で一斉にこっちを無表情で見ているのが映るカットにぞっとさせられた記憶があるのですが、この映画における群衆もどこかそういった、意志を持たない酷薄な印象を持っています。

 

続きのあらすじ

娘を失った悲しみに沈む主人公たちに対しても、社会の荒波は容赦なく襲いかかります。

仕事に身が入らなくなり叱責を受けた主人公は、昇進の望めない仕事に見切りをつけ退職を決意しますが、残っている仕事口は、プライドの高い主人公には耐えられない仕事ばかりでした。

転職を繰り返すうちに、妻に愛想を尽かされるようになり、主人公は徐々に追い詰められていく……

 

群衆を忌避し、軽蔑していた青年が社会の荒波に揉まれるうちにやがて群衆に埋没していく悲哀。何者かになろうとして何者にもなれず、夢を失っていく悲しみ。この映画はそれを丹念に描いていきます。

しかし、単に群衆の非情さに呑まれて主人公が夢破れ落ちぶれていくというドラマであればそれは陳腐な構図であり、後のアメリカ映画においても繰り返されたものと同じです。そこに夫婦の問題を密接に絡ませて、最後には家族との復縁と同時に主人公の復帰を一遍に表現するストーリーテリングがこの映画を特別なものにしていると思います(同時に、家族との間に残った絆が救いになるというのはやや保守的な価値観であるかもしれません)。

そして、この映画において最も感動的なシーンは、まさにそのラストカットに他なりません。

 

ラストシーンについて

もはや古典も古典なので問題ないだろうと思いネタバレをしてしまいますが、この映画の白眉であるラストのカメラワークについてです。このラストによって、本作における「群衆」の意味合いが全く変わって来るという仕掛けになっています。

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挫折しきった主人公はそこからの復帰を成し遂げ、最後に家族三人で連れだってヴォードヴィルのショーを鑑賞しに劇場にやってきます。

妻と夫も和解し、主人公も見つけた仕事に対し前向きな姿勢を抱くようになり、三人とも屈託なく笑いながらショーを楽しめるようになっています。

そこでカットが切り替わり、この映画のラスト数ショットに移っていきます。客席に座る彼ら三人の姿からカメラがどんどんクレーンショットで引いていって(遠ざかっていき)、ショーを笑って鑑賞している群衆が俯瞰で画面一杯に映されます。

三人の姿はどんどん小さくなっていき、ついには群衆の笑いの一部に溶け込んでいきます。一人一人が点のように小さく映るようになった真俯瞰のショットで映画は締めくくられます。

 

ここに至って、主人公の姿は初めて、群衆と分かたれた個の存在ではなく、その一部へと溶け込んでいきます。そしてそれは群衆に圧倒され、呑まれてしまうといったものではなく、笑い合う群衆の中に、自身もまた成員として復帰するという希望も感じられるものになっています。

それまで一貫して、主人公に対する脅威として演出されて来た「群衆」が、ここにきて主人公にとっての見通しが晴れたことで一気に魅力的なものになり、そこに主人公もまた溶け込んでいく!というカタルシスも充溢しています。

また、映画内でこれまで、喜怒哀楽をもって描かれて来たドラマを背負った主人公たちの姿が、群衆に溶け込んでいくことで、群衆の誰もがみな、そのようなドラマをそれぞれに背負い得る存在であるという気付きにも繋がっていきます。

普通じゃない人間になろうとした、普通の人間という主人公のストーリーは、彼が群衆の中の一人(one of them)として溶け合っていくことで群衆全体のドラマへと膨らんでいきます。群衆の皆が皆、かつて普通じゃない人間になろうとしていた普通の存在だった、というとても残酷なメッセージとも取れますが、それは逆に希望でもあります。たとえ平凡な存在であってもそれぞれの激しいドラマを背負って生きており、そしてその人生は価値があるということになるからです。個々のそうした人たちで構成され、 皆で笑い合っている群衆に、多幸感すら感じられるようになるのが素晴らしい部分です。

 

また、この象徴的なショットが、映画内での劇場で撮られているというのも見過ごせません(別に『Air/まごころを、君に』ではないですが、当時映画館でこの映画を見た人はちょっとした錯覚に陥ったのではないでしょうか)。

ここにおいて、まさにこの映画全体のストーリーが、映画館にこの映画を見に来ている観客それぞれのものに重なってきています。

この映画において描かれたドラマは劇中でのキャラクターにとってだけでなく、この映画を観に来ている人たちそれぞれのドラマでもあるという事実がここで浮かび上がってきます。 この映画を見て身を重ねたり、共感したり、軽蔑していた者もそれぞれに群衆を構成する一員であるという事実を、この映画は突き付けてきます。多分、このことを受け入れられるかどうかが、その人の中でのこの映画の評価を二分することになるのではないかと思います。

まさに、普通の人々を描いた、『群衆』の名を冠するに相応しい映画であると言えるでしょう。 

 

大戦後まもなくの貧困に喘ぐイタリアにおいて制作された『自転車泥棒』('48)が、当時の社会的な状況のみならず現実の不条理さやどうにもならなさを伝えているように、大恐慌時代を前にしたアメリカで公開された『群衆』も、我々が直面する現実についての普遍的な事実を伝えています。

また、テーマパークでのデートに始まり、妻との離別、サイレントでありながら音楽に合わせての復縁など、メロドラマとしても一級品の作品になっており、サイレント期を支えた演出家の底力を感じさせられる映画でした。

既存のDVDだと画質がめちゃくちゃ悪いので他のヴィダー作品と一緒にHDリマスター版のソフトとか出ないかな…と思います。

 

群衆 [DVD] FRT-184

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審判 Blu-ray

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自転車泥棒 Blu-ray

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映画『空の青さを知る人よ』(2019)雑感

・ファーストショット、画と言うよりくしゃみの「音」から映画が始まる(くしゃみのアップから全身のロングへの切り替え)。目を閉じてのベースの演奏に入れ込ませて他キャラの動作(ドアの開閉ショット等)、過去の回想カット、と音で繋いでいく(ライブシーンから木魚の切り替えの衝撃性)。現在に囚われず異なる時間軸、場所のカットが切り替わっていく、しっちゃかめっちゃかな編集(ここまでやるのは『トレイン・ミッション』以来?)
しかしそれらは主人公にとっての意味を持つもので、意識の流れによるものだというのが浮かび上がって来る。主人公がイヤホンジャックを外し、外部の音が入って来るタイミングでそのことが決定的になる。アバンタイトルの終わりにおいて、空のショットにカメラが上がり、『空の青さを知る人よ』のタイトル。
このアバンタイトルによって主人公のバックグランドを説明し、映画全体の象徴ともいえるシークエンスになっている。ここでまず100点!という感じなのだが、このアバンタイトルの使い方は新海誠を感じさせる(というか『君の名は。』)。
(というのも、新海誠の直近二作においては、冒頭のアバンタイトルにおいて映画の後の方のシーンを先取りして出しているんだけれど、このシーンってモノローグでも映像でも、ほとんど後のシーンを見れば分かるようなことしか言っていないので、本編の象徴や、予告編のような映像になっている。)
全体的にクライマックスでの走りや上昇、降下といった運動の取り入れ方など新海誠エッセンスを感じさせる映画だった。長井龍雪さんと新海誠さんは良い意味で触発し合っているのが伝わって来る。

・演出的には、室内を映す際に広角レンズのレイアウトを選択し、カメラが壁をぶち抜かないようなリアルなカメラ位置。
会話シーンでレイアウトに凝る。敷居を活用して区切った空間にキャラクターを配置することで意味性を持たせている。主人公の伸びやかでフェチを感じさせる芝居。特に脚部の自然な動作を強調。

岡田麿里さんは究極的には女性キャラの自意識にしか興味ないのでは?と思う。主人公の尖ったパーソナリティは良かった。修羅場を作ってそれに持って行くまでの手付きが個人的に好きなんだけど、今回はそこまでのあざとさや際どさはなくて抑制されていた。
ただ、しんのが最初に登場してそのことを主人公があか姉に伝えに行くシーンで、あか姉が作っているのがメンチカツで、ぐちゃぐちゃにかき混ぜている肉片が飛んで主人公の頬に付くシーンは最高。
(あと慎之介の追っかけをしていた女子高生は、結局それを口実にして主人公の方に近づきたかったようにしか見えなかったが、邪推だろうか。)

・最終的に慎之介としんのの男性キャラ二人は完全に蚊帳の外に置かれている(しんのの方もクライマックスになるまではずっと屋内で閉じ込められているし。)。結局のところ自身の夢の問題は自分で解決するしかないのだと思う。この題材であれば「慎之介が夢に向き合って立ち戻るまで」の過程に焦点化するストーリーになってもおかしくないのに、それをメインに据えずに、それを介して姉妹が互いに向ける想いとすれ違いを描いた作品になっている。そこがすごく現代的な様に思った。

・エンドロールで出て来る(その後を描いた)画は要らないという意見には全面的に同意するが、自分の場合どちらかというと「その後の話を自分たちで想像したかった」という理由。ただ、やはりそこまで作品内で描かないと気が済まない/そこまでやりたいというのが超平和バスターズの人たちなのだろうなと思う。

三本の指輪と拳銃、チョーカー、赤いリボン

 

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アイテムを活用した演出という観点から『天気の子』を整理してみたい。なお全て記憶で書いているので間違った記述があった場合は訂正します。

まず、『天気の子』で一番目立って使われたアイテムとしては一つは拳銃だろう。

 

拳銃

東京をさまよっていた帆高は風俗店の近くで拳銃を拾うが、拾った拳銃を最初に撃つのは映画開始20分くらいのところで、キャッチの男から陽菜を助けるために取った行動で、威嚇のために発砲する。しかしその後すぐ陽菜にその行動を非難され、拳銃を持つ手も震え、廃ビルの部屋の隅に投げ捨てる。

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そしてそれを機に、拳銃を発砲したことで刑事から追い回されるようになる。

クライマックスにおいて再び帆高は陽菜を取り戻すために立て壊されているビルに上るが、今度は立ちふさがっていた須賀を威嚇するために、以前投げ捨てたのと同一の場所にあった拳銃を拾って撃つ。次いで捕まえようとしてくる警官・刑事に対しても拳銃を向け威嚇し(三対一の構図)、投げ捨てて走ったところで一度警官に押し倒されている。

「拳銃を拾う」というフィクション性の強い、偶発性のある出来事をあえて起こし、それをもとに主人公にヒロイックな行動を取らせるというのがこれまでにない種の生々しさを持っている。

最初に撃ったときには突発的な衝動からわけも分からないまま撃ってしまったと言うに等しく、また、その強大で暴力的な力を引き受けるだけの覚悟や動機も持たないためにそれからすぐ投げ捨ててしまうが、後に拾ったときには大人たちに対抗するだけの明確な意志、覚悟を持っている。元々はやくざの遺失物として帆高に拾われ、警察といった社会の公権力に抗うアイテムとして使われるのがこの拳銃だ。

日時も経ってビルが立て壊されている最中なのに拳銃がたまたま同じ場所にあり、また、すぐ発砲できたというのもRPGのアイテムのようで何だか都合の良い使い方ではあるけれど、それはそれとして、拳銃はこの活劇における主人公の覚悟を象徴するようなアイテムになっていると思う。

 

チョーカー

チョーカーは一番最初に出て来るアイテムだ。

ファーストシーンで陽菜のいる病室において、病に伏している母親の手首につけられているのがこのチョーカーである。

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後に陽菜が再登場するときに、陽菜はこのチョーカーを首につけており、つまり母親のものが形見として陽菜に受け継がれていることが分かる。チョーカーには陽菜の瞳の色と同じ青い宝石が付いている。

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(厳密には、マクドナルドの制服を着て陽菜が再登場する際には首にチョーカーは着けておらず*1、その後水商売のバイトを勧誘されているシーンで初めてチョーカーを付けた姿が出る。これはマクドナルド店員の服飾規定のためというよりも陽菜が私服になっているタイミングで初めてチョーカーを見せたかったのではないだろうか。)

亡くなった陽菜の母親が陽菜と同じように天気の巫女であったのか、人柱になったのか、といったことは定かではないが、水玉のような宝石と相まって、母から受け継がれた天気の巫女としての業のようなものを感じさせる。

クライマックスで帆高が陽菜を地上に連れ戻した際、鳥居の前に倒れている二人の姿が映るが、ここで陽菜が首につけているチョーカーが割れている描写が1カット映っている。巫女として負った業から解放されたことの暗示だろうか。

そしてラストシーンで帆高が坂道で祈っている陽菜を見つけたときには、陽菜はチョーカーを付けていない姿である。

 

2本の指輪

最も多く画面にアップで映ったのはこの2本の指輪だろう。

脇役の須賀は左手の薬指に指輪を二つセットで付けている。初見時には分かりにくいと思われるけどこれは亡くなった妻の分も代わりに嵌めているという描写だろう。この2本の指輪は本作における須賀のストーリーを補強するような役割を果たしている。

須賀の指輪が目立って映るシーンは映画全体で7シーンある(逆にそれ以外のシーンではあまり映っていない)。

 

最初に映るのは、娘の萌花の引き渡しを交渉しているところでこの指輪を右手で触っている。ここは手がアップショットで映される。

作中で須賀がこの指輪を触る際は落ち着かなさげに、指輪を押し込むようにしている仕草が印象的だ。太めの指輪を2本同じ指にはめているとズレたり抜けてしまってもおかしくないためこの仕草が習慣になっているのではないだろうか。

同時に、亡くした妻のことを須賀はどこかで常に意識しているのだろう。

 

2回目は自室にて猫と共に一人きり、ライター仕事の交渉を電話でしていて失敗しているらしいシーン。

須賀は仕事のことでやけを起こしてが故か、思わず煙草に手が伸びてしまうが、そこで思いとどまってやめ、手に持った煙草を左手の中で折り曲げる。ここで薬指の指輪が映っている。

映画を見る限り須賀は右利きなので左手で煙草を吸うのはごく普通のことだろうけど、ここは須賀の主観ショットのように撮られており、煙草を折って潰すときの指と、指輪を付けている左手薬指とが同時に映るようなアングルになっている。

須賀が煙草をやめているのは引き取られた娘である萌花の引き渡しを望んでいるからであり、指輪は死に別れた妻のことを想起させるアイテムだ。

ここでは意図的に両者の文脈を重ねているように感じられる。

 

3回目は娘の萌花が陽菜や凪たちと遊んでいるところだ。ここでも須賀が指輪を触っているカットが挿入されている。

ここまでくると察せられるが、須賀が指輪を触っているカットが挿入されるのは、須賀の娘の萌花や、娘の引き渡しに絡んでくるシーンが多い。亡くした妻が残した娘を引き取ることを須賀は望んでおり、そのために禁煙も続けている。妻を亡くす前の家庭には萌花もおり、須賀はそれを取り戻したいと願っている。須賀が指輪を触る仕草によってそのことは強調される。

 

そして、3回目と4回目との間には、帆高が陽菜に指輪を渡そうとするシーンが入っている。

最後に帆高の前に一度立ちふさがり現実を説く姿を見ても分かるように、大人である須賀は帆高と対をなすような存在だ。そして死に別れた妻の指輪をはめている須賀と、これから指輪を陽菜に渡そうとしている帆高の姿は重ねて描かれていると分かる。

 

4回目に2本の指輪が映るのは、須賀が帆高を事務所から追い出してしまった後に、バーカウンターで突っ伏している須賀が出るシーンで、ここで左手に指輪が映っている。「酒とタバコで罪悪感に浸っている」ところであり、ここで、2回目のシーンではやめていたタバコを吸っている。やはり、「煙草を吸う」という禁忌と萌花の文脈とは重なっている。

帆高を追い出したことを夏美に責められた後、須賀は「一人が人柱になって天気が元に戻り救われるのならそれでいい」「誰だってそうだろ」と須賀は言うのだが、

このタイミングで須賀の左手がアップになり、ここで須賀は指輪を触っている(押し込んでいる)。

須賀が帆高を追い出したのは直接的には世間体のためであり、娘を引き渡してもらえるかどうか微妙な時期において咎を負いたくないという極めて現実的な理由である。

そして、帆高を追い出してしまうことで、須賀は「帆高が陽菜と共に居られなくなる」という事態の招来に手を貸してしまったことになる。

また、以前のシーンにおいて、須賀の娘は喘息持ちであり、(おそらく具合が悪くなるため)雨の日だとなかなか会わせてもらえないということが説明されている(だから陽菜に晴れを依頼した)。

つまり、晴れが戻り、そして娘に再び会えるためには、須賀はその選択を取ることを与儀なくされたということだろう。

ここで須賀が指輪に触っているのは「娘の萌花を引き渡してもらうこと」そしてそのために「東京が雨から救われ元に戻ること」、と「帆高が陽菜とともに居られること」とを天秤にかけたときに前者を選んだということでもある。「誰だってそうだろ」という須賀の台詞には、罪悪感を感じながらも「それで良かったのだ」と自分に言い聞かせているようなニュアンスが含まれている。

 

そして5回目は陽菜が空に消えたことにより東京の天候が晴れ、降り続いた豪雨により溜まった水を、須賀が事務所の窓ガラスを開けて引き入れるシーンで須賀の左手とともに指輪が映っている。このシーンで刑事が事務所に上がり込んで来て、須賀に帆高のとった行動について知らせている。

須賀が水を引き入れたことにより床の水位が上がるのだが、このシーンにおいて事務所の柱に萌花の身長が印として刻まれているのが映る示唆的なカットがある。妻の生前、萌花がまだここで育っていた頃に付けられた柱の印と、溜まった水の水位とが重なって映されているのである。豪雨とともに溜まった水は、陽菜が人柱となったことで止まったものでもある。

「人間は歳を取ると、大事なものの順番を入れ替えられなくなる」という、以前のシーンにおける須賀の台詞を想起させるようなカットではないだろうか。

須賀の時間は妻を亡くし萌花が引き取られていったところで止まってしまっている。このシーンにおいて、須賀は帆高を駆り立てる動機について察し、自分でも気づかないうちに涙を流している。

 

6回目はそれほど目立たないが、刑事から話を聞いた須賀が帆高に先んじて廃ビルで待っているシーンにおいて、帆高を制止するためにビンタするところで指輪が映っている。意図的な描写かどうかは定かではないがここは左手で帆高をビンタしており、合わせて指輪も映っている。

このシーンにおいて須賀は、心の底では帆高の取る行動や動機にシンパシーを感じながらも、あくまで大人として振舞わなくてはならないために帆高のことを考え説得し、飛び立っていくのを制止している。ビンタによって帆高を落ち着けようとする須賀の手には指輪が見える。そして、須賀もまた愛する人の指輪を携えている人であり、須賀と帆高の境遇は重ねられている。

この後、須賀は帆高を捕まえようとする警官にタックルして振りほどき、帆高を行かせている。須賀は自身の取った行動により警察に連行されていき、それによってまた娘を引き取ることがいっそう難しくなると思われるが、それでもここで帆高を行かせずにはいられなかったのだろう。このシーンの痛快さは、作中での須賀のストーリー全体の中でも白眉である。

 

7回目、最後に指輪が映るのは、こちらもわずかな描写であるが、エピローグで「陽菜のもとに早く会いに行け」と帆高に向けて手を払うときに(ここも左手である)指輪が映っている。当然のことではあるが、変わった後の世界においても須賀はやはり変わらず指輪を身につけている。

 

赤いリボン

帆高が陽菜の誕生日プレゼントにあげる指輪を百貨店で選んで購入するときに販売員として出てくのが前作『君の名は。』のヒロインである宮水三葉だ。

帆高の質問に対し「(もし自分だったら)3時間もかけて選んでくれたものだったらとても嬉しい」と笑顔で返答し、指輪を袋に入れ手渡すのだが、このときの袋は鮮やかなピンク色で、大きめの赤いリボンが付けられている。

更に、指輪をホテルで陽菜に渡すところでも、指輪が入っていた小箱はピンク色で、ご丁寧に赤いリボンも付いている。

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赤いリボンといえば、三葉が身につけているキーアイテムであると同時に、前作における「縁」を象徴するアイテムだ(正確には組み紐で、これをリボンの形にして付けたりしている)。

赤い組み紐が、あるときは三葉の髪留めになり、あるときは主人公の身につけているブレスレットになる。髪留め=ブレスレット=組み紐が過去から現在、未来を往還し、つながりを生むモチーフになっている。

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三葉から「赤いリボン」の袋に包まれて「指輪」を渡されるのはなかなかにニクい描写でもある。

また、そもそも帆高が最初に指輪をあげようと思い立ったのは陽菜が18歳の誕生日を迎えるということに気付いたからであり、それは立花瀧との会話の中で出て来た話である。実際、帆高が瀧に「誕生日だったらプレゼントあげなきゃ」と直接言われている。

これは前作の主人公二人によって今作の主人公である帆高に指輪が託されたという見方もできて面白い。

 

1本の指輪

かくして、帆高が陽菜に渡す1本の指輪も登場するのだけど、こちらについては分かりやすいだろう。

須賀の娘たちと遊んだ帰り、凪のお膳立てにより帆高と陽菜が二人きりになって帰るところで、帆高は指輪を渡そうとする。

帰り道に二人が電車に乗るところで、陽菜が窓ガラスに手をやって景色を見ているカットがあるのだが(ヒロインの手が映されている)、この手は左手であり、よく見ると薬指だけが微妙に他の指と分かれるように映っている。

指輪を渡す前のシーンから、エンゲージリングであることを示唆するようなカットを忍ばせているという訳である。

映画を見ていると分かる通り、この坂道での告白は、突風とともに陽菜が舞い上がるとともに身体が透けるといった事態(ヒロインの秘密が明かされるシーンの挿入)により頓挫してしまう。

次に帆高が告白を試みるのは警察に追われてホテルに泊まったときであり、今回は陽菜に指輪を渡すことに成功する。このときを逃すともうチャンスが残されていないというのを二人とも感じ取っている。そのため、当初は誕生日プレゼントとして用意した指輪をエンゲージリングとしてホテルで左手の薬指にはめる。「ずっと一緒だ」とここで告白する*2

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しかしその後すぐ夢の世界の中、陽菜は人柱となって空に消えてしまい、雲の上で、陽菜の身体が透けて指輪も薬指からすり抜けて落ちていってしまう。

翌朝、空から水たまりに落ちて来る指輪を帆高が拾うところで、陽菜が空にいることを帆高は確信する(つまり、今度も指輪を渡せていないことになる)。

連行された先の警察から逃げ出し、陽菜を取り戻すために奔走するところから本作のクライマックスが始まる(上映時間の上でも、ここからが三幕構成における三幕目にあたる)。

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そしてラストシーン、最初に指輪を渡そうとして失敗していた坂道に、帆高は陽菜に渡そうと考えている指輪を見つめながらたどり着く。そこで空に祈っている陽菜と三年越しに同じ配置で出会うところで映画は締めくくられている。

 

また、アイテムとして使われる頻度はそれほど多くないが、傘と手錠についても簡単に触れておきたい。

 

手錠

帆高は刑事に組み伏せられた際に片腕に手錠をはめられ、その状態のまま鳥居から彼岸に飛び立っていく。

手を繋いで陽菜と降下する際に帆高の片腕には手錠が残っている。「手錠を振りほどいた状態で飛び立っていく」ような絵が映えると考えたのだろう。

そして、片腕に付けられた手錠は、行った選択によって帆高が世界から課せられた責の象徴でもある。実際、この後3年間保護観察処分を受けるわけだが、ここで陽菜を取り戻す際に手錠を付けているのはそのことだけにとどまらないだろう。

また、ヒキの絵であったりで若干分かりづらいが、陽菜が空中で帆高の手を取る際には手錠に触れそれを伝って帆高の手を掴むような描写がある。

これは世界に反逆するような陽菜と帆高の共犯関係を表しているように見える。

 

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陽菜が雲の上に消えたのち、帆高が警察に連行されていく際ホテルの前に、晴れ女のバイトの際に使っていた黄色い傘が開いた状態で水たまりに転がっている。

晴れと共に陽菜が去って行ったことによる空白を、より強調して示す描写になっているだろう。

そういえばリーゼントの刑事の傘は黒色で、陽菜が最初のシーンで持っている傘は透明なビニール傘であったりと、演出効果を反映するため人物やシチュエーションにより傘の種類の使い分けもしているのだろうと思われる。

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このように、劇中で演出効果を持って使われたアイテムを見ていくと、「指輪」「チョーカー」「リボン」「手錠」に加え、またそれ以外にも、須賀の娘の萌花が花輪を作っていたり、夏美はブレスレットやミサンガを手首に多く付けていたりもしており、共通するのは、身につけるものとして円環のモチーフが多用されているということである。

これはどういったところから着想を得ているのだろうか。新海誠さんのこうした演出の手数については今後も注目していきたい。

*1:

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*2:24時になって日付が変わったタイミングで指輪を渡している。

『天気の子』(2019)初見時メモ

※ネタバレ有。

・出のショットは雨降る東京の空模様、街並みの全景からのクレーン降下、そしてモーションコントロールカメラのようなトラックバックからの窓ガラス打ち抜き、ヒロインの横顔が窓ガラスに反射した鏡像→実像を順に映す。ヒロインの登場シーンが虚像から映されるという非常に象徴的な使い方をしており、テーマに対する意識を感じさせ、同時に、1カット目からいきなりトラッキングショットに鏡像演出をぶちかましてくるという新海誠さんの演出家としての成熟をそこに見て取れるように感じられる。そもそも明確に演出意図を反映した形でこうしたショット群を配置するというのは以前には控えめであったことで、客観的な目線から風景や芝居を捉えるというエクスキューズを利かせていたのが、カメラ位置を含めて、前作に引き続き「照れ」が払拭され、吹っ切れていくような快さを感じられる映画になっていると思う。
ところで、オープニングシーンにおいては、主人公のモノローグでもって、過去の陽菜の行動が説明されており、「あの日、僕たちは世界の姿を決定的に変えてしまった…」のモノローグと同時にタイトルが出るのだが、後からそのシーンの回想が再度入る箇所で起こったことの説明があるし、また、後から分かるような内容のことしか言っていないのでこのアバンのモノローグは思い切って削って欲しかった!と、『リズ青』の台詞無しに紡がれるオープニングを思い出すにつけても感じてしまう(補助線を引いて分かりやすい作りにはなっているが)。
前作で結構変わったけれど、今作にいたって従来の新海さんのイメージはいよいよ積極的に払拭されてきている、という風に感じさせるのが、タイトル終わりに続く主人公が東京に来るシーンで、最初に映るのが新宿歌舞伎町の猥雑な街並みであるというセレクトである。美しくないものを徹底的に画面から排除してかかる手つきの前作までの新海誠に慣れ親しんだ層からすれば、これは明らかな挑発と感じられるはずだ。これまでの新海作品で出て来たような西新宿の街並み(都市開発のシミュレーション映像みたいな表現)ではなく、それこそ『CITY HUNTER』の舞台として出て来るような、東新宿の、猥雑な生活感ある街並みからこの映画の都市描写は開始される。それは都市全体に食い込むような描写を丸々引き受けるということでもあり、そのリアルに東京でロケハンしたような作りからの、エピローグで思い切りよく水没させることのカタルシスを生じさせている。


・視聴体験としては、そのどうにもリアルに過ぎる絵作りから、新海誠作品の映画内リアリティと現実世界との関係は、もう自分の好みやフェチにあまりフィットしないところまで行ってしまったと感じてしまったのだが(あそこまでリアルに近づけるとこれから先にあまり希望が持てない)、なので、最後にSF的風景に着地したという点には納得が行き、新海誠の次回作は案外こういった風景から始まるのかもしれないな、と後から妄想が膨らんだりもしました。


・これまでに出てこなかったようなものが出てきたりという点でいうと、ロケーションや生々しさのある乱闘シーンといったもの以外にも、例えばヤクザの落とした銃を主人公が「偶然に」拾うという展開である。こうした、フィクション性の強い、偶然性のある出来事をあえて起こし、それに続き主人公にヒロイックな行動を起こさせるというのはこれまでの私小説的な作りでは成し得ないことであり、以前まではそもそも、そういうシチュエーションを作っていなかった。事件性の導入にためらいがなくなったことで、主人公が最初に足を踏み出してヒロインを助けるという導入が可能になっており、フィクションの側により歩み寄っていることを感じさせる。


・主人公が拾った拳銃を取り出すのは映画開始20分くらいのところであるけど、ここで一度威嚇のために撃ったと思いきやその後すぐ廃ビルの踊り場に投げ捨て、後のクライマックスのシーンでは再びその場所で落ちてた銃を拾って再度使用している。RPGのアイテム並みに都合のいい拳銃の使い方をしているのは端的に言って良くないが(最初に拾ったことでそれで警官に追い回される、後から取り出して発砲する)、個人的には、拳銃の駆け引きが出てきたところでそれまで間延びしていた画面に一気に緊張感が出て来たところあると感じるため、そういう要素を出すこと自体には価値があると思う。
直近だと『グリーンブック』も退屈な会話劇と思わせておいて最初に銃の駆け引きをするあたりから緊張感が出てきたのだけど、やはり自意識の問題にとどまらず命の駆け引きをさせるというのは映画では重要なのだなと。「拳銃も出てこないような映画は見たいと思わない」と押井守も言っていたと思う。


・主人公二人の選択により、三年後、世界の姿が変わってしまっているのだけれど、そこに痛みはない。
二人が記憶や繋がりを失いながらも最終的には巡り合えた『君の名は。』からも抜け出て、最後には二人はそのままの思いや記憶を保っており、何の衒いもなく交われるのだなと感じた(ただしそれは、そこから希望が生まれるなどという安易なものではないというのが重要であるのだが)。
しかし三年という年月を間に持たせるあたりでまだ節度を感じさせるところではある。

前作は秒速5センチメートルの(仕切り直しという)要素が入ったけれど、今作は、主人公が突きつけられる選択を含め、『雲の向こう』につながるような要素もあった。

『雲のむこう~』のラストではヒロインは記憶を失いたくないが失ってしまい、約束の地も永遠に失われる。主人公はヒロインを抱きしめるのでそれっぽく締めており思わず誤魔化されそうになるが、実際には何も解決していない。実際映画序盤のシーン(ラストのその後)では主人公がそもそも一人で、隣には誰もいない。

『雲のむこう~』やその他のセカイ系作品群においてはヒロインが失われたところで、終わっており(あとから、失われたもの/死んだヒロインに主人公は感感傷的になる)、主人公のナレーションで片が付けられるが、天気の子では足を踏み出して救い出すところが変化となっている。

主人公二人の選択が世界を犠牲にしてでも相手を救うことを選んだ!ということそれ自体よりも、変わったのちの世界において、須賀から「世界なんてどうせ、もとから狂っているんだから。」と言われ、過去に追った選択によって世界が変わったことが夢のような話として否定されてもなお、「やはり僕たちは確かに世界の形を変えてしまったんだ」と過去の選択を積極的に肯定し、その決断に至った想いを忘れ去ろうとしないというところが真に感動的であり、このようなものが見れて良かったと思う。


・主人公くんの島でのバックグラウンドや「帰りたくないんだ…」のトラウマが描かれないのは好ましい。
これについては『君の名は。』で三葉の父親のバックグラウンドの大胆な省略を行っていたが、描いても大して面白い描写にならないよう/説明でしかないよう描写は削っていいという確信が前作で持てたのではないかと思う。
主人公は島では不幸ではないむしろ恵まれた生活をしていそうなくらいな高校生なのだけれど、それでも彼が家出をするに至ったトラウマは象徴的な絵を数カット映すことと、『ライ麦』を持ち歩いている描写だけであっさりと処理される。
特に『ライ麦』は象徴的であり、「高校生が感じる悩みはそういうものだよ」とどこか達観したような見方も感じられて驚かされる。というのも、従来の新海作品だとこうした自意識の問題をあくまで前面に出して取り扱っていたので、このような描き方はかなり意外でもあった。

・新海さんの「年の差」に対するフェチについて。
主人公とヒロインの「年の差」設定(というより展開)は『ほしのこえ』時から既にやっており、前作『君の名は。』においても大ネタとして活用されていたけれど、これまでは時間のズレから生じるシチュエーション自体への萌えからであった。
今回の「年の差」設定はSF的な仕掛けによるものではなく、物語の要請というよりは「そういう設定があると映えるから」「おいしいシチュエーションを作りたいから」と純粋にそういった理由で付けているように見える。
そもそも中学の姉と小学生の弟の二人だけで暮らせるのか?という疑問はどうしても生じるものの、「年下の子を護れてない自分の不甲斐なさを恥じる主人公」の美味しい絵を描きたいという動機の前にそうした疑問は雲散霧消するだろう。

そして主人公が島で高校を卒業すると同時に上京し、坂道でヒロインと再会したときに、主人公は大学生になっているがヒロインはまだ制服をきている。今作では「そういう絵を作りたい」という動機で設定を作っているように見えた。新海誠は紛れもないシチュエーションフェチの作家である。
(年の差が明かされるのはヒロインやキャラに意外性を持たせる試みの一環でもあるだろう)


・表現の大胆さ
250億円稼いだ映画の次作なので前作のキャラクターをてらいなく出すし(これまでもユキちゃん先生の『君の名は。』でのカメオ出演などはあったけれど、今作は滝君は特に長い。
何かスイカ切ったとか言ってるし)、ベスパに乗って出動する本田翼にカーチェイスなど、これ見よがしにアニメ的な要素も喜んで取り入れる。
クライマックスにかけては、宮崎アニメのようなモチーフも動員して絵の力を高めていたのが印象的だった。
主人公が崩れていく踊り場を駆け上っていくモチーフであったり、そして最後のヒロインを雲の上から救い出し手を繋いでからの落下は、『千と千尋』!(あれは『ef -the latter tale』OPではなく宮崎アニメ的表象でしょうと思う)


・時間配分についてメモ
上映時間110分ほど(108分くらいから黒幕エンドロール?)を4幕に分けると、

第一幕が入るポイントが二人が廃ビルの屋上、鳥居の横で互いに名乗って握手するところ。

第二幕のポイントは、須賀の娘たちと遊んだ帰り道、二人が田端の坂道を歩いているとき、空になって透けていく陽菜の秘密が分かるところ。

第三幕のポイントは、陽菜がホテルで朝消えてしまうところではなく、陽菜が空に消えたと落ちて来た指輪で知り、連行されていった警察署から逃げ、陽菜を取り戻すために走り出すところ。

で導入からクライマックスまで、教科書的に綺麗な配分がなされている。

ボーカル付き楽曲は全5曲あるが、前半のライター仕事のバイトシーンと晴れ女バイトのシーン(開始40分あたり)で1曲ずつ、クライマックスに2曲続けて、そして(エンドロール入り前の)エンドクレジットに1曲という編成。

・第一幕過ぎるあたりまで、プロダクトプレースメントと、ミュージックビデオの性急な編集(モノローグが詩になってたりするとこも含め)がやたらと目についたので、新海誠さんのCMとMVのパッチワークを見せられているような気分になった。これについては、新海さん自身が様々な仕事を請け負っていることのメリットを感じさせると思う。
そういえば『秒速5センチメートル』もコンビニ内の再現がとてもつもなくリアルだったが、特定の商品やブランドとコラボすることはほぼなかった。リアルさの追求と、コスト面の問題、設定制作において1からオリジナルで設定作った食べ物を出すことの手間を考えた際に、最初からコラボして商品を出すといった試みが有効であったのだろうと思われる。スポンサー推しもそうだが、外部からの引用の多さも目立つ。


・新海さん前作までは画面の最終チェックまでやって自分で色彩設計や撮影を直したりしていたけど今作からはそれはやめて監督業に専念した、と仰っていたけれどそれは映画の作りにも出ているなと感じます。一枚一枚の絵や背景美術に対する異常なまでのこだわりは後退し、編集で見せるような作りになっている。


・上手いと思ったシーン

・陽菜が去って嵐が去ったのち、須賀のオフィスの窓ガラスを開けた所で水が入って来る→自分の会えなくなっている子供の背の高さを記録していたところに水位が重なる。
・ホテルにて陽菜が浴衣を脱いで透けていく身体を見せるところは見る者にエロスを掻き立て、主人公と同時に観客にも見たいと本能的に思わせるが同時に存在の儚さを突きつける。


・総じての印象は、川村元気さんがプロデュースしているだけあって、口当たりの良い青春日本映画〜って感じでした(若い人が見てもこのノリはわかりやすい)。
拾われない伏線とか、背景描写の曖昧さとかに結構?となる部分もあるんだけれど、モチーフの連鎖でエモーションを高めていって、一気呵成の勢いで畳みかける。終盤はノンストップで振り切っていくので快感が強い。
後半のドラマが最も高まるシーンで必ず雄大で良い画を持って来るので、吊り橋効果によって観客を恋への同調に呼び込んでいるような、騙されたような感じは強いが、それも含めてテクニックであるだろう。
前作よりもプロットは整理されており分かりやすくて、感覚的に訴えかけるような作りになっている。こちらに筋の考察をさせるのではなく、映像の快楽で持っていこうとする意図が強く、そういう意味でのリピーターを増やそうとしているなと。
これまでやらなかったようなことをしたりこれまでは出さなかったようなものを出したりと、前作の要素を踏襲しつつ、これまでのイメージを払拭していく(作風を刷新していく)ところを感じさせるのだった。
2019/07/19 劇場にて鑑賞

『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』の海外受容について

金曜ロードショーで『未来のミライ』に続き『サマー・ウォーズ』が放映されるとのことで、細田守作品について以前より気になっていることについて書こうと思います。

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デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』について

まずは本作についての客観的な事実から述べます(以下に『ぼくらのウォーゲーム!』の説明を書いていますが、「既にそんなことは知っている」という人はこの部分読み飛ばしてくれて支障ありません)。

細田守の第二作目の監督作である映画『ぼくらのウォーゲーム!』は『サマー・ウォーズ』に直接インスピレーションを与えた作品として広く知られています。「電脳空間に発生した人工知能がインターネットを通じて世界中を混乱に陥れる」「発射された核ミサイルの爆発阻止のため主人公たちはそれに戦いを挑む」といった筋や、「クライマックスに至って観客と映画内の時間とが同期するカウントダウンが始まる」といったアイデアの面でも『ぼくらのウォーゲーム!』を踏襲、『サマウォ』は実質的な『ぼくらのウォーゲーム!』のリメイク作品として見られています。

また、独立した一本の映画としても『ぼくらのウォーゲーム!』は高い評価を受けています。

ヤマカンこと山本寛さんも公開当時2000年7月の日記において「(日本アニメーションにおける)惨状からの希望」と評し絶賛しており、

web.archive.org

最近でも、2019年6月に刊行された石岡良治さんによる著書『現代アニメ「超」講義』は序章を細田守作品論にあて、「2000年から現在までのアニメ史を概観する際に『ぼくらのウォーゲーム!』を起点に据えた」との説明が出ています。

 

本作はこうして批評的にとりあげられているのみならず、いわゆる一般のアニメファン層にもウケている作品です。

映画レビューサービスの「filmarks」でも、(スコア数には差があるものの)『時をかける少女』と並んで細田作品の中では最も高い評価を保持しています。

 

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細田守フィルモグラフィーの中では、今に至るまでに最も高く評価されている作品の一つでしょう。

卑近な例で言えば、細田守作品について語る際に『デジモン』シリーズの名前を出した著名人が持てはやされるなど、

togetter.com

語弊を恐れずに言えば、「玄人のアニメファンが名前を挙げる」というイメージも付いていると言えます。

 

 ぼくらのウォーゲーム!』の卓越性

本作がこれほどまでに高い評価を受けている要因として考えられるのは、一つにはその題材の持つ先進性でしょう。まず、『ぼくらのウォーゲーム!』のタイトルは『ウォー・ゲーム』(1983年、ジョン・バダム監督)から取られていると思われます。

 

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冷戦下のアメリカを舞台にしたSF映画ウォー・ゲーム』はペンタゴンの国防用コンピュータに侵入した10代のハッカー少年が遊びでゲームを始めたために、混乱したコンピュータがシミュレーションで全面核戦争ゲームを開始してしまうという筋でした。

黎明期におけるハッカー、ネットを題材にした『ウォー・ゲーム』が、ハードなタッチで核戦争の恐怖を描いていたとすれば、『ぼくらのウォーゲーム!』はそれらをずっと我々の日常の感覚に近いところで描いてみせました。

 それは現実世界においてPOSシステムを始めとした日常のインフラやメールを使っての交流といった、インターネットが社会全体に浸透していっている状況と基調をなしていますが、それらを子供の目線から手の届く、肌感覚で描いているところが先進性を持っています。前述の石岡さんの著作においても、例えばマシンの動作が重くなるという経験とデジモンバトルとを感覚的に結びつけており、身体感覚の延長線上でスケール感ある話を展開していることが評価されています。

ぼくらのウォーゲーム!』は我々の暮らす日常と、核ミサイルの暴走といった非日常とを近い距離で対比させて描くことにも成功しています。そして、ネットによる全世界の子供たちとの結びつきといった部分や、あらゆるシステムが統合されるネット、VR空間の表現などは、来るべき21世紀への展望を強く感じさせるものでした。

加えて、光ヶ丘や島根といった実際に存在する場所を舞台に設定しロケハンを行ったり、NTTに実際に取材し、(架空の便利なガジェットを使うのではなく)災害伝言ダイヤルや衛星携帯など有事の際に実際に使われるサービスをストーリーに取り入れたりといった、『デジモン』シリーズの一作品ながら現実世界との結びつきも強く持っています。

劇中で太一は一度も室内から出ず、デジモン同士のバトルもデジタルワールドや現実の世界ではなく、現実のインターネット空間の中で展開するという点もリアリティを持っています。

フィクショナルな作品ながら現実のインターネットやデジタルツールとの関わりを感じさせる面でも、その後のアニメ作品に先んじていると言えるでしょう。

21世紀に入ってからのアニメにおいてはテーマ的にも表現的にも、デジタルなものとの関わりが深化していっており、2000年に公開された『ぼくらのウォーゲーム!』は21世紀のアニメが見せる展開を予見していた作品と言っても過言ではありません。

自信が手掛ける『サマー・ウォーズ』よりおよそ10年早く、このような題材を取り上げた先進性も高く評価されて然るべきでしょう。

 

もう一つの要因としては、一本の映画として非常に高い完成度を見せている点です。

 上で述べたように、『ぼくらのウォーゲーム!』はテーマの持つ社会的・経済的な観点からも重要な作品と言えますが、それだけでなく、VR空間を表現するCGや、モーショングラフィックスの活用といったデジタル表現も幅広く映画内で活用されており、ストーリーを洗練された形で伝達することに成功しています。

 しかし、アニメファンを最も驚かせたのは何といっても映画における時間の使い方でしょう。

主題歌に合わせオープニングクレジットが流れてから、ラストカットのエンドロール、Windowsの画面上で映画が終わるまで、40分という非常に短い上映時間ながら、その時間を完璧で無駄のない使い方をし、開始30分に至るまでにドラマを一気にクライマックスまで持って来るレベルの高さは、まさしく映画体験として非常に強く印象に残ります。個人的にも、短い上映時間でここまでテンションを上げることが可能なのかと衝撃を受けた作品です。

 

後の『サマー・ウォーズ』にも引き継がれた、核ミサイル衝突までの制限時間のカウントダウンと映画の上映時間を同期させるアイデアも本作で初めて試みられていますが、それに限らず、ドラマを盛り上げるためのあらゆるテクニックを使い切っています。

 それは例えば、先に述べたテーマとの関わりで言えば、「日常と非日常のアンサンブル」を取り入れている点です。

 敵役のデジモンディアボロモン)の暴走を阻止するために太一たちは部屋のなかにいながら奔走しますが、その合間に他の登場人物や、周囲の人たちの状況もクロスカッティングで入っています。

 太一と光太郎、ヤマトとタケルは直接戦いに加わりますが、他の子供たちや周囲の人たちはそれを意に介さず日常を過ごしていたりしており、例えば核ミサイルのカウントダウンの数字と母親がケーキを焼き上げるまでの時間、丈の入学試験の残り時間が重なっていたりと、そのあざやかな対比によってサスペンス感を演出しています。日常と非日常との距離感は、テーマに絡んでいるだけでなく、対比と反復によって映画をいかに盛り上げるかといったところにも機能を果たしているのです。

そうした対比と反復、それを成り立たせるための、広角俯瞰のマスターショットを用いたレイアウト重視のスタイルなど、後に見せる細田守の洗練された視覚的スタイルも本作において既に確立されています。本作は『サマー・ウォーズ』の前哨戦であるだけでなく、まぎれもなく細田守が頭角を現した作品でもあり、映画美学の面からも瞠目すべき達成を成し遂げていたと言えるでしょう。

個人的にも、現時点までの細田守の監督作品で最高傑作は何か?と訊かれれば、(そう答えるのがクリシェであるとは知りつつも)『ぼくらのウォーゲーム!』と答えることだと思います。

 

ぼくらのウォーゲーム!』の海外受容

以上にも述べたように、幸い国内においては『ぼくらのウォーゲーム!』の評価は確立されていると考えていいでしょう。

では。本作は海外においてどのように批評されているのか?というのは兼ねてより気になっていたので以前ネットでチェックしてみたのですが

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RottenTomatoesで「細田守」のフィルモグラフィーの項を見ると、細田作品の中ではまさかの最低の評価が付けられおり、軽いショックを覚えます。

しかしそれと同時に、『Digimon - The Movie』(2000)って何のこと?となるわけです。

日本のアニメファンが『デジモン ザ・ムービー』と言われて思いつくのは、細田守が監督した一作目の『デジモンアドベンチャー』(1999)ですが、こちらは『ぼくらのウォーゲーム!』(2000)とは別作品であり、しかしRottenTomatoesには一作しか記載されていません。

 

詳細を見てみると、監督には『デジモンアドベンチャー』や『ぼくらのウォーゲーム!』とは関係のない山内重保さんや相澤昌弘さんの名前も載っており、ますます首を傾げます。どうも細田守の単独監督作品ではないようなのです。

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『Digimon - The Movie』のCritics Consensus(批評家の合意)を見ると、

 

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デジモンポケモンよりも良いが、しかしこの映画は凡庸なアニメーションによるありきたりな映画です」(直訳)

 となっており、皮肉にも、前述の日記におけるヤマカンさんによるレビュー(「『ポケモン』劇場版も確かに悪くはないが、『デジモン』に比べれば、赤子と兵隊」)とは真逆の評価を受けてしまっています。

ちなみにWikipediaの英語版で細田守フィルモグラフィーを確認してみても、長編映画の監督第一作目が『Digimon - The Movie』となっています。

 

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『Digimon - The Movie』という謎の映画の存在が気になるところですが、Wikipediaの当該ページなどを見ると、どうやら本作は

 

・『デジモンアドベンチャー』(1999年、細田守監督)

・『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』(2000年、細田守監督)

・『デジモンアドベンチャー02 前編 デジモンハリケーン上陸!!/後編 超絶進化!!黄金のデジメンタル』(2000年、山内重保監督)

 

の三作を合体させて、編集で上映時間を40分削られた上で、一作品にまとめて北米では公開されていたもののようです。クレジット上も「監督:細田守山内重保」と共同監督による作品となっています。そして台詞や構成を元の映画から大きく改変しているため、オリジナルの別作品として見られている模様。

 

北米でこのような流通がなされた経緯としては、北米において『デジモン』シリーズの劇場版を公開するという話になったときに、その時点で日本で公開されていた劇場版が上記三作であり*1、それぞれ20分、40分、60分と、単独で公開するには向いていない上映時間であることもあって*2、三つをミックスした上で上映時間を短縮、合わせて台詞の改変やシーンの削除等で整合性を取った感じのようです。

 

日本アニメの他の例でいうと、『超時空要塞マクロス』・『超時空騎団サザンクロス』・『機甲創世記モスピーダ』らをまとめて『Robotech』という一つの大河シリーズとして海外で放映するといったリミックス改変によるローカライズがなされていたケースがありますが、この種のミックスによるローカライズが『デジモン』シリーズにおいても行われていたことになります。

ネットを見ると、『Digimon:The Movie』はRottenTomatoesやIMDbなどの英語圏の映画アグリゲーターサイトでは酷評されていますが、AmazonのDVDページのレビューなどを見るとそこそこ高い点数が付いており、本作は本作でそれなりに思い入れのあるアニメファンが多いようです。

 

『Digimon:The Movie』自体を見ていないので何とも言えない面はありますが、いずれにせよ、『ぼくらのウォーゲーム!』はプロットに改変を加えられた上で、『デジモンアドベンチャー』一作目及び、『デジモンアドベンチャー 02』シリーズに属する別作品と抱き合わせで公開されたというのはほぼ間違いないでしょう。

 

『Digimon: The Movie』の問題点

このような流通形態がとられたことによって、『ぼくらのウォーゲーム!』は、批評的にも、デジモンを始めとするアニメファン的にも、公開当初無視されてしまったことになります。海外では、後から配信サイト等で視聴した一部のアニメファンのみが『ぼくらのウォーゲーム!』を映画単体で消費できているのでしょう(そのため、IMDbには独立した作品として登録されており一応そちらでは高スコアも付いています)。

しかし『ぼくらのウォーゲーム!』はその一本の独立した映画としての達成度が抜きんでているのであり、トータルでの完成度、つまり一つ一つのシーンやカットではなく、その全体での統一のされ方においてまさに優れた作品でした。

例えば「日常と非日常の対比」のような肝心の部分は、編集が入ることで崩れてしまうでしょう。表現やテクニックが、テーマや描きたいもの、観客に与える心理的効果に密接に結びついているこの映画において、そこに編集が加えられることや、抱き合わせで一本の映画に統合されることは、映画としての価値を無化してしまうことに等しい。

また、加えて言うと細田監督だけでなく山内重保監督もこのことで被害を被っています。

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デジモンアドベンチャー02 前編 デジモンハリケーン上陸!!/後編 超絶進化!!黄金のデジメンタル』は細田守監督による前二作とも打って変わって、山内監督の作家性が炸裂、敢えて言えば暗い部分を感じさせる作品です。分かりやすいカタルシスもあるわけではない。監督自身が「後編にかけて、観客に嫌な気分になってもらう」ことを目標に作ったというコメントも残しているほどです。

また、『02』は前二作とは表現のトーンも異なります。細田守による前二作は山下高明さんがキャラデザイン&作画監督を手掛け、シルエット重視のシンプルな線を基調とし、影無し作画のスタイルを貫いていますが、山内重保による『02』は部分的に影付き作画、線の艶が際立った色気のあるデザインになっています。

両者は線の手法やキャラデザインなども含め、スタイルも雰囲気もまるで違います。そしてデザイン面の違いは、まさに作品の持つ思想を反映しての違いによるものです。

 

もちろん流通の上で、このような公開形式になったことはある程度仕方ない部分はあるでしょう。東映アニメフェアのような公開形態は北米にはなく、三本に分けて一度に上映するといった公開の仕方もおそらくハードルが高い。しかしせめて、細田守監督による一作目と二作目をひとまとめにして同時に公開し、山内重保監督による二作目を独立して公開するといったやり方は出来たはずです。そのような元作品への尊重を欠いた結果が、『ぼくらのウォーゲーム!』の持つ独立した映画としての真価が批評的に無視されることに繋がってしまいました。 

前述のように、IMDbでは『ぼくらのウォーゲーム!』単体での評価も載っていますが、『Digimon: The Movie』と比べると圧倒的にレビュー数は少ないですし、それに、デジモンの濃いファンや、アニメマニアでない限りは、『Digimon: The Movie』をオリジナルと見比べようとはならないことでしょう。そもそも『Digimon: The Movie』が細田守監督による長編映画の第一作目として認知されてしまっているので、致し方のない状況です。

 

まとめ

ぼくらのウォーゲーム!』が一般のアニメファンや批評家からオフィシャルに評価される機会は英語圏においては実質的に失われてしまったと言っても過言ではないでしょう。

一般的に、ローカライズの仕方というのは、次世代の人がどのようにその作品を享受するかというのを決定づけてしまう。そして、世の中の多くの人はバージョン違いを細かく気にするマニアではない以上、それは不可逆な過程でもあります。

先日Netflixで旧『エヴァンゲリオン』シリーズが全世界に配信された際に、ショッキングなシーンの削除、エンディングソングの変更、あるいは字幕の改変等を行ったことで海外のファンから非難の声が上がるという事件がありましたが、考えてみればこれから『エヴァンゲリオン』を見る人は皆その改変バージョンを見て入門するわけなので、次世代においてはその改変バージョンが「当たり前」になってしまうことになる。Netflixの全世界における影響力を考えれば、これは海外の『エヴァ』ファンが吹き上がるのも当然のことと言えるでしょう。

逆に、日本のファンは海外オタクから指摘される前にもう少しこういった事情に敏感になった方がいいのではないかと感じてしまう。そのようなことを『デジモン』や『エヴァ』のケースなどを見ても考えさせられるのでした。

デジモン THE MOVIES Blu-ray VOL.1

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*1:ぼくらのウォーゲーム!』の正式な続編と見られる『デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲』(2001年3月)は当時まだ公開されていませんでした。

*2:元は三作とも東映アニメフェアで他タイトルと同時に上映された作品であったため変則的な上映時間だった。