『思い出のマーニー』 雑感
この映画のハイライトとしては、やはりトレーラーでも目立って使われてますが、マーニーと杏奈のお別れシーンでしょう。ここでのセリフは、
「マーニー!どうして私を置いていってしまったの?どうして私を裏切ったの!?」
「ああ…杏奈...あたし…あなたにさよならしなければならないの。だからねえ杏奈、お願い 許してくれるって言って……!」
この部分の台詞は原作以上に祖母(マーニー)から孫娘(杏奈)へのそれが重ね合わされている、その裏の意味が明らかに意識されています(原作では、もっと台詞の抽象度が低いので祖母から孫娘のそれのようには聞こえない)
この部分、その裏にある意味付けと、嵐になり押し寄せる波、そして許しを貰った後の後光をバックに微笑むマーニー、と、かなりドラマチックな見せ方も相まってぐっと来る所ではあるのですが、それも2回目ならともかく1回目初めて見る人にとってはこれがハイライトでは普通に戸惑うんじゃないかな、とは思います。この別れのシーンはそれまでの流れからしても唐突に訪れるシーンであり、裏の意味についても、折角の良い要素であるのですが、2回目以降の鑑賞で初めて味わえるようなものでもあるので。その意味でも、この映画がその面白さの多くを原作小説に面白さに負っている部分がある、という批判もむべなるかなと思えてしまうところがあります。
パンフにもありましたが、「今まで会ったどの女の子よりもあなたが好き」というマーニーに対して杏奈が「今まで会った誰よりも好き」と答えるという構図は、まあ「今まで会ったどの女の子よりも好き」とアンナもマーニーも互いに言い合っていた原作からの微妙な匙加減での改変であり、和彦と結ばれてしまうのでマーニーと結ばれることのない杏奈、という結末の予兆ともなっており、かつ、杏奈の、マーニーへの許しをより際立たせるものともなっており脚本の妙だな、と思います。
あまりまとまってないですが今回の感想はこの辺で。
『マーニー』映画は(舞台設定上では大幅に改変してはいますが)筋やセリフは結構忠実に原作に添って作っているのですが、あくまで個人的な反省点として、先に原作を読んで見に行ったのは良くなかったかもしれません、原作と比べて粗ばかり目に付いたり、イメージに振り回されたりしたので。でも見所のある映画ではあったので、また劇場で見に行きます。
ちなみに映画『マーニー』については『虹色ほたる』『マイマイ新子』が類似作として挙げられているようです。僕も『マーニー』見た後に両方見返したりしたのですが、それほど類似は感じませんでした。ちなみにどちらも傑作だと思うので、マーニーとの類似点が指摘されているならこれを機により広く見られて欲しいな、とは思ったり。
追記.(2014/8/01)
しかもあの回想シーンに関しては、久子に全てを語らせるような構成になった点も良くない印象でした。いきなり久子一人が全貌を知っているような調子で種明かしをするから唐突にも感じが否めない。しかもその内容からマーニーと杏奈の関係はそこで大体察せられるのに(察しの良い人は杏奈の青い目の時点で気付くでしょうが)、その後でまたダメ押しのようにその事実を補強する説明が入るのでかったるく感じられる(しかもそのシーンがその前の回想ともシームレスにつながる構成になっている訳ではない)。『思い出のマーニー ビジュアルガイド』では以下のような顛末が語られているようですが、ミステリ的要素との噛み合わせは上手く行っていなかったのですね。
『思い出のマーニー』の脚本は、米林宏昌監督と丹羽圭子氏による、杏奈とマーニーの交流を描いた前半を重視した第一稿に、マーニーの正体にまつわるミステリー要素を描いた後半を重視した安藤雅司氏の手が加えられた構成なので、空気がガラッと変わる。違和感や蛇足に感じる人がいるのもわかるな。
— バーバー (@baba_1988_2) July 27, 2014
舞台を日本に変えたのも、日本人にとってはその方がアクチュアリティが伴いますが、そのために帳尻合わせの変更を加えたりした部分や失われてしまった要素も大きいと考えます。
『たまこラブストーリー』雑感
『たまこラブストーリー』 「もち蔵」という名前の意味と、山田監督が言う「映画」と、あんこちゃんがやたらエロいのは恋愛年齢が高いから - 感想考察批評日常 http://htn.to/CVpfCw
前島賢『セカイ系とは何か』文庫版の加筆について
2010年に刊行された新書版『セカイ系とは何か(ポスト・エヴァのオタク史)』の増補版が、2014年4月11日に刊行された。
どっちかというと副題の方がメインで、セカイ系の議論を通じてオタク史の流れを解説する内容だったわけですが、その文庫版では追加でこの2010年~2014年に起こった流れについても追加記述があって、ここ4,5年の流れの総括として良いかもしれないと思いその部分をメモ代わりも兼ねて自分なりにまとめてみました。
あくまで備忘録であって、建設的な議論を立てるためのものではないです。
- ヱヴァQ が旧版に路線回帰したような内容で若干の不安
- 旧版では、ラノベが自己言及性を持つ作品(『俺妹』や『生徒会』)と現代学園異能(『シャナ』や『禁書』)に分化していると書いたが→その後、両者を併せ持つ作品(『異能バトルは日常系のなかで』)の出現
- TV版まどマギ→ループ、世界改変、戦闘美少女など、ゼロ年代のセカイ系/美少女ゲーム的想像力の集大成
- 艦これヒットの一因は、キャラクター商品として見たとき極めて高効率であることか。キャラクターの全貌を把握するのに要するプレイ時間が短くて済む。また、史実という原作があるので最小限のキャラクター造形を呈示しさえすれば史実という原作を参照してもらえ、手の込んだ設定を用意する手間分を省力化できる。加えて、作り手側の知識/こだわりにより目の肥えたファンを満足させることに成功した。ミリタリ知識はストパンやガルパンなどにも応用が利く、など挙げられる。
- (「セカイ系はシリーズ展開やメディアミックスが困難」という本書のトピックと関連付けて)『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』
はそのことに自覚的であり、つまり、作品と市場のジレンマとして、ファンが作品を愛することでコンテンツは存続を余儀なくされ、大団円であった物語に新たな困難を呼び込んでしまう、という愛の逆説がテーマなのではないか(これについては、やや深読みが過ぎるかもしれないがという譲歩付きで)
- (ヤマトやガンダムの頃からして)オタク文化全体を通じて物語が作品の本質として捉えられてきたが、作品を<キャラクター商品>として整理すべき時期ではないか、という提言
- 近年の、 ラノベと一般文芸の中間小説とみなせるメディアワークス文庫や
- その上で、SF、ミステリ、ラブコメなどジャンル小説の中で自意識の問題を描いてしまうようなジャンル境界上の作品は(ライトノベルから)もう現れにくいのでは?とやや悲観的
- ボカロ小説という新機軸の出現
とりわけメディアミックス展開の顕著なカゲプロだが、作者にとってはイマイチ面白さがよく分からないとしている。
以下は自分の所感です。
4.に関しては、TV版まどマギではこれに加えてホモソーシャルな「日常系」の要素も指摘できます。なお宇野常寛も、TV版に関してはオールナイトニッポン等で同様の見解を述べていたかと。
ゼロ年代エロゲ文化の集大成たる『まどか☆マギカ』のおかげで、なんで年長世代が「『エヴァ』は『イデ』」「『イデオン』見ずに『エヴァ』語るなんて」とうるさかったか、僕は真に理解できた気がする。が、だからこそ「『まどか』は……」「……見ずに」みたいな負の連鎖には荷担したくないなあ。
— MAEJIMA Satoshi (@MAEZIMAS) May 9, 2011
5.に関連付けて、ギャルゲーの大作化/プレイ時間が長大化が衰退を招いたということも言えます。長くなったというよりも、携帯アプリのソシャゲやアニメなど他の、相対的に短く手軽にできてオタク内でのコミュニケーションツールとしても優れたメディアの方に人が移っていったのも大きいかもしれません。
8.で ラノベと一般文芸の中間小説として出て来ているものの中には、まさにこの文庫版の発刊元である星海社文庫も挙げられるのかなと思います。上遠野浩平とかとかも書いていますし、でも星海社は虚淵玄、奈須きのこ、元長柾木、とかエロゲライター出身の人も結構呼んできてる印象がありますね。
ラノベレーベルでもジャンル境界上の面白い作品が出なくなったということはないとは思いますが(前島賢さん本人も勿論そのつもりで書いてはいないでしょう)。
詳しく追ってはいませんがガガガ文庫や一迅社でも面白い作品は出ているし、江波光則や石川博品などがラノベ読みの間では注目されているし十文字青も個人的に良いとは思いますが、やはり大枠としてはメディアミックス(アニメ、マンガ、ドラマCD化)に適したキャラクタ―商品としてのラノベが主流派になっているのだろうな、と。『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』ではプロダクトアウト→マーケットインという言い方をしていたように思います。
10.のカゲプロに関しては、村上裕一が『ネトウヨ化する日本』で、ストーリー面に重点を置いた詳しい論考を書いているとのことなので、個人的には気になっています。
アニメミライ2014見てきた
今回はわりと短めの感想です。
アニメミライ2014見てきました。感触としてはなかなか良かったのでは、という感じです。アニメミライはアニメーター育成プロジェクトではあるのですが、毎回ちゃんと特色のありコアなファンでなくとも楽しめる作品に仕上がっているのが良いです(勿論監督含むスタッフ陣の力が大きいのですが)。自分は過去のアニメミライはTV放映で見てたので、劇場で見たのは今回が初めてでした。
アニメミライ2014は、「パロルとみらい島」「大きい1年生と小さな2年生」「黒の栖」「アルモニ」の4本でした。
まず、「パロルのみらい島」。
ドラえもんのシンエイ動画らしいキッズ・ファミリー層向けの作品ですが、王道エンタメのお話で、幅広く支持されそう。話す動物たちのいる島と「魔女宅」風のヨーロッパ市街が舞台で、アニメーターにとってもケモノキャラとカーニバルの日の西洋人と、割合珍しい2タイプのキャラクターを動かすことは良い経験になったのではないでしょうか(特に動物キャラは、アニメーターの中でもしっかり動かせる人が減っていると聞きます)。ハガレンなどで大活躍した金田フォロワーの亀田祥倫さん作監ということで期待していたのですが、波の背動やサーカスでの立ち回りなどケレン味のあるアクションも多く、動物もヒトも表情豊かで生き生きした演技でとても楽しめました。このアニメ、ケモノキャラがちゃんと動くというだけでも推しますが、ヒロイン役のリコット(CV.川澄綾子)はとりわけ可愛く魅力的です。亀田さんは自身の持つ「お尻へのフェチズム」を公言していましたが、そういったものを求める層にも楽しめるんじゃないかな?(たぶん…)
お次は「大きい1年生と小さな2年生」。劇場版ドラえもんや宇宙兄弟の監督で知られる渡辺歩監督作品です。渡辺さんもシンエイ動画出身で、この作品も「ぜんまいざむらい」のような、A-1 picturesのファミリー向け作品の系列に位置づけられる感じであり、シンエイ動画的なフィルムが2連続だったような印象は持ちました(と言ってもテイストはだいぶ異なりますが)。国産の児童文学にあるような素朴な雰囲気で、渡部歩さんテイスト(偏見多し)な作品ですね。田舎の背景や自然に囲まれたシーンが多く、そういったレイアウトを多く描くこともアニメーターの訓練になったと思われます。武蔵野くんだりまで現地取材もしたそうな。派手なアクションはないですが、キャラクターの細かい演技などを楽しめるような出来栄えでした。ショタ好きの人は喜びそうだ。児童向けながら、ツインテの幼馴染みが出てくる作品でもあります。
3作目は「黒の栖」。これは初め、死神が見える高校生少年が出てきて、そういうドラマなのかなー(死神に焦点を当てて『死神の精度』的な感じに?)とか思ってたら幼馴染の女の子との関係がクローズアップされて、凄く(理由は不明確ながらヒロインが主人公を必然的に求めるような状況に陥り主人公との関係性に物語全体が収束していくという意味での)「セカイ系」的な作品でした。お話の方は、主人公の決断に至るまでの描写がやや不明確なので、説得力に欠けている感じ。だから、やや古臭いノリではあるな、という印象だったんですが、作画的には、4°Cらしい造形の(線がやや少ないリアルっぽい感じの)キャラクターで演技も日常芝居もアクションもちゃんとしたものだったし、申し分ないです。
最後に「アルモニ」。月並みですが、個人的にはこれが一番良かった。やはり吉浦康裕監督率いるスタジオ六花の力です。とりあえず情報量は一番多いし一度見たきりでは取りこぼしも多いので、またじっくり見返したいなあ。
作画的には、キャラデ/作画監督の碇谷敦さんもなかなかいい仕事をしていると思います。今期のキルラキルなどで作監やってる中森晃太郎さんも原画として参加していました。
吉浦監督は屋内を舞台にした作品が上手い人だと見ているのですが、「アルモニ」でも高校の教室が舞台としてクローズアップされています。そして、その臨場感や良しです。高校の教室って人物同士の関係性やコミュニケーションが重要になってくる空間で、あらゆる会話が関係なく耳に入ってきたり他人のしていることが目に入っていたりする訳ですが、そういった雰囲気が全体を通して出てて程よい緊張感があります。
また、「イブの時間」などでも出ているようにキャラクター同士の掛け合いの独特なリズムやおかしな感じなど随所に見られ、見ていて楽しめます。
他にも見所としては、物語中で言われる、ヒロインの持つ「セカイ」(=夢の中で見る光景)を「PV要素」として劇中に取り入れているのですが、これが『パテマ』的感じのファンタジー的異世界で結構いい感じ。同種のクリエーターである新海誠がPV作家として活躍しているのを見ると、吉浦監督もPV作家としてのポテンシャルは大きいのでないかと見ています。
「人は皆、異なる「セカイ」を持っているーーー」という印象的な出だしから始まるボーイ・ミーツ・ガールモノなのですが、ドラマ的な部分の落とし所は少々疑問に思うところも。
(持っているセカイが違う/同じ以前に、二人の間に誤解が生じているわけで…それも含めて、セカイとセカイとが奏でる”harmonie”ってことになるのでしょうか…?そもそもharmonieはharmonyと意味は同じってことで良いんだろうか。謎。)
あと、主人公たち男子がラノベを読んだりアニメの感想を話したりしている所も、リアル感に一役買っていると思います。いわゆる「2.5次元」(以下参照)的な味付けも効果的だったかと。
中二病アニメといえば石原監督がアニスタインタビューでしていた「2.5次元人」の話だなあ。確かフィクション内の人物でありながら2次元的なモノを消費しそれで悩んだりするのが「2.5次元人」で、観ている3次元人である我々にとってはそれがリアルで地に足ついた感じに捉えられるとかそういう話
— HIGHLAND (@highland_sh) March 1, 2014
以上のような感じです。
アニメミライ2014総括としては、自分的にはなかなか良かったというところです。そして、何故か全て男主人公でした。それぞれの監督がその持ち味を生かせるものがたまたま全て男主人公だったのでしょうか。しかもその内3作品に幼馴染みヒロインが出てきます。幼馴染み好きの僕としては嬉しかったです。
関係ないですが、最近幼馴染み系ヒロインをあまり見なくなったのは、地縁的な共同体が失われていくと共に「幼馴染み」という存在がリアリティを失ってきた事と、あとは主人公との親密さや積み上げてきた過去の厚みという点では幼馴染みよりも姉・妹(あるいは兄・弟)の方が大きいので有利であるという事の二つが大きな原因と見ています。(地縁的な共同体の喪失と並行して一方で少子化も進んではいますが、実際に一人っ子ばかりというわけではないし、「姉妹」という存在がリアリティを失う程ではないと思います。また、姉妹は「結婚できにくい」というデメリットがありますが、最近では萌えの対象であるヒロインと「結婚」とか「家庭を成す」という回路や志向が少なくなっていってるのでデメリットが大きいものじゃなくなってきたのも関係しているのかな、と考えています)
というわけで、ではまた。
アイドルマスター劇場版を見に行って来た
アイマス劇場版を観に行ってきました。見に行くのはこれが二回目です。映画館は1回目が梅田ブルク7で2回目が京都のTジョイでした。以下写真
ブルク7の方はエレベーターの方もアイマス仕様だったりキャラクターポップにもサインがあったりと色々豪華で壮観でした
Tジョイにもサインはありましたが一箇所だけでしたね
僕はガイナ出身のアニメタとして錦織監督が好きなのもあってアニマスは凄く好きですがゲーム版やモバマスには手を出していないのでいわゆる「非Pのアニマスファン」です。錦織監督は生き生きとしたアニメ美少女をデザインし描写するのが上手い人で、TVシリーズでいえばOPでもそれぞれのキャラの特徴を1カット1カット良く出せています。シリーズ全体の構成も、それぞれのキャラがアイドルとして羽ばたき各々の活躍をするようになったのを描いた上でその集まりとしての765プロの意味を問い直すという作りを丁寧に描いていてますね。このポスタービジュアルの一枚絵も錦織画、良いですね。ちょっと後期ガイナっぽい感じもします
で、肝心の映画の感想ですがまあ一言でいうと「良くできたファンムービー」でした。ただその一言だけじゃ言い尽くせないことも多いしいくらか欠点も指摘できると思うのでもうちょっと書きます。(一応言っておくとこれを書く上で他の人の感想はあまり見ていないので既出の話も多々あると思いますがお許しを)
まず映画館で観るとモーパイとかの近日公開映画の次回予告が延々続いたあとにあの劇中作『眠り姫』のトレーラーが来るわけで、このアイディアは個人的に膝ぽんでした。その手があったかと。シームレスに映画に入って行ける訳ですよ。TVシリーズ15話のキサラギ(今石洋之と雨宮哲がやった)の時とかも劇中作は内容そっちのけでスタッフのお遊びというかファンサービスになってたと思いますが今回も劇中作は色々混じっててカオスな内容…でしたね。まあBD買う層としてはああいうアクション含めファンサービスですよ。
OPシーンからして美希のハリウッド進出だったりそれぞれのキャラの活躍/成長が感じられるのですが、それでも春香はやはり授賞式で転ぶ…というキャラ付けを忘れない感じが良い。雪歩もちゃんと穴掘って埋まろうとするし。キャラクターでいうと伊織もTVシリーズと同じく今回は良い役どころでしたね。志保と春香の対立を取りなすという。伊織はTVシリーズでも影でいい役をしてる箇所が多く僕はTVシリーズで伊織を好きになったクチです。
アリーナLIVEは映画のクライマックスを飾るに相応しい出来でした。監督の言うようにLIVEの一曲丸ごとアニメでやる、という先例の少ない試みでしたがわりとハマってました。神前さんの作曲で歌のポテンシャルも高いのですが、LIVEの一曲全部を通じての感情の高揚がちゃんとアニメで味わえるというのは結構いいものだなあと思いました。
ライブシーンのCGですが、アクションに違和感なく組み込んでいるのはいいんですがCGを使うシーンはロングショットで(多くは俯瞰で)撮るカットが多かったですね。モーションの不自然さが際立たないようにするためでしょうけど。ストパンとかで使っていたようなCGの使い方でした。CGを使うのはやはり作画リソースに負担をかけないようにしながらダイナミックなカメラの回り込みカットとかを撮るためでしょうが、そのためかLIVEシーンはバックから遠景で撮るカットが多くなってしまったように思います。特に俯瞰のカットとかは感情移入の妨げになるのでよくないと思うのですが。
せっかく3Dレイアウトでアリーナ会場を再現できるようにしたのだから会場全体を映すようにしながらアイドルを撮りたい!というのは分かるのですが、特に「ma@sterpiece」 のクライマックスのサビ部分で俯瞰のカットにしてアイドルじゃなくて会場を埋め尽くすサイリウムを映す、という所とかは正直うーんという感じです。直前にメンバーたちがサイリウムを「光の海」となぞらえてるしそれもかかっていて、プラスLIVEの雰囲気やファンの熱狂ぶりを再現する上で必要だったというのは分かるのですが。だからLIVEシーンは惜しい出来だと思っています。まあメンバーのカメラ目線サービスシーンとかバックダンサーの子達の可愛さとかを見るとそれも許せてしまう気がするあたりズルいですがw
可奈が太るのは、まあ「ストレス溜まると甘い物を食べてしまう」という台詞とか、あと可奈の部屋を映す際にお菓子が映ったりするので薄々気付くんですが、やはり意表をつく感じはしますね。可奈ファンの人、怒ってないですか?とも思ったんですがそういう声も聞かないし、まあ大丈夫だったのでしょう(多分)。
そしてEDはよかった。ちょっとした後日談をEDの静止画で見せる、という演出は正直弱いので、ぐっと来てしまいました。劇場版ドラえもんとかでよくあるやつですね。この見せ方は良いと思うのでTVアニメの最終回とかでももっと広まって欲しいですね。
「GO MY WAY!」はアイマスの中でもかなり好きな曲なので挿入歌で来たときは嬉しかったですね。「ラムネ色 青春」のシーンの自然体のアイドルたちもよかった。
春香とプロデューサーが10年後の未来について話すシーンは思い深いシーンです。ただ自分はちょっとここで考えさせられてしまいました。この映画自体が「輝きの向こう側へ」というタイトルだし明確に未来をテーマにしているわけであって、プロデューサーが10年後の春香の可能性について話し、アイドルたちはまだまだ多くの可能性を持っていると言うわけですが、10年後とかのその可能性については絶対に劇中で描かれないんだろーなーと考えてしまったのです。本編で描かれるとしてもせいぜいが1,2年後なわけで、その未来の持つ可能性(特定キャラがPと結ばれたりとか)については各々の観る人やPの二次創作や妄想で補完するのに任せられてしまうのです。つまりその未来の「可能性」そのものが消費される対象であり、その可能性というのは決して描かれることのない薄っぺらいレトリックに過ぎないんじゃないかなーと魔が差したわけです。もちろんこれはゲーム原作のアイドルアニメとしてのアニマスの枠組みの中では仕方のないことなわけで、「その後」は決して描かれることのないわけなんですが、「輝きの向こう側」には何もないじゃないかな…と自分は考えてしまいます。ファンサービス映画だからそんなこと言っても仕用がないんですが。
春香がプロデューサーによってグループリーダーに任ぜられたのは、TVシリーズ終盤においてバラバラになりかけた765プロを団結させる契機となるのが春香だったという流れを汲んでのことでしょう。ここでも765プロはメンバー全員それぞれの思惑や動機はあれど「団結」している、ということがグループのアイデンティティとして再確認されるわけですが、今回の映画でリーダーとして春香がしたことも結局はメンバーの団結を優先したことなわけで、TVシリーズとやっていることは繰り返しのようですがグリマスのメンバーがそれに触れて「成長」するというのが大きいですね。765プロの物語はやはりTVシリーズで完結しているわけで、今回「成長」の要素はグリマスメンバーに仮託されたのかなーと。もちろん「みんなは一人のために」の精神でメンバーを見捨てず「団結」を優先する765イズムというか、そういうアイデンティティをより際立たせるという意味もあるわけですが。
グリマスメンバーもTVシリーズの765プロのように、可奈に代表されるダンスも不得手で消極的な子たちと志保を代表とする個人主義的でドンドン前に出たいと思っている子たちがいるけど、その子達の擦り合せが、春香をリーダーとする765プロのメンバーに触れることで解消されグループとして団結し「成長」する、そして765イズムを「継承」することにもなるーーという流れができていたのかな、と。
グリマスメンバーは765プロのメンバーをラジオやTVで見聞きしているわけで、そういう「お客様」として入ってきたメンバーがちゃんとグループの一員になる過程が描かれていたのですよね。
ただ、春香と対立していた志保が「このステージは私が思っていたよりずっと重たかったから」というシーンは、ちょっと圧力に屈したような感がありましたw。TVシリーズ25話で積み重ねてきたその765イズムの伝統には、私ごときの個人主義では太刀打ちできないから屈するーーみたいなね。映画では相互から歩み寄るように描かれていましたが、「重かった」という台詞はどうしても圧力というかプレッシャーを彷彿とさせるし、実際には志保が折れる形で終わったわけだし。
前半はメンバーの成長を示すサービスシーンで、全体としては春香の演説→アリーナライブにつなげるためにドラマが積み上がられていくような作りでしたね。「ライブシーンのための映画」という評価もまあ分かります。前半で吉澤記者が春香に諭すシーンとか千早と春香がバーで会話するシーンなどもそこへつなげるためのいわば伏線の役目を果たしているわけで。プロデューサーの渡米というのも、緊迫した状況を作り出し春香に積極的な行動をさせるためのドラマ上の要請から来ているのだろうし。
まあ今回の映画の総括としては「いくつか文句をつけたくはなるけどこれ以上の出来は期待できないくらいだし、良くできたファンムービーだったよね」ということで。
余談ですが映画だとメンバーの使ってるケータイは、確認できる範囲だと
真ースライド式のガラケー
春香ーパカパカ式のガラケー
亜美or真美ーパカパカ式のガラケー
でしたが(伊織はスマホだったような気が)、グリマスメンバーは皆iPhoneなどスマホだったので時代が反映されてるというか、アイマスメンバーの方の時間が2000年代中盤で止まってる感じもしますね
2回目の視聴で「ミリオンライブ!」メンバーのキャラデを鈴木大さんがやってることを知りました。今『妹ちょ』のキャラデをやってる人ですね。そう思うと似ている気がしますねー。
あと、可奈が合宿の舞台裏でお菓子食べてる所を春香が声かけるシーンが何故か2コマ作画で異様に滑らかに動くのはちょっとおかしかったですね。あれは何だったんだろう。