highland's diary

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『思い出のマーニー』 雑感

 一回しか見ていない上に記憶もおぼろげですが、一応感想を。大体は他の人に言われ尽してると思うけど。ネタバレです
 
『思い出のマーニー』原作は「過去を失った少女が時間のゆらぎをくぐり抜けて過去をとりもどす心理的なファンタジー」であり、その上で児童文学ならではの細やかな心情描写、そして作者自らの綿密な取材にもとづく、特別な時間を際立たせるノーフォーク湿地帯の風土が合わさり、「内側」と「外側」をめぐる主人公の葛藤と、過去を解き明かすことによる清算を経ての解消までを描いた名作です。
 
 映画の『マーニー』は、英国から日本への舞台変更に伴いノーフォークを北海道の自然に置き換えてはいますが、
過去と現在が入り混じる、二人だけの時間を彩る舞台装置としての湿地、屋敷、月夜といったイメージを可視化している点は非常に見事でした。これは背景美術、さざ波や風音とか音響とかの音響も込みですね。海を渡る行為が、その時間を行き来するものとして象徴的に描かれていたのも印象的。
 
舞踏会のシーンで、マーニーが杏奈の髪に紫色の花(シーラヴェンダー)を挿すのですが、マーニー舞踏会参加後に同じ色の紫の髪留めをする、そして、後半の回想シーンでは、幼少の杏奈にマーニー(祖母)が髪留めをするところから、今の杏奈の髪留めに重なる、というイメージの連鎖が美しい。 
 
気になったのは、かつて久子が描いた絵の中にマーニーの日記の千切れた部分の切れ端があって、それは風彦の名前を書いたものばかり、という描写で、久子がマーニーと和彦の関係に嫉妬し日記の中の和彦の頁を後に裂いた、ともとれます。映画での杏奈は久子と同じく絵描きである、という設定もあり、とすると、過去の久子はサイロの中で和彦に連れられて行くマーニーに見捨てられる杏奈、に重ね合わせられる部分もあるのかな、と思えたり。
 
マーニーが杏奈以外には見えないものとして描かれ、さやかが杏奈に話しかけると消える。ファーストシーンでもマーニーは月夜をバックに登場する幻想的シーンだし、湖上に浮かぶ月を見ると日にちが立っていないはずなのに三日月から満月に変わっている。杏奈が「私の部屋に来てくれる?」という風に訊いて、マーニーが否定するのもそうだし、マーニーや、杏奈が彼女と過ごす時間が杏奈の「空想の存在」である、というように強調されています。まあ、ある種ミスリードではあるんですけど、ミステリ的な要素の盛り込みは、杏奈の成長物語としてのドラマを寸断しているようなとこがあったのは良くなかったかな、という印象です。
 
杏奈の、過去の清算を経た後の「わたし今、とっても幸せなんです」というセリフも、作劇上陳腐になってしまった印象が拭えません、マーニーが杏奈に「貴方の両親は愛すればこそ孤児である貴方を拾った」と諭すようなところとかも、原作ではマーニーが自分のこととして言う内容が、結果的にアンナが自らの身に染みて感じられる、という風だったのに映画ではそのように改変しています。作劇上の要請による台詞をキャラクターの台詞で言わせ過ぎな嫌いはあったと思います。子供向けに作っているという事もあるかもしれませんが、そのような意味での分かりやすさが子供向けで求められるという事はないと思います
 
映画の構成的には、終盤になって、回想シーンの種明かしで説明的な描写が重なったのは良くなかったですね、
映画だと、大体理由や動機については回想>セリフ>細部の描写での説明、という関係になっていて、左に行くほど陳腐になり、活劇を停滞させる、という風になるようです。
説明によって、現在の作劇を進めるための(情報の)容量をどれだけ削るか、というのが問題で、回想している間は現在の作劇を一切進められないようになりますが、会話や、映像の細部で理由を説明すれば残りの容量で一応現在の作劇を進めることができる(ドラマが継続する)ので、そちらの方が当然映画としてはいいわけですね、これは当たり前の話でしょうけど。
 
映画の最初に、杏奈が「外側の人間」であることがモノローグの形で最初に明示され(原作ではそれはものの考え方による と結論されるが、映画では書かれない)、また、コミュニティから疎外される様子もはっきりした形で描かれるのですが、結果的に「内側」に入れたのか、というのは直接は描かれないのですね。
信子とも仲直りし、マーニーとの出会いも通じて彩香という友達も作れ(これもはっきりとそう描かれてますね)、真相を知り過去を清算したことで両親との不和も解消し、そして何よりマーニーとの日々(これは二重の意味でかな)、というのがかけがえのない拠り所となったことで今後は明るくなっていく、という希望を抱かせます(余談ですが映画だと、マーニーが去ってから彩香という友達が出来る、という所の流れが原作よりもシームレスに移行するようになっているのはいいですね)。
 
原作ではというと、「内側/外側」というのは「考え方による」と結論されるし、アンナの、二重の意味を込めた「内側にいます!」の清々しい台詞で決着されるのでいいのですが、映像ではこれをやっても映えないし、映画ではあえてこれを言葉では表現しなかったということですね、いずれにせよ、「わたし今、とっても幸せなんです」よりかはこちらの方がスマートだとは思いますが。
 
船漕ぎの十一に関しては確か「マーニー、青い窓に囚われた少女」というセリフがありましたが、これに関しては十一が当時マーニーとどのような関係にあったのか明かされない以上消化不良となった要素ですね、映画内で一から十まで説明しなきゃならないなんてことは勿論ないのですが中途半端に原作の要素を散りばめただけに留まってしまったのは惜しいところ。
杏奈の七夕の願いである「普通に毎日過ごせますように」が理解されず、青い目(ここは伏線ですが)も注目されたことで信子に「太っちょの豚」呼ばわりしてしまうシーンも、原作と簿妙にニュアンスを変えているので、「内側」の子が害意なく「外側」の子を傷つけることに対し杏奈が一方的に拒否反応を覚えて罵倒する、という構図になっていて、これについても不可解な感じは少々残ります。
 

この映画のハイライトとしては、やはりトレーラーでも目立って使われてますが、マーニーと杏奈のお別れシーンでしょう。ここでのセリフは、

 

「マーニー!どうして私を置いていってしまったの?どうして私を裏切ったの!?」

「ああ…杏奈...あたし…あなたにさよならしなければならないの。だからねえ杏奈、お願い 許してくれるって言って……!」

 

この部分の台詞は原作以上に祖母(マーニー)から孫娘(杏奈)へのそれが重ね合わされている、その裏の意味が明らかに意識されています(原作では、もっと台詞の抽象度が低いので祖母から孫娘のそれのようには聞こえない)

この部分、その裏にある意味付けと、嵐になり押し寄せる波、そして許しを貰った後の後光をバックに微笑むマーニー、と、かなりドラマチックな見せ方も相まってぐっと来る所ではあるのですが、それも2回目ならともかく1回目初めて見る人にとってはこれがハイライトでは普通に戸惑うんじゃないかな、とは思います。この別れのシーンはそれまでの流れからしても唐突に訪れるシーンであり、裏の意味についても、折角の良い要素であるのですが、2回目以降の鑑賞で初めて味わえるようなものでもあるので。その意味でも、この映画がその面白さの多くを原作小説に面白さに負っている部分がある、という批判もむべなるかなと思えてしまうところがあります。

 

パンフにもありましたが、「今まで会ったどの女の子よりもあなたが好き」というマーニーに対して杏奈が「今まで会った誰よりも好き」と答えるという構図は、まあ「今まで会ったどの女の子よりも好き」とアンナもマーニーも互いに言い合っていた原作からの微妙な匙加減での改変であり、和彦と結ばれてしまうのでマーニーと結ばれることのない杏奈、という結末の予兆ともなっており、かつ、杏奈の、マーニーへの許しをより際立たせるものともなっており脚本の妙だな、と思います。

 

あまりまとまってないですが今回の感想はこの辺で。

『マーニー』映画は(舞台設定上では大幅に改変してはいますが)筋やセリフは結構忠実に原作に添って作っているのですが、あくまで個人的な反省点として、先に原作を読んで見に行ったのは良くなかったかもしれません、原作と比べて粗ばかり目に付いたり、イメージに振り回されたりしたので。でも見所のある映画ではあったので、また劇場で見に行きます。

 

ちなみに映画『マーニー』については『虹色ほたる』『マイマイ新子』が類似作として挙げられているようです。僕も『マーニー』見た後に両方見返したりしたのですが、それほど類似は感じませんでした。ちなみにどちらも傑作だと思うので、マーニーとの類似点が指摘されているならこれを機により広く見られて欲しいな、とは思ったり。

 

追記.(2014/8/01)

しかもあの回想シーンに関しては、久子に全てを語らせるような構成になった点も良くない印象でした。いきなり久子一人が全貌を知っているような調子で種明かしをするから唐突にも感じが否めない。しかもその内容からマーニーと杏奈の関係はそこで大体察せられるのに(察しの良い人は杏奈の青い目の時点で気付くでしょうが)、その後でまたダメ押しのようにその事実を補強する説明が入るのでかったるく感じられる(しかもそのシーンがその前の回想ともシームレスにつながる構成になっている訳ではない)。『思い出のマーニー ビジュアルガイド』では以下のような顛末が語られているようですが、ミステリ的要素との噛み合わせは上手く行っていなかったのですね。

 

 舞台を日本に変えたのも、日本人にとってはその方がアクチュアリティが伴いますが、そのために帳尻合わせの変更を加えたりした部分や失われてしまった要素も大きいと考えます。