アニメとはほぼ全く関係ない話題ですが、『群衆』の話をしようと思います。
※この記事は作品についての全面的なネタバレを含みます。
格安DVDで見たら、パッケージ裏の解説文が本編を1秒も見ていなくても書ける内容しか書いてなくて面白かったです。
1928年のアメリカ映画ということで、ちょうどサイレントからトーキー(発声映画)の端境期にあたる時期に公開されたサイレント作品。ゴダールが言及していたり、「映画ベストセレクション」的なやつにも入ったりもしておりそこそこ著名な作だと思います。
原題はそのまま『The Crowd(群衆)』で、古典に相応しい、シンプルなテーマを感じさせるタイトルと言えるでしょう。
導入:
1900年7月4日、合衆国の124回目の独立記念日という特別な日にその男の子は生まれました。「この子はきっと大物になる」「多くの機会を与えよう」と父親は決めました。
その父親は男の子が12歳のときに亡くなりましたが、その遺志を継ぐことによってよってますます、「大物になる」という少年の意志は強くなりました。
21歳になったとき、青年になった男の子、ジョン・シムズは機会を求めて人口700万が集う大都会・ニューヨークに乗り出しました。
大物になるためには、群衆に飲み込まれない傑出した存在にならなくてはならない……
少年期の主人公が父親の死を告げられるシーンは、1分きっかりの長回しで撮られており(父親の亡骸が階段を通ってから、少年がその階段を上がって来るまで)、サイレントで長回しというのはその間インタータイトルが全く入らない(つまり実質的にも台詞なし)ということなので、なかなか根性が要りそうな試みです。
映画の全体通して、随所でカットを割らずに芝居をさせることによって、登場人物の感情を途切れさせないようにしようとする工夫が見られます。
その後、 21歳になってニューヨーク行きの船に乗ってやって来る主人公。
この時のショットは絵に描いたような「都会に夢見て上京して来る若者」の図になっていて笑ってしまいます。カメラが重い時期のサイレント映画は、一枚絵の構図で簡潔に物事を表現することが要請されることから、しばしば漫画のコマみたいな画になっていると思う。ちなみに右側の人はこれ以降のシーンで全く出て来ません。
ニューヨークに到着してからのシーンでは、人々の行きかいや車の往来が多重露光によるモンタージュで表現されています。このシークエンスはちょっと長いですが、大都会NYの目のくらむような圧倒的な群衆を、その猥雑さを込みで効果的に表現しています。若干ソ連映画っぽいですが、『カメラを持った男』('29)より前なんですね。
そして、大都会を映すシークエンスから、その中での主人公の姿に滑らかに遷移していきます。
(ミニチュアの)摩天楼の側面をなめるように映し、窓ガラスを抜けて室内に入っていくカメラワーク、ここもかなり現代的な発想で驚いた。
NYに定住し始めた主人公は保険会社の事務社員の一人として雇用されています。
ナンバリングを振られている多人数の労働者、官僚的手続きを思わせる書類の事務作業、個性を感じさせない規則的な並びのデスクなど、ここを取り出すとなかなかにディストピアっぽい絵になっています。
同じデスクと作業者が一様に延々と並んでいるオフィスなど、本作での群衆を見せる演出はオーソン・ウェルズの『審判』('62)にも影響を与えたとされています。
定時になった瞬間に皆一斉に帰るところも両作ともに同じですね。
『審判』のビジュアルが後のディストピアSFに影響を与えていることも考えると、『群衆』の映画史における意義も一層感じられるようになると思います。
また、それに続く、職場に併設されている洗面所のシーン。
多人数が往還する通路を合わせ鏡の洗面所にすることで、人の波が無限に続いていくような印象を与えています。通常の劇映画ながら、群衆を演出するにあたっては大胆に表現主義的な手法を採用しています。
また、映画の後半のシーンで、ビーチにてバカンスを楽しむシムズの家族(主人公が妻子をもうけた後)。
ビーチで主人公が楽器を鳴らして歌っていると、横で昼寝をしている老紳士に叱責を受けるのですが、この会話シーンの両者のカットでは一方が主人公のシングルショットですが、もう一方はビーチにびっしりと埋まった群衆のショットです。
このビーチのシーンの前半では、シムズら家族4人が映っているカットでは徹底して4人以外が映らないように撮られていますが、先行するビーチの群衆のショットによって、フレーム外にいても、 そこには常に群衆がひしめいていることが示唆されています(実際の都市生活者にとってそうであるように)。
先ほどのシムズのショットと、ビーチに埋まった群衆のショットとは古典的な切り返しのモンタージュで繋がれていましたが、この切り返しによって、家族の団らんであってもそれは絶えず群衆と隣り合わせであるという事実が浮かび上がってきます。こうした、大胆な画の切り替え(単数⇔複数)は、サイレント期の映画ならではですね。
少し展開を先に進め過ぎました。
続きのあらすじ:
保険会社で働き始めたシムズは、同僚のバートに誘われたダブルデートで
知り合った女性と結婚し、二人の子供をもうけます。当初は先行きが明るく、周囲の凡人を馬鹿にしていたシムズでしたが、
そこから5年経っても同僚と比べてなかなか昇進できませんでした。シムズの尊大な態度と実際の境遇との間にはだんだんと開きが生じてきて、それが妻との不仲にも繋がっていきます。
そんな折、広告のキャッチコピーのキャンペーンに応募していたシムズは
自身のコピーが採用され、幸運にも賞金の500ドルを獲得します。歓喜する二人は、子供たちにすぐに帰って来るよう伝えますが、
急いで帰って来た娘はそこで交通事故に遭ってしまう……
まずは結婚して間もなくのシーンから。
夫からの小言の多さ、あまりのクズっぷりに耐えられなくなり離婚を決意した妻が、主人公を見送った後に、葛藤の果てにやはり翻意するまでの感情芝居。ここは1分10秒きっかりの長回しで捉えられています。
この時の夫に向ける想いの複雑さ、葛藤を表すと同時に、この後妊娠したことを夫に告げるので、それを引き立てる溜めの意味もあるでしょう。
その後、妻の出産を仕事先で知って主人公が駆けつけるシーンも見どころ(ここでまた、病院で妻を待つ多人数の夫たちに出合わせ、自分の子と妻を見つけ出せるのか?とサスペンスになるのも面白い)。
看護師に案内され、扉を開けて病棟にゆっくりと入っていく主人公。カメラは主人公の背中に貼りつきゆっくりとドリー・インし、主人公と一緒に入っていきます。ここは看護師に案内されてから病棟内で妻を見つけるまでを、カットを割らずに40秒ほどの長回しで捉えています。
ヒッチコック『バルカン超特急』('38)のラストとかもそうですが、こうやって、内側にあるものに対して期待を持っている人物と一緒にカメラが扉の中に入っていくカットって不思議とカタルシスがありますね。ここでベッドの配置が三角形の構図になっているのも効果的で、主人公の期待の高まりを上手く演出しています。
娘が交通事故に遭う悲劇的なシーンでは、野次馬として蟻のように群がってくる群衆のイメージが、やはり鮮烈な構図で目に焼き付きます。
『卒業』('67)のラストシーン、大喝采の逃避行を遂げた若い二人が乗り込んだバスで、その乗客が全員年の行ったおじさんおばさんで、皆で一斉にこっちを無表情で見ているのが映るカットにぞっとさせられた記憶があるのですが、この映画における群衆もどこかそういった、意志を持たない酷薄な印象を持っています。
続きのあらすじ:
娘を失った悲しみに沈む主人公たちに対しても、社会の荒波は容赦なく襲いかかります。
仕事に身が入らなくなり叱責を受けた主人公は、昇進の望めない仕事に見切りをつけ退職を決意しますが、残っている仕事口は、プライドの高い主人公には耐えられない仕事ばかりでした。
転職を繰り返すうちに、妻に愛想を尽かされるようになり、主人公は徐々に追い詰められていく……
群衆を忌避し、軽蔑していた青年が社会の荒波に揉まれるうちにやがて群衆に埋没していく悲哀。何者かになろうとして何者にもなれず、夢を失っていく悲しみ。この映画はそれを丹念に描いていきます。
しかし、単に群衆の非情さに呑まれて主人公が夢破れ落ちぶれていくというドラマであればそれは陳腐な構図であり、後のアメリカ映画においても繰り返されたものと同じです。そこに夫婦の問題を密接に絡ませて、最後には家族との復縁と同時に主人公の復帰を一遍に表現するストーリーテリングがこの映画を特別なものにしていると思います(同時に、家族との間に残った絆が救いになるというのはやや保守的な価値観であるかもしれません)。
そして、この映画において最も感動的なシーンは、まさにそのラストカットに他なりません。
ラストシーンについて
もはや古典も古典なので問題ないだろうと思いネタバレをしてしまいますが、この映画の白眉であるラストのカメラワークについてです。このラストによって、本作における「群衆」の意味合いが全く変わって来るという仕掛けになっています。
挫折しきった主人公はそこからの復帰を成し遂げ、最後に家族三人で連れだってヴォードヴィルのショーを鑑賞しに劇場にやってきます。
妻と夫も和解し、主人公も見つけた仕事に対し前向きな姿勢を抱くようになり、三人とも屈託なく笑いながらショーを楽しめるようになっています。
そこでカットが切り替わり、この映画のラスト数ショットに移っていきます。客席に座る彼ら三人の姿からカメラがどんどんクレーンショットで引いていって(遠ざかっていき)、ショーを笑って鑑賞している群衆が俯瞰で画面一杯に映されます。
三人の姿はどんどん小さくなっていき、ついには群衆の笑いの一部に溶け込んでいきます。一人一人が点のように小さく映るようになった真俯瞰のショットで映画は締めくくられます。
ここに至って、主人公の姿は初めて、群衆と分かたれた個の存在ではなく、その一部へと溶け込んでいきます。そしてそれは群衆に圧倒され、呑まれてしまうといったものではなく、笑い合う群衆の中に、自身もまた成員として復帰するという希望も感じられるものになっています。
それまで一貫して、主人公に対する脅威として演出されて来た「群衆」が、ここにきて主人公にとっての見通しが晴れたことで一気に魅力的なものになり、そこに主人公もまた溶け込んでいく!というカタルシスも充溢しています。
また、映画内でこれまで、喜怒哀楽をもって描かれて来たドラマを背負った主人公たちの姿が、群衆に溶け込んでいくことで、群衆の誰もがみな、そのようなドラマをそれぞれに背負い得る存在であるという気付きにも繋がっていきます。
普通じゃない人間になろうとした、普通の人間という主人公のストーリーは、彼が群衆の中の一人(one of them)として溶け合っていくことで群衆全体のドラマへと膨らんでいきます。群衆の皆が皆、かつて普通じゃない人間になろうとしていた普通の存在だった、というとても残酷なメッセージとも取れますが、それは逆に希望でもあります。たとえ平凡な存在であってもそれぞれの激しいドラマを背負って生きており、そしてその人生は価値があるということになるからです。個々のそうした人たちで構成され、 皆で笑い合っている群衆に、多幸感すら感じられるようになるのが素晴らしい部分です。
また、この象徴的なショットが、映画内での劇場で撮られているというのも見過ごせません(別に『Air/まごころを、君に』ではないですが、当時映画館でこの映画を見た人はちょっとした錯覚に陥ったのではないでしょうか)。
ここにおいて、まさにこの映画全体のストーリーが、映画館にこの映画を見に来ている観客それぞれのものに重なってきています。
この映画において描かれたドラマは劇中でのキャラクターにとってだけでなく、この映画を観に来ている人たちそれぞれのドラマでもあるという事実がここで浮かび上がってきます。 この映画を見て身を重ねたり、共感したり、軽蔑していた者もそれぞれに群衆を構成する一員であるという事実を、この映画は突き付けてきます。多分、このことを受け入れられるかどうかが、その人の中でのこの映画の評価を二分することになるのではないかと思います。
まさに、普通の人々を描いた、『群衆』の名を冠するに相応しい映画であると言えるでしょう。
大戦後まもなくの貧困に喘ぐイタリアにおいて制作された『自転車泥棒』('48)が、当時の社会的な状況のみならず現実の不条理さやどうにもならなさを伝えているように、大恐慌時代を前にしたアメリカで公開された『群衆』も、我々が直面する現実についての普遍的な事実を伝えています。
また、テーマパークでのデートに始まり、妻との離別、サイレントでありながら音楽に合わせての復縁など、メロドラマとしても一級品の作品になっており、サイレント期を支えた演出家の底力を感じさせられる映画でした。
既存のDVDだと画質がめちゃくちゃ悪いので他のヴィダー作品と一緒にHDリマスター版のソフトとか出ないかな…と思います。