highland's diary

一年で12記事目標にします。

世界の終わりの安らぎと、その系譜(評論)

以下に掲載するのは、2018年に刊行された『少女終末旅行トリビュート』という同人誌に私が寄稿させていただいた、「世界の終わりの安らぎと、その系譜」という文章の全文です。

hanfpen.booth.pm

 

本自体は『少女終末旅行』の二次創作小説集なのですが、自分だけ評論を寄稿しています。自分は当時『少女終末旅行』に入れ込んでいたのですが、ありていに言えば小説が書けない人間なので、イラストと合わせて評論を書くことで作品愛を表明したいと考えていました。

本が出た時点で漫画は既に完結しており、寄稿者(京大SF研有志の人たち+α)は皆それをもとに原稿を書いていたと思います。

 

そしてこの評論は『少女終末旅行』にリスペクトを払い、『少女終末旅行』について論じたものでもありますが、より広く「世界が終わるということの安らぎ」を扱った作品について論じるものでもあります。

自分自身が当時、そういった終末系の映画やフィクションにハマっていたのもありますが、『少女終末旅行』を、「安らかな終末」を扱ったさまざまなフィクションの系譜の中に位置づけたいという思いから文章を書いていました。

また、「安らかな終末」というモチーフそれ自体の持つ魅力について語ることができたと思います。

ちょうど去年くらいから「セカイ系」や「終末」のようなテーマがサブカル評論でまたよく取り上げられるようになってきて、この文章を人に読んでもらえると何らかの示唆を与えられるかもしれない…と感じたため再掲することにしました。

同人誌の編集を担当した鯨井久志さんから掲載許可をいただけまして、ありがとうございます(ちなみに本自体もとても面白い作品がいくつも収録されているので、『少女終末旅行』のファンには是非読んでもらいたいですね)。

今読み返すと、事実誤認を含んでいそうな記述があったり、今の自分であればここまで不用意な発言しないだろうと思う部分もありますが、内容は変えずにほぼ原文のままで掲載しています。記述を変えたのは、主に年表記や文法ミスなどの細かい部分です。

また、同人誌にはこの評論以外にイラストを2枚寄稿していまして、そのイラストも記事の最後に掲載しています。

ご興味ある方はお読みいただければと思います。ご批判やコメント等いただけましたら幸いです。

 

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世界の終わりの安らぎと、その系譜

◆はじめに

ホップ・ステップで踊ろうか

世界の隅っこでワン・ツー

ちょっとクラッとしそうになる

終末感を楽しんで

 上に挙げたのは現実逃避P(作詞・作曲)による巡音ルカ初音ミクのボカロソング「ワールズエンド・ダンスホール」の歌詞の一節であるが、この曲の歌詞は「終末」「世界の終わり」といったワードがいかに人口に膾炙しているかを端的に示していると思う。SEKAI NO OWARIというミュージックグループが現に存在するほどである。

 今日にはポップソングの歌詞にもなるほどに一般的になっているものの、この「終末」というワードは非常にあいまいなものであり、いわゆる「終末もの」というジャンルにしても、それが指し示すものは多様である(そもそも「世界」が指し示すものが、地球であるのか文明であるのか、といった違いも存在する)。

 従って、ここで取り扱う「終末」の種類、及びそれらが各々指し示す作品ジャンルを明確化するために、必然的に区分けをする必要が生じる。

 

◆区分け

漠然とした区分として、まずはこの三つが考えられるかと思う。

  1. 「世界が徐々に滅んでいく/衰亡していく系」
  2. 「実際に世界の終わりが近い(タイムリミットが存在するなど)/ハルマゲドン or カタストロフ」
  3. 「文明が一度崩壊した後/荒廃後の世界/ポストアポカリプス」

また、

の二つの方向性に分かれると言えるだろう。

 Aの方向性はどちらかというと分かりやすい。世界が終わるということは人類が築き上げてきた文明が霧散し、無に帰してしまうことだからだ。ハルマゲドンものであれば、それは一個人にとっては自分の死をも意味する。

 1-Aとしては『トゥモロー・ワールド』(子供が生まれなくなってから18年経過し内戦が激化した世界)などが挙げられる。これはある意味現実的な設定であるが、「世界の終わり」がはっきりとしたタイミングで指定されているわけではないため、いわゆる「終末もの」の中では少数派にあたる。

 そして二番目に、世界の終わりやそのタイムリミットがはっきりとした形で示されている場合は2-Aに該当する。「ハルマゲドン」は黙示録信仰に代表されるものであるが、例えばこの場合は、

 そのものズバリで終末における天使と悪魔、人類の最終決戦を描いた『デビルマン』や、人類補完計画による世界の終末を描いた『新世紀エヴァンゲリオン』(TV版及びその続編の劇場版)などがそうだ。人類の存続をめぐっての天地の勢力争いを描くCLAMPの『X』もその系譜に属するだろう。

 より科学的な設定としては(こちらは「カタストロフ」寄り)、天体衝突による世界の破滅を扱った数多のフィクション(『アルマゲドン』,『妖星ゴラス』,『地球最後の日』,etc.)や、地球の磁場が不安定になったことで地上が太陽風に晒されるという設定の『ザ・コア』などもそれにあたる。加えて、(ややズレはあるが)ゾンビによる世界の終末を描いたフィクションや、『博士の異常な愛情』といった核戦争による世界の終末ものもこれにあたるだろう。あるいは異星生命体からの侵略による『宇宙戦争』などなど……。列挙していけばキリがないが、要は、1が世界の終焉までが、衰亡という形でゆるやかなグラデーションになっているのに対し、2は世界(=地球=文明)の終焉が具体的な形で描かれるものである*1

 三番目に、一度現在の文明が崩壊/荒廃したのちの世界、あるいはそこで新たに築き上げられた世界をディストピアとして描くものは3-Aにあたる。典型的には核戦争後(古典的には第三次大戦後)/ウイルスの蔓延後/生物兵器の使用後に築き上げられたディストピア世界(荒廃した無秩序社会も含む)であり、

『マッドマックス』シリーズ(第2作以降)、映画『12モンキーズ』及びその元となった『ラ・ジュテ』、TVドラマシリーズ『ウォーキング・デッド』、『ウォーターワールド』、弐瓶勉の『BLAME!』などもそれにあたるかもしれない。そして、H・G・ウェルズの『タイムマシン』(1895)においてもすでに80万年後の世界がディストピアとして描かれていることから、これはSFにおいて古くからある類型であると分かる。こういった設定が持てはやされる背景には、SFとして、現生人類のものとは異なる新しい文明を描き出す上でとりあえず「今の文明が崩壊したのち」ということにしておけば便利であるという事情があるだろう。

 他方で、これら殺伐とした終末作品群を差しおいて、世界の破滅を心地よいものとして描いた作品も数多く存在する(1-B、2-B、3-B)。本稿ではそれらのフィクションに通底する「終末の安らぎ」について取り上げてみたい。

 ただ、留保しておかねばならない点として、同じポストアポカリプスものであっても、例えばアレクサンダー・ケイの「残された人びと」を翻案した宮崎駿監督のアニメ『未来少年コナン』などの作品は、ディストピア世界を扱ってはいても、現状の文明を一掃した上での(新たな秩序構築への)再生への希望が示されているという点で、3-Aか3-Bどちらの区分にあたるかはあいまいになっている。他にも、菊地秀行『風の名はアムネジア』(人類が言語能力を含めた記憶の一切を失ってから十五年経過した世界)や『風の谷のナウシカ』、『クラウド・アトラス』、あるいは『幼年期の終わり』のようなポストヒューマンものなどといった、3-Aと3-Bとのどちらに位置するかあいまいな作品が多く存在するが、本稿は分類学に趣旨があるわけではないのでこれらの作品も一旦除外して考えることにしたい。

 

◆癒し系としての終末

 全体的に、まずは日本のサブカルジャンルに絞って考えることにする。

 卑近な話であるが、この記事を書いている直近において、"cosy catastrophe"*2について取り上げたツイートがバズっていた。

 それによると*3

ヨコハマ買い出し紀行灰羽連盟ソラノヲト少女終末旅行けものフレンズ……
これらに共通する魅力「滅びた世界で自分なりに豊かにマイペースに生きる人々」という概念そのものズバリの名前があった。“cosy catastrophe”「心地よい破滅」というらしい

 つまり上述の『ヨコハマ買い出し紀行』『少女終末旅行』『けものフレンズ』『灰羽連盟』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』といった、「滅びた世界で自分なりに豊かにマイペースに生きる人々」を扱ったフィクションが、「心地よい破滅」に当たるのだという。

 このツイートの前後では『人類は衰退しました』(現生の人類が衰亡し次世代の存在に取って代わられつつある世界)も言及されており、また、ゲームブランド・Keyのキネティックノベルplanetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜』(廃墟と化した世界の中、百貨店のプラネタリウムにおいて案内サービスを続けているロボットが主要キャラ)もここに含めて良いだろう。

 心地よい破滅、安らかな終末と聞いてまず日本の多くのオタクが思い浮かべるだろうこれらの作品群の中にも、1-B、2-B、3-Bが混在しているが、共通項として、これらの作品には文明が破滅することに対し気張っていない、どこか楽観的な気分が見られることが指摘できる。

 例えば、典型的なのは『ヨコハマ買い出し紀行』である。この漫画作品においては世界が「夕凪の時代」の中にあり、地球温暖化が進んで海面上昇が続き(かつての横浜が海の底に沈み、水上に新たな横浜が築かれている)、産業が衰退して人口が激減、閑散とした荒野が広がっている。詳細には描写されないが、人類の文明社会が徐々に衰亡して消えようとしていることが示唆されており、最終巻に近づくにつれ一層それが顕在化するが、そこには深刻なムードはない。むしろわずらわされることが少なく、時間の流れがゆるやかになったことで、平穏な日常を謳歌するようになった人たちの姿が描かれる。黄昏の時代における日常をメイドロボット・アルファさんの目から美しい断片として切り取っており、癒し系作品として天野こずえARIA』と同じジャンルとして扱われることも多い。

(画像1 『ヨコハマ買い出し紀行』)

 

◆'90年代後半~'00年代初頭にかけての「終末もの」流行期

 これらの作品で描かれる「終末」は、同じ「終末」であっても'90年代から'00年代初頭にかけて流行した「終末もの」とはその性質において違いがある。『新世紀エヴァンゲリオン』の例がやはり典型だが、この時期の日本ではしかつめらしく(シリアスに)終末を扱ったアニメや漫画、ゲームが台頭した。

 『エヴァ』のTVシリーズに続いての劇場版公開が1997年から1998年にかけて行われ、同時期の'90年代後半から'00年代初頭までにかけては「殺伐としたディストピアもの」と「セカイ系」の隆盛が見られることになる。

 こうした現象が巻き起こった背景の一つには、当時の世相が大まかに言って「病んだ」状態であり、また、終末論が幅を利かせていたことが大きかったと考えられる。社会的にはこの時期はバブル崩壊による深刻な不況に見舞われていた(失われた十年)。後にロスジェネと呼ばれる世代は就職氷河期を経験し、終わりの見えない迷路のような閉塞感を味わう。そうした気分がこの時期のフィクションにも反映されている。加えて、

 もこの傾向を後押ししたと言えるだろう。ネットがこの時期においてはまだアングラなものであった(『serial experiments lain』などが放映される)という事情も付け加えておきたい。

(画像2 厚生労働省作成「自殺対策白書」より)

 

 統計的に見て日本で自殺率が最も高かったのもこの時期である(『完全自殺マニュアル』が刊行されたのは1993年であり、それ以後ベストセラーになった)。岡崎京子が『エンド・オブ・ザ・ワールド』(両親を惨殺した姉弟の逃避行)を発表したのもそれと同時期である。

 こうした情勢により日本のサブカルにおいて陰鬱/あるいは深刻な形で終末を扱ったフィクションが支持される土壌が生まれた。

 例えばこの時期のアニメにおいて、ディストピアとしての世界観を扱った作品としては

  • BLUE GENDER』(コールドスリープから目覚めるとそこは荒廃した世界で、謎の生命体・BLUEによって支配されていた)
  • DTエイトロン』(強い紫外線が降り注ぎ荒廃した地上においてドーム都市「データニア」が、感情を制御するディストピアとして構築される)
  • 『今、ここにいる僕』(少年兵が兵役に駆使される荒廃した異世界への転生)
  • アルジェントソーマ』(エイリアンの襲来で多大な被害を受けた人類は軍隊を再編、対エイリアン特殊部隊を組織する)
  • ベターマン』(集団自殺・殺戮行為を引き起こす「アルジャーノン」と呼ばれる奇病に冒されつつある人類)

 などが挙げられる。やや時代が下って『スクライド』(大規模な隆起が起こり首都が壊滅、多数階層に分かれた世界)が2001年に放送される。ちなみに『今、ここにいる僕』は同じく鬱アニメに数えられる『無限のリヴァイアス』と同クールに放映されていた*4

 また、ディストピアに含めるかどうかは曖昧であるが、終末経験後の世界を扱った作品としては、

  • セイバーマリオネットJ』(宇宙船が不時着した異惑星において築かれた、クローン技術で維持される男性のみの閉塞した文明)
  • 『THE ビッグオー』(全人類が記憶を喪失してから40年後、ドーム都市「パラダイムシティ」の中でのみ人類は暮らしている)

 などもこの時期に発表されている。そのうちのいくつかは『エヴァンゲリオン』の余波もあるかもしれない。

 この時期にはさらに終末における最終戦争を扱った『X』の映画版(1996)や、ホラー色の色濃い『デビルマンレディー』(1998~1999)が公開されているが、マンガにおいて陰惨な形で終末を取り上げたものとして『なるたる』(1998~2003)を挙げておきたい。

 物語は主人公の少女シイナが星の形をした変わった生き物「ホシ丸」に助けられるところから始まる。ホシ丸は少年少女の意識とリンクし、変幻自在の能力を発揮する「竜の子」であった。シイナは、竜の子を利用し世界を作り変えようとする一派との争いの中に巻き込まれていく(このあたり、同作者の『ぼくらの』(2004~2009)もこの枠組みを引き継いでいるといえるだろう)。

 「ホシ丸」以外の竜の子のリンク者である子供たちは、設定上、それぞれにコンプレックスを抱えていたり陰湿ないじめを受けていたりする。ミミズジュース、凌辱、惨殺シーン等、精神的にダメージを与える描写により鬱々とした世界観を築き上げている。

(画像3 『なるたる』)

 

◆終末ものの亜流としてのセカイ系

 次いで、ゼロ年代初頭にかけては(世界の)終末ものの亜流として「セカイ系」の流行が見られた。これらはアニメ作品にも影響が色濃いが、どちらかというとライトノベル・ノベルゲームのジャンルにおいて興隆した。やや乱暴な言い方をすれば、これらの作品はそれ以前の「終末もの」の影響をある程度引きずって生まれたのではないかと指摘できる。

 「セカイ系」の代表として主に挙げられるのは東浩紀が例に挙げた『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』であり、これらも「終末」の文脈で捉えるとそれぞれに終末観/ハルマゲドンを描いたものとなっている(2-A)。

 ディストピア作品と異なる点としては、これらの作品においては終末の要因が社会を巻き込んだ具体的な形で描かれないことが多く、また、主人公の周囲の人間関係とリンクする形で描かれる傾向にあるということが挙げられる。

 例えば『最終兵器彼女*5においては、世界の命運をかけて争っている「敵」の正体や戦争原因がはっきりとは描写されない。『イリヤの空~』においても異星人と軍との戦争の事実がややぼかされる形で描かれる。『ほしのこえ』は具体的な描写が豊富にあるという点で前述二作とは距離があるが、やはり異文明との抗争が主人公とヒロインとの閉じた関係性に回収される形で描写される点では同じである。

 ただし、「セカイ系」と定義される作品群のすべてが「世界の終わり」を取り扱っているわけではない。例えば後に東浩紀が『ONE~輝く季節へ~』や『AIR』を『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年、講談社現代新書)で論じたことから、これらKey作品などが「セカイ系」に含まれることも多いが、これらは直接的に「世界の終わり」を扱っているわけではない。「セカイ系」という語に包含されているのは、ヒロインが世界の命運を握っているのにもかかわらず主人公は静観することしかできないという問題系であり、「セカイ系」において「終末」はもとより主題の一部であるにすぎないからである*6。 

 だがしかし、「セカイ系」に厳密に該当するか否かはおいても、「世界の終わり」を非常にざっくりした形で設定する作品群がこの時期に多く生まれたことは事実である。

 また、この時期の美少女ゲームにおいて狂気を扱った作品として物議をかもした「三大電波ゲー」*7のうち『終ノ空』(世界が終わるという予言により狂気に包まれる学校、世界の終焉と認識についてのホラー)『ジサツのための101の方法』(自殺波動により死に包まれる世界、殺伐とした内面描写と世界観とのリンク)はそれぞれに世界の破滅を描いているといえるし、ライアーソフトの『腐り姫〜euthanasia〜』でも「赤い雪が降りつもり死んでいく世界」が描写される。これらは「セカイ系」としてとらえてもいいが、殺伐とした終末ものの系譜にも位置付けることができるだろう。

 また、後述する作品であるが、ゲームブランドのアボガドパワーズが1999年に発売したアダルトゲーム『終末の過ごし方-The world is drawing to an W/end-』なども、この時期の「世界設定要素が欠落した」終末ものとして典型的である。

 このノベルゲームはハルマゲドンによる世界の終末が近付き、残り一週間で世界が終わるという時点から物語がスタートする。そしてこのゲームにおいては、(ミニマムなシナリオであるという事情もあるが)タイムリミットが設定されていながら世界が終わる原因について全く描写がされない(漠然と「寒冷化が進んでいる」という描写のみなされる)。それが戦争によるものか、天体衝突によるものか、災害によるものか、そういったことさえ全く不明である。その意味で、上述の「セカイ系」作品群よりもさらにストイックな描き方だといえるだろう。逆に言うと、1999年においては、こういった非常に漠然とした終末を描いてもそれが説得力を十分に得るような世相があったのだということができる。

(画像4 『終末の過ごし方』)

 

 余談であるが、2017年にアニメ化されたライトノベル終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』のタイトルも、この『終末の過ごし方』から取られていると思われる。「週末」と「終末」をかけているところがほとんどそのままであるが、何故かみなこのことは指摘していない。

 

◆反映されている気分

 '90年代末から21世紀初頭にかけての「終末もの」について述べたが、もちろん、この時期にあっても、癒しをもって終末を取り扱った作品はもちろん存在する。『ヨコハマ買い出し紀行』(1994~2006)もこの時期に連載されアニメ化も1997年と2002年に行われている*8。よって、この時期の「しかつめらしい終末」作品群と、先述の「安らかな終末」作品群とがはっきりと時期によって分かれているとはいえない。

 が、いずれにせよ、ディストピアものにしてもセカイ系にしても、これら「しかつめらしい終末」作品群と、先述の「安らかな終末」作品群とでは、世界の終わりに対するスタンスが異なっているということが指摘できる。

 もちろん一つには、後者においては世界が終わることに対する楽観的な視点が見られ、終末に対する「切実さ」の点で両者に隔たりがあるという点がある。

 二つ目には、後者は、前者の時期のものと比べると世界観が全体的にミニマムになっているということが挙げられる。世界全体とつながりを持つというよりは主人公たちの見聞きできる範囲で物事が語られるということである。

 戦争による荒廃後の世界が舞台の『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』においては、二国に分かれた世界が一時的な停戦状態にあることが示されるが、戦略的に重視されていない辺境の砦に派遣された小隊は少女兵のみで構成されており、ドラマはもっぱら彼女たちがそこで過ごす日常や、彼女たちが抱えるバックグラウンドにフォーカスしていく。

 『少女終末旅行』においても、社会的背景がぼかされているということが指摘できる。当初はこの世界が何故滅びたかの謎明かしがされるかを期待する声もあったが、結局のところ世界の成り立ちや歴史については触れられないままに終わった(これはあくまで二人の視点を通して見た世界を描くという選択をしたからだと思われる)。背景は緻密な書き込みがなされているが、それは何か特定の設定を含んでいるからというのではなく、各々どこか抽象的にデザインされている。

 受け手からすれば、それらの作品においては、いろいろな煩雑なことを考えなくてもよくなり、終わった世界で日常を過ごす人たちの実存に集中して意識を傾けることができる。

 それは、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるジャンルの作品において世界設定がぼかされたことと表面的には近しいが、「セカイ系」を生み出していたのとはまた違うモチベーションをそこに感じることができる。

 そして、ここから先は本当に個人的な仮説なので与太話ととってもらって構わないけれども、これらの作品が一定数の支持を集め、癒し系たり得ているのは、時代の気分をある程度を反映してのことではないかと思う。

 つまりこうである。日本のこの時代に楽天的に生きようとすると、社会・文明といった大きな単位で夢のある未来像を描きにくくなっている。縮小している社会にあって、今後日本人や日本社会が発展を続けるという展望は弱く、どちらかというと、今後数十年にわたり社会に希望を見出し続けるよりは、自分の手の届く範囲で享楽的に過ごしたい。だから、衰亡に対し大上段に構えなくとも良いし、手の届く範囲の、睡眠や食べるということの方が大事になってくる。

 文明といった巨大なシステムに対して手を出せず、大きな認識を持つことができないということは、こうしたミクロな意味での喜びに対し注意を向けることも促しており、その意味で「日常系」も、今後ともに隆盛を続けるだろうと思う。

 実際の衰退や破滅は決して穏やかなものではなく、むしろ憂鬱な気分にさせられることがほとんどだ。だからこそ、それを癒しとして美しく描いた作品には尊さがあるのである。

 

◆決定された終焉

 漠然と終末を扱う段が長くなった。1-Bや3-Bにおけるゆるやかな衰亡の安らぎについてはすでにある程度触れたとして、次いで2-Bについて取り上げたい。

 すでに触れたとおり、1-Bや3-Bのような終末においては、世界が終わっていくことに安らぎを見出すということはまだ理解しやすいだろう。破滅に対して気張らなくてもいいという安心感がそこにはあり、それに対し楽観的なものを感じ取ることは十分納得できる。 

 しかしその反面、2-Bのように世界終末までの道筋がすでに定まっており、すでにそれが差し迫っているという場合はどうだろう。これは三つのうち、世界の終末としては最も先鋭化したケースであるといえる。この場合においては「決まった死」が全人類の共通認識として扱われる。その中において安らぎを見出すのは、1-Bや3-Bの場合よりもやや難易度が高いといえるだろう。

 しかし、世界の終わりが定まったものになった状況においてなお、その状況に対する諦念という形で安らぎを見出すことはできる。そうした気分が描かれた作品として、ここでは、ネビル・シュートの同名小説を原作とするスタンリー・クレイマー監督のSF映画渚にて』(1959)を紹介したい。

 この作品においては、世界は第三次大戦での核爆弾使用による放射能降下物で北半球全体が壊滅状態になっている。居住可能地域が残った南半球にも放射能汚染が広がりつつあり、やがては全世界が放射能汚染に包まれるので、シェルターによって避難するといった選択肢は意味を持たない。まさにカタストロフである。

 だがそこで描かれているのは、汚染の広がりとともに世界がだんだんと崩壊していくのに際し、静かにそれを迎え入れる人びとの姿である。南半球において残った数少ない居住地のオーストラリアにおいて、住民は皆あきらめの境地に達し、配布される薬剤を用いて自宅での安楽死を望み、死を覚悟しながら残りの人生を享楽的に過ごしている。

 そんな中、生存者たちは米国西海岸から発信されている謎のモールスコード信号を検出し、潜水艦の艦長であるドワイトは発信者に会うためオーストラリアから北米に向かうことになる……というのが大まかな物語の筋である。

 オーストラリアと北米を行き来するその過程で、ある者は故郷の街で死にたいという願いから放射線下のサンフランシスコにとどまり、あるものは自らの思い入れの品とともにガス死を迎える。

 そして、この映画における出色のシーンは、潜水艦が米国のサンディエゴに着き、モールス信号の出元を突き止めるシーンである。調査のため地上に降り立った乗組員は、無人となった発電所において、ひとりでに通信電波を発し続ける無線機に遭遇する。無線の発信は人力によるものではなく、コカ・コーラの瓶がブラインドのヒモによって吊るされ、海風で揺られてシグナルレバーがランダムに押されるという仕掛けが何者かによって作られていたのだ。彼はボトルを仕掛けから外すと、適切なモールス信号を潜水艦に向け発信し、虚しく終わった結果を伝える。知らせを受け取った艦長は思わず苦笑を漏らす。

 この場面は何とも言えない寂寥感と終末感に満ちた素晴らしいシーンであり、忘れがたい印象を見る者に残す。

 

◆個人の生と終末

 「安らかな終末」を考える上で、個人の生と終末との関わりについて今一度触れておきたい。

 アメリカの女性歌手、スキータ・デイヴィスが1962年に発表したヒットソング「この世の果てまで」(原題:"The End of the World")の歌詞においても愛する人との別れを「世界の終わり」と表現しており、個人の実存と世界全体とを重ね合わせるのは決してセカイ系に特有の感覚ではない。

 現実には人間一人が死んでも世界が滅ぶことはない*9のだが、独我論的に考えれば自分が死ねば世界はその時点で終わる。その意味でも、個人にとっての死と世界の終わりの結びつきは普遍的なものである。

 人間の生は最終的に死しかなく、それゆえ終末を受け入れるということは個人にとってのタナトスや、人生における諦念の受け皿にもなって来たのだといえる。

 世界の終わりは個人にとっての死を包含するが、その意味で両者に違いがあるとすれば、世界全体という非常に大きなスケールにおける自意識か、個人にとってのものかどうかという違いである。

 これが「個人の自意識が肥大化し、世界全体の自意識に繋がる」という形で現れ出ると、自分語りの傾向が強くなり、「セカイ系」のような色合いを帯びてくる。いずれにせよ、世界という非常に大きなものと、個人の自意識とを重ねる姿勢にはある種普遍的なものがあり、そしてそれは個人の実存や生死といった切迫した状況において、より強く顕在化していく。

 

◆終末に救いを見出す鬱的心理

 個人の生に対する自意識と世界の終わりとが結びつくというのは、ラース・フォン・トリアー監督による2011年のデンマーク映画メランコリア』においてはっきりと現れている。

(画像5 『メランコリア』)

 

 この映画では惑星「メランコリア」の衝突による地球の崩壊/破滅が描かれる。しかもこの惑星は地球よりはるかに大きい!冒頭のシーケンスであっけなく惑星の地球への衝突が描かれ、そこからの回想で話が進むので物語における希望はあらかじめ排除されている。

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『奇跡の海』で知られる映画作家トリアーの作品ということもあり、この映画の第一部は主人公である鬱病の女性・ジャスティンの行動を丹念に描写している点が特徴的である。

 エリート企業でコピーライターをしているジャスティンと花婿とが結婚式に向かうところから物語は始まる。ジャスティンと花婿は当初理想的で幸福なカップルに見えるが、ジャスティンは結婚相手に対し自分が鬱病であることを明かしておらず、その関係は不安定さを抱えている。

 彼女は、封建的な結婚式で冷たい仕打ちにあったり、寄る辺なさを感じたりするといきなりふさぎ込み、花嫁衣裳のまま抜け出してしまう。さらには夫と初夜をともにすることができず、ほかの初対面の男とセックスしたりする。嫌みを言ってくる雇用先の上司に挑発的に当たり散らし、最終的に結婚自体もご破算になってしまう。第一部において、ジャスティンはこれまで築き上げてきた社会的なつながりの一切を崩壊させてしまう。

 第二部においては鬱の深刻化したジャスティンが姉夫婦に引き取られる。その姉夫婦とジャスティンとの生活描写に並行して、惑星の接近が本格的に進行していくさまが描かれる。

 結婚式を機に花婿との関係が崩壊し、職も失った妹とは対照的に、主人公の面倒を見る姉は夫も子もいて裕福な家庭を築き、幸福な状態である。

 しかし、(これはこの映画の骨子であるが)世界の終わりが近付くにつれ健常者である姉はどんどん悲惨な状態に陥っていくが、それに対し、世界の終わりを確信している主人公はどんどん回復していくかのように描かれる。

 姉夫婦が世界の終わりを否定したり、シェルターを築いて備えたりするのに対し、ジャスティンはひとり惑星の接近に際して動じることなく、美しい「世界の終わり」をただ望むのだ。

 これはトリアー自身が鬱病患者のセラピーに出席する中で知った、「鬱病患者は先に悪いことが起こると予想し、強いプレッシャーの下では他の者よりも冷静に行動する傾向がある」という教訓がもとになっているようである。鬱病の人は現実の社会には適応できなくなっているが、破局的な事態に際してはむしろ冷静にふるまえるのである。

 「メランコリア」という語それ自体が鬱状態を指すものであるからも分かるが、メランコリアの接近は、明らかにジャスティンの精神に呼応する形で描かれる。メランコリアがその美しい姿を露わにして迫りくるのを、ジャスティンはその光に照らされながら川辺で裸身になって横たわり、待ち構えながら見つめている。

 惑星の衝突を予言してジャスティンは言う。「地上の生命は邪悪」であり、地球以外には宇宙に生命はおらず、その地球はそこに住む生命もろとも滅ぶべきであると。そこに現れているのは死を前にした悟りであり、生の否定である。ラストで惑星の衝突が不可避的に描かれるのは、ある意味至上のハッピーエンドでもある。煩瑣な俗世を憂い、美しい破滅に浸り、死に救いを見出す心理をこの映画は描き出している。

 もちろんこういった死に救いを見出す鬱的心理は、決して『メランコリア』のような「終末もの」作品に特有して見出せるものではない。破滅/死に救いを見出すというのは、世界全体とのかかわりを持たずとも、スケールのずっと小さな個人の生においても等しく成り立つものだからである。もちろん自分以外の世界のすべてを巻き込むかどうかという違いはあるものの、両者が持つモチベーションとしては類似し、近い性質を帯びてくる。

 例えば、ジョン・オブライエンの小説を原作にマイク・フィギスが監督した『リービング・ラスベガス』(1995)がそうである。 

 アル中の映画脚本家がそれが原因でハリウッドを追われ、治療をあきらめてラスベガスで死ぬまで飲んで暮らすことを決める。そこで出会った娼婦と、死までの束の間の時を過ごす。そこではラスベガスの煌くネオンサインに気怠いブルースがかぶさり、独特の癒しを生み出している。もはや断酒が困難になっている状態において、彼は抵抗を止めて破滅へと直進していく。それはゆるやかな破滅であり、緩慢な自殺である。

 もはや失うものをなくし、この世の様々なものから未練を断ち切ると、人間は平静を保ったまま死に向かうことができるのだろう。

 

◆終末に向けて

 前述の作品においては、終わりが決まってしまっている世界において描かれる滅びの美しさが、同時に、暗い死の冥府に感じる安らぎと重なった形で描かれた。

 他方で、来るべき終末に際し、上述の作品とは全く異なった姿勢をとる作品もあまた存在する。例えば前述の『終末の過ごし方』がそうである。透明な空気感あるグラフィックと音楽を通じて穏やかな終末を描き出した佳作である。

 世界の終わりまで一週間しか残されていないという状態で物語はスタートし、終末をきっかけとした人間関係の回復や、個人の人間としての再生、それぞれにとっての居場所=死に場所を見つける選択が描かれる。

 終末をきっかけにやけを起こす人がいる一方で、主人公たちである生徒や教師は、それまで送っていた自分たちの日常をそのまま維持し続けることを選択し、迫りくる終わりを前に学校に通い続けている。それぞれの登場人物には終末に対する現実逃避から「苦しいことは知らなくていい」「最後まで自分にウソをつき続ける」といった状態になっている者もいる。現実逃避を続けることを止め、それまでの過去のわだかまりや己に貸していた制約をふりほどき、残された時間を生きるようになる再生が物語の一つの主題である。

 この物語において、主人公の千裕が、学校に入り浸る風来坊・重久に問いをかける象徴的なセリフがある。

「確実に死ぬって判っていながらそれに対して何もしないのは、自殺になると思う?」

 重久の答えは「死は待ってりゃ向こうから来るが、生きるにはこっちから向かっていくしかない。だったら生きれるだけ生きた方が得だろ?」というもの。

 終末に救いを見出すのは自殺と変わらない、だから残された時間をわだかまりを残さないように生き、それぞれの居場所を見つけていく必要がある。そうこの作品は訴えるのである。

 ノベルゲームのジャンルにおいては、その後にetudeより発売された『そして明日の世界より──』(2007)も、隕石落下によって世界が終わることが決まった世界でそれを受け入れることを選択して生きる主人公たちが描かれており、同様のテーマが異なる形で掘り下げられている。

 

ゾンビ映画に見出される安らぎ

 もう少し脱線を重ねるが、一見殺伐とした終末世界の中にも、それにもかかわらず安らぎを見いだせるものがあるという点について触れておきたい。

  終末の安らぎはホラーの1ジャンルであるゾンビ映画にも求められる。例えば、ジョージ・A・ロメロによる記念碑的な作品『ゾンビ』(1978年公開、原題は"Dawn of the Dead")がそうである。

 現代のゾンビ像を決定づけたとされるこの映画は、全編にわたり終末感に満ち満ちている。この映画のファーストカットは、主役級の女性が悪夢にうなされるようにして目を醒ますところから始まるが、起きた先も悪夢のような状況で、ゾンビの感染がもはやとどめようもなく世界に広がっている。

 女性が目を醒ますのがテレビ局であるという点が優れており、ファーストシーンにおいて米国の惨憺たる状況が情報として提示されていく。ニュース番組放映の最中にもかかわらず情報が途絶えたり、スタッフが逃げていったりと混沌たる状況となっており、世界の終焉感に満ちた素晴らしいシークエンスになっている。

 よく知られていることだが、『ゾンビ』は(同監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』同様に)SFの枠組みで社会風刺を試みた作品である。「人間だった頃の行動を繰り返す」という性質がロメロゾンビにはあり、習慣に従って無為にショッピングモールに集うそれは、あてもなくモールに集う我々の消費者の姿と重なる。はたまたそこに集った生存者たちはそれを巡って争いを繰り広げる。無軌道な若者たちは物資を無駄遣いし、野蛮な破壊活動を行う(ゾンビと等しく彼らは脅威である)。大量消費の資本主義社会や、人間の本性を皮肉っているところがこの映画にはある。ディザスタームービーであるだけでなく文明風刺のサタイアな気分も感じ取れることが『ゾンビ』の魅力である。

(画像6 『ゾンビ』)

 

 『ゾンビ』には複数のバージョンが存在するが、一番長いバージョンはロメロ自身がカンヌ映画祭での上映用に編集したディレクターズカット版であり、こちらは139分の長尺である。日本において『ゾンビ』のディレクターズカット版というとこのバージョンを指すが、このディレクターズカット版になると、より一層ゆるやかな終末映画としての性質を強く帯びてくる。

 このバージョンにおいて出色なのは、逃げ込んだ主人公たちがモールからゾンビを一掃したのちに、そこでダラダラと平穏な日常がしばし続くという点にある。人がいなくなったが尽きることない物資があり、電力が供給され続けるショッピングモールで彼らはつかの間の日常を送る。このバージョンにおいてはこれがけっこう長く続くのだ(のちに軍隊の荒くれたちの侵入によりこれは終わりを告げる)。

 危機と隣り合わせにありながら、これはある意味ユートピア──それも終末という状況によって可能になったユートピアである。『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズで知られる荒木飛呂彦の言葉を借りれば以下のようになる。

 "主人公たちがゾンビに取り囲まれて、でもショッピングセンターの中だから、食料品もあれば服でも武器でもなんでもある。もうやりたい放題、盗み放題で、物質的には凄く充足した状態に置かれる。だから外にいるゾンビもゆるいけれど、店の中の暮らしもゆるいという、そこのところがまた面白い。見ているほうもそういう雰囲気に浸るのが心地よくなり、ホラー映画を見ているにもかかわらず妙に癒されたりもしてしまう。これはゾンビ映画を見ている者だけに許される、一種のユートピア体験と言っていいでしょう。"

──『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(2011年、集英社新書

 『ゾンビ』で描かれる終末において無人となったユートピアの描写は、押井守うる星やつらビューティフルドリーマー』(友引町という閉鎖空間において展開する、永遠に続くモラトリアム)を始め、多くの後身の作品に影響を与えていると思われる。

 また、同時期のSF作品では小松左京『こちらニッポン…』(1976)の前半では、突如として人口の大半が消失した日本において、生き残った人びとが目減りする物資を享楽的に消費する姿が描かれる。こちらも終末ものにおいて描かれるユートピアの変奏と言えるものだろう。

 人が一掃され社会が瓦解し、しかし物だけが残された世界はある人にとっては理想郷に等しい。

 荒木飛呂彦が上述の本にて挙げている映画『アイ・アム・レジェンド』(2006)もそうした風景を描いている。リチャード・マシスンの原作"I am legend"(「地球最後の男」の邦題でも知られる)はロメロのゾンビ映画に着想を与えた作品であり、さらには感染の伝播による世界の破滅というイメージを世に知らしめることになったものである。

 人類を吸血鬼化する感染症の蔓延で人類のほとんどが滅んだ世界で、人間の主人公は夜な夜な起こる吸血鬼の来襲に備え、昼間は殺されないよう狩りを行う。それを原作とするこの映画においては、感染によって人類が駆逐され、誰もいなくなった閑散とした市街地の風景が描かれる(いわゆるゴーストタウン)。町でウィル・スミス扮する医師の主人公がただ一人物資を消費し、時間を持て余して孤独に生きているさまが描かれる。

 廃墟において感じるものとも相通ずるが、こうした人類が突如として滅んで残された風景というイメージは、ある種の異化効果を見る者にもたらす。人の存在が取り払われることで、非日常的な空間をそこに現出させるのだ。束縛が除外されることで可能性が解き放たれ、それは時にわくわくさせられるような体験にすらなる。

 『アイ・アム・レジェンド』における、無人となった広大な都市においてサバイバルを続け、一匹の愛犬とともに生きる物寂しい姿は、それにもかかわらず、どこか現実の社会に縛られて生きざるを得ない私たちの憧れをかきたてるところがある。

 同じくゾンビものである漫画『がっこうぐらし!』(2012~2020)においても当初、そのようなユートピアが描かれていた。主人公たる女子高生たちは無人と化した学校に合宿よろしく住み着いて、楽しげに暮らす。もっともそれは表面上だけの話であり、彼女たちが仮初の日常を謳歌しているのは理由付けがある(ことが明かされる)というのがあの作品の狡猾なところではあるが。

 次いで、さらにホラージャンルにおいてゾンビが癒しとなる根拠について挙げたい。

 『ゾンビ』が無人のスーパーマーケットという束の間のユートピアを描いていることは述べたが、もう一つ描いているテーマとして秩序と無秩序というのがあると思われる。

 それは、人形のように個を失いモノ化した人間=ゾンビがフロアを徘徊し規則的に人間を襲うという秩序と、対照的に無軌道な若者が破壊活動を行い、また、無人のモールで若者が無意味に享楽的に過ごすという無秩序である。

 ロメロの設定したゾンビについてのルールとしては「ゾンビに咬まれたり殺されたりするとその者もゾンビの仲間入りする」「ゾンビはヘッドショットか首を切ることでしか倒せない」があるが、「人間であった頃の習慣や行動を繰り返す」という性質も持ち合わせている。従って、意志を欠いた状態で無目的に行動を繰り返すゾンビが誕生するわけである。

 さまようゾンビによって埋め尽くされたショッピングモールに気の抜けたBGMが鳴り響く……どこかそれは秩序だったものを感じさせる。死体となったことで全員が等しくゾンビとなり、集団で行動するというそれは、どこか軍隊の行進にも似ている。つまり、秩序だった行動を繰り返すゾンビは、各々が等しく一個体としてさまよっているわけであり、その点において彼らはヒエラルキーを持たないのだ。

 先に引いた荒木飛呂彦の著作の中において、ゾンビの平等性について雄弁に語っている箇所があるため引用したい。

 "ところがゾンビというのは集団で襲ってくれば怖い存在ですが、動きが鈍いから一人一人はそうでもない。つまりはキャラクター性に乏しいというか、個性がないわけです。噛まれたら誰でもそうなってしまう、誰でもなれてしまう、没個性のモンスター。観客にしてもゾンビ一人一人の見分けはつかないと思いますし、無名だけれども大勢存在しているという、その不気味さがゾンビの持ち味だと言えるでしょう(……)無個性な人の匿名性というか、存在感の希薄さみたいなものがゾンビの不気味さと重なってくる。だからこそゾンビはミステリアスで、魅力的な存在になっているといっていいでしょう。"

 "ゾンビの本質とは全員が平等で、群れて、しかも自由であることで、そのことによってゾンビ映画は「癒される」ホラー映画になりうるのです。"  

──『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(同上)

 こうした、無個性であるがゆえに人間だったときの意味を脱して平等性を獲得したゾンビは、どこか癒しをもたらすところがある*10。ロメロゾンビにオマージュをささげた、アニメ『スペース☆ダンディ』の第4話「死んでも死にきれない時もあるじゃんよ」においては、こういった側面が拡大して描かれている。

 死んでしまえば皆仲良くゾンビの群れに加わり、没個性な存在になる。仮にさまよう死体によって悲惨な状況に追い込まれ、どうにもならなくなっても、ゾンビになれば特に問題はなくなる。この開き直りの図々しさを得ることで、心地よい憂鬱に浸らせてくれるところがあるのだ。

 人間の生命に現実世界におけるほどの価値がないからこそ、そこに平等性を見出すことができる。ロメロを始めとしたソンビ映画からは、そんな救いを見出すこともできるのである。

 

少女終末旅行の安らぎ

 話を大きく広げたため、これ以後においては『少女終末旅行』にフォーカスを当てたい。

 当初「くらげバンチ」で連載されていた本作を、筆者は第3話*11ほどから読んでいたのだが、当初は癒し系の漫画として受容されていたと記憶している。

 「SFは絵」であるというのはSF作家・野田昌宏の言葉であるが、これにのっとると、少女終末旅行において見出されるイメージは「廃墟と少女」の取り合わせである。

 一方で、少女たちの実存が世界の見え方に反映しているというのがあるが、他方で、廃墟に対して感じる癒し(いわゆる「廃墟萌え」)も、この漫画に対して読者が抱く感触の内に含まれている。

(画像7 『少女終末旅行』第1話より)

 

◆廃墟になぜ惹かれるのか

 根源的な問いとして、なぜ人間はときに廃墟に癒しを見出すのか?という問題提起が可能である。

 現代においては廃墟を扱った写真集や雑誌も多く刊行されており、また、軍艦島などの廃墟ツアーも盛んに行われている。あるいは、例えば霧に包まれたゴーストタウンが舞台となるホラーゲーム『サイレントヒル』において、そのさびれて廃墟と化した屋敷にどういうわけか癒しを感じてしまったりした経験はないだろうか?

 もちろん朽ち果てて骨組みが丸出しになった無機的な建造物や荒涼とした風景が単純に形象として美しいというのも挙げられるだろうが、さびれて人がいなくなり、壊れゆくままになっている建築や土地には何か特有の魅力があるように思われる。

 廃墟に惹かれる要因を考えてみると、次の二つが主に考えられる。

 一つにはノスタルジーをかきたてられるという点が挙げられる。かつての人間の痕跡を生々しく残しているものに触れて、過ぎ去りし日々について思いを馳せることができる。

 『少女終末旅行』においても、例えば図書館や美術を扱った話数においてその要素は強く出ているが、かつての人間が残した爪痕や機構には、どこか哀愁漂うところがある。

 『少女終末旅行』においては、カナザワにもらったカメラに収められていた過去の記録映像を通じ、かつての文明を形作っていた人々に会うというシーンがあるが、同種のシーンは、同じく「心地よい破滅」に該当する『けものフレンズ』『planetarian』においても見られる。終末後の世界において、文明崩壊前の人々に触れるというのは、普遍的に見る者を感傷的な思いにさせるのだろう。

 ディストピア映画に数えられる『リベリオン』(2002)にもこれに近しい印象的なシーンがある。このディストピアにおいては、戦争を再び巻き起こさないために人々は感情を持つことが禁じられている。全員に感情抑制薬の服用が義務づけられ、文学や芸術といった「感情を呼び覚ますコンテンツ」はすべて検閲され処分されている。主人公であるプレストンは感情違反者を取り締まる特殊捜査官であり、当初は感情を持たないことに何の疑問も覚えていなかったが、とある一連の出来事に遭遇した後、感情に目覚めていく。

 主人公が感情を呼び覚ます直接のきっかけになったシーンがある。任務のため偶然に入り込んだ廃墟で、反乱者によって収集されていた芸術や音楽に触れる。それまではすべてが統御された無機的な社会に生きていた主人公が、感情が規制されるようになる前の人間的な事物に心動かされて感情に目覚めるのだ。これもやはり、そのようなことを直接経験したことのない我々にもノスタルジーを強く感じさせる場面である。

 思うに、我々が抱く思い出というのは過去に属しており、今となっては触れられないものだからこそ、それに強く惹かれてしまうところがある。上述のシーンはその図式を文明という大きなスケールにおいて再現しているところがあり、それゆえエモーショナルなシーンになっているのだろう。

 また脱線してしまったが、ともあれ、廃墟に対して感じる魅力の一つにはノスタルジーが挙げられることは確かである。

 もう一つの廃墟の魅力として、社会に存在するものに対し、やがては終わってしまうものとして接するニュアンスを見出すから、ということが挙げられるだろう。人工的な文明の痕跡を残したまま、それが途絶えてしまっている荒涼たる景色を目の当たりにすると覚える感情は、ある意味仏教における諸行無常に通じるものである。世は無常、盛者必衰であり、万物は流転していくのだから、衰亡も仕方ないことだと教えてくれるところがある。滅びゆくものに特有して感じられるわびさびである。

 繰り返しになるが、高度にシステム化された社会にあって、気張って抗っても仕方のないという教えを受け取ることは、一種の処方箋たり得る。いっそすべて終わりにしたって構わない、どうということもないと思わせてくれるからであり、それゆえそこに癒しを見出すことも可能になるといえる。

 

◆終末における実存

 少女終末旅行において描かれる終末は徹底したものである。文明や文化が不在であるだけでなく、そもそも出てくる人間がほとんど二人しかいない。それ以外の生態系も消失している。絵として背景の描き込みは細かいものの、旧来社会のシステムなどは非常にあいまいな形でしか描写されない。それはそもそもミクロな存在である彼女たち二人には分かりようのないことだからだ。

 極端な言い方をすれば彼女たちはいつ自殺してもおかしくない状態だ(少なくともそうなったとしてもそれを気にかける人間は存在しないのである)。モニュメントや遺跡だけが残り、観測者のいない世界において、彼女らの存在を観測する人間がいないという意味では生きていても死んでいても同じであるともいえる。

 生きながら死んでいるような旅を送る彼女らは、寂しさを互いに癒すことはできるが、あの世界において子孫を残すという希望はなく、自分たち以外に未来を託す相手もいない。過去の全貌を知る手段がないばかりでなく、彼女たちには未来も残されていない。

 具体的には、様々な終末ロケーション巡りをするなか、チトは日記をつけており、またユーリがカメラで写真を撮ったりする描写はあるものの、それを伝えるべきメッセンジャーはどこにもいない。彼女たちの記憶が閉じられるとともにそうした記録は灰燼に帰すだろう。

 このような、現代社会に生きる我々の目を通せばいくらか深刻さを帯びて感じられる状況においても、それでも二人がむしろ気楽な状態で生きているのはかえって異常ですらある(『アイ・アム・レジェンド』においてさえ終末状況に対する深刻さは伴う)。おそらく彼女たちにしてみれば常にそうした状況に置かれて生まれ育ったためにそれが日常であるという認識もあるのだろう。彼女たちには食糧を求め頂上に登り詰めるという漠然とした進路はあるものの、確かな目標意識を持たない。それは大げさに言ってしまえば、客観的に見て死ぬ未来しか見えないということでもある。

 『少女終末旅行』において彼女たちの存在に対比されるのは、他の生き残りとして出てくるカナザワとイシイである。社会や文明が崩壊、というより完全な消失を迎えた終末という状況に際し、カナザワやイシイは、生を駆り立てる意味が失われた中においてそれぞれの意味をみいだして生きている。カナザワは地図を作ることに心血を注いでいるし、イシイは飛行機を用いて都市の外を出ていくというロマンがある。その世界の中での生き方を見つけているのだ。

 地図作りや飛行機開発といった行為はいわば生を駆り立てるトリガーであり希望なのだ。それは死への抗いでもある。社会も生命も消滅した世界で生きるためには、己でそうした意味をみずから作り出す必要がある。それにすがっていないと自分を保てない。

 二人と対比されることで、ますます目的を何ら持たないという彼女たちの特異性が感じられるようになる。第8話「街頭」からも分かるように、彼女たちはあえて能動的にそのようなスタンスを選択しているのだ。この作品自体の特異なところもそういったスタンスにある。例えば、そのような状況において生の意味をいかに見出すかということをテーマに設定するという選択もあったはずだ。しかしこの作品はあえてそういった主張を回避する。

 もっとも、正確にいえば、彼女たちの中は、漠然と何かをせずにはいられないという気持ちがあり、それが上方を目指すという行動につながっているという方が良いだろう。それは食料という存続につながるものを求めているからでもある。

 『チーズはどこへ消えた?』という本がある。これはスペンサー・ジョンソンが著したビジネスマン向けの啓蒙書であり、起業家精神がいかにして人生の充足に繋がるかということを説いた内容である。

 洞窟があり、そこには山のようなチーズがあり、しかしチーズはどんどん古くなっていっている。人間はあれこれ考えてそこでの生活を維持しようとするが、思考回路が単純なネズミは新鮮なチーズを求めてあっさり外の世界に飛び出していく。この話が言わんとしているのは「保守的で自己分析を繰り返す人間より、割り切った思考回路で新たな領域を開拓していくベンチャー気質な人間のほうがより多くのものを得る」というそのままの教訓なのだが、ここでいうチーズというのは食糧というそのままの意味ではなく人生の充足に結びつく「何か」を象徴している。

 しかし、彼女たちにとってはいわばその「何か」が明確にない状態なのだ。「上を目指す」というのはマクガフィンのようなものであって、明確な何かとして設定されない。第43話で言及されているように、それは意味をもつ何かではなく、目的以前の気持ちなのだ。

 では、彼女たちの無目的な旅は、どのような形で幸福につながり、そして肯定され得るのだろうか?ことにそのテーマが現れるのはラストの話数(第47話「終末」)においてである。

 都市の上方を目指す二人の旅が終わりに近付くにつれ、仕組まれたかのように彼女たちは色々なものを失う。ケッテンクラートが壊れ、銃を捨て、最後は頂上に登りつめるために、日記も燃やしてしまう。

 頂上に着いたところで彼女たちの旅は終わりを迎える。その後、無限にズームアウトしていくカメラは昇天を表すものともとることができる。単行本での加筆部分をヒントに、二人は石の裏からワープに成功したという裏読みもあるようだが、そうしたifを排除することで見えてくるものも多いだろう。

 他の人もいなくなり、食料も尽きて、何もかも失ってもなお突き進んでいく。不可逆な工程を辿ってまで探求を続け、尖塔を上るその姿は、どこか(『テルマ&ルイーズ』といった)アメリカンニューシネマのような悲痛さを帯びているようにも見える*12。だが、ここでのチトとユーリの台詞内容を見ると、単にそれだけにはとどまらず、ここに来て最後に彼女たちは一つの認識に達したように思われるのだ。

 

◆終末に対置される生

 第38話において一コマだけちらりと登場する、『意志と表象としての世界Ⅱ』という本がある。図書館の入口の前に落ちている本である。

 このショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(原著:1819年、邦訳:2004年、中公クラシックス、訳者:西尾幹二)は、イデアとしての意志とその表象という形で世界像を説明したものであり、彼の思想の集大成と呼ぶべき内容になっている。

 この著作におけるショーペンハウアーの中心的な主張は幅広いが、この世を皆苦であると表現し、意志=欲求からの解脱を説く厭世主義の立場をとるなど、仏教哲学とも共通するところが多い。後の大陸系哲学の思想家や、ワーグナーといった芸術家にも多大な影響をもたらしたことで知られる。

(画像8 『少女終末旅行』第38話より)

 

 『意志と表象としての世界Ⅱ』(邦訳版)は原著では全6巻という大著のうち、3巻目と4巻目の内容を収録しており、このシリーズの中でも主に芸術・倫理に焦点を当てて書かれた部分が収録されている。

 『少女終末旅行』においても、このショーペンハウアー哲学と関連付けて語れるところがあるため、以下でそれを試みたい。

 第47話「終末」において、屋上に上り詰めたチトとユーリが以下のような会話をする。

「…私不安だったんだ。こんなに世界が広いのに…何も知らずに自分が消えてしまうのが」

「…だけどあの暗い階段を登りながらユーの手を握ってたら、自分と世界がひとつになったような気がして…」

「それで思った…見て触って感じられることが世界のすべてなんだって」

「…よくわかんないよね…こんなこと言っても」

「わかるよ」

「私もずっとそれを言いたかった気がする」

──少女終末旅行』第47話(句読点など筆者が適宜補足)

 チトとユーリのここでの会話は、「見て触って感じられる範囲が世界のすべて」であり、唯一それこそが世界との接点たり得るということを物語っている。そしてこの会話内容は我々に、『意志と表象としての世界』におけるこのような記述を思い起こさせる。

 "いうまでもなく、もしわれわれが過ぎ去った何十万年や、そのなかで生きてきた何千億の人間のことを振り返って考えてみるなら、それらの年月はいったい何であったのか、彼らはその後どうなったのかと問わざるを得ないであろう。──けれどもわれわれが振り返って過去を呼び出すことが許されるのは、せいぜいわれわれ自身の人生の過去だけに限られるのであって、われわれは自分の過去のいろいろな場面を生き生きと想像のうちに蘇生させて、さてそれらすべては何であったのか、それらは一体どうなったのか、とあらためて問うてみることが許されているにすぎないであろう。──かの何千億かの人間の生命にしても、しょせんはわれわれ自身の生命と同じことなのだ。"

──『意志と表象としての世界Ⅱ』第五十四節

 『少女終末旅行』において彼女たち以外に登場する人間は、カナザワとイシイ以外には、

  • 彼女たちの記憶の中で出てくる人々(第40話)
  • カメラに収められた記録に出てくる人々(第31話)
  • 想像の中で出てくる影のような人々(第37話)

 といったかつて生きていた人々である。

 彼女たちがその限りある手段の中で接点を持ったこれらの人々も(あるいは彼らが残した遺跡も)、呼び出され得る範囲という観点では、彼女たち自身の人生における過去と変わらないのだ。

 過去に生きた人々も己自身の過去と同様に想像のうちに再生されるにすぎない。よって、それと接点を持つというのも、彼女たちが自身の過去を、生きてきた記憶の範囲で再生するということと同じなのである。

 過去にあったことが実体のない夢であり、想像の中にあるとすれば、彼女たちにとっての生の根拠はそのままの現在に求められる──そしてそれで充分であるといえるのだ。

 "われわれがなににもまして明瞭に認識しなければならないのは、意志の現象の形式、すなわち生命の形式ないし実在の形式というものが、もともとはただ現在だけなのであって、未来でも過去でもないということである。未来や過去などは単に概念のなかに存在しているものでしかない。つまり未来や過去は根拠の原理に従っているような認識の連関のなかにのみ存在しているのである。過去を生きたことがある人はいないわけだし、未来を生きてみるというような人もけっしていないであろう。現在だけが生きることの形式なのであり、また現在だけが人間からけっして奪い取ることのできない彼の確実な財産なのである。”

──『意志と表象としての世界Ⅱ』同上

 ここで言われているのは、人間の生は現在において生きられているのであって、それが未来や過去とつながりを持っているというのは人間の世界の捉え方(それは彼によると時間・空間・因果律という形式に縛られている)によるものにすぎないということである。

 より実践的な形で言うと、現在という形式を人間は生きているのだから過去や未来によってその生を惑わされるのは迷妄である、ということになる。何にも邪魔されない今というものを人間は持ち得る。そして、唯一現在という形式においてのみ人間は生きており、生はその時点の連なりなのであるから、その限りにおいてそれは始まりや終わりといった時点を持たないものなのである。

 "だからもしも現にあるがままの生に満足し、それをあらゆる仕方で肯定しているような人がいるならば、彼は確信をもって自分の生を無限なものとみなして、死の恐怖を錯覚なりとして追い払うことができるであろう。"

──『意志と表象としての世界Ⅱ』同上

 『少女終末旅行』において見出されるのは、冥府に救いを見出すのとは別なモチベーションである。

 見て触って感じられることがすべてであり、その限りにおいて、今生きているところの生、その幸福や快を何より貴いものとすることが美徳となる。そして実生活において良さを見出すというそれは、何物にも邪魔されないものなのだ。

 『少女終末旅行』は、未来がなくなった惑星、過去に確かな形で触れられない状況にあっても、彼女たちが現在を充足させ生きてきた過程の記録なのだといえる。彼女たちはイシイやカナザワと対比すると、明確な目標意識を持たないが、だからこそ、現在という形式における生をあるがままに生きているとも言い得るのではないかと思う。そういった生を送り、その最後の時点においてラストシーンの彼女たちも在る。

 そうしてそれが、死に迫っていてなお彼女たちが自分たちの生を十分に肯定できる根拠でもある。ここに描かれているのは、そのような意味での人生賛歌なのではないか。そうしてそれは、現在を生きる我々においてもつながっているものなのではないか──そのような問いを起こしたところで、筆を置くことにしたい。

 

 

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*1:ハルマゲドンのほうが世界の終焉という原義に近く、カタストロフはこの場合世界の破滅をまねく大災害のことなので、本来は分けて考えるべきであるが、ともに人類や文明、地球に対し「直近に」滅びをもたらすという意味で一括りにしている。

*2:灰羽連盟少女終末旅行けもフレ…「滅びた世界で豊かに生きる」概念にそのものズバリの名前があった「自分はこのジャンル好きだったんだ…」" - Togetter  https://togetter.com/li/1193042(2018年6月28日閲覧)

*3:cosy catastropheという語は元はブライアン・オールディスが『百億年の宴』(1973)において用いた語であり、ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』などの戦後の英国SFにおいて主流だった、「文明全体が危機に扮している状況ながら主人公たちはそこから逃れた快適な状態でその事態を分析・傍観することが許される」ようなフィクションを揶揄して用いた語である。これには例えばJ・G・バラードの『沈んだ世界』や、同じくジョン・ウィンダムの『海竜めざめる』などが該当する。従って、日本語でいう「心地よい破滅」とは異なる概念であり、cosy catastropheをこの意味で用いるのは本来誤用である。

*4:事故により宇宙船内に子供たちだけ取り残された状況で話が展開する。ジャンルとしてはデスゲームものに近い。

*5:著名な「実を言うと地球はもうだめです。突然こんなこと言ってごめんね。でも本当です」コピペを生んだ元ネタ作品である。

*6:前島賢セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』(2010年、ソフトバンク新書)第2章の記述などを参考にした。

*7:『ジサツのための101の方法』『終ノ空』に加えて、CRAFTWORKより2001年に発売された『さよならを教えて 〜comment te dire adieu〜』の3作品である。

*8:それぞれ安濃高志望月智充監督により、亜細亜堂制作のOVAとして映像化されている。

*9:ここではそういうことにしておいて欲しい。

*10:ここでは便宜上触れていないが、ゾンビ化せずにバラバラの血肉になって食されてしまう人間も存在する。ゾンビ映画においては、劇中での悪役ポジションに対する制裁として描かれることがよくある。

*11:本稿で言及される『少女終末旅行』の話数は、単行本の記載にのっとっているため、ウェブ掲載版と異なるナンバリングが存在する。

*12:テルマ&ルイーズ』は1991年公開でありニューシネマ期の映画ではないが、否応なく犯罪を重ねてしまい折り返しがつかなくなった女性二人の逃避行を解放的な形で描いており、ニューシネマ的なエンディングが印象的である。

『戦う姫、働く少女』(2017年、河野真太郎)感想

 『戦う姫、働く少女』(2017年)を読んだので、その感想について書きたい。

ざっくりと内容を言うと、現代における新自由主義的な体制と流動化した雇用形態のもとで(女性)労働者が搾取されるという状況が、ポストフェミニズム的な想像力といかに結び付いているかということを、『スター・ウォーズ』『アナ雪』『おおかみこども』『千と千尋』『インターステラー』『かぐや姫の物語』などのアニメや映画、漫画をテキストに論じるというものでした。

あくまでフェミニズム関連の本で、女性を主体とした論が展開されるけれど、扱っている問題の射程は女性に限らないものでもあり、フェミニズム批評に抵抗のある人にも読んでもらいたい感じはする。マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』とも相性が良い。

個々の作品分析においては、やや牽強付会を感じる箇所もあったけれど、問題提起の面で見るべきところの多い本だと思います。

 

特に、ポストフェミニズム的な地平にあるフィクションにおいて「社会的な格差や貧困の問題がアイデンティティの問題に置き換えられてしまい、物語上では解決されている(少なくともそう見える)けどシステムへの異議申し立てはされないままだよね」ということについて筆者は繰り返し書いている。

例えば『おおかみこども』について、具体的なシーンや台詞を検証しつつ著者は以下のように述べている(以下、第2章から3箇所を抜粋、アンダーラインは筆者)。

 

このように、『おおかみこども』における田舎という場は、福祉を提供する国家や、教育を提供する大学制度の否定の場なのである。その意味で、田舎の共同体を肯定的に表象することは、逆説的にも新自由主義的な現在の追認になっているのだ。そして重要なのは、そのような田舎を背景にしてこそ、貧困の反復が文化的なアイデンティティ選択によって覆い隠されることだ。

 

先に述べたように、狼として山に入り、母から独立しようという雨の決断は、おおかみという比喩形象を取り去ってみれば、十歳という年齢で労働過程に参入する決断なのであり、彼は父と同じような貧困の道を歩んでいるように見える。物語はそのような貧困と階級の問題を、アイデンティティの選択という衣でつつんで覆い隠す。雪が草平に対してカミングアウトする場面でそれは最高潮に達すると言っていいだろう。そこでは、人種的差異(この場合は人間とおおかみ人間との差異)のリベラルな肯定が物語を解決している。

 

興味深いことであるが、この雪の選択は、ジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』における主人公ダニエルの選択を反復している。彼は、みずからがユダヤ人であることを知ることで、マイラ(入水自殺をしようとしているところをダニエルが救い、その家族捜しを手伝った貧しいユダヤ人の歌手)への愛を認め、ともに東方に向かう決意をする。『ダニエル・デロンダ』では人種の同一性の確認であったものが、『おおかみこども』においては無縁社会の共有へとずらされている。つまり逆に言えば、『おおかみこども』は無縁社会という貧困と階級の問題を、人種的差異の問題であるかのようにあつかうのだ。『ダニエル・デロンダ』においても『おおかみこども』においても、人種的差異の肯定がプロットを解決しているが、その解決は登場人物たちの階級的な上昇を保証することはないし、ましてや階級社会のなんらかの変化を保証するものではなおさらない。 もちろん、映画は表面上はそのような読解を許さないかたちで作られている。この映画が貧困の再生産についての作品ではないといえるのは、また、一般的にもわたしたちが階級的問題が解決しない物語に違和感を抱かずにいられるのは、多文化主義と、その中でのアクティヴなアイデンティティの選択というモチーフが、あまりに強力だからなのだ。

 

この指摘はある意味では『おおかみこども』よりむしろ、本書の後に公開された『竜とそばかすの姫』(2021年)においてよく当てはまっているような感もあり、現代的な題材を扱っているがゆえに、細田守作品においては事態がより深刻化しているともとれる*1

(『竜そば』では直接的に、現代における貧困や疎外を前にして児童相談所の制度が無力なものと描かれており、ヒロインの自助努力による救済を称賛するような形で描いている。)

そしてこの問題意識は、批評家の杉田俊介氏が『天気の子』(2019年)の「セカイ系」を「ネオリベラル系」として批判した記事の内容とも繋がっている。

gendai.ismedia.jp

また、『魔女の宅急便』や『千と千尋』をもとに「やりがい搾取」の問題を指摘している章の議論は『若おかみは小学生!』(映画版2018年公開)に繋げて論じることも十分に可能なように思われる。

そういった意味で、この本のとり上げているテーマは2022年現在においてもアクチュアルなものだし、むしろ重要性は増しているとも言えそう。

 

ただ、その一方で、こうした記述に全て妥当性があるかと言われると疑問に感じるところもある。

本書で問題にされているような物語の型は昔からある普遍的なものであるかもしれないし、言い方次第では、古典的な物語の中にも(本書のようなやり方で)福祉国家体制の否定や新自由主義を見出すことは十分できそうではある。

いくつかのフェミニズムの潮流や、'70年代以降の新自由主義流入について、個々の作品においてその反映を見出すことはできるけれど、例えば「ある時期以前の物語はそうじゃなかったけどそれ以降はそういうイデオロギーが反映されてるよね」といった通時的な観点をもう少し入れて書いていた方が、恣意的な記述という感は少なくなると思う。

そういった意味だと、ディズニー映画や、著者の専門である英文学と絡めて論じた箇所ではそれは上手く行っているように思えるけれど、『魔女の宅急便』『千と千尋』『かぐや姫の物語』などはそこまでピンと来なかった感じはする。

また、本書では、宮崎駿作品がかなりの点でネオリベラル的な価値観を体現しているように指摘されているけど、他方で宮崎駿自身は熱心な左翼であるという事実についても触れていて、そこにある思想的ねじれ(?)についてより詳しく読みたかった気はする。

 

加えて言うと、『インターステラー』を「セカイ系」との関わりで論じた第4章はわりと苦しいところもあった。

そもそも『インターステラー』を「セカイ系」と結び付けるのは、東浩紀が「セカイ系」論者として『インターステラー』を擁護したこと*2が背景にあると思われるけど、『インターステラー』は「母性不在」でありポスト・エヴァの作品群に連なるものである、という論の運びはやや違和感があり、「セカイ系」批評を今復活させて作品を論じることの困難さを感じさせるところもあった。

 

全体的には「この作品はイデオロギー的にけしからんのでダメ」という論調ではまったくなく、例えば行政側がその作品をどのようにとり上げているかといったことも取り上げ、作品をもとに現在進行形の社会的問題について問うといったニュアンスが強く、個々の作品がそれを克服する可能性についても同時に取り上げている。

アニメファン的な見地から言うと、実際のところアニメ作品をまっとうに社会や政治の問題と接続して論じるのは難しいことなので、その隘路を突破するようなテキストとしても読めるのではないかと思います。


*1:「田舎」の扱い方については「VR=インターネット世界」と併存していることから、異なった性質になっているという留保は必要。

*2:このtogetterでの発言この記事

『sense off 〜a sacred story in the wind〜』プレイ感想

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ちょっと前からプレイしていたゲーム『sense off 〜a sacred story in the wind〜』(2000年、otherwise)をクリアしたのでその感想について書きたい。

本作はメインシナリオを単独で手掛けた元長征木の代表作であり、ゼロ年代初頭の「セカイ系美少女ゲームにも数えられる作品だ(元長自身、「セカイ系」の論客であったのでこの評価は適正と言える)。

元長が作詞し、I'veの高瀬一矢が手がけた主題歌(OPの「sacred words」およびEDの「birthday eve」)で名前を知っている人も多いだろう。

パッケージ版はロットアップしているが、FANZAやDLsiteにてダウンロード販売されており現在もプレイ可能である。

※以下は本作についての微ネタバレを含みます。

 

総評

季節は、春と初夏の端境期。

舞台は、地方都市。

その都市には、1つの施設がある。
大学に附属する研究機関だが、そこでは、学園生活が営まれている。
どこにでもあるような、それでいてどこかが違う、擬似的な学園生活。

そんな舞台設定に訪れる、聖なる物語――

(本作のOPムービーのテキストより)

あらすじとしては、主人公が「認識力学研究所」という国立の研究施設に移り住むところからストーリーが始まる。そこでは特殊能力の研究が行われており、能力を保持する思春期の男女が施設内の学校に生徒として通っている。潜在的な特殊能力を持った主人公(物語開始時点では何の能力か不明)はそこで疑似的な学園生活を送ることになる…というもの。

所感としては、かなり旧Key作品(というか『ONE~輝く季節へ~』と『Kanon』)の泣きゲー的なエッセンスを取り込んでおり、ただ、それを認識力学のようなSF的なギミックと、抽象的で思弁的なモノローグを凝らして行うことで独特の作風を築いているように思える

例えば『ONE』における、主人公が幼い頃の盟約により「永遠の世界」に去ってしまう、というモチーフは、主人公らが人間という枠に収まらない知的生命であるということによって説明される。

企画・メインライターの元長によると、本作の元になったのは『ONE』ではなく『Kanon*1ということだが、ささやかな蜜月ののちに訪れる唐突な終焉、エンドロールを経てエピローグにて二人が奇跡のように再会を果たすといった流れは、演出まで含めて『ONE』そのものだろう。

また、各ヒロインが特殊な力を持っており、それに縛られることで災厄がもたらされるという構図は『Kanon』的であるし、当初は明るいが実は傷つきやすく、壊れそうな繊細さを見せるキャラクターも『Kanon』の直系であろうことを感じさせる。

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また、本作は、各ルートのエンディングが「世界の終わり」("the end of the world")というタイトルになっており、主人公とヒロインの自他認識によって世界が規定されるという「セカイ系」的な展開もあり、成瀬や珠季のルートにはそれが顕著に見られる。その記述においては、SF的な仕立てはあるものの、具体的なメカニズムは常に欠落しているのが特色だ。

ただ、個人的には考察が好きだったり得意だったりするわけでもないので、あまりそういった側面で本作を楽しもうとは思わなかった。(本作の作家のテーマである)「21世紀的な新しい人類の存在様態」とか、あるいは本作のシナリオがギャルゲーとそのプレイヤーの関係を内包しているといったメタ的な読み込みなどについては個人的には割とどうでもよく、ベタに新海誠的なSFラブストーリーとして楽しんだ(新海誠作品がベタという意味ではない)。

 

一つ目立った瑕疵として挙げられるのは、日常シーンが正直退屈だった(しかも長い)。随所にハッとさせられるようなテキストはあり、抑制された雰囲気も良いのだが、特に共通ルートでは当たり障りのない会話をずっと読まされている感じで、笑えるギャグもあまりない。それが味でもあるけど同時にプレイがしんどくもある。

思うに、『ONE』や『Kanon』は泣ける展開があるというにとどまらず、久弥直樹麻枝准が書く日常シーンが楽しかったり、破天荒なギャグがあったりしたから人気作になったという面も強い。また、片岡ともの書く日常シーンは、ギャグがなくてもぽんこつのヒロインとのやり取りに独特の居心地の良さがあるし、丸戸史明の書くラブコメ仕立ての日常も、その人気に寄与している。

やはり楽しい日常シーンを書けるのはある種の特殊技能だし、ある程度定評のあるライターは、皆その前提があって評価されてるんだな…と実感させられるところはあった。

日常シーンが長いわりに、クライマックス以降の展開はかなり唐突で描写も少ないので、やはりこれは敢えて空白を多くしているんだろうと思った。

 

作品全体の雰囲気は良く、OPのテキストにある通り、4月~5月の、春と初夏の端境期、地方都市の郊外を舞台としており、グラフィックに新緑の清涼感ある空気感がよく表現されていると感じる。原画を手がけた、ゆうろ氏によるキャラクターの絵柄も素朴で清潔な感じがして好きだ。キャラクターの造形も派手なところがなくて良い。

I'veによる主題歌はもちろん文句なしに素晴らしく、OPの「sacred words」はゆったりとしたリズムに乗せてたっぷりとした美しいストリングス、透き通るようなベル音を奏でており、このゲームのサブタイトルにある「聖なる物語」の空気感をそのまま表現しているような趣がある。EDの「birthday eve」は一転してユーロビート調の疾走感あるアレンジにクールなメロで、ストーリーのキーワードを散りばめた隠喩的な歌詞を歌うのが非常にかっこいい*2折戸伸治によるエピローグのBGM「コズミック・ラン」も哀愁たっぷりのハウスで、音楽的にも充実しており、かつストーリーテリングと分かちがたく結び付いているという良さがある。

以上のことから、2022年現在においても十分にプレイするに足る魅力を備えたゲームと言えるだろう。

 

※以下は本作についての大幅なネタバレを含みます。

各ルートについて

各ヒロインにはそれぞれに、世界に干渉しうる特殊な能力が備わっている。成瀬は未来を予知することができ、珠季の場合は物理的な念動力、椎子は治癒能力、透子は世界の「読み替え」を行う能力、美凪は人の心が読める能力、といった具合。

各ルートにおける帰結は、「演算者」としての主人公の能力によって各々のヒロインの能力がある方向に発現した結果として生じたものと捉えることができる。従って、「選ばれなかったヒロインが救われずに終わるのではないか」という「Kanon問題」のようなものはあまり考えなくても良さそう(例外もあるけど)。

ちなみに自分のシナリオのプレイ順としては成瀬→椎子→珠季→透子(→依子)→美凪(→慧子)という感じ。最初の3人はかなり直感で、あとは個人的に後回しにした形になる。なお、依子と慧子は隠しヒロイン的な扱いで、他の特定のキャラを攻略済みでないとルートに入れないとのこと。

以下、全てではないが印象に残ったルートについて触れる。

 

織永成瀬のルート

成瀬ルートのストーリーでは、未来予知の能力を持つ成瀬が「世界の終わり」を予言し、その時刻が来るまでの数日を主人公とヒロインは二人きりで過ごすも、世界は終わらず、成瀬ただ一人が死んで終わる。成瀬の予知は成瀬ただ一人にとっての世界の終わりを意味していたことが分かる。

しかし、この世界から消えた成瀬の意識は持続しており、(何らかのメカニズムで)世界が一周することで成瀬は転生し、次の世界で主人公と再会して終わる。

ここでは「自分自身の命の終焉=世界の終わり」と規定されており、ヒロインと主人公とのハッピーエンドのために世界そのものを1周させるという明快な構図である。成瀬ルートはそのシンプルさゆえに、「セカイ系」の一つのアーキタイプとも呼べるものだろう。

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また、ゲームの翌年に販売された本作のドラマCDは、元長氏自ら脚本を書いており、成瀬ルートを下敷きにしたストーリーになっている。

(「sacred words」が、先日発売された「I've 20th Anniversary E-VOX」に未収録であったため、プレミア価格になってしまうかも)

このドラマCDでは、ゲーム版の成瀬ルートでは簡素な描写で終わっていた「世界の終わり→二人の再会シーン」までの流れが、双方の視点を交え、ゲーム版にないシーンや台詞とともにより詳しく描かれている(それでもやはり抽象的なのは変わらないが)。現世での成瀬は生命として消失したのち、二人の再会のために作り直された世界に移行する。転生した成瀬は夢の中にもう一つの世界の記憶を見る。成瀬は主人公との出会いを予感して育ち、そしてその成瀬を主人公が見付けて前世からの約束を果たすという流れだろう(多分)。

ドラマCDのクライマックスシーンから、印象的で直接的な台詞を以下に引用。

俺は、旅をしてきた。いくつもの場所を、いくつもの季節を旅してきた。

いつかどこかで、誰かと巡り会える。そんな予感に誘われて。

漠然とした予感だったけど、確信はあった。それは、世界に対する確信だ。

この世界に俺がいる限り、俺はそいつと巡り会うことができる。

何故なら、この世界は、俺とそいつのために出来ているからだ。

世界というものが存在すること、それは、俺と誰かとの出会いを、あらかじめ約束しているということを示すのに他ならない。

何回目になるのか分からない春は、もう半ばを過ぎようとしていた。

 

このモノローグはかなり『ONE』とか『Kanon』に近い距離にあると思うし、『君の名は。』に接近しているところも感じる。

特にこのクライマックスの場面、相手との記憶は失っており、ただ漠然とした残滓だけを抱えている二人が運命的に偶然再会するという流れはめちゃくちゃ『君の名は。』のラストを思わせて良く、演出的にもゲーム版より優れていると思う。「birthday eve」(誕生日の前日)のタイトル回収も完璧であり、このCDの内容をゲーム本編に入れていたらもっと評価上がったのでは?と思ってしまう。

 

真壁椎子のルート

椎子ルートは個人的には一番琴線に触れたシナリオだった。数学を通して主人公と椎子とのコミュニケーションが描かれ、それが二人の前世からの宿命と繋がっていく。

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途中でいきなり歴史小説みたいなパートが始まり、『AIR』の「SUMMER」編みたいで良かった(他のルートでは前世の記憶がほとんど有史以前まで遡るのに対し、椎子ルートは具体的に近世ヨーロッパの話になる)。

アクロバティックな展開の多い『sense off』のシナリオにおいて、椎子ルートは物語の類型としては一番クラシックなものだと思う。

ライプニッツをはじめとする数学の歴史や、情報理論のような観念的な話は出るが、それらはシナリオ上のギミックとしてではなく、あくまで物語を彩るモチーフの1つとして出る。

自己犠牲の是非というテーマがあるが、世界対個人ではなく、多人数対1人という対立軸になっており、「セカイ系」のような仕掛けも中途半端だ。

しかし、だからこそか、自分は透子ルートのシナリオに最も惹かれた。特別な他者というモチーフがより具体的なものになっているし、一人の数学者の人生の話でもある。

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ベタベタだけど、こういうのは泣けてしまう。

 

御陵透子のルート

透子は自我が希薄という意味で最も元長っぽさのあるヒロイン造形と感じる。ほぼ感情や意志を持たないかに見えるヒロインが、ぎりぎり感情を見せるかどうか…?というラインまで持って行くまでをじっくり描いているところを感じた。

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透子の掴みどころのなさをよく表していると思える台詞

 

「世界の読み替えを行う」という能力は、本作のヒロインの中で最も規模が大きく、主人公の能力に近いところもある。

個人的には、もともと自我が希薄なキャラクターが存在ごと消えてしまい、よく分からないままに復活するというのは常道という感じがして、あまり刺激的なところがないままに終わってしまった。

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「もしも叶うなら肉体というハードウェアからも軛解き放つよ」というEDの歌詞は透子シナリオから来ているのだろう。

 

飛鳥井慧子のルート

このサブシナリオは元長氏ではなく、シュート彦(うつろあくた)氏が担当しているとのこと。ストーリーとしては主人公が自室のPCでネットを開通させてアクセスすると、よく分からないページに飛ばされて、そこで思念体のような少女に出会い、チャット上で交流していくというもの。

慧子ルートは本作のグランドルートとして読めるという評判があり、認識論をテーマにした本作のことだから、てっきり飛浩隆の「ラギッド・ガール」のような話になるのかな?と思ったけど全然違った。一応サイバネティクス寄りのストーリーではあり、本作を象徴するような終わり方を迎える。

あと、飛鳥井慧子(というか、他ルートを含めて前世でのヒロインの姿)のビジュアルはわりと『YU-NO』を思い出させるところがある。

飛鳥井慧子ではなくモブの少女Aだけど、グラフィックがやたら可愛いので印象に残った。

 

まとめ

  • 『ONE』や『Kanon』のエッセンスを取り入れ、それをSF的に解釈したようなシナリオ。
  • 成瀬シナリオはドラマCDと合わせて触れると良いかも。
  • 椎子シナリオが一番良かった。
  • 音楽的にも充実しており、ストーリーと結び付いて使われている。

という感じでした。やっぱり評価が高いだけあってそこそこ面白かったです。

一応、『未来にキスを -Kiss the Future-』は『sense off』の精神的続編にあたるとのことなのですが、本作でそこそこ満足したのでプレイしなくても良いかなと思っています。

個人的には最初に触れた元長柾木の作品は『全死大戦』であり、結構気に入っているので、多分もう出ないけど続編を読みたいなと思っています。

 

 

 

 

*1:東浩紀ゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』(講談社BOX、2009年)、44頁。

*2:『visual style vol.5』に掲載の高瀬一矢のインタビューによると、「birthday eve」は「accessっぽく」というオーダーがあり「C.G mixの真似をして書いてみた曲」だという。accessで言えば「MISTY HEARTBREAK」という曲が「birthday eve」と似ており、おそらくこの曲を参考曲として提示されたのではないだろうか。

「’10年代のTVアニメ各年ベスト」企画の集計結果発表

highland.hatenablog.com

 

2019年の11月~2020年の1月にかけて「'10年代のTVアニメ各年ベスト」という企画をTwitter・ブログ上で実施しまして、その集計結果の記事を出せていなかったのですが、このたび2年越しに出すことにしました。

Twitterでのハッシュタグ付きツイートのほか、以下の7つのブログにてコメント付きで投票いただき、合計383人に投票していただきました。

ご協力ありがとうございました。

hokke-ookami.hatenablog.com

kyuusyuuzinn.hatenablog.com

toriid.hatenablog.com

privatter.net

proxia.hateblo.jp

www.icchi-kansou.com

turnx.hatenablog.com

最初に掲載した自分の記事にも書いていますが、企画の趣旨をまとめると

・2010年代のTVシリーズのアニメ(Web配信のシリーズ作品含む)からベスト10作を選ぶ
・各年につき、その年のベスト1作を選出する

となります。

例えば、2019年時点での自分の投票作は以下のような感じです。

10年:探偵オペラ ミルキィホームズ
11年:放浪息子
12年:戦国コレクション
13年:琴浦さん
14年:ソードアート・オンラインII
15年:六花の勇者
16年:Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-
17年:プリンセス・プリンシパル
18年:ダーリン・イン・ザ・フランキス
19年:約束のネバーランド

https://twitter.comsh/statsそのus/1439825315589545984?s=20

1年につき1作と絞る利点としては、ある特定の年の作品に票が偏ったりするのを避けられることと、その方が集計した際に通時的な見方ができることがあります。

各年の作品から選出するという縛りがあることで、10年間にわたって作品を見てきたような、ある程度玄人なファンの意見を集められるのではないかという見込みもありました。

また、投票の際はある程度ルーズなレギュレーションだったのですが、今回集計するにあたっては以下のようなルールを定めてそれにのっとり行いました。

  • 年をまたぐ場合は前年の作品としてカウントする

例えば2014年10月~2015年3月に放映された『SHIROBAKO』は2014年の作品と見なします。仮に2015年ベストに『SHIROBAKO』に投票した人がいた場合、その票は死票になります。

 

  • 同じタイトルの続編や、2期、3期等は別作品としてカウントする

これについてはごく当然ですが『ヤマノススメ』(第1期)と『ヤマノススメ セカンドシーズン』(第2期)は別作品としてカウントされるということです。

ただし、いわゆる「分割2クール」作品については、基本的には同じ作品として考え、タイトルが変わる場合のみ別作品としてカウントしています。

例えば分割2クール放映の『Fate/Zero』の一期と二期は同じ作品としてカウントされますが、『デュラララ!!×2承』と『デュラララ!!×2転』は別作品としてカウントされます。

 

  • 同じ人が1年に2作品以上投票した場合、死票にはしない

例えば、レギュレーション違反で2017年ベストに「けものフレンズ宝石の国」と投票した人がいた場合、それらを死票にはせず「『けものフレンズ』に1票、『宝石の国』に1票」としてカウントしています。

本来であれば、例えば2作品に投票があった場合は0.5票ずつ投じたことにして適切に重みづけを分散する、といったやり方が良いかもしれませんが、集計が煩瑣になることと、分散して投票できることになると当初の趣旨に反するのではないかと考えて、このようなやり方にしました。

ちなみに、二重投票については、ランキングに影響を与えるほどの数はなかったと付言しておきます。

それでは、以下にランキング形式で各年のトップ10を発表いたします。

 

2010年 1位 - 四畳半神話大系【46票】

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現在でも根強い支持を受ける『四畳半』が、'10年代の記念すべき初年度の1位になりました。

最近だと原作小説を翻案元として『四畳半タイムマシンブルース』のアニメ化が決定したりもしています

2010年前後はノイタミナがメジャーになり出した時期でもありますし、湯浅政明監督と森見登美彦は’10年代を通じて売れっ子になっていったため、その象徴となるような結果ではないでしょうか。ことに森見登美彦については、文芸方面の出自からアニメオタクになった人が漏れなく好きな印象があり、批評家受けする面は大きいかと思います。

そして、1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 四畳半神話大系【46票】

2位 - けいおん!!(2期)【42票】

3位 - STAR DRIVER 輝きのタクト【28票】

4位 - Angel Beats!【21票】

5位 - ハートキャッチプリキュア!【18票】

6位 - ソ・ラ・ノ・ヲ・ト【17票】

7位 - 探偵オペラ ミルキィホームズ【14票】

8位 - 刀語【11票】

8位 - ストライクウィッチーズ2【11票】

10位 - ヨスガノソラ【10票】

 

けいおん!』の2期が『四畳半』と接戦になっているのが面白いですね。

けいおん!!』以外にも『ストライクウィッチーズ2』があったりと、まだこの時期はゼロ年代の名残がありますが、一方で『スタドラ』や『ミルキィ』1期があったりと、オリジナルのIPの健闘ぶりも光ります。

個人的には、2010年は『Angel Beats!』と『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の年だったという印象があり、ともに野心的なオリジナルアニメとして発表されましたが、どちらも最終話で賛否が分かれる結果になった…と記憶しています。

 

2011年 1位 - 魔法少女まどか☆マギカ【86票】

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2011年は圧倒的な大差を付けて、『まどかマギカ』が1位という結果になりました。今回のランキングでも383票中86票とトップの票数を獲得しており、’10年代の最重要作(であり、’10年代前半の顔)と言えるのではないでしょうか。

 

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 魔法少女まどか☆マギカ【86票】

2位 - 輪るピングドラム【34票】

3位 - STEINS;GATE【26票】

4位 - 花咲くいろは【22票】

5位 - あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない【17票】

5位 - Fate/Zero【17票】

7位 - THE IDOLM@STER【12票】

8位 - 境界線上のホライゾン【10票】

8位 - ジュエルペット サンシャイン【10票】

10位 - UN-GO【8票】

10位 - 日常【8票】

10位 - 放浪息子【8票】

 

2011年はアニメ界にとって驚異的な年で、今でもアニメファンは大体知ってて見ているような作品が上位ランキングを占めており、『あの花』など社会現象になったタイトルもいくつかあります。’10年代で最も豊作の年と言えそうです。

アイマス』や『Fate』はこの後雪崩を打ったかのようにアニメシリーズが展開されましたし、『ピンドラ』で幾原監督は14年振りにアニメ監督として復帰し、『花咲くいろは』はその後のP.A.WORKSの作風を決定づけたと言っても過言ではありません。

個人的には『TIGER & BUNNY』【6票】が圏外だったのがやや意外で、それだけ他の作品が目立っていたということでしょうか。

この時期はループものが強いという印象があったのですが、ほとんど『まどか』と『シュタゲ』のイメージが大きいですね。

 

2012年 1位 - ガールズ&パンツァー【39票】

やはり現在でも大きな支持を受け、シリーズが展開されている『ガルパン』1位となりました。『スト魔女』に続き、萌えミリタリーもの(ありていに言えば女子学生が戦争ないし疑似戦争をするアニメ)の人気を決定づけた形になります。

ガルパン』については、TVシリーズの時点で支持は受けていましたが、劇場版の公開以降に本格的に人気に火が付いたような印象があり、後年になっての評価も大きいのかなという感じもします。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - ガールズ&パンツァー【39票】

2位 - 氷菓【29票】

3位 - PSYCHO-PASS【26票】

4位 - 戦国コレクション【21票】

5位 - 戦姫絶唱シンフォギア【17票】

6位 - 人類は衰退しました【16票】

6位 - TARITARI【16票】

8位 - 新世界より【15票】

9位 - アイカツ【12票】

10位 - ココロコネクト【8票】

10位 - 中二病でも恋がしたい!【8票】

 

1位からやや票を空けて京アニの『氷菓』が2位になっており、一般文芸小説のアニメ化としてはかなり高い票数を獲得しました。

PSYCHO-PASS』や『シンフォギア』『アイカツ』など、後にシリーズ化された作品の1stシーズンが目を引きますが、6位から10位にかけて『TARITARI』『新世界より』『ココロコネクト』のような1、2クールの佳作もランクインしています。

戦国コレクション』はソシャゲのアニメ化として初期の作品であり、ややマニアックな内容ながら4位に入っているのは個人的に嬉しいです。

 

2013年 1位 - ゆゆ式【34票】

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まんがタイムきらら原作のアニメ化、そして「日常系アニメ」としては最も評価された作品の一つである『ゆゆ式』が2013年の1位となりました。

ゆゆ式』の魅力を言語化するのは難しいですが、テンポよく交わされるとりとめのないやり取りの快さであったり、三人らを中心としてゆるくまとまった博愛的な関係という形でしょうか。

レイアウトやキャラクター芝居の面でも評価され、キネマシトラスはこの作品を機に、ハイクオリティな作品を生み出すスタジオとして台頭していきます。TVシリーズの放映後は単発でOVAが出たのみですが、第2期を望む声も根強くあります。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - ゆゆ式【34票】

2位 - キルラキル【24票】

3位 - 凪のあすから【21票】

4位 - ガッチャマン クラウズ【20票】

5位 - ガンダムビルドファイターズ【15票】

6位 - 革命機ヴァルヴレイヴ【13票】

6位 - 進撃の巨人【13票】

6位 - のんのんびより【13票】

9位 - 有頂天家族【11票】

10位 - 銀河機攻隊 マジェスティックプリンス【10票】

10位 - 翠星のガルガンティア【10票】

10位 - プリティーリズム・レインボーライブ【10票】

 

2位『キルラキル』から6位の『ヴァルヴレイヴ』までをオリジナルアニメが占め、これらラインナップを押しのけて『ゆゆ式』が1位になったことは地味に凄い気もします。

『マジェプリ』や『ガルガンティア』を含め、ロボットアニメのオリジナル作品が多く出た年ですね。『凪あす』に『有頂天家族』と、P.A.の快進撃も続きます。

進撃の巨人』や、今年完結した『のんのんびより』などは、ブランクを挟みながら長期間にわたりアニメが展開されました。

ラブライブ!』の1期【9票】が、『プリティーリズム・レインボーライブ』に僅差で負けて惜しくもランク外という結果になりました。

 

2014年 1位 - SHIROBAKO【44票】

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花咲くいろは』に続くP.A.WORKSのお仕事アニメとして『SHIROBAKO』が2014年の1位になりました。丸ごとアニメ制作の舞台裏という題材でTVシリーズのアニメをやるのは前代未聞の試みでしたが、水島努監督らしい緩急のついた演出で手堅くまとまっていました。

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アニメ業界を描いた群像劇として、クリエイターとしての苦悩もそうですが、キャリアパスについての葛藤などが個々のキャラにおいて描かれるという意味で出色の出来であったと思います。昨年にはTVシリーズから5年越しに劇場版も公開されました。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - SHIROBAKO【44票】

2位 - ピンポン【23票】

3位 - ご注文はうさぎですか?【15票】

4位 - スペース☆ダンディ【14票】

5位 - 四月は君の噓【13票】

6位 - 未確認で進行形【12票】

6位 - 結城友奈は勇者である【12票】

8位 - 月刊少女野崎くん【11票】

9位 - ガンダム Gのレコンギスタ【10票】

9位 - selector infected WIXOSS【10票】

 

『ピンポン』や『君嘘』、『野崎くん』から『ごちうさ』『未確認』といったきらら系にいたるまで、漫画原作が堅調な印象を受けます。特に4コマ漫画が人気の年でした。

『ピンポン』は’10年の『四畳半』以来の湯浅監督のノイタミナ作品であり、全話の絵コンテを担当、最高傑作との呼び声も高い作品となりました。

『ピンポン』は最終話の演出で、LINEやTwitterの画面を分割画面で出したり、ポップアップでLINEのコメントを出したりしていたのですが、LINEをアニメの演出で使った最初期の例かなと思います(LINE演出はこの後『ここさけ』で使われてから増えるイメージ)。

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『未確認』や『野崎くん』のランクインから、既に『ゆるゆり』や『GJ部』をヒットさせていた動画工房のプレゼンスがこの時期あたりで上がって来ていることも伺えます。

『結城友奈』『WIXOSS』といった現在も展開中の百合もののシリーズもこの年から始まっていました。

スペース☆ダンディ』は円盤売上が全然なかったらしいですが、4位にランクインしているのを見ると、批評的な支持はそこそこ得られているのかな、と思います。

 

2015年 1位 - 響け! ユーフォニアム【73票】

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2015年といえば、一にも二にも『ユーフォニアム』が絶賛された年で、2位以下に大差を付けて1位を獲得しました。この作品については作劇やキャラクターのレベルから、作画や演出スタイルのレベルまであらゆる側面から語られ尽くし、’10年代のTVアニメで最も被言及数の多いタイトルの一つではないかと思います。部活ものであり青春ものであり…ですが、シビアな現実も描いています。京都アニメーションの新たなスタンダードともなりました。

個人的には、同人誌企画にも参加したので思い出深いです。

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1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 響け! ユーフォニアム【73票】

2位 - 放課後のプレアデス【35票】

3位 - 血界戦線【16票】

3位 - コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜【16票】

5位 - 蒼穹のファフナー EXODUS【14票】

6位 - アイドルマスター シンデレラガールズ【13票】

7位 - 機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ【11票】

8位 - Go!プリンセスプリキュア【9票】

8位 - 落第騎士の英雄譚(キャバルリィ)【9票】

10位 - 聖剣使いの禁呪詠唱(ワールドブレイク)【7票】

10位 - のんのんびより りぴーと【7票】

10位 - ユリ熊嵐【7票】

 

1位の『ユーフォニアム』が2位の『プレアデス』の2倍以上、2位の『プレアデス』が3位の『血界戦線』の2倍以上の票を獲得するという、イレギュラーな事態になっており、それだけこの上位2作が圧倒的だったということでしょうか。

10年越しに制作された『ファフナー』の2期が5位に入っているのは地味に凄い。

ラノベ勢として『落第騎士』に『ワルブレ』もランクインしており、全体的にバトルものやアクションものが快調な年です。

のんのんびより』は2013年の第1期に続き第2期もランクインしており、人気の高さが伺えます。

プリンセスプリキュア』は、プリキュアシリーズとしては2010年の『ハトプリ』以来の5年振りのランクイン。また、’10年代のプリキュアシリーズで年度トップ10に入ったのはこの2作のみという結果になっています。

おそ松さん』【5票】、『ローリング☆ガールズ』【4票】、『Charlotte』【2票】といったオリジナル(または半オリジナル)の話題作が意外にもランク外となりました。

 

2016年 1位 - 響け! ユーフォニアム2【28票】

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前年に引き続き『ユーフォニアム』シリーズの『響け! ユーフォニアム2』が首位となりました。

鎧塚みぞれと傘木希美の関係が一つの焦点となっており、後の『リズと青い鳥』に直接繋がる作品でもあります。

2年連続で同一のシリーズが首位になるというのは驚異的なことですが、同時に、2期ものが1位になるというのは、2016年の他の作品に相対的に存在感がなかったということでもあります。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 響け! ユーフォニアム2【28票】

2位 - 昭和元禄落語心中【19票】

3位 - フリップフラッパーズ【17票】

4位 - この素晴らしい世界に祝福を!【15票】

4位 - Re:ゼロから始める異世界生活【15票】

6位 - ふらいんぐうぃっち【12票】

6位 - 僕だけがいない街【12票】

8位 - コンクリート・レボルティオ~超人幻想~THE LAST SONG【10票】

8位 - 終末のイゼッタ【10票】

10位 - 灰と幻想のグリムガル【9票】

10位 - Vivid Strike!【9票】

10位 - ユーリ!!! on ICE【9票】

10位 - ラブライブ!サンシャイン!!【9票】

 

ラインナップを見て分かる通り、わりと粒ぞろいの年です。まず、人気シリーズ『Reゼロ』と『このすば』の1期が放映されました。『僕だけがいない街』や『灰と幻想のグリムガル』は、1シーズンでまとまった、原作ものの良作です。オリジナルのタイトルとしては、百合ものの『フリップフラッパーズ』・『終末のイゼッタ』に加え、『ユーリ!!! on ICE』が目を引きます。

優れた作品は多いのですが、誰もが認めるような「2016年といえばこれ!」というタイトルがなく、多数の佳作に票が分散した結果、そこそこ人気のあった『ユーフォニアム』の2期が1位になったという見方もできそうです。同順位のタイトルの多さからもそれは伺えます。

ここまで来たらいっそ『フリフラ』か『落語心中』に1位を取ってもらいたかったところですが、どちらも中堅的なポジションに留まり、首位獲得まで至らなかった形でしょうか。

『ユーリ』の票数が意外に少なかったのは、何だかんだその後の展開が途絶えたのが大きい気がします(続編として劇場版の制作が発表されたものの、公開時期未定)。

ラブライブ!』のシリーズは2013年の1期が【9票】、2014年の2期が【8票】となり、いずれもその年のトップ10には入らなかったのですが、『ラブライブ!サンシャイン!!』【9票】でついに10位に並び、ランクインしました。

前年の第1期に次ぎ、『コンレボ』の2期が8位にランクインしています。

 

2017年 1位 - 宝石の国【36票】

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市川春子の漫画を原作に、『ラブライブ!』シリーズの監督や『プリリズ』シリーズのライブシーン演出などアイドルアニメで定評のあった京極尚彦監督が初めて手がけたフル3DCG作品です。3DCG作品としては唯一の首位獲得となりました。

CGスタジオのオレンジの持つ技術が題材にマッチしており、宝石の髪にはフォトリアル系のCGを取り入れたり、セルルックCGに留まらない表現の幅を見せました。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 宝石の国【36票】

2位 - けものフレンズ【34票】

3位 - プリンセス・プリンシパル【32票】

4位 - メイドインアビス【20票】

5位 - 月がきれい【19票】

6位 - 少女終末旅行【13票】

6位 - フレームアームズ・ガール【13票】

8位 - 小林さん家のメイドラゴン【12票】

9位 - リトルウィッチアカデミア【11票】

10位 - アイドルタイムプリパラ【8票】

10位 - ボールルームへようこそ【8票】

 

1位~3位がほとんど接戦になっているのが注目ポイントです。個人的にも、2017年の話題作といえばこの3作品だったなと感じます。オリジナルものとしては『プリンセス・プリンシパル』が強かったです。個人的には、4位の『メイドインアビス』はもう少し票数を獲得してもいいなと思います。

主に『けものフレンズ』や『宝石の国』に端を発してですが、3DCG作品のプレゼンスが一気に増した年です。

また、この時期から、いわゆる百合ものがガッツリ上位に入るようになってる感じがします。上位3作品に加えて『フレームアームズ・ガール』『メイドラゴン』『リトルウィッチアカデミア』など…もっとも、宝石に性はないのですが。

亜人ちゃんは語りたい』【4票】、『Fate/Apocrypha』【4票】、『エロマンガ先生』【3票】がいずれも思ったより低い票数でランク外だったのですが、どうもA-1 Picturesの作品はあまりこういう場で支持を得られない傾向にあるようです。

 

2018年 1位 - 宇宙よりも遠い場所【80票】

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「よりもい」こと『宇宙よりも遠い場所』が1位になりました。2011年の『まどかマギカ』【86票】に次ぐ80票を獲得しています(総合での投票ではないので、年をまたぐ比較に大きな意味はないですが)。

社会現象を巻き起こすといったものではないですが、着実にアニメファンの支持を集めた作品です。シリーズ構成は『ユーフォニアム』『ラブライブ!』シリーズと同じ花田十輝で、それに連なる女子高生の群像劇と言えます。

北米でもクランチロールで配信され、ニューヨーク・タイムズ紙に取り上げられたことも話題になりました。「女子高生みんなが何かする」という一見アニメオタクが好みそうな題材ながら、思春期の悩みやトラウマを友情を通して克服していくさまが普遍的として評価されたようです。

本作のメインスタッフが再び集結した映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』が来年に公開される予定で、期待を集めています。

 

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 宇宙よりも遠い場所【80票】

2位 - SSSS.GRIDMAN【32票】

3位 - ゾンビランドサガ【29票】

4位 - ヴァイオレット・エヴァーガーデン【27票】

5位 - 刀使ノ巫女【14票】

5位 - ゆるキャン△【14票】

7位 - 少女☆歌劇 レヴュースタァライト【13票】

8位 - やがて君になる【11票】

9位 - ウマ娘 プリティーダービー【9票】

10位 - 青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない【8票】

 

2018年は『よりもい』に限らず話題作が多かった年です。まずトップ3をアニメオリジナル作品が占めており、これは他に例を見ません。ジャンルとしてもティーンの青春もの、ロボットアニメ、アイドルものといった形で上手い具合にテイストが分かれています。

オリジナルの『GRIDMAN』『ゾンビランドサガ』『レヴュースタァライト』はいずれも今年に入って続編が公開されました。『ゆるキャン△』と『やがて君になる』のアニメはいずれもこの後数年にわたって漫画原作アニメのスタンダードになりそうな作品でした。2011年と並ぶような豊作の年だったのでは?と思います。

2期が大ヒットしたアニメ版『ウマ娘』の1期もこの年です。

また、『青ブタ』と『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(TV版)を除く?ほとんどの作品が百合として消費された作品と言えて、2017年に続いて百合系のアニメがいよいよ覇権になっている感じです。

 

2019年については前もって断りを入れますが、2019年が完全に終わらないうちに投票してもらった人が多いため、軽い参考程度に見てもらえればと思います。

 

2019年 1位 - まちカドまぞく【28票】

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’10年代最後を飾る2019年の1位は『まちカドまぞく』になりました。きらら原作のアニメとしては、2013年の『ゆゆ式』以来の首位獲得です。

桜井弘明さんの監督作としては久々の美少女アニメ、4コマ漫画原作のアニメでした。漫符やイメージBG、書き文字やテロップを多用する桜井監督のお馴染みのスタイルにキャラクターのポップさが合わさった楽しい画面、かけあいの中毒的なテンポ感、原作漫画ページの意匠を取り入れたOP・ED、大地監督や佐藤竜雄さんといったベテラン勢の参戦と見所の多い作品であったと思います。

来年の春クールより第2期の放映も予定されています。

 

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - まちカドまぞく【28票】

2位 - ケムリクサ【21票】

2位 - 私に天使が舞い降りた!【21票】

4位 - かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~【19票】

4位 - さらざんまい【19票】

6位 - 鬼滅の刃【14票】

7位 - 彼方のアストラ【12票】

8位 - Re:ステージ! ドリームデイズ♪【9票】

9位 - 荒ぶる季節の乙女どもよ【8票】

9位 - グランベルム【8票】

9位 - BEASTARS【8票】

9位 - ひとりぼっちの◯◯生活【8票】

9位 - 星合の空【8票】

 

1位が『まちカドまぞく』ですが、2位に『わたてん』が入っており、珍しく萌え4コマ作品が上位に入っています。『けものフレンズ』に次ぐ、たつき監督の作品として注目を集めた『ケムリクサ』ですが、『わたてん』と同順位という結果になりました。

『かぐや様』も『さらざんまい』と同順位で、2位~5位までがわりと接戦です。『さらざんまい』はそのポテンシャルを鑑みると、もう少し票を獲得しても良かったのでは?と思います。『鬼滅の刃』は、2019年の段階ではまだ6位に留まっています。

上記の作品以外にも『彼方のアストラ』『荒ぶる季節の乙女どもよ』『BEASTARS』がありますし、オリジナルアニメがそこまで目立たなかったためか、漫画原作が圧倒的に支持された年ですね。

9位に『星合の空』が入っていますが、2019年の末に放映された最終話がかなり物議を醸したため、後から選んだ場合もっと票数は低かったかもしれません。

 

まとめ

さて、2010年~2019年の年度トップ10が出たため、各年の年間ベストを獲得した作品を並べてみましょう。

10年:四畳半神話大系
11年:魔法少女まどか☆マギカ
12年:ガールズ&パンツァー
13年:ゆゆ式
14年:SHIROBAKO
15年:響け! ユーフォニアム
16年:響け! ユーフォニアム2
17年:宝石の国
18年:宇宙よりも遠い場所
19年:まちカドまぞく

 

こうして見てみると、男性主人公の『四畳半』と、キャラが無生物の『宝石の国』を除くすべての作品が女性主人公であり、メインキャラクターが女性で固められています。『まどか☆マギカ』『ゆゆ式』『まちカドまぞく』など、男性キャラがほとんど背景に退いている作品も目立ちます。

また、女性主人公の作品のうち、業界ものの『SHIROBAKO』以外の7作品は女子高生・女子中学生ものを占めています。

もちろん、この投票はアニメファン全体を対象に実施したのではなく、自分のTwitter上で近い界隈の人が多めだったりと、サンプルに偏りがある可能性は多分にありますが、深夜アニメのコアなファンや、玄人の人はそういうアニメを好みがちなのかもしれません。日本の深夜アニメってやっぱり偏っているのかな…?という感想も抱きました。

 

ですが、例えば京アニ作品は一貫して人気ですが、1位を獲得したのは『ユーフォ』のみですし、アイドルアニメや4コマアニメばかりが1位になるということもなかったので、日本のアニメはなんだかんだバリエーションの豊かさがあるんだなと思いました。

まどか☆マギカ』以外のシャフトアニメは、『3月のライオン』等も含め、ランキングトップ10にかすりもしなかったことは微妙に切なかったです。

 

もっとも、今回の投票は2019年末~2020年初頭に実施したものであり、今投票をしたらまた違った結果になりそうです。例えば2019年の6位の『鬼滅の刃』はもっと高ランクに来るのではないかと思いますし、2017年の『メイドラゴン』や2018年の『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『ウマ娘 プリティーダービー』も前より評価が上がっていそうです。

 

アニメファンの人は、自分にとっての「’10年代のTVアニメ各年ベスト」がどのようなラインナップになるか改めて考えてみると、自分の嗜好の傾向が分かったりして面白いのではないでしょうか。

 

『東映版Keyのキセキ』序文の全文を公開します。

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告知ですが、以前ブログでも触れていた東映版『Kanon』『劇場版 AIR』『劇場版 CLANNAD』の合同評論同人誌を発刊しまして、現在BOOTHにて予約販売中です。
同人誌は完全受注生産で、11月末までの予約受付になっています。興味がある方はお見逃しなく…! という告知です。以下に本誌の序文を掲載させていただきます。

序文

本誌の目的は、いわゆる「東映版Key三部作」の作品群をとりあげ、その魅力や作品の持つ意義について語ることである。「東映版Key三部作」というのは、ゲームブランド・Keyの作品を原作に、東映アニメーションにより制作された以下の三作品を指す。

この企画が持ち上がった直接の契機としては、昨年2019年末に刊行されたKeyの歴史を解説する書籍『Keyの軌跡』(坂上秋成著、星海社新書)において東映アニメーション制作のアニメ版についてほぼ記述が割かれていなかったことがある。Keyのこれまでの総決算として位置付けられるこの書籍において、京都アニメーション版(以下、京アニ版)の『Kanon』『AIR』『CLANNAD』に主に記述が割かれる一方で、東映アニメーション版(以下、東映版)についてほぼ記述がないということには偏りを感じ、何かそれを補完するようなものが出せないか、という着想だ。

また、Keyは20周年の節目を迎えた2019年から2020年にかけて、20周年特設サイトでの総キャラクター人気投票「Key総選挙」や『Key20th MEMORIAL BOOK』の刊行、『神様になった日』の放送に合わせた「麻枝准研究所」の開設など、これまでの総決算としてとれるような企画を打ち出しており、Keyの歴史の中で東映版があぶれてしまっているのだとしたら、これを機にその再評価に繋がるものを打ち出すことは極めて有意義だろうと考えた。

そこで「見過ごされがちな『東映版Key三部作』について今一度振り返って再考すること」を目的に、様々な書き手に寄稿していただく合同評論同人誌の企画が始動した。様々な寄稿者の協力のもとでそれが成就し、形になったのがこの『東映版Keyのキセキ』である。

上記のような経緯はあるものの、強調しておきたいのは、本企画は京都アニメーション版や原作に対するカウンターを意図したものではないということである。東映版を支持するということは必ずしも京アニ版や原作を批判するということにならない。「京アニ版VS東映版」のような対立は、同じタイトルを二社がアニメ化したことによって事後的に作られたイメージでしかなく、そもそも両者は対立した位置づけにあるわけではない。あくまで、両者ともそれぞれに異なる特質を持っており、その中での東映版の価値を評価したいというのが一貫した立場だ。加えて、『Keyの軌跡』やその著者に対して敵対する意識もない。

ただし、東映版を正しく評価する上では、東映版および京アニ版に対して向けられるステレオタイプな見方に対し反発するということは必要になる。一つには「東映版は原作とは違うオリジナル、京アニ版は原作に忠実」といったものだ。
例えば、先ごろ刊行された『Key20th MEMORIAL BOOK』(KADOKAWA、2020年)の『Kanon』のページにはこう記載がある。

東映アニメーションが2002年に、京都アニメーションが2006年に2度アニメ化。オリジナル展開の前者、原作を尊重の後者と魅力が異なる」

これは概ね我々の理解に近いまとめであり、限られた字数で両者の特性を伝えたい場合は確かにこのような言い方になるだろう。そのため、書き手に非があるわけではない。

しかし、正確を期すならばこれは必ずしもそうとは言えない。例えば東映版『Kanon』の舞ルートでは、生徒会編として久瀬との確執を数話かけて原作に沿った形で描いたが、京アニ版は大胆にカットしており、更に舞ルートのクライマックスの展開も原作よりかなり整理されオリジナルな描写になっている。これは原作のシナリオライターである麻枝准の監修によるものだが、いずれにせよ京アニ版の『Kanon』では舞と真琴を中心にオリジナルの描写がかなり入ることになったのは事実だ。また、そもそも、複数ルートが並列しているゲームを1本のストーリーにするにあたっては必然的に大きな改変を行わねばならず、そのなかで犠牲になったものが存在するのは京アニ版も東映版も共通している。

以上のように、必ずしも「東映版は原作とは違う、京アニ版は原作に忠実」とは言い切れないような細部は確かに存在している。そういった部分を明らかにすることも本企画の狙いの一つである。

本誌にはアニメファン、Keyファン、出﨑統ファンなど様々な立場の書き手15名に寄稿していただき、様々な観点から東映版Key作品の固有の魅力に迫ることができた。
当初は思い付きから始まった企画だが、東映版『Kanon』への熱いファン語りや、劇場版『AIR』『CLANNAD』への緻密な分析が集まったことで、本に魂がこもったものになった。

読者にむけて、作品に対する新たな見方を提供できるという意味では、先行する書籍や同人誌には決して負けていない。
また、イラストでも作品の魅力を表現するため、総勢14名の素晴らしい描き手に、作品にまつわるトリビュートイラスト・漫画を寄稿いただくことができた。ファンアートだけでも見応えのある本になっている。

本誌は東映版のいずれかの作品が好きな人だけでなく、京アニ版や原作のファンにも楽しんでもらえる内容を目指した。作品のファンはもちろん、これから作品を触れることを考えている人にも楽しんでもらいたい。

最後に、サークル名の「Little fragments」は『Kanon』のBGMのタイトルになぞらえて命名させていただいた。「Little fragments」は『Kanon』の主題歌「Last regrets」(麻枝准が作曲)のフレーズを用い折戸伸治が作曲したBGMだ。その「小さなかけら」の意味もあいまって、マイナーな位置づけながらも確かにKeyのゲームから派生して世に出た東映版Key三部作を形容するに相応しい言葉と思い、使わせていただいた。

ぜひ本書を楽しんでいただき、作品について興味や関心を持っていただければ幸いである。

「東映版Key三部作」の語られなさについてのコメント

私事ですが、現在いわゆる「東映版Key三部作*1」についての同人誌を制作しています。

現状語られないままになっているこれらの作品について語る場を作ろうという企画なのですが、この企画について、鍵ファンでリトバスファンの人から「アニメ版『リトルバスターズ!』の方が語られていない」とコメントがあったというのを聞きました。

確かに、『Keyの軌跡』(坂上秋成、2019年、星海社新書)においてもアニメ版『リトルバスターズ!』は(「東映版Key三部作」と同様に)存在が触れられているのみで内容については言及がなかったですし、まとまった形での考察記事を見た記憶はありません。

しかし、「東映版Key三部作」と比べるとアニメ版『リトルバスターズ!』の方が量的にも質的にも語られていると感じますし、また、両者を単純に比較することはフェアではないと考えます。

もちろん、その方のことなので、何がしかの考えをもとに発した意見には違いありません。また、直接聞いたわけではないので実際はどのような文脈での発言だったのかまでは分かりません。そのため、単純にその方の発言を批判するわけではないです。

ただ、「アニメ版『リトルバスターズ!』の語られなさ」を比較対象にして、そこからの違いとして、「東映版Key三部作の語られなさ」について考えることには意義があるかもしれないと思いました。

そこで、「アニメ版『リトルバスターズ!』の語られなさ」が「東映版Key三部作の語られなさ」とどのように異なるのかということについて、以下では考えてみることにします。

 

1.作品単位でバッシングされていない

まず、アニメ版『リトルバスターズ!』については批評的な言及は少ないかもしれませんが、作品に対しての表立ったバッシングはあまり見たことがありません。

それまで『AIR』『Kanon』『CLANNAD』のアニメが京都アニメーションの手により制作されていたため、『リトルバスターズ!』の制作担当がJ.C STAFFであることで多少物議を醸していた記憶がありますし、消極的な意味ではあったかもしれませんが、作品が放映されている最中にネットで炎上したりといったことはなかったのではないでしょうか。

一方で、東映版『Kanon』『劇場版 AIR』『劇場版 CLANNAD』について、日本語圏のSNSや映画感想サイトで検索をかけると否定的な意見も強いです(これについては様々な要因があるかと思いますが、ここではそれについて詳しく検討はしません)。

アニメ版『リトルバスターズ!』については、一般には「J.C STAFF制作で、原作を尊重し職人的に作られたアニメ」というイメージが強いかと思います。そのため、原作ゲームのファンやアニメファンの目も冷たくないですが、一方で、批評的な言及がなされることも少ないのは確かです。

一般的に、批評家筋の人は大体いつも京アニやシャフト、元ガイナックス組の作品については語りたがるのですが、マスに対して同じくらい大きな影響力を持っているJ.C.STAFFA-1 pictures/CloverWorksについて批評的に語ることは少ないです。

もちろん、これらのスタジオの作品が語られ得ないのはそれ相応の要因や事情があるのですが、それは少なからず、「職人的に作られている」という見方も大きく左右しているのだと思います。
京アニの作品も「徹底的に原作に忠実」と言われていますが、京アニの作品が注目を集めたのは、単に「原作に忠実」であるというのを超えて、原作のデザインや演出を鮮烈な形でアップデートして提示していたからだと思います(そういった意味で、京都アニメーションの作品を「原作に忠実」という形で言い慣わしていたのでは、取りこぼされてしまうものは大きいと思います)。

そのため、もちろんJ.C.STAFF版もきちんとした形で語られるべきだと思いますが、京アニ版を語るのと同じような形で語ることはできず、それ相応のやり方を見付けなくてはならないでしょう。

アニメ版『リトルバスターズ!』がどのように原作のシナリオをまとめているかについてここでは触れませんが、「東映版Key三部作」で脚本を務めた中村誠さんと多数の作品を共同で手がけた島田満さんがシリーズ構成を務めており、その点一つとっても語りがいのある作品かと思います*2

 

2.確実な地位を得ている

上で述べた観点とも重なりますが、アニメ版『リトルバスターズ!』は「東映版Key三部作」と比べて確実な地位を得ていると思います。「確実な地位を得ている」というのは、「言説に対し抑圧的な力がない」ということでもあります。

まず、『Keyの軌跡』にアニメ版『リトルバスターズ!』の内容紹介がないことについては、個人的には「紙幅の都合」という理由で、十分に了解することができます。

というのも、仮にもう数節分のページが「Keyとアニメーション」の章に割かれていたとすれば、アニメ版の『リトルバスターズ!』『Rewrite』『planetarian』についても簡単に紹介文が載っていたかもしれないと考えられるからです。しかし「東映版Key三部作」についても同じことが言えるかというと、少し懐疑的になってしまいます。「東映版Key三部作」が得ている地位は、ごく不確実なものであるためです。

例えば、雑誌「コンプエース」の2011年7月の増刊号として『Keyステーション』(一冊全体がKeyについての特集号)というムックがあり、こちらの巻頭に掲載されている公式の年表には『Kanon東映アニメーション版)』『劇場アニメ AIR』『劇場アニメ CLANNAD』がばっちり記載されています。即ち、作品の存在についてまでは否定していません。

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しかし、各作品についての特集ページを見るとこれが怪しくなります。

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こちらのムックには過去作として『Kanon』『AIR』『CLANNAD』についても特集ページがあり、それぞれの作品のゲーム版及びアニメ版についてページが割かれているのですが、載っているのは京都アニメーション版の『Kanon』『AIR』『CLANNAD』のみです。東映版についてのページはありません。

また、『Kanon』アニメ版についてのページ(画像右)には「原作発売から7年の時を経て、京都アニメーションが制作したアニメ版『Kanon』」という記載があったりするのですが、『Kanon』のアニメ化は2002年に制作された東映版『Kanon』が最初です。つまり、嘘の記載をしているわけではないのですが、Key作品の最初のアニメ化が東映版『Kanon』であったという事実を覆い隠すような記述がされています。

そしてこの「存在については触れるけど、内容については触れない」という構造はそっくり『Keyの軌跡』にも引き継がれています。こういった扱いについて「紙幅の都合」と割り切ってしまっていいのでしょうか。

客観的なスタンスから作品を見ている批評者であれば、『Kanon』『AIR』『CLANNAD』が京都アニメーションによってだけではなく東映アニメーションによってもアニメ化されているという事実は興味深いと感じるはずなのですが、それが記述に反映されなかったのは残念であるなと思います*3

『Keyの軌跡』について、私がとりわけ困惑させられるのは『Kanon』のアニメについての記述であり、京アニ版『Kanon』の構成を称賛する記述をしていながら、同じ問題に取り組んで一定の成功を収めた東映版『Kanon』のシリーズ構成については一切記述がないことです。著者はただ、それらの記述について「東映版『Kanon』の場合はこうしていたが、京アニ版は~」とただ一言ずつ加えるだけで良かったのですから。

また、上記の事柄以外にも、「Key作品のアニメ一挙放送」のような企画でも東映版『Kanon』『劇場版 AIR』『劇場版 CLANNAD』についてはラインナップにないことがほとんどですし、Key20周年特設サイトの関係者コメント欄に東映版の関係者が不在であったりするのを見ると、やはり地位の不確実性を感じざるを得ないところがあります*4

ただ、これについては、Keyファン層や原作ファン層からの外圧というのもあるでしょうし、おそらく権利的な要因もあるのかなと思っています。

 

 3.比較対象の不在

これについては非常にシンプルです。

Kanon』『AIR』『CLANNAD』のアニメは東映アニメーションだけでなく京都アニメーションによっても制作されるという極めてイレギュラーな事態が発生し、両者は必然的に比べられることになりました。

そのため、東映版『Kanon』『劇場版 AIR』『劇場版 CLANNAD』について、褒めるにしても貶すにしてもそれは「京アニ版との比較」によって語ることになってしまい、必然的に「アダプテーションのあり方」に関する議論にならざるを得ない状況にあります。

そしてその点で、諸々の要因によって「東映版Key三部作」は「京アニ版Key三部作」について分が悪く、それが現在に至るまでの地位に繋がっているということです。

当然ながらアニメ版『リトルバスターズ!』については一作しか作られていないため、ずっと素直な形で評価を行うことができます。

J.C.STAFF版『リトルバスターズ!』の後に京アニ版『リトルバスターズ!』 が作られたり、J.C.STAFF版の『リトルバスターズ!』が『劇場版 リトルバスターズ!』として公開され、それと並行して3クール分のアニメがTVシリーズとして放映されることはありませんでした(「東映版Key三部作」に対して起こったのはまさにそういうことなのですが)。

 

また、以上に述べた三点の理由以外にも、単純に、言説の量的な意味でもアニメ版『リトルバスターズ!』は「東映版Key三部作」よりも語られていると思います。

例えばアニメ版『リトルバスターズ!』の感想をネットで検索すると、まとまった形のブログ記事に多数辿り着けますが、『劇場版 CLANNAD』について検索すると辿り着ける記事の多くは公開当時に書かれたもので、それ以降はほとんど(まとまった形での)記事が書かれていないことが分かります。

結論としては、現状アニメ版『リトルバスターズ!』についてもあまり語られていないかもしれませんが、「東映版Key三部作」を取り巻く状況と比べると見通しは明るいのではないでしょうか。アニメ版『リトルバスターズ!』についての論が書かれることを期待したいところです*5

 

*1:東映版『Kanon』『劇場版 AIR』『劇場版 CLANNAD』をまとめての呼称ですが、「東映版Key三部作」という呼称は公式なものではなく、あくまで便宜上の言い回しです。

*2:個人的には、樋上いたる先生とNa-Ga先生のキャラクター原案をアニメーションにするにあたってそれらを上手く折衷できる絵柄の飯塚晴子さんをキャラクターデザインに抜擢したのは慧眼であったと思っています。

*3:『Keyの軌跡』についてはKeyの公式が監修しており、多かれ少なかれKeyやVisualArt'sのスタンスが反映されていると思うため、単純に著者の坂上氏を批判するわけではありません。坂上氏の現在の立場も、完全に独立した批評者というよりは、どちらかというとKeyの広報に寄ったものであると認識しています(これについても単純に良い悪いというわけではありません)。

*4:他方で、「東映版Key三部作」は海外サイトでも配信がされたほか、国内においても、Netflixで『劇場 CLANNAD』がBD画質で配信されたりしています(2020年5月24日現在)。また、『オールアバウト ビジュアルアーツ~VA20年のキセキ~』(2013年、ホビージャパン)でも東映版『Kanon』『劇場版 AIR』『劇場版 CLANNAD』はサムネイル付きで短い紹介文が載っています。加えて、Keyの公式サイトの年表でもこれら三作品は記載されており、「存在を認められている」ことは確かで、「なかったこと」にはされていません。

一部の「東映版Key三部作」のファンの中には、自分たちの好きな作品のことを「黒歴史」と称する人もいますが、本当に「黒歴史」のように扱われているのであれば、こういったこともされていないはずです。必要以上に自虐的になる必要はありません。

*5:個人的には、「東映版Key三部作」についての論をより希求していますが。

アニメOPに見る画面の立体感とテロップの表現

今回は純粋に視覚的な事柄について書きます。季節外れな話題になってしまいますが、ご容赦ください。

最近アニメのOPテロップについて色々と調べているのですが、その中で思い当たったのが『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(2013)のOP。古いとかは言わないでください。

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一応OP映像について紹介すると、疾走感あるメタルなアレンジのオープニング曲に合わせ、もこっちこと黒木智子の殺伐とした心象風景を描いたクールなOPで、国内外で多くの反響を呼びました。TVアニメのOPなのに主人公一人しか画面に登場しないのもストイックです。

本記事で取り上げたいのは、このOPのうち上に掲載した2カットで、もこっちの歩き姿をそれぞれ前と後ろから捉えたものになっています(2カット目は上下反転)。

このOPの絵コンテ・演出を手掛けたのは監督でもある大沼心さんで、キャラクターの歩き姿を望遠で捉え、コントラストの利いた絵で横に伸びる影を映すといった表現はかつて大沼さんの師匠筋であった新房昭之さんも自身の監督作でよく使っていた手法ですが、f:id:ephemeral-spring:20191215231038p:plain

左から『The Soul Taker ~魂狩~』OP、『銀河お嬢様伝説ユナ〜深闇のフェアリィ〜』OP

その望遠の絵に鎖を大胆に絡ませて、視野の間近まで鎖を伸ばすことで、手前は広角で画面奥側は望遠の絵になり、誇張されて歪んだパース感覚により幻惑的な効果を生じさせています。

それにしても、これ凄まじい立体感ですよね。

この立体感(画面から飛び出してくる感じ)を生んでいるのは画面上下の黒い帯と、色付きの影の線だと思います。黒い帯が映像のフレームを狭める枠のように見えていて、それを乗り越えて上下左右に鎖が伸びていることで、フレームをまたいで飛び出してくるように見えています。

また、色付きの影が付いていることで画面内でキャラクターがどれだけ遠くにいるかが分かり、画面手前と奥側とで異なるレイヤーになっていることが直感的に分かるようになっています。

立体感を醸し出しているもう一つのポイントは、画面内でのテロップの位置です。このテロップはあたかも画面内の物理的空間において浮かんでいるような見え方をしています。

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それぞれのカットについて、テロップが存在するように見える位置を赤と黄の丸で示してみました。同じ色の矢印で、鎖の伸びている方向も示しています。

上の方のカットでは鎖がテロップの位置の上側、下側、奥側に伸びていることで、鎖が作る三角形の中にテロップが綺麗に収まって見えます。

下の方のカットはそれより複雑ですが、もこっちの足元(画面上側)から伸びる鎖は下側へ、もこっちの上半身(画面中央)から伸びる鎖は水平に近い角度で画面のこちら側に伸びていることで、その中間のスペースにテロップが漂っているように見えます。

どちらのカットにおいても、鎖が伸びる位置と方向によって「高低差」と「奥行き」のあるスペースができており、そこにテロップを当てはめることで、文字があたかもその物理的空間において浮かんでいるような見え方をしています。

もちろん、鎖の揺れる動きや振れ幅と、テロップのモーションが完全に連動していることも、テロップが物理的に存在しているような印象を作り出しています。

この「テロップの文字があたかも画面内の物理的空間において存在しているような見え方」のことを、以下では「テロップの物理的実在性」と表すことにしましょう。

『わたモテ』OPの当該2カットは「鎖と枠線による立体感の表現」に「テロップの物理的実在性」を絡めることで、立体感の効果を底上げしていると考えられそうです。

  

 ***

さて、大沼心さんは他にも、これと同じように創意工夫を凝らした立体感の表現をやっていて、『六畳間の侵略者!?』(2014)のOPがそれに当たります。古いとかは言わないでください。

このOPについては放映当時、当ブログで記事にしていました。

highland.hatenablog.com

そしてこちらは上掲の『六畳間』の記事でも引用した立体感のテクニックについての記事です。

takao.asaya.ma

当該記事で添付されているgif画像の内一つだけ引用すると、

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犬が画面のこちら側にZ軸方向で迫って来るのに合わせて、犬があたかもその線をまたいでいるかに見えるように左右に白線を入れることで、3Dっぽい立体感が生み出されています。

もしこれを大きめのスクリーンでご覧になっていたら、片目をつぶってもらって、人差し指を二本前に出して白線を覆ってこのgifを見てみると、この錯覚は生じなくなっているのが分かるかと思います。

このような錯覚が生じるのは、恐らく白い線が物理的な何かのように見えるのもありますが、「白い線があるレイヤー」イコール「画面の枠」のように認識するからでしょう。

つまり、白線をまたぐ運動が入ることで、「画面の枠」となっているレイヤーを飛び越えて画面から飛び出してくるような感覚を生んでいるのではないでしょうか。

(このブログの背景が今は白一色に設定されているため、画面内の白線とブログページの背景とが連続したものに見えることで、立体感がより増して感じられるようになっています。) 

この内容を踏まえて『六畳間』OPを見てみて下さい。以下が当該シーンのgif画像になっています。

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(最初と最後が繋がって見えるため無限に回り続けているgifになりました。)

主人公からのPOVでカードゲームをしているという趣向で、オープニングではこの調子でカットを割らずに3周もカメラが回るのですが、このgifは1周目の部分です。上記事で紹介されている表現が見事に活用されているのが分かります。

記事内容と直接は関係ないですが、ヒロイン4人の名前を紹介すると早苗→ティア→キリハ→ゆりか、の順番に回っていきます(最初の紫髪のキャラが早苗です)。

ここでは立体感の表現について詳しく見たいので、まずキャラクターと白線、テロップのレイヤー関係を確認しておきましょう。

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キリハの場合、後ろに一対の埴輪がいるので分かりやすいかと思います。

後ろから埴輪→キリハの上半身→白線→キリハの腕→テロップの順にレイヤーが重なっているのが確認できます(主人公の持つカードも手前に見えますが、これとテロップとが同じレイヤーかどうかは少し曖昧です)。

注目すべきポイントとしては、ここでキャラクターの動きは白線をまたいで越えてくることはあっても、テロップより前にキャラクターの身体が出てくることはありません。従って、ここでのテロップは常に画面の一番上のレイヤーに位置していると言えます。 

ここで、先ほどの1周目のgif画像を、テロップと白線だけに注目して見てみてください。カメラが回転するときに、テロップが白線に貼り付いて動いているように見えるかと思います。

しかし実際には、この二本の白線とテロップは、カメラの回転に合わせて動いたりはせずその位置はあくまで画面内に固定されています。

なので、カメラが回転するのに合わせてこの二つは一緒に動いているように見えるのですが、それは錯覚で、実際にはこの二つは定位置にあって、あくまで背景が動いているからそう見えているだけという訳です。

ここでのテロップは白線に貼り付いて動いているように見えますが、このことが更に面白い効果を生んでいます。先ほども述べた通り、キャラクターが白線をまたいでこちらに手を伸ばしてきたときに、その身体の一部がテロップを越えてくることはないため、実際には、テロップと白線との間には(画面内の物理的空間において)かなりの距離があるということが分かるのではないでしょうか。

つまり、このカットにおけるテロップと白線とは「貼り付いて同じレイヤーにあるように見える」と同時に「実際には大きく離れているように見える」という奇妙な関係になっています。見れば見るほど不思議な感覚になってくるカットです。

 

これまでは当該カットの1周目の回転について見てきましたが、2周目になるとテロップと白線との関係は更に面白いことになっています。 

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こちらが2周目の回転のgif画像になっているのですが、後半の二人(キリハとゆりか)のパートで、テロップの置かれている位置が1周目のときと少し違っていることが分かるでしょうか。

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静止画で見るとこのような感じになっています。キャラクター、白線、テロップのレイヤー関係は1周目のときと同一ですが、今回は「左側にあるテロップは白線の前」で「右側にあるテロップは白線の後ろ」にあるように見えてこないでしょうか?

これはちょっと不思議な現象が起きています。

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先程の1周目の絵でのテロップの位置を確認すると、上画像でいうテロップ1もテロップ2も、その文字が白線に重なるように置かれていることが分かります。

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2周目の絵でも、テロップの位置は二つとも同じですが、こちらはテロップ1での「美術監督」と「森尾麻紀」との間にある「 」のスペースに白線が通るようにしており、それによって、上画像のようにテロップ1だけが後ろに入り込んでいるように見えてきます。

これは恐らく、テロップの文字はワード2つが離れていても1セットとして認識されるために、塊になって後ろに入り込んで見えるのだと思います。「テロップの物理的実在性」がここにおいても生じていることが分かります。

興味深いのは、このカットでは別にテロップを後ろの方のレイヤーに組み込むようなややこしい処理は全くしていないということです。テロップはあくまで映像の上からそのまま付けられていて、しかも画面内の定位置にあり動きません。

にもかかわらず、テロップの位置を操作するだけで後ろ側のレイヤーに入りんでいるように見えて、しかも白線とテロップとがその位置関係を保ったまま動いている……という錯覚が生じています。こういったシンプルな工夫によって立体感が醸成されているのが面白いです。

ちなみに、このテロップ1と2の位置を変えると下の早苗の絵のようになります(こちらは3周目の回転に出て来る絵です)。

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主人公が伸ばしている手がないために、2周目の絵より白線とテロップの関係が分かりやすいかと思います。こちらでも左上のテロップが白線の手前で、右下のテロップが白線の奥側にあるように見えています。

更に言えば、この回転のカットは全体を通して、キャラクターの背景にある部屋がアオリのアングルで捉えた絵になっているために、カメラが斜め下側から↗方向を向いて撮っているように見えます。

そのため、二本の白線はデフォルトで斜め上に向けてかかっている(画面の手前側に傾斜している)ように見えるのですが、上画像のような絵だと、テロップの置かれている位置に合わせて白線の伸びる方向が変わっているように見えます。

左側の白線は画面奥側」に傾いて伸びていて「右側の白線は画面手前側」に傾いて伸びているように見えてこないでしょうか?

こういう風に検討していくと、色々な見え方をする画面になっていることが分かり興味が尽きません。

まとめると、『六畳間』のOPは錯覚を活用することでテロップや白線、キャラクターの身体といったレイヤー間の関係を攪乱し、立体感/奥行きを生じさせることに成功していると言えるでしょう。そして「テロップの物理的実在性」もそうした効果を出すのに一役買っていることになります。

 

***

ここで、ともに大沼さんの手掛けた『わたモテ』と『六畳間』OPの共通点を、「テロップの物理的実在性」の観点から考えてみたい。

今でこそ「テロップ一体型」スタイルのOP(e.g.石浜真史)は多くなっていますが、一般的に、OPやEDでのテロップは通例としてビデオ編集(V編)時に完成映像の上から付けられるので、そもそも「キャラクターのいるレイヤーの上側(画面手前側)にある」というのが標準の仕様です。概ね視聴者の人もそういう感覚で見ていて、通常、映像それ自体とテロップとは分けて捉えているでしょう。

なので、普通、テロップを用いて立体感を出したいならば多くの場合はテロップのあるレイヤーをキャラクターのいるレイヤーと重ねたり、テロップをキャラクターの手前ではなく奥側に配置したりといったことがなされていると思います。
例えば、こうした手法で卓越したテクニックを見せている演出家には大畑清隆さんがいます。彼が手掛けた『WORKING!!』シリーズのOPではテロップの描かれたボードがキャラクターと同じ物理空間に存在し、テロップとキャラクターとの絡みがあるし、また、テロップがキャラクターの奥側にあることも多く重層的な表現になっています。

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上2つがが1期OP、下2つが2期OPのものです。

 

また、この立体感はレイヤーの位置変更だけでなく影付けによって生み出されている面も大きいです。キャラクターや物体の影がシルエットの形になっていて、しかも実像とは大きくズレた位置にあるため背景から浮き上がって見えます。また、影の幅の大きさがオブジェクトの種類によって異なるため、例えば左上のカットでは「『WORKING』と書かれたテープ」「テロップのボード」「キャラクター」とが別のレイヤーにある(背景からの距離が異なる)ことが一目で分かるようになっています。

WORKING!!』シリーズを始め大畑さんの手掛けたOPは他にも面白い表現が目白押しですが、本筋から外れるのでここでは大沼さんのOPに話を戻します。

これまで見たように『わたモテ』『六畳間』OPは、どちらもテロップが画面内のオブジェクトと同じレイヤーにあったり、奥側に入り込んでいたりする「ように見える」ことが、画面の立体感を出すことに繋がっていました。

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しかし実際にはそのどちらにおいても、大畑さんがやっていたような「テロップのレイヤーをキャラクターの後ろ側に入れる」といった処理はやっていません。

見てみると分かるようにこれらOPにおいて「画面内にある他のオブジェクトがテロップの文字より上に来る」「他の絵がテロップに被さる」という絵は1フレームも入っていません。なのでテロップはあくまで「完成映像の上から付けられた」ようなスタイルを取っているのですが、にも関わらず、錯覚を活用することで「テロップの物理的実在性」が醸し出されており、それが立体感にも繋がっています。

大畑さんのような「テロップ一体型」スタイルではないのに、『わたモテ』『六畳間』OPは「テロップ一体型」と同じような効果を生んでいて、それが非常に面白いなと思ったので、今回記事を書かせていただきました。

 

***

また、アニメのオープニングという枠から外れますが、これまでの例において取り上げたようなテロップや枠線の使い方について、最近自分が見つけた類例としては茜新社刊の成年向け漫画雑誌「COMIC アオハ」(2019年に創刊)の表紙があります。

はてなでは成年向けコンテンツへの扇情的な言及はNGであり、ここでは表紙デザインの話だけをすることを最初に述べさせていただきます。)

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こちらが季刊誌の春号と夏号の表紙になっています。イラストレーション担当は加茂さんという方。

下の方に、それぞれピンクと水色の帯のようなものがあって、これが不思議な効果を生んでいますね。
一般的にこうした帯というのは紙書籍のカバーの上から被せられるという前提知識があるわけですが、この帯は表紙のデザインにあらかじめ組み込まれています(実際この雑誌の紙書籍版でもそうなっています)。

そして、通常であれば帯がキャラクターと被さる部分で色も重なるはずですが、この表紙では帯下の部分のうちキャラクターの身体だけがそのままの状態で露出しており、帯の上側(手前側)にキャラクターがいるように見えています。

そして帯の上側にキャラクターがいるために、単に立体感が出ているというのに留まらず、キャラクターが表紙から浮き出ているように見えることで「実在感」をも強烈に感じさせるデザインになっています。
また、帯より上のレイヤーにあるのは女の子のキャラクターだけではありません。春号の表紙ではキャラクターの更に手前に桜の花びらが舞っており(この花びらの大きさと位置とボケ具合が絶妙であることに注目して欲しいです)、花びらがキャラクターのかなり手前に見えることから、表紙にあたかも3Dのような立体感が付与されています。

そしてここにおいても、帯に付けられたキャプション(宣伝コピーやレーティング、価格等のマーク)の文字が、アニメOPでのテロップと同様に効果的なデザイン要素となっています。

春号と夏号の表紙ともに、キャラクターの身体を隔てて左側と右側にキャプションが付いていますが、上の画像を見ていただくと「左側のキャプションはキャラクターの手前」にあって「右側のキャプションはキャラクターの奥」にあるように見えてこないでしょうか?

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春号・夏号それぞれについて、キャプションはあくまで表紙の上に置かれており、一番上のレイヤーにあります。にもかかわらず、キャプションの1と2とでは互いに離れたレイヤーにあるように見えて来てきます。
考えられる理由としては、

  1. キャプション2は平面的で輪郭線がない文字であるため帯に貼り付いて見える(従ってキャラクターより奥側にあるように見える)。
  2. キャプション1の背景は空間が詰まっておりキャプション2の背景では空間が開けている。春号では「キャラクターのお尻」と「奥行きのある道」とで差異があり、夏号では「階段の上の段」と「下の段」とで傾斜がある。

の二つでしょうか。

特に夏号の方は、春号と違ってキャラクターに被さっている文字が何もないのにレイヤーが違って見えているのがとても不思議です。これは恐らくキャプション1のある部分が影になっており暗く、キャプション2の部分が明るくなっているために違いが強調されているのもあると思います。

そしてこれは、「キャプションはあくまで表紙の上に置かれている」にもかかわらず「左右のキャプションでレイヤーが手前と奥側の異なるレイヤーにあるように見える」という点が、先ほどの『六畳間』OPにおけるテロップの技法と共通しているのが分かるかと思います。

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「COMICアオハ」の表紙は帯を、『六畳間』OPは白線を文字と絡めて利用しており、両者は図らずも似通ったものになっていますね。

異なるアイディアからアプローチをかけたであろう両者のデザインが、立体感を表現するために同じような方法を取っていることの興味深さを感じていただければと思います。

画像はここでは貼らないですが、「COMICアオハ」はその後秋号と冬号が出ていて、それぞれで新しいデザインの表紙になっています。個人的な意見としては、秋号は正直ちょっと攻め過ぎなレベルの前衛性になっていて、逆に冬号は大人しいデザインになっているという印象なのですが、どうでしょうか。気になる人は調べてみてください。

 

まとめ

結論といったほどのものは特にないですが、画面の立体感を出すための技法には様々なものがあり、ときにテロップの表現を絡めることでその立体感を底上げできるということを示せたと思います。

人間の錯覚を利用した表現って面白い……!と感じていただければ幸いです。

アニメOPと画面の立体感ということについては、松根マサトさんを始めとするOPディレクターによるモーショングラフィックスを活用した表現についても触れたい所ですが、それについてはまた別の機会にしようと思います。


おまけ

ちなみに、『WORKING!!!』3期のDVD・BDパッケージソフトのカバー(足立慎吾さんによる版権イラスト)でも「WORKING」テープを活用した立体表現が見られます。

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このテープはもともと原作漫画の表紙にあったデザインで、それを基にしてアニメ版のOPも作られているのですが、このパッケージイラストは大畑さんのOP演出のスタイルを取り込むことで、立体感を更にグレードアップさせています。原作漫画のスタイルをもとに表現を発展させていった好例だと言えるでしょう。

 

 

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