冬コミケの季節ですね。私は京都大学アニメクリティカさんのところの新刊に映画『若おかみは小学生!』についての記事で参加しています。
映画『若おかみは小学生!』の経済性についての試論
というタイトルで、あの映画の脚本ないし演出が、いかに効率的に物語を伝えているかといったことについて書いています。
【告知】コミックマーケット95の3日目に東J25aで新刊『京都大学アニメクリティカvol.7』出します。highlandさんの『若おかみは小学生!』論をはじめ『宇宙よりも遠い場所』『シュガー・ラッシュ:オンライン』『魔法少女リリカルなのはDetonation』などを扱ったアニメ評論本です。よろしくお願いします
— 京都大学アニメクリティカ3日目J25a (@animecritica) December 25, 2018
手に取って読んでいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。私としては、ほかの方の寄稿記事も楽しみです。
さて、経済性については上記の記事で書いたのですが、そこで書けなかった内容として、今回は反射について書こうと思います。
若女将!の冒頭の電車に乗って花の湯温泉に向かうシーンで、
— highland (@highland_sh) November 1, 2018
車窓に反射して斜向かいの親子連れ三人が映っていて、画面手前にいるおっこがそれを見てる(ように見える)んだけど、トンネルから出て明るくなったところで親子連れの姿が消える(そしておっこの顔の鏡像だけが残る)というカットがあって…
最後に劇場で見たときにこういうツイートをしたのですが、これだとあまり上手く説明できてないなあと思っていました。
これはDVDソフトが出るまで待ちかなと思っていたのですが、先日『講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!』(原著:令丈 ヒロ子、著:斎藤 妙子)に当該カットのキャプチャが載っているのを発見した(!)ため、以下に引用します。
元ツイートにあるように、これは両親を亡くしたおっこが祖母のお世話になるため花の湯温泉に電車で向かうシーンで、窓ガラスの反射に映るおっこの表情と、おっこが見ている(と思われる)親子連れ三人の反射した姿も画面に映り込んでいます。父母を亡くしたおっこが、両親と話している子どもの姿を見ており、言うまでもなく両者は対比されています。
さて、先ずはこのカット、改めて見るとめちゃくちゃ層が入り組んでるんですよね。映っているものの種類ごとに分けるとおそらく以下のようになっています。
画面内にあるもののうち、実物が映っているのは手前にいるおっこの頭のみです。おっこの表情と、反対側の座席に座っている親子連れは窓ガラスへの反射で映っています。そして向かい側の窓ガラスに映っている親子連れの姿も、二重に反射して映り込んでいます。それに加えて、おそらく窓ガラスに透けてトンネル内のケーブルが映っています(この像はおっこの頭にもかぶさっているので反射ではなく透過で合ってると思う)。
四種類のレイヤーが一つの絵の中に重なって映っているという手の込みよう。このカットが発揮している効果としては、以下のようなものが挙げられるかと思う。
まずは
・反射を使うことで、親子連れとそれを見ているおっこの表情とを(切り返しを使わずに)一つの画面の中に収めている。
ここで窓ガラスの反射を使わなければ、窓側にカメラを設定しておっこの頭をナメる形で親子連れを映す必要があり、それだとおっこの表情が映らない。おっこの表情を映すためにはカットを割って「親子連れ」→「おっこの表情」と2カット使う必要があり、それだとこのカットの持つ抒情性や、さり気なさが失われる。
親子を見ているおっこのアンニュイな表情と、親子の姿とを一つの絵に収めることで浮かび上がってくる情緒というものがあると思う。
また、厳密には「見ている」のではなく、「見ているように見える」というのもポイントで、観客が想像力を伸ばす余地をそこに与えている。
もう一つの効果としては、
・親子三人の姿を反射を通して映すことで、ここでのおっこにとって「親子連れ三人」というイメージは失われてしまったもの、不確かなものになっていることを示す。
というのが挙げられる。
鏡面反射ではなく、窓ガラスへの反射・映り込みを通して何かを映すと、被写体は(透過率50パーセントくらいの)半透明な姿でそこに映り込む。つまり、直接映せばはっきりした形でそこに表出するものが、反射を通して映せば、どこかぼやけて不確かなイメージと化す。虚構や空虚さといったものをそこに付与することが出来るのだ。
父母を亡くしたおっこにとって、その姿はぼやけた虚像*1として感じ取られているような印象を与える。
しかも、(私の記憶が正しければ)この次のカットでは、電車がトンネルから出て窓外の景色が明るくなったところで、この反射は消えて、窓ガラスには鏡像のおっこだけが映るようになる。
このカットの流れには、本作の全体としてのテーマが反映されているように思えないだろうか……?
事故で両親を失った後も「幽霊と化した両親」と交流することができるけれども、やがてトンネルを抜けて明るくなるように変化することで、漠然とした像であったそれは消える(そして自分の姿が残る)。そういうことを語っているように見える。
そもそも映画内において幽霊たちは透けた形で出てくる不確かな存在だ。だからこそ両親が常に実在のもののように出てくることに不気味さがあるのだけれど、幽霊と化した両親も幽霊たちと同様に、異界の存在である。最後におっこは両親および幽霊たちといった異界の存在と別れ、そこでホワイトアウトして映画は締めくくられる。
私の深読みや勘違いかもしれないけど、こういうさり気ない描写によってテーマが散りばめられているのだとしたら、それはとても芸が細かいことであると思う。
もちろん、こういったカットを見て観客が即座に「これはこういう意味で~」みたいに意識的に理解するわけではないだろう。しかしこういった表現がサブテキストとして細かに散らされることで、無意識に刷り込みが行われ、映画全体のテーマに説得力を与えていく。
そして本作は、反射・映り込みの表現の精緻さが注目を浴びた作品でもあった。
「若おかみは小学生!」映像的な面では光や反射の表現がとにかく細かくて、床に反射する人物、包丁の刃に写る卵焼きもちゃんと描かれてる。そしてなにより最後のカットの蛇口やソープボトル、そして鏡に反射するソープボトルにまでちゃんとキャラが描きこまれてて衝撃。 pic.twitter.com/jy0XCHLFuq
— 加藤アカツキ@3日目東ソ60b (@AkatsukiKatoh) September 30, 2018
これについては勿論、作品内の世界のリアリティの底上げする効果があると考えられるけれど、他方で、鏡像を多く使うことで生・死の境界の不確かさや、異界への通じやすさといったイメージを際立たせる効果もあるのではないだろうか。
それでは追加で、他のカットでどのように反射・映り込みが使われているかを、先述の『講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!』に載っているキャプチャで確認できる範囲で見ていこうと思う。
先述のカットの前に出てくるカット(本からキャプチャをトリミングしてしまったので端が変になっていることはご容赦ください)。
こちらは窓外の景色が窓全体に反射して映っており、それを見ているおっこの表情が同時に透過で映っている。窓内と窓外の両方の像が重なっており、こちらもカットを割らずに、見ている主体と見られているものとを映すことに成功している。おっこが思いに沈んで、目から見た景色が漠然としたイメージとして映っていることを示唆しているようでもあります。
こちらは旅館に着き、自分の部屋に最初に入ったときのシーン、ウリ坊を見つける直前あたり。
写真立てに入った両親の写真(の上のガラス板)に、挿し込んだ光によって窓枠が反射で映り込んでいる。これによって、両親の姿が半透明なものに見える(実際には透明ではない)ようになっている。観客に対し、両親の「幽霊のような姿」を印象づける効果があるだろう。
水領さんの車に乗って買い物に行く途中、おっこが事故のPTSDで過呼吸に陥り、その後おそらく車中で休ませてもらっているところ。
サイドミラーにおっこの表情が映り込む。こちらもおっこの表情と、おっこにとって見えている両親の姿とを同時に映す経済的なレイアウト。死んだ両親の姿がナチュラルに見えているが、「サイドミラーのおっこ」が同時にフレーム内に映っていることで、それがあくまでおっこの視線を通じてだけのものであることが強調される。
おっこが水領さんに初めての浴衣を着せてあげるシーンにアクセントを加える映り込み。この水晶玉の表現はびっくりするほどキレイでしたね。こちらも二重に像が映り込んでいる手の込みよう。
レイアウトの意図を汲み取るならば、幽霊の存在を感じ取れるおっこと、霊能はないが占い師である大人の水領さん、二人の存在の重なりを印象づけることでしょうか。
それほど数は確認できませんでしたが、映画全体において、反射の表現がときに意義深く用いられているということは言えるでしょう。
反射・映り込みという表現一般について振り返ると、そもそも反射というのは現実を直接映すのではなく間接的に像として見せることで、歪められたリアリティをそこに現出させる神秘的な技法でもあります。
下の画像はジェレミー・ヴィンヤード『傑作から学ぶ映画技法完全レファレンス』(2002年、フィルムアート社)より。
古今東西の映画やコミックで用いられている技法であるとは思いますが、
殊に日本アニメにおいて、反射という表現の持つ神秘性を哲学の域にまで高めたのは、よく知られているように押井守さんの『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だと思う。
頻繁に出てくる水面への映り込みや、光の反射の表現。
それら表現が個々に象徴的な意味を有しているというよりは、作られた虚構の世界/夢と現実というテーマに沿った描写が、映画全体にサブテキストとして散りばめられている。それによって、地と図の反転によって境界があいまいになる、あるいは夢のような形で世界を現出させるという主題に結びつく。
そして日本アニメの後続の作品においては描き出された仮想の現実、箱庭的な虚構の世界といったものを表現する際には、(押井さん自身のものも含めて)鏡面反射・映り込みというモチーフはしばしば用いられるようになった。
加えて、今敏さんのこれも印象深い。
自我同一性、夢と現実の境目の揺らぎをテーマにした『パーフェクトブルー』は鏡面反射を使った表現の見本市のような作品になっている。
左の方は未麻が部屋で自身のブログページを見つけるシーン、鏡写しを使った不安定なレイアウト、真っ赤な色味と相まって不安感を急速に高める。右は有名な本田雄パート。鏡像の未麻と本体とが共に動くのを手前から映してるという、トリッキーなカット。
連想で言えば、最初に紹介した『若おかみは小学生!』のカットと形態的には似ている表現を、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』第2話(コンテ:坂田純一、演出:堀口和樹)で見つけることができる。
思春期症候群によりだんだん(比喩的でなく)他者から存在を認識されなくなっていき、追い詰められていく桜島麻衣。
窓ガラスに反射した麻衣の半透明の姿、そしてここで彼女がその像を見ているという表現によってその事態がよりはっきりと視覚化されている。
ここで麻衣は梓川咲太から目を逸らしながら会話している(後に向き直る)。
「私のこと、覚えてる?」という麻衣の質問に対し咲太が肯定の言葉を返す、そして麻衣は自分の姿の映り込みを見ながらそれを聞くという描写。ガラスの反射を使うことで、ここでの麻衣の不安げな表情をとらえることに成功し、同時に、麻衣が自己の存在の不確かさを気にかけていることが浮き彫りになっている。
段々取りとめのない話になっていきそうなのでこれくらいで終わりにしようかなあと思います。
冬コミで寄稿させてもらった文章の方もよろしくお願いします。
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*1:という言い方は理科的には正しくないけれど