highland's diary

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『戦う姫、働く少女』(2017年、河野真太郎)感想

 『戦う姫、働く少女』(2017年)を読んだので、その感想について書きたい。

ざっくりと内容を言うと、現代における新自由主義的な体制と流動化した雇用形態のもとで(女性)労働者が搾取されるという状況が、ポストフェミニズム的な想像力といかに結び付いているかということを、『スター・ウォーズ』『アナ雪』『おおかみこども』『千と千尋』『インターステラー』『かぐや姫の物語』などのアニメや映画、漫画をテキストに論じるというものでした。

あくまでフェミニズム関連の本で、女性を主体とした論が展開されるけれど、扱っている問題の射程は女性に限らないものでもあり、フェミニズム批評に抵抗のある人にも読んでもらいたい感じはする。マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』とも相性が良い。

個々の作品分析においては、やや牽強付会を感じる箇所もあったけれど、問題提起の面で見るべきところの多い本だと思います。

 

特に、ポストフェミニズム的な地平にあるフィクションにおいて「社会的な格差や貧困の問題がアイデンティティの問題に置き換えられてしまい、物語上では解決されている(少なくともそう見える)けどシステムへの異議申し立てはされないままだよね」ということについて筆者は繰り返し書いている。

例えば『おおかみこども』について、具体的なシーンや台詞を検証しつつ著者は以下のように述べている(以下、第2章から3箇所を抜粋、アンダーラインは筆者)。

 

このように、『おおかみこども』における田舎という場は、福祉を提供する国家や、教育を提供する大学制度の否定の場なのである。その意味で、田舎の共同体を肯定的に表象することは、逆説的にも新自由主義的な現在の追認になっているのだ。そして重要なのは、そのような田舎を背景にしてこそ、貧困の反復が文化的なアイデンティティ選択によって覆い隠されることだ。

 

先に述べたように、狼として山に入り、母から独立しようという雨の決断は、おおかみという比喩形象を取り去ってみれば、十歳という年齢で労働過程に参入する決断なのであり、彼は父と同じような貧困の道を歩んでいるように見える。物語はそのような貧困と階級の問題を、アイデンティティの選択という衣でつつんで覆い隠す。雪が草平に対してカミングアウトする場面でそれは最高潮に達すると言っていいだろう。そこでは、人種的差異(この場合は人間とおおかみ人間との差異)のリベラルな肯定が物語を解決している。

 

興味深いことであるが、この雪の選択は、ジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』における主人公ダニエルの選択を反復している。彼は、みずからがユダヤ人であることを知ることで、マイラ(入水自殺をしようとしているところをダニエルが救い、その家族捜しを手伝った貧しいユダヤ人の歌手)への愛を認め、ともに東方に向かう決意をする。『ダニエル・デロンダ』では人種の同一性の確認であったものが、『おおかみこども』においては無縁社会の共有へとずらされている。つまり逆に言えば、『おおかみこども』は無縁社会という貧困と階級の問題を、人種的差異の問題であるかのようにあつかうのだ。『ダニエル・デロンダ』においても『おおかみこども』においても、人種的差異の肯定がプロットを解決しているが、その解決は登場人物たちの階級的な上昇を保証することはないし、ましてや階級社会のなんらかの変化を保証するものではなおさらない。 もちろん、映画は表面上はそのような読解を許さないかたちで作られている。この映画が貧困の再生産についての作品ではないといえるのは、また、一般的にもわたしたちが階級的問題が解決しない物語に違和感を抱かずにいられるのは、多文化主義と、その中でのアクティヴなアイデンティティの選択というモチーフが、あまりに強力だからなのだ。

 

この指摘はある意味では『おおかみこども』よりむしろ、本書の後に公開された『竜とそばかすの姫』(2021年)においてよく当てはまっているような感もあり、現代的な題材を扱っているがゆえに、細田守作品においては事態がより深刻化しているともとれる*1

(『竜そば』では直接的に、現代における貧困や疎外を前にして児童相談所の制度が無力なものと描かれており、ヒロインの自助努力による救済を称賛するような形で描いている。)

そしてこの問題意識は、批評家の杉田俊介氏が『天気の子』(2019年)の「セカイ系」を「ネオリベラル系」として批判した記事の内容とも繋がっている。

gendai.ismedia.jp

また、『魔女の宅急便』や『千と千尋』をもとに「やりがい搾取」の問題を指摘している章の議論は『若おかみは小学生!』(映画版2018年公開)に繋げて論じることも十分に可能なように思われる。

そういった意味で、この本のとり上げているテーマは2022年現在においてもアクチュアルなものだし、むしろ重要性は増しているとも言えそう。

 

ただ、その一方で、こうした記述に全て妥当性があるかと言われると疑問に感じるところもある。

本書で問題にされているような物語の型は昔からある普遍的なものであるかもしれないし、言い方次第では、古典的な物語の中にも(本書のようなやり方で)福祉国家体制の否定や新自由主義を見出すことは十分できそうではある。

いくつかのフェミニズムの潮流や、'70年代以降の新自由主義流入について、個々の作品においてその反映を見出すことはできるけれど、例えば「ある時期以前の物語はそうじゃなかったけどそれ以降はそういうイデオロギーが反映されてるよね」といった通時的な観点をもう少し入れて書いていた方が、恣意的な記述という感は少なくなると思う。

そういった意味だと、ディズニー映画や、著者の専門である英文学と絡めて論じた箇所ではそれは上手く行っているように思えるけれど、『魔女の宅急便』『千と千尋』『かぐや姫の物語』などはそこまでピンと来なかった感じはする。

また、本書では、宮崎駿作品がかなりの点でネオリベラル的な価値観を体現しているように指摘されているけど、他方で宮崎駿自身は熱心な左翼であるという事実についても触れていて、そこにある思想的ねじれ(?)についてより詳しく読みたかった気はする。

 

加えて言うと、『インターステラー』を「セカイ系」との関わりで論じた第4章はわりと苦しいところもあった。

そもそも『インターステラー』を「セカイ系」と結び付けるのは、東浩紀が「セカイ系」論者として『インターステラー』を擁護したこと*2が背景にあると思われるけど、『インターステラー』は「母性不在」でありポスト・エヴァの作品群に連なるものである、という論の運びはやや違和感があり、「セカイ系」批評を今復活させて作品を論じることの困難さを感じさせるところもあった。

 

全体的には「この作品はイデオロギー的にけしからんのでダメ」という論調ではまったくなく、例えば行政側がその作品をどのようにとり上げているかといったことも取り上げ、作品をもとに現在進行形の社会的問題について問うといったニュアンスが強く、個々の作品がそれを克服する可能性についても同時に取り上げている。

アニメファン的な見地から言うと、実際のところアニメ作品をまっとうに社会や政治の問題と接続して論じるのは難しいことなので、その隘路を突破するようなテキストとしても読めるのではないかと思います。


*1:「田舎」の扱い方については「VR=インターネット世界」と併存していることから、異なった性質になっているという留保は必要。

*2:このtogetterでの発言この記事