highland's diary

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劇場OVA『フラグタイム』(2019)感想

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同じく劇場OVAとして公開された『あさがおと加瀬さん』に続き佐藤卓哉さんが監督を手掛け、『加瀬さん』は新書館の百合レーベルより刊行された漫画が原作でしたが、今回は純粋な百合レーベルではない、秋田書店の少年誌レーベルより刊行された漫画が原作の作品となりました。

制作会社が違うこともあり、作画に関わるスタッフは前作と大きく異なるのですが、音楽担当のrionosさんをはじめ色彩設計、撮影、編集といったセクションの方は共通しており、こうしたポスプロ関連の陣営が共通していることで前作と共通したテイストを残すフィルムになっています。

ファーストショットは黒背景に時計の刻むチクタクという音から始まり、砂地に映し出される文字、そこから公園の砂場、海岸の浜辺と映し出され、それら両者がともに「砂時計」のモチーフで繋がっていることが示されたところで、舞台は主人公のいる学園へと移っていきます。

このシークエンスからも分かるように本作においては砂場や海岸、砂時計、更には鳥や電柱といったイメージがしばしばインサートされ、学園を舞台にした二人のドラマを引き立たせています。

砂場は幼稚園や幼少期のイメージと結び付いており、これはトラウマや本心を幼少期の自分として表現する演出でしょう(『エヴァ』とか『アイマス』とかで見られたような)。

海岸のモチーフはラストで、映画版のキービジュアルにあるような、二人が屈託なく逢瀬を交わせる場に繋がっていきます。

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砂時計は砂場と海岸の両者を結びつける媒介となるもので、冒頭のシークエンスにおいても時間が停止すると同時に遊ぶ子供たちや、浜辺に寄せる波が止まるイメージが描かれています。

随所に挿入される、砂場に映し出される文字は心象風景であると言えますが、この演出が発展していった真骨頂と言えるのは、森谷さんが村上さんのベッドの引き出しを開けた時に、砂場の土が最初に画面一杯に映るシーンで、これは鮮烈なイメージで思わずどきっとさせられた所です。

村上さんの単語帳は実際に原作でもかなり闇を感じさせる描写で、「ベッドの下は見ないでね」という言わば誘い水となる台詞を受けた森谷さんが、村上さんが奥に秘めた内面を直視することを選択した局面で出て来るものです。それだけの強い表現として描く必要があり、不気味さを演出する効果的な見せ方になっていました。

以上でも述べたように『フラグタイム』はイメージ先行型のフィルムで、見方によっては前衛映画と言っても良い作りだったので少し驚かされました。そしてこれはもちろん「静止して隔絶された空間を通じコミュニケーション/ディスコミュニケーションを描く」という本作の題材と結び付いたものなのですが、ことによると本作の制作環境と結び付いた作りであるかもしれません。

前作の『加瀬さん』の方は、佐藤監督が長年パートナーとして組んでいる坂井久太さんが総作画監督を務めていることもあり、イメージの飛躍は抑え目な代わりに、一つ一つの表現(レイアウトや作画)についてじっくり愛着を持って作られている感じが出ています。

逆にティアスタジオで制作された『フラグタイム』は、艶のある作画のキャラクターをあまり動かさない方向性で、音響と美術で見せる静的な趣向(オーディオドラマ的と言うべきか)になっており、アニメートそれ自体ではなくイメージを主体に構成していく作りになっています。そしてそのことによって、逆説的に、佐藤監督の作家性を『加瀬さん』よりも強く感じさせるものになっていました。

本作の評価についてはざっくり以上のようにまとめられそうなのですが、他方で、さと先生の『フラグタイム』の原作を既読の状態で鑑賞した身としては、微妙な気持ちになったのは事実です。

以下では映画の感想について話を移し、本作についての個人的な考えを述べてみたいです。なお、劇場で一回見ただけの感想なので記憶違いがありましたら訂正します。

 

まず指摘しておきたいのは、映画版『フラグタイム』は、基本的には漫画版と同じ流れのストーリーなのだけれど、台詞であったり演出だったりの細部を変えることで、違う内容とメッセージになっているということです。つまり、実際のところ、直ぐ様それと見て取れる大きな改変はないのだけれど、細部を変えているので違った印象を受ける作品になっています。

映像化の際になされた改変はいくつかありますが、自分が決定的だと思ったのは、

  1. 主人公/森谷さんが最初に村上さんのスカートをめくるまでのシーンで、モノローグをなくしている。
  2. 最後に主人公と村上さんが廊下で言い合いの喧嘩をするシーンで、周囲を取り囲む生徒たちがいなくなっている。

の二点です。この二点があることによって、印象も意味合いもだいぶ違ったものになっていると思います。

 

ノローグについて

まず1.についてですが、モノローグ全般について述べると、映画を見た方は主人公のモノローグがそこそこ多いためあまりそう感じなかったかもしれませんが、原作のモノローグはこれでも割と削っていて、主人公の赤裸々な内省や一人語りはそれほど露骨ではなく、自意識過剰な感じがあまりなくなっています。

漫画の方は、ほぼ一貫して主人公の内面に視点が入り込んでいて、主人公の本音や欲望を滲ませた明け透けな独白に自己を重ねる形で読者は読むし、村上さんが主人公に対してする挑発には「お前はこういうことがしたいんだろ?」と読者も同時に言われているような感じもして来ています。

映画版ではそういう露悪的なニュアンスがなくて、そのため、奥手でコミュ障な主人公が村上さんの言動に翻弄されていくという図式は漫画版と変わりないですが、内部に視点が入り込むのではなく「一対一の対話」で、外から眺めている感覚に近いため、不器用ながら相手に手を伸ばしていこうとする意味合いが最初から強く出ていました。

つまり、モノローグを削ったことで主人公/森谷さんの自意識は原作と比べ希薄なものになっています。

原作と同じ流れながら印象を変えているシーンの例として、例えば原作での第1巻80頁前後に当たる、保健室にて保険医さんの目前で時間を止めて主人公が村上さんにキスをするシーンがあります。

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映画版ではこのシーンの流れは、最初に村上さんが主人公に挑発するような調子でけしかけることで、主人公が時間を止めてキスする流れだったと思うのですが、原作では主人公が衝動的に時間を止める選択をして、その後願望を正直に吐露する流れになっています。

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このシーンでの「時間を止めてキスをする」という行動や、起こるイベントの内容、「自分がしたいことを主体的に表明し相手にぶつける」という結論それ自体は原作でも映画版でも同じです。

しかし、原作では(作中での表現を借りれば)主人公の「変態」「童貞」っぽさを感じさせるシーンが、映画版だと村上さんの方が小悪魔的な感じで主人公をけしかけることで、主人公のぎこちなさという要素は消え、むしろ「村上さんに翻弄される」という主人公の立ち位置が前景化しています。原作にあった、主人公の欲望/願望の要素が削られることで、異なる印象を与えるシーンになっていると言えます。

こうした、「自意識を削ぐ」「(欲望を除き)清潔化する」アレンジについては他シーンでも見られ、その最たるものは、1.に挙げた「主人公/森谷さんが最初に村上さんのスカートをめくるまでのシーン」でしょう。村上さんと森谷さんの物語の起点となるこのシーンにおいて、主人公がその背景となる心情や生い立ちについて述べるモノローグは大胆にカットされており、主人公の動機については間接的に仄めかされるに留まっています。

本来であればいきなりスカートをめくるという行動は唐突であり、その後ろ暗い気持ちが明かされることで初めて了解されるような事態と言えますが、それを示すモノローグがあえて削られていることで、この行為はあくまで「二人が関係を取り結ぶきっかけ」としてのみ前景化することになっています。ここにおいても「自意識の希薄化」及び「対話の表現への移行」が顕著に見られます。

 両者の違いについて、

・【原作】:主人公の内面に入り込んで村上さんに迫っていく構図

・【映画版】:一対一の交流を見ている感じ

とここではまとめておきましょう。

そしてこれは、一概に原作の要素を損なうアレンジであるという訳ではもちろんありません。むしろモノローグを最低限必要な量にまで削り、非言語的なものにしたことで映像としてより洗練されたものになっているとも言えます。

注目すべき点としては、このアレンジは、映像化に伴うモノローグの省略を機に起こったものであるかもしれないということです。前提として、時間芸術である映像では漫画のように多くのモノローグを乗せることが出来ず、また、多くのモノローグをナレーションで読み上げることは映像としての情緒を損ないます。

主人公のモノローグを削るためには、主人公がもっぱらモノローグを発することで説話を進めていくという原作漫画のスタイルからある程度脱する必要があり、そのため「一対一の対話」が際立つようなアレンジになったのではないでしょうか。

そうすると、両者の相違はメディアの違いによる変奏だと考えられて面白いです。

 

クライマックスシーンについて

2.については、作品のテイストというよりはそのメッセージの部分において影響を与えている変更点です。

森谷さんと村上さんが廊下で言い合いの喧嘩をするシーンで、原作では周囲を取り囲む生徒たちがいて衆人環視のもとでこの対話はなされるのですが、映画版では二人以外の誰の姿も見えない状態で、二人は本音でぶつかり合います。

原作でも映画でも、このシーンが作劇全体においても重要な意味を持つのは、それまでの物語では一貫して森谷さんが語り部として話が展開しますが、ここで初めて他者である村上さんのモノローグが入ってくることによります。それまでは主人公の推測を通してしか表されてこなかった村上さんの心情が直接入って来ることで、相手との本音での関わり合いが生まれるのと同時に、「一人の話」から「二人の話」へと作品の持つ意味合いが変わって来ます。

しかし、このシーンの描写は映画と原作とで異なったものになっています。

映画だと自分と相手だけの世界に入り(雑味のない状態で)、これまで互いに抱いていた感情に答えを出すシーンになっていますが、これは原作だと、二人の会話に被さる形で周囲を取り囲む生徒の台詞が途中から入ってきて、それを切っ掛けとして村上さんのモノローグもまた入ってくるという感じになっています。重要な点としては、村上さんが森谷さんに対して抱いている自身の気持ちに気付くきっかけを、普段村上さんに接している(森谷さん以外の)他の生徒が引き出しているということです。

そしてそのことによって、そこで彼女たち二人の関係から、ほかの皆んなを巻き込んだ関わり合いにまで話が膨らんでいく感じが生まれています。

つまり、映画だと主人公のモノローグ→村上さんのモノローグと展開することで「一人の話」から「二人の話」へと変わっていくのですが、これは原作だと「一人の話」から「二人の話」に広がるのと同時に、それを見守っている「みんなとの関係」にまで膨らんでいっています。そしてそのことによって、「みんなを前にして自らの本音を率直に出す」という性質が付与されています。

まとめると、話の水準の推移は以下のようになっていると言えるでしょう。

・【原作】:「一人の話」→「二人の話」→「みんなとの関係」

・【映画版】:「一人の話」→「二人の話」 

実際、原作ではこのシーンにおいて二人の気持ちは他の人たちにも知られることになり、彼女たちのその後の境遇にも少なからず影響を与えていることが分かります。

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原作ラストの上ページのシーンは映画版でもあり、モノローグの内容も多くが残っていますが、映画版だと「みんなとの関係」にまで波及は起こってないため、二人を取り巻く環境の変化はあくまで限定的です。クライマックスでの二人の言い合いが、「みんなを前にして心情を吐露する」というシーンではなくなったことで、映画版では森谷さんと村上さんの(同性愛の)カミングアウトもなかったことになっています。恐らくは「なかったことにした」というよりは、描かなくていいものとして「省略された」という方に近いのだと思いますが、いずれにせよ異なる質の結末になっていることは確かです。

映画版の作り手(ここでは仮に監督だとします*1)が、この二人の最終的な関係をどのようなものとして提示したかったのかについては、ラストシーンの描写に如実に現れています。

原作でもアニメでも、ラストシーンは最後、校内で別々のグループにいる二人が目配せするシーンで、この時に他の生徒も映っています。そうして映画版でのオリジナルの描写として、映画のラストに持ってくる絵が、キービジュアルにあった「浜辺で二人が歩いているイメージ」のショットになっています。ラストカットに浜辺のイメージが出た後、二人が足跡だけ残して消えるという描写です。

この演出は、二人の「恋愛関係がバレてしまっている」という描写の代わりに入れられたものだと思われますが、映画版の監督は、百合的な関係をどこか「秘匿されるようなもの」として提示してきている印象を私は受けます。映画版では、二人の関係性についてはあくまで「二人の間だけに通じるもの」として結論付けられているからです。

森谷さんの能力的に秘匿のイメージで映画をまとめたかったのかな、という風にも思いますが、ただ、森谷さんの能力が消えて行くことで、周囲の人たちとの関係にも変化があるというのがストーリーの本懐なので、映画版は原作と比べてどこか物足りない印象も受けます。

監督の意図としては、「みんなと通じ合えなくて上手く行かなくても、好きで分かり合える人が一人いればいい」という映画版のテーマに着地させるために、雑味となるような要素を削ぎ落としたのでしょう。あるいは百合作品として純度を高めたいということによるのかもしれません。

ただ、本音でのコミュニケーションから逃げていた主人公が、プライベートな関係や、人前で隠しておきたいことも含め丸裸にされることで吹っ切れるというこのラストシーンは原作漫画全体を通じても大きなカタルシスを生む部分であり、映画版ではそれをあくまで二人きりの対話のシーンにしたことで、そのシーンが作品に影響を及ぼす範囲は限定されてしまっています。

原作と映画版のラストにおける二人の関係は、それぞれ以下のようになっていると言えるでしょう。

・【原作】:二人の関係は特別だけれどオープンなものになる。

・【映画版】:二人の関係は特別なものであり他者からは秘匿されている。

 

最後に

1.及び2.の変更点を見てみることで、原作から映画版へ翻案される際に方向性の転換が起こっているということを見てきました。

個人的な感想としては、映画版への翻案を通じ原作の価値を損なうようなことはしていなかったと思うのですが、監督の美意識で作品全体を覆っていくといった面は感じられ、自分が良さを見出していた部分は削られていたような感じも受けたのは事実です。もっと毒っ気のある脚色が見たかった身としては、好みド直球とまでは行かない感じでした。

実のところ、自分は原作を元々読んでいて、アニメ化されるという報を見た時「岡田麿里脚本で映像化されるのを見たかったな」と思ったのです。

岡田麿里脚本イコール「あけすけな台詞」「露悪的な展開」「共感性羞恥を思いきり刺激されるシーン」「叫びながら互いの感情を赤裸々に吐露するクライマックス」なイメージを持ってしまうのは流石に安易ですが、実際に漫画を読んでいて岡田麿里作品のテイストを感じたのは事実ですし、岡田さんがもし脚本をされるとしたら、上で述べたような点について拾った脚色をしてくれるかもと思ったからです。ご本人も百合作品の仕事で実績の多い人ですし、岡田麿里さんが脚本書いたバージョンも見たかった…!と思いました。

ただ、このような感慨を抱かせてくれるほどに演出と作画が良かったとも言えるので、いずれにせよ視聴推奨な作品ではあります。映像ソフト化されれば良いのですが。

 

「フラグタイム」オリジナルサウンドトラック

「フラグタイム」オリジナルサウンドトラック

 

*1:もちろん実際にはプロデューサーや原作サイドの意向によって決まる部分は大きいですが。