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— highland (@highland_sh) 2023年9月29日
1000万再生いったら(GOETIAに寄稿した)炉心融解の記事をブログに投稿する
VOCALOID鏡音リンの楽曲「炉心融解」のニコニコ動画版(代理投稿者による2009年の再アップ版)が、この度ついに1000万再生を達成致しました。本当にありがとうございます!…
— iroha(sasaki) (@iroha_sasaki) 2023年11月11日
というわけで、同人誌に寄稿した「炉心融解」の記事をブログにアップします…!
以下に掲載するのは、今年5月に刊行された『GOETIA』という同人誌に私が寄稿させていただいた、「「炉心融解」から考える、ボカロ曲の解釈と動画の関係」という文章の全文です。
ちなみにこの記事は『ボーカロイド文化の現在地』という先日刊行した同人誌にも再掲させていただいています。これが2回目の再利用ということになります。
(同人誌はただいまBOOTHにて予約販売中ですので、よろしくお願いいたします)
現在ニコニコ動画にアップされている公式の「炉心融解」は最初の動画が削除された後に再アップされたバージョンです。今回、その再アップされたバージョンが1000万再生を突破しましたが、削除された初代動画は266万再生されており、両者を合わせると1266万再生超えです。
これによって「炉心融解」はニコニコ動画のボカロ曲の再生数ランキングで「歴代6位」!になります。
1位が「千本桜」2位が「みくみくにしてあげる♪【してやんよ】」3位が「メルト」4位「ワールズエンド・ダンスホール」5位「マトリョシカ」、そして7位に「モザイクロール」なので、この間の位置にある「炉心融解」がどれほどのモンスター曲かが分かることでしょう。
そんな「炉心融解」について書いた記事です。ご興味ある方はお読みいただければと思います。ご批判やコメント等いただけましたら幸いです。
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「炉心融解」から考える、ボカロ曲の解釈と動画の関係
◆「炉心融解」の個人的受容体験
筆者が初めてハマったボカロ曲は何か?というと、2008年末に出た「炉心融解」だ(実際に聴いたのは2009年)。それまで「メルト」などの有名曲を聴いてはいたが、それらはなんとなく「初音ミク/ボーカロイド」という流行ジャンルの一部として聴いていたのに近く、初めて惹かれた具体的な曲はiroha(sasaki) feat.鏡音リンによる「炉心融解」ということになる(ちなみに、「2009年頃から聴いている」と言うとすごい古参リスナーのように思われるかもしれないが、'10年代の間はほぼボカロ曲を聴いていなかったのでリスナー歴自体は長くない)。
「炉心融解」は今聴いても問答無用でカッコいいと思える曲だ。「街明かり 華やか エーテル麻酔の冷たさ」という完璧な歌い出し、ささくれ立った心象風景を活写した切れ味の鋭い歌詞、ドラムンベースの打ち込み……そして何よりも鏡音リンの合成音声感ばりばりのキンキン声でアタックの強いパワフルなボーカル。悲痛を叫ぶような歌詞で、歌い方も人間だったらほとんど熱唱しているような感じだけど、それが身体を持たないボーカロイドによる歌唱であることで、「激情があるけど冷めている感じ」になり、それがこの曲の独特の空気感を形作っている。もちろん当時の自分はそこまで言語化して捉えていたわけではないが、この曲の世界観には惹かれたし、多くの人間が歌えないような高音域なボーカル(最高音はサビの「~思う」の部分のhihiC#とのことだ)などは「ボカロじゃないと歌えない曲」という印象を心に刻みつけ、それによって「炉心融解」という曲に「プレミア感」を個人的に抱いていたと思う。これを書いている今は天音かなたやヰ世界情緒らによる歌ってみた動画が人気になっているが、この曲はやはりその歌唱の特性上、鏡音リンというボーカルと分かちがたく結びついているものだと言えるだろう。今振り返ると、高音域で歌われるボカロの悲痛な叫びや「激情があるけど冷めている感じ」というのは、wowakaの一連の楽曲(「ローリンガール」「ワールズエンド・ダンスホール」)やNeruの「ロストワンの号哭」、Orangestarの「Alice in 冷凍庫」に通じるものでもある。
そして、「炉心融解」は歌詞も強くイメージに残っていた。露骨に希死念慮感が強く、疎外感、自己滅却の欲求を歌っている(「核融合炉にさ 飛び込んでみたら また昔みたいに眠れるような そんな気がして」と歌っている)。これも前述の「ローリンガール」などと共通する印象を抱かせるものだった。
◆バージョンによる解釈の違いについて
そういったわけで、筆者は「炉心融解」について、その歌詞と曲調から判断して素直に「希死念慮ソング」として受容していたのだが、最近になってこの曲の動画および作者解説を見て、その印象がひっくり返ることになった。
「炉心融解」のMVは、自殺(あるいは他殺)のようなモチーフをストレートに描いたものにはなっていない。なかばストーリー仕立てのMVになっていて、そこではモラトリアムの渦中にある思春期の少女が、心的世界で「子供時代の自分」を殺して決別し成長する、ある種のイニシエーションが描かれている。それもあって、ネットに上がっている考察記事も「二つの自分」の対峙と葛藤、あるいは「もう一人の自分」との決別、のように解釈していることが多いようだ。
実は筆者は「炉心融解」を当時聴いたとき、動画のフル版をそこまでじっくり見たことがなかった。というのも、当時の自分はニコニコ動画に上がっている曲の音源をmp3ファイルでローカルに落として、PSPで再生することが多かったためだ(また、個人的に、「歌詞の意味について考察する」という行為をあまり積極的にしないというのもある。音楽に対しては情緒的に身を任せられるかどうかを重視するため、細かい事実関係や整合性をあまり気にしないことが多い)。つまり、ごく最近になるまで、「炉心融解」の動画を抜きにして、ほぼ曲自体からイメージを膨らませていたということだ。それにより、MVで描かれていたような、「もう一人の自分」との決別という解釈はあまり持っていなかった。
そしてどうやら、制作者側の解説を見ると、このMVには曲の歌詞自体とは意図的に異なった解釈が込められているようだ。まず前提として、「炉心融解」はボカロ曲としてはやや珍しく完全に集団制作で作られた曲であり、作詞を「kuma(alfled)」、作曲を「iroha(sasaki)」、動画を「なぎみそ」が手がけている。しかもこの3人の間で綿密な打ち合わせをして進めたという形ではなく、それぞれ独立して作業が行われている。歌詞となるテキストも元々は歌詞に使われることを想定せずにkuma(alfled)が書いたテキスト(詩)であり、それにiroha(sasaki)が曲を付けたことで曲が誕生したという経緯とのことだ。
動画担当のなぎみそは、「炉心融解」MVのメイキングを含めた解説動画を上げており、その中で曲の解釈に関わる要素についてもあけすけに言及している。動画内でのなぎみそによるコメントを以下に引用する。
今回の動画作成にあたって演出面でのコンセプトはとてもシンプルで どストレートに後ろ向きなこの歌詞をマイルドにする作業でした。
そのまま読めば『自分が消えてなくなればスキッと爽快ビューティフルワールドに違いない』的なテーマなので 動画側でもその良い中二感を受け止めつつ、自己全否定ではなく一部だけパージするという、打算的なやり方で角を取って丸めておきましたw
MVでは歌詞の内容を受けて、その方向性のまま作るというよりは、それを中和するようなやり方をあえて取ったということが語られている。
また、この解説動画を引用した上で、作曲者のiroha(sasaki)は自身のHPでの「炉心融解」解説記事において以下のように書いていた。
要はモラトリアム的な内容です。
曲の真意としては、そういう内容なのでした。
精神上、色んなものを殺しながら人は生きていくよね、と。
寂しさとか葛藤とか、色んなものがごっちゃになったような、複雑な気持ち。
(中略)
つまり、PVとしての炉心融解は純粋になぎみそさんの解釈が100%入ってるわけです。
なにせポジティブな人なので、まんまネガティブ解釈にはしないとは思いましたが!この曲のめんどくせーところは、PV無しだと本当にネガティブ解釈の強い曲になってしまうという事。
伝えたいメッセージ性としては、当然ながらなぎみそ版前向き解釈の方なわけでして、
真意を伝えるにはPV映像が切っても切れない関係になっているのでした…
曲と映像がセットで、初めて成立してくれる、と。曲だけで聴かれたら誤解されてしまうのは間違いないでしょうから。
ネガティブな、そんな解釈で聴くのもアリだとは思いますが、そこは人として…
つまり、「炉心融解」はもともとの歌詞は後ろ向きだが、歌詞をもとに作曲→動画の工程を経る中で方向転換が行われて、最終的に前向きな結論&成長の描写を含んだ曲として世に出たということになる。そしてiroha(sasaki)&なぎみそ両氏にとっては「前向き版解釈」の方が真意に近いということになる。
作詞家の解釈と、作曲者の解釈/動画制作者の解釈とがほとんど真逆の方向性を持っていたことが興味深いし、そのようなズレにもかかわらず作品全体として非常に統御されたものになっているのにも驚かされる
(もっとも、穿った見方をすると、世間体的に「希死念慮を肯定してます」とはふつう言えないだろうから、制作者側がこのような言い方をするのはある意味で当然といえるかもしれないし、照れ隠しで言っている側面もあるかもしれないため、そこは割り引いて考える必要はあるだろう)。
◆「動画版の解釈」の是非
さて、以上のことを受けてここで提起したいのは、動画MVの解釈は絶対か?という問題だ。ボカロ音楽は「ネット音楽」というジャンルの一部であり、その性質上、動画投稿サイトにて動画とセットで発表されることがほとんどなため、他のジャンルと比べても曲とMVの解釈が強く結びついていることが多い。2022年に刊行された鮎川ぱてによる「東京大学『ボーカロイド音楽論』講義」(文藝春秋)においても、「モザイクロール」や「ロストワンの号哭」について、そのMVのディティールをもとに細かい考察を行っている。だが、そもそもこれらの曲をMVをもとに論じることにそこまで必然性があるかというと、そうではないように感じられる。
今はネット発かどうか、メジャーかインディーかどうかといったことに関係なく、あらゆるシングル曲はYouTube等でMVとともに発表されるのが一般的になっていると言えるが、その一方で、ではあらゆるジャンルにおいてMVと曲の解釈の結びつきが強くなったかというと、必ずしもそうではない。
例えば米津玄師の「KICK BACK」のMVを記憶している人は多いだろうが、あの曲をMVのストーリーに沿って解釈して「自分の妄想の中にいる男に異常に執着する男視点の曲」だと捉える人はほとんどいないだろうと思われる。ああいったコミック的なMVは曲自体の解釈には触れない、プロモーションのための「ネタ」や「賑やかし」のようなものとして存在している。であればそこには「読解に使われるMVと、そうでないMV」を腑分けするという判断が介在していると思われる。しかし、その判断は恣意的なものであって絶対ではないし、「MV動画による解釈」はある程度相対化されてしかるべきではないだろうか。
初音ミクのボーカルに代表されるボカロ音楽は元来ニコニコ動画が発祥であり、動画とセットで視聴されることが主だったが、2023年現在はSpotifyやApple Musicのようなサブスクリプションサービスで聴かれることもかなり増えている。例えばFlatさんというユーザーがSpotify上に「Spotify1000万再生超えボカロ曲」というプレイリストを作っているが、2023年11月15日現在、91曲が入っており、一位の「愛して 愛して 愛して」は再生数一億回超えを誇っている。Spotifyでの再生数がYouTubeでの再生数を超えているケースも多い。
Spotify等で音楽が聴かれるとき、その聴取体験に直接紐づく情報としては「曲名」「アーティスト名」「アルバム名」「歌詞表示」などの文字情報に加えて、「ジャケットイラスト」等の断片的なイメージのみであり、公式のMV動画から独立した体験がそこに立ち上がるだろうことが想像できる。いや、そもそもこれは今に始まったことではなく、ボカロ音楽初期の頃からボカロ曲が『EXIT TUNES PRESENTS』(2009年~)のようなコンピレーションアルバムに入ってCDで売られたりTSUTAYAレンタルで借りられたりしていて、必ずしも動画とセットで聴取されるというわけではなかったはずだ。にもかかわらず、そのような体験はボカロ曲についての語りから疎外されてきた側面はあるだろう。
もちろん、サブスクリプションサービスやTikTokで聴かれることが多くなったとしても、作者の意図を忠実に反映しているのはあくまでYouTube等にアップされている公式動画であり、それ以外の形態での聴取体験は不完全なものだ、と主張することはできる。しかし「炉心融解」のような、MVの解釈が作詞家の解釈と別個になっているような曲の場合、MVがその曲のオリジナルだとは言い切れなくなるのではないだろうかと思う。
MVの話からは外れるが、個人的に、Spotifyでの聴取体験とYouTubeでの原曲とのずれを感じた曲としてはwotaku(ボカロP)の初音ミク曲「DOGMA」がある。この曲の初出はYouTubeで、シスター・クレアの非公式イメージソングとして発表されたのだが、のちにシスター・クレア本人によってカバーされたり配信のBGMに使われたりすることで「シスター・クレアオリジナルソング」として地位を確立したという経緯があるようだ。
しかし、私はSpotifyでこの曲に触れて、その歌詞と曲調から来る世界観に惹かれたところがあり、YouTubeで動画を見に行くまで、そもそも「DOGMA」がシスター・クレアの曲だということすら知らなかった(私がにじさんじを積極的に追ってないという要因もあるが)。
それに、シスター・クレアのキャラソン的な楽曲は、基本的にはシスター・クレアの清楚なイメージを反映した清廉な雰囲気の曲が主だが、「DOGMA」はwotakuの音楽性が十二分に発揮されたゴシックでダーク、治安の悪い系のトラップミュージックであり(イントロでオルガンと発砲音から始まる曲だ)、ほとんど真逆な雰囲気だ。おそらくYouTubeで追っていないほとんどの人は「DOGMA」を聴いてシスター・クレアをイメージできないはずだ。つまりこの曲にSpotifyで触れるか、YouTubeで触れるかで捉え方は全然違ってくるし、もし原曲の「公式」な見解に沿うならば、Spotifyで聴いている人も「DOGMA」をシスター・クレアのキャラソンとして捉えなければいけなくなってしまいそうだ。
しかしそれは「DOGMA」という曲の持つポテンシャルを狭める考え方であるし、やはりSpotifyでの聴取体験は公式動画と独立した体験として価値を認められるべきものだろうと思われる。
◆バージョンによる解釈の違いについて
本稿の論旨としてはだいたい以上のような感じだが、最後に「炉心融解」に関連づけて、「後ろ向きな歌詞」や「ネガティブ解釈が強くなる曲」はそんなに望ましくないものなのか?という話をしたいと思う。
「炉心融解」の作曲者および動画制作者の考え方では、この曲の歌詞で描かれている希死念慮の体験は思春期に卒業するべきものであり、「自分が消えてなくなればスキッと爽快ビューティフルワールド」と揶揄されるものだったのかもしれないし、それによって「MVでは前向きに軌道修正しよう」というモチベーションが働いていたのだと思われる。
しかし、個人的にはストレートに希死念慮を歌ったり後ろ向きだったりする曲であっても別に構わないと思っている節がある。なぜかというと、実際に希死念慮や絶望を抱えている人が共感できるのはそういうがっつりと後ろ向きな曲だろうし、別にみんながみんな、そこに励ましやエールのメッセージを求めて聴くとは限らないからだ。
一言でいうと、「自殺するのは止めよう」というところまで行かなくても、その手前の「自殺したいよね、その気持ち分かるよ」ってメッセージの時点で十分価値があるのだと思う。
もちろん、自殺したい人の気持ちに寄り添ったうえで、最終的にそれを止めさせるところまで持っていく歌詞の曲が「強い」のは間違いない。しかし、そういうメッセージの曲ばかりだと逆に息苦しさも生まれてしまう。「いまここ」からの逃避先として、純粋な後ろ向きな曲などもあってもいいのではないかと思う。
自分が音楽に対してこのような見方をするようになったのは、cosMo@暴走Pの「ディストピア・ジパング」の歌詞の影響を受けているため、それを以下に引用する。
誰かを励ますことを躊躇うくらいに 明日に希望は抱けないけれど
同じ時代生き 共有した運命を 解かり合って寄り添うくらいならできる
何かが変わるとは思えないけど それでも……
音楽ができる最良のことの一つはこれなのではないかと自分は思っている。例えば音楽の力で実際に人を救うとか、あるいはもっとスケールアップして動員して社会問題を解決させるということは現代においてそんなに多いとは思わないが、少なくとも疎外感を抱えている人に寄り添うものにはなれる。
別に頑張っている人にエールを送ったり、勇気づけるものに必ずしもならなくても、ただそこに居場所として「ある」だけでもいい。
そのような音楽のあり方を自分は美しいと思うし、それがたとえ客観的に見て自虐的で自閉的なものと見なされようとも、そういう体験を大事にしていきたいと考えている。