highland's diary

一年で12記事目標にします。

『思い出のマーニー』 雑感

 一回しか見ていない上に記憶もおぼろげですが、一応感想を。大体は他の人に言われ尽してると思うけど。ネタバレです
 
『思い出のマーニー』原作は「過去を失った少女が時間のゆらぎをくぐり抜けて過去をとりもどす心理的なファンタジー」であり、その上で児童文学ならではの細やかな心情描写、そして作者自らの綿密な取材にもとづく、特別な時間を際立たせるノーフォーク湿地帯の風土が合わさり、「内側」と「外側」をめぐる主人公の葛藤と、過去を解き明かすことによる清算を経ての解消までを描いた名作です。
 
 映画の『マーニー』は、英国から日本への舞台変更に伴いノーフォークを北海道の自然に置き換えてはいますが、
過去と現在が入り混じる、二人だけの時間を彩る舞台装置としての湿地、屋敷、月夜といったイメージを可視化している点は非常に見事でした。これは背景美術、さざ波や風音とか音響とかの音響も込みですね。海を渡る行為が、その時間を行き来するものとして象徴的に描かれていたのも印象的。
 
舞踏会のシーンで、マーニーが杏奈の髪に紫色の花(シーラヴェンダー)を挿すのですが、マーニー舞踏会参加後に同じ色の紫の髪留めをする、そして、後半の回想シーンでは、幼少の杏奈にマーニー(祖母)が髪留めをするところから、今の杏奈の髪留めに重なる、というイメージの連鎖が美しい。 
 
気になったのは、かつて久子が描いた絵の中にマーニーの日記の千切れた部分の切れ端があって、それは風彦の名前を書いたものばかり、という描写で、久子がマーニーと和彦の関係に嫉妬し日記の中の和彦の頁を後に裂いた、ともとれます。映画での杏奈は久子と同じく絵描きである、という設定もあり、とすると、過去の久子はサイロの中で和彦に連れられて行くマーニーに見捨てられる杏奈、に重ね合わせられる部分もあるのかな、と思えたり。
 
マーニーが杏奈以外には見えないものとして描かれ、さやかが杏奈に話しかけると消える。ファーストシーンでもマーニーは月夜をバックに登場する幻想的シーンだし、湖上に浮かぶ月を見ると日にちが立っていないはずなのに三日月から満月に変わっている。杏奈が「私の部屋に来てくれる?」という風に訊いて、マーニーが否定するのもそうだし、マーニーや、杏奈が彼女と過ごす時間が杏奈の「空想の存在」である、というように強調されています。まあ、ある種ミスリードではあるんですけど、ミステリ的な要素の盛り込みは、杏奈の成長物語としてのドラマを寸断しているようなとこがあったのは良くなかったかな、という印象です。
 
杏奈の、過去の清算を経た後の「わたし今、とっても幸せなんです」というセリフも、作劇上陳腐になってしまった印象が拭えません、マーニーが杏奈に「貴方の両親は愛すればこそ孤児である貴方を拾った」と諭すようなところとかも、原作ではマーニーが自分のこととして言う内容が、結果的にアンナが自らの身に染みて感じられる、という風だったのに映画ではそのように改変しています。作劇上の要請による台詞をキャラクターの台詞で言わせ過ぎな嫌いはあったと思います。子供向けに作っているという事もあるかもしれませんが、そのような意味での分かりやすさが子供向けで求められるという事はないと思います
 
映画の構成的には、終盤になって、回想シーンの種明かしで説明的な描写が重なったのは良くなかったですね、
映画だと、大体理由や動機については回想>セリフ>細部の描写での説明、という関係になっていて、左に行くほど陳腐になり、活劇を停滞させる、という風になるようです。
説明によって、現在の作劇を進めるための(情報の)容量をどれだけ削るか、というのが問題で、回想している間は現在の作劇を一切進められないようになりますが、会話や、映像の細部で理由を説明すれば残りの容量で一応現在の作劇を進めることができる(ドラマが継続する)ので、そちらの方が当然映画としてはいいわけですね、これは当たり前の話でしょうけど。
 
映画の最初に、杏奈が「外側の人間」であることがモノローグの形で最初に明示され(原作ではそれはものの考え方による と結論されるが、映画では書かれない)、また、コミュニティから疎外される様子もはっきりした形で描かれるのですが、結果的に「内側」に入れたのか、というのは直接は描かれないのですね。
信子とも仲直りし、マーニーとの出会いも通じて彩香という友達も作れ(これもはっきりとそう描かれてますね)、真相を知り過去を清算したことで両親との不和も解消し、そして何よりマーニーとの日々(これは二重の意味でかな)、というのがかけがえのない拠り所となったことで今後は明るくなっていく、という希望を抱かせます(余談ですが映画だと、マーニーが去ってから彩香という友達が出来る、という所の流れが原作よりもシームレスに移行するようになっているのはいいですね)。
 
原作ではというと、「内側/外側」というのは「考え方による」と結論されるし、アンナの、二重の意味を込めた「内側にいます!」の清々しい台詞で決着されるのでいいのですが、映像ではこれをやっても映えないし、映画ではあえてこれを言葉では表現しなかったということですね、いずれにせよ、「わたし今、とっても幸せなんです」よりかはこちらの方がスマートだとは思いますが。
 
船漕ぎの十一に関しては確か「マーニー、青い窓に囚われた少女」というセリフがありましたが、これに関しては十一が当時マーニーとどのような関係にあったのか明かされない以上消化不良となった要素ですね、映画内で一から十まで説明しなきゃならないなんてことは勿論ないのですが中途半端に原作の要素を散りばめただけに留まってしまったのは惜しいところ。
杏奈の七夕の願いである「普通に毎日過ごせますように」が理解されず、青い目(ここは伏線ですが)も注目されたことで信子に「太っちょの豚」呼ばわりしてしまうシーンも、原作と簿妙にニュアンスを変えているので、「内側」の子が害意なく「外側」の子を傷つけることに対し杏奈が一方的に拒否反応を覚えて罵倒する、という構図になっていて、これについても不可解な感じは少々残ります。
 

この映画のハイライトとしては、やはりトレーラーでも目立って使われてますが、マーニーと杏奈のお別れシーンでしょう。ここでのセリフは、

 

「マーニー!どうして私を置いていってしまったの?どうして私を裏切ったの!?」

「ああ…杏奈...あたし…あなたにさよならしなければならないの。だからねえ杏奈、お願い 許してくれるって言って……!」

 

この部分の台詞は原作以上に祖母(マーニー)から孫娘(杏奈)へのそれが重ね合わされている、その裏の意味が明らかに意識されています(原作では、もっと台詞の抽象度が低いので祖母から孫娘のそれのようには聞こえない)

この部分、その裏にある意味付けと、嵐になり押し寄せる波、そして許しを貰った後の後光をバックに微笑むマーニー、と、かなりドラマチックな見せ方も相まってぐっと来る所ではあるのですが、それも2回目ならともかく1回目初めて見る人にとってはこれがハイライトでは普通に戸惑うんじゃないかな、とは思います。この別れのシーンはそれまでの流れからしても唐突に訪れるシーンであり、裏の意味についても、折角の良い要素であるのですが、2回目以降の鑑賞で初めて味わえるようなものでもあるので。その意味でも、この映画がその面白さの多くを原作小説に面白さに負っている部分がある、という批判もむべなるかなと思えてしまうところがあります。

 

パンフにもありましたが、「今まで会ったどの女の子よりもあなたが好き」というマーニーに対して杏奈が「今まで会った誰よりも好き」と答えるという構図は、まあ「今まで会ったどの女の子よりも好き」とアンナもマーニーも互いに言い合っていた原作からの微妙な匙加減での改変であり、和彦と結ばれてしまうのでマーニーと結ばれることのない杏奈、という結末の予兆ともなっており、かつ、杏奈の、マーニーへの許しをより際立たせるものともなっており脚本の妙だな、と思います。

 

あまりまとまってないですが今回の感想はこの辺で。

『マーニー』映画は(舞台設定上では大幅に改変してはいますが)筋やセリフは結構忠実に原作に添って作っているのですが、あくまで個人的な反省点として、先に原作を読んで見に行ったのは良くなかったかもしれません、原作と比べて粗ばかり目に付いたり、イメージに振り回されたりしたので。でも見所のある映画ではあったので、また劇場で見に行きます。

 

ちなみに映画『マーニー』については『虹色ほたる』『マイマイ新子』が類似作として挙げられているようです。僕も『マーニー』見た後に両方見返したりしたのですが、それほど類似は感じませんでした。ちなみにどちらも傑作だと思うので、マーニーとの類似点が指摘されているならこれを機により広く見られて欲しいな、とは思ったり。

 

追記.(2014/8/01)

しかもあの回想シーンに関しては、久子に全てを語らせるような構成になった点も良くない印象でした。いきなり久子一人が全貌を知っているような調子で種明かしをするから唐突にも感じが否めない。しかもその内容からマーニーと杏奈の関係はそこで大体察せられるのに(察しの良い人は杏奈の青い目の時点で気付くでしょうが)、その後でまたダメ押しのようにその事実を補強する説明が入るのでかったるく感じられる(しかもそのシーンがその前の回想ともシームレスにつながる構成になっている訳ではない)。『思い出のマーニー ビジュアルガイド』では以下のような顛末が語られているようですが、ミステリ的要素との噛み合わせは上手く行っていなかったのですね。

 

 舞台を日本に変えたのも、日本人にとってはその方がアクチュアリティが伴いますが、そのために帳尻合わせの変更を加えたりした部分や失われてしまった要素も大きいと考えます。

 

『たまこラブストーリー』雑感

たまこラブストーリー、見てきました。
所感としては大きく分けて、よく出来たイニシエーションものだ!というのと、実写的な画作りが印象的だ、ということ。
 
以下、イニシエーションものとしてお話についてと、「実写的」というところから画的な話について書きます。
 
1.お話について
 山田尚子監督が公式サイトインタビュー(http://tamakolovestory.com/special/interview/  )「一人の女の子が自分自身に向きあおうとするまで、悩んで、色をつけていく様が描けていればと思います」)で言っているように、たまこラブストーリーは恋愛映画であると同時にたまこという女の子の人間的な成長物語として見ることが出来ます。
 
イニシエーションというのは、劇中のたまこの台詞「どんな時も近くにいて大きくなったから、」「何か、大人になっても(二人の関係は)変わらないと思ってたんだ」で分かるようにこのままの商店街での人間関係や状態にとどまろうとし、それまで恋愛アプローチに奥手で戸惑ってばかりでいたたまこがもち蔵からの告白に向き合い応えられるようになる、ということですね(映画観た人にとってはこんなことは言わずもがなでしょうが)。
 
で、もち蔵の東京への大学進学の予定を聞いて、このまま変わらないままではいられないことを悟り、朝霧さんのホームステイの決意(「最初は誰でも何もかも初めて」の台詞に勇気を貰う) や「『なかったことにして欲しい』はどんな時?」についてみどり達にアドバイスを貰い、それに後押しされる形で自分の気持ちに向き合い告白へと踏み出す、という構成につながる。
 
バトン部の舞台披露への練習が随所に挿入され、バトンを掴めるようになる、というところで糸電話掴めるようになることの示唆→告白できる準備ができる、という小道具の使い方の妙も見事でした。
 
バトンの発表が終わるのと同時にタンポポの綿毛が舞い上がり、EDまで随所に表れ象徴的に見せていました。
 
TVシリーズでフィーチャーされた商店街じゃなく、イベントが起こるシーンは主に学校中心(体育館、教室など)であり、だからもち蔵の連れの二人の登場シーンが多く、男性高校生らしくつるむ様子とかも出てました。
 
たまこの、うぶで可愛らしい部分が脚本でよく出せていたと思うとこは、もち蔵から告白受けた時に「かたじけねえ口調」になったり「もち→もち蔵」と何回も言い間違えるとかの部分。ややオーバーな感じもしましたけど、良い具合だったかと、そして極め付けはやはり告白シーンで最初糸電話を二つとも渡しちゃうとこで、「このクライマックスのシーンで上がってミスボケをする」あたりは、可愛い感じ出せてるなーと素直に思いました。
 
もう一つ。設定で、もち蔵は東京の美大の映像科を目指してるとのことが映画で分かりますが、もち蔵が映像科志望なのは 監督や作り手の自己投影か何かなのかな、と勝手に思っていたのですが、このエントリ(http://d.hatena.ne.jp/los_endos/20140420/1398003204)で書かれてあるように山田尚子監督がTVシリーズの方のオーディオコメンタリーで「実はEDはもち蔵がたまこを撮っている映像で、恋する目線を描きたかったのですね。」と発言していて、ああ、あれから後にTVシリーズの方のEDを撮ることになるから映像科なのかも、と一人合点していました。
と考えると、映画の方のEDも、もしかしてもち蔵が撮ることになる映像なのかもな、と思いますがそれだとやはりたまこ達が高校の制服着てるとこが引っかかる…...大学進学後じゃないの?て。
 
2.画的なところについて
 
たまこラブストーリー』 「もち蔵」という名前の意味と、山田監督が言う「映画」と、あんこちゃんがやたらエロいのは恋愛年齢が高いから - 感想考察批評日常 http://htn.to/CVpfCw 
 
上記の方々の記事が画的な分析として優れていると思いますので、詳しくはそちらの方を参照してもらうとして、個人的な所感をば。
 
「実写的」/「生っぽい」空気感、というのは本作においてはキーとなる「血肉の通ったキャラ仕立て」をする上で重要な役割を演じており、山田尚子監督や堀口悠紀子さんが今回の映画のインタビューで「意識した」と度々語っていることですが、これは同時上映の『南の島のデラちゃん』と比べるとよく分かります。
『南の島のデラちゃん』も山田尚子監督ですが山田監督コンテの本編と違い石原立也さんが画コンテ・演出を担当していて、そのカラーが出ており、ファンタジックな南の島が舞台なのもあってアニメ的なコミカルな表現が目立ちます(NT5月号インタビューで堀口さんは「原画さんにデラ愛が強い方が多くて」と言っていますが、実際見ても演技付けが凝っている感じがしました)。たまこラブストーリー本編でも2カットほど南の島が映るのですが、そのシーンと『南の島のデラちゃん』内のシーンの画を見比べると歴然の違いです。
 
実写的な画作りしてるな、とは冒頭の商店街のシーンから真っ先に思いました。実写的、というか「堀口由紀子キャラが動いているのをカメラを通して見ている感じ」な印象。最初の紹介あたりはちょっと演劇っぽい仕立てになっていましたが、冒頭、商店街から入るカットの時点で3DCGの立体的で重層的な空間/そして望遠レンズでピンボケで驚きま
した。
 
特に実写的だな、と思ったのはレンガ作りの建物の横でたまこやみどり達が弁当食べるとことかで、ピンボケ&奥行あるレイアウト&木漏れ日の当たってる表現で、非常に実写的な空気感だなという印象が強い。
実写的、という意味で特徴的だったのはやはり画面ポジ固定のジャンプカットで、もち蔵が部屋で落ち着かない様子でいるとことか、告白されたたまこが慌てて川から走り去るとことかそうですね。
 
あと多分1シーンだけですが早送りも。もち蔵が告白した後のシーン、教室でたまこともち蔵の距離感がぎこちなく、他の人が動く中二人が「硬直して動けない」感じの表現として上手い。

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アニメでジャンプカットや早送りで編集してる感じを出すのが何故実写的になりうるのか、というとジャンプカットとかはもともと実写由来の表現であるのというのも大きいですが、実写と違ってアニメの場合実際に人物撮っているわけじゃなくて(ロトスコだとまた別ですが)キャラクターを一から起こしているわけなので「実際にそこにいるキャラを撮って編集しているように見せる」とか何らかの意図込みでないとそのような見せ方(ジャンプカットや早送り)はふつうしないからじゃないかと思っています。
また、これは人から聞いたのですが実写におけるジャンプカットっていうのは「本来ふつうにつなげるし、滑らかにつながるはずのカットを、あえて違和感の残るように滑らかではないカット割にする」というところに眼目があるけど、「アニメは実写ほど多分「滑らかなつなぎ」にこだわってないので(ジャンプカットは)実写っぽく見える」という説明を聞きました。
 
そしてもう一つこの「実写的」な画の話として重要なのは、劇場版本編はデラがいない状態から始まるということで。
TV版『たまこまーけっと』では商店街においてデラ(そしてのちに出てくる南の島の王子やチョイ)がファンタジックな部分を肩代わりしており、TVシリーズ1話冒頭でデラが出てくるまでの、たまこたちが橋を渡って下校する下りでは山田尚子監督は「実写感」を出すことに注力していますが(『アニメスタイル003』でのインタビューより)、デラ登場後は作り物らしい、コミカルな画作りや表現を交えつつ話が進むことになります。デラ以下南の島の面々の登場シーンがほぼない映画本編はむしろ、TVシリーズ1話冒頭の映像の感触が近く、デラが来なかったver.の『たまこまーけっと』をやっているような感じですね。

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(なお、『アニメスタイル003』での山田尚子インタビューで言っていた内容の中で関連するものとしては、キャラクターが恥ずかしがるシーンでも石原立也さんは真正面からキャラを撮るのに対し山田尚子さんはカメラを下に振ることが多い、ということで、『たまこラ』でも膝下のカットからシーン導入に入ることは多く空気感を出すのにも一役買っていた印象があります。あとは諸所のインタビューでも公言しているように彼女自身のフェティシズムによるところも大きいでしょう)
 
実写的という話をしましたがずっと実写的というわけではなく、もち蔵の告白後たま子が逃走するシーンでは幻想的な画になりエモーショナルな走りを見せたりもします(5/30補足:このシーンはコンタクトを落としてぼやけたたまこの視界→心象世界へつながるイメージ、とのこと。手描きの背景とCGを合わせて水彩画風の背景画を作っているようです(「Newtype2014年6月号」より))。
コミカルな表現もちゃんと映画内に同居しており、たまこがもち蔵を前にして動揺するシーンではコミカルな表現がよく交じり、お化け(手足の動く影を表現する技法)が入ったりしており、それでいてちぐはぐにならず良い具合で入っていて計算されていると感じました。
 
個人的に良いカットだと感じたシーンはいくつかあって、前半で糸電話を渡した際に糸が虹色に光って弦に見立てられメロディーが流れる表現はよく出来た演出と感じ、銭湯であんこが髪を結んだりたまこが服を脱いだりしている演技とかは扇情的なニュアンスも出ておらず、演技付けが細かく女性らしくていいなと感じました。
 
カメラの手ブレも上手く役割を果たしており、商店街でたまこがもち蔵に遭遇したシーンのカメラブレなどは動揺する心理表現と呼応した表現になっていました。
 
余談ですがエモーショナルな走りのあるアニメは
、それだけで名作になる!気がします。時かけとか。

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しかしやはり白眉は満場一致で告白シーンでしょう。糸電話をフォームを取って、投げて…と
1カット1カット一挙一動足を追う丁寧でエモーショナルなカッティングで目を惹きつけられる屈指の名シーン、そして最後告白の台詞と共にスパッとED入りする構成も思い切りが良くていい。

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見終ってすぐにもう一回見たくさせるような、気持ちのいい映画でした。
 
ただ、劇場パンフレットの最後頁で後日談の画を出すのはいいとして、その画を、ED後のCパート部で1カットくらいのシーンで出しても良かったんじゃないかな、とは思いました、パンフ買った人だけが後日談を味わえる、てのもどうかなとは思うので。

前島賢『セカイ系とは何か』文庫版の加筆について

2010年に刊行された新書版『セカイ系とは何か(ポスト・エヴァのオタク史)』の増補版が、2014年4月11日に刊行された。

どっちかというと副題の方がメインで、セカイ系の議論を通じてオタク史の流れを解説する内容だったわけですが、その文庫版では追加でこの2010年~2014年に起こった流れについても追加記述があって、ここ4,5年の流れの総括として良いかもしれないと思いその部分をメモ代わりも兼ねて自分なりにまとめてみました。

あくまで備忘録であって、建設的な議論を立てるためのものではないです。

    1. ヱヴァQ が旧版に路線回帰したような内容で若干の不安
    2. 旧版では、ラノベが自己言及性を持つ作品(『俺妹』や『生徒会』)と現代学園異能(『シャナ』や『禁書』)に分化していると書いたが→その後、両者を併せ持つ作品(『異能バトルは日常系のなかで』)の出現
    3. 「小説家になろう」から書籍化されるラノベ作品など(『魔法科高校の劣等生』など)=少年マンガ的(いわゆる俺TUEEE系だが、作者:前島賢はこの表現を使っていません)
    4. TV版まどマギ→ループ、世界改変、戦闘美少女など、ゼロ年代セカイ系/美少女ゲーム的想像力の集大成
    5. 艦これヒットの一因は、キャラクター商品として見たとき極めて高効率であることか。キャラクターの全貌を把握するのに要するプレイ時間が短くて済む。また、史実という原作があるので最小限のキャラクター造形を呈示しさえすれば史実という原作を参照してもらえ、手の込んだ設定を用意する手間分を省力化できる。加えて、作り手側の知識/こだわりにより目の肥えたファンを満足させることに成功した。ミリタリ知識はストパンガルパンなどにも応用が利く、など挙げられる。
    6. (「セカイ系はシリーズ展開やメディアミックスが困難」という本書のトピックと関連付けて)『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』
      はそのことに自覚的であり、つまり、作品と市場のジレンマとして、ファンが作品を愛することでコンテンツは存続を余儀なくされ、大団円であった物語に新たな困難を呼び込んでしまう、という愛の逆説がテーマなのではないか(これについては、やや深読みが過ぎるかもしれないがという譲歩付きで)
    7. (ヤマトやガンダムの頃からして)オタク文化全体を通じて物語が作品の本質として捉えられてきたが、作品を<キャラクター商品>として整理すべき時期ではないか、という提言
    8. 近年の、 ラノベと一般文芸の中間小説とみなせるメディアワークス文庫
      ラノベ文芸賞のような新人賞の創設などは、ライトノベルにおける7.の流れの結果ではないか。つまり、従来はラノベの枠内で出ていたSF、ミステリ、青春モノなどの作品がその枠外で出るようになっている流れ?(前島賢は、今の時代にブギーポップが出ていたら、メディアワークス文庫から出ていただろうという例を挙げています)
    9. その上で、SF、ミステリ、ラブコメなどジャンル小説の中で自意識の問題を描いてしまうようなジャンル境界上の作品は(ライトノベルから)もう現れにくいのでは?とやや悲観的
    10. ボカロ小説という新機軸の出現
      とりわけメディアミックス展開の顕著なカゲプロ
      だが、作者にとってはイマイチ面白さがよく分からないとしている。

以下は自分の所感です。

4.に関しては、TV版まどマギではこれに加えてホモソーシャルな「日常系」の要素も指摘できます。なお宇野常寛も、TV版に関してはオールナイトニッポン等で同様の見解を述べていたかと。

(そして前島賢twitterでもこう言っていました)

5.に関連付けて、ギャルゲーの大作化/プレイ時間が長大化が衰退を招いたということも言えます。長くなったというよりも、携帯アプリのソシャゲやアニメなど他の、相対的に短く手軽にできてオタク内でのコミュニケーションツールとしても優れたメディアの方に人が移っていったのも大きいかもしれません。

8.で ラノベと一般文芸の中間小説として出て来ているものの中には、まさにこの文庫版の発刊元である星海社文庫も挙げられるのかなと思います。上遠野浩平とかとかも書いていますし、でも星海社虚淵玄奈須きのこ元長柾木、とかエロゲライター出身の人も結構呼んできてる印象がありますね。

 ラノベレーベルでもジャンル境界上の面白い作品が出なくなったということはないとは思いますが(前島賢さん本人も勿論そのつもりで書いてはいないでしょう)。

詳しく追ってはいませんがガガガ文庫一迅社でも面白い作品は出ているし、江波光則や石川博品などがラノベ読みの間では注目されているし十文字青も個人的に良いとは思いますが、やはり大枠としてはメディアミックス(アニメ、マンガ、ドラマCD化)に適したキャラクタ―商品としてのラノベが主流派になっているのだろうな、と。『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』ではプロダクトアウト→マーケットインという言い方をしていたように思います。

10.のカゲプロに関しては、村上裕一が『ネトウヨ化する日本』で、ストーリー面に重点を置いた詳しい論考を書いているとのことなので、個人的には気になっています。

 

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アニメミライ2014見てきた

今回はわりと短めの感想です。

 

アニメミライ2014見てきました。感触としてはなかなか良かったのでは、という感じです。アニメミライはアニメーター育成プロジェクトではあるのですが、毎回ちゃんと特色のありコアなファンでなくとも楽しめる作品に仕上がっているのが良いです(勿論監督含むスタッフ陣の力が大きいのですが)。自分は過去のアニメミライはTV放映で見てたので、劇場で見たのは今回が初めてでした。

 

アニメミライ2014は、「パロルとみらい島」「大きい1年生と小さな2年生」「黒の栖」「アルモニ」の4本でした。

 

まず、「パロルのみらい島」。

ドラえもんシンエイ動画らしいキッズ・ファミリー層向けの作品ですが、王道エンタメのお話で、幅広く支持されそう。話す動物たちのいる島と「魔女宅」風のヨーロッパ市街が舞台で、アニメーターにとってもケモノキャラとカーニバルの日の西洋人と、割合珍しい2タイプのキャラクターを動かすことは良い経験になったのではないでしょうか(特に動物キャラは、アニメーターの中でもしっかり動かせる人が減っていると聞きます)。ハガレンなどで大活躍した金田フォロワーの亀田祥倫さん作監ということで期待していたのですが、波の背動やサーカスでの立ち回りなどケレン味のあるアクションも多く、動物もヒトも表情豊かで生き生きした演技でとても楽しめました。このアニメ、ケモノキャラがちゃんと動くというだけでも推しますが、ヒロイン役のリコット(CV.川澄綾子)はとりわけ可愛く魅力的です。亀田さんは自身の持つ「お尻へのフェチズム」を公言していましたが、そういったものを求める層にも楽しめるんじゃないかな?(たぶん…)

 

お次は「大きい1年生と小さな2年生」。劇場版ドラえもん宇宙兄弟の監督で知られる渡辺歩監督作品です。渡辺さんもシンエイ動画出身で、この作品も「ぜんまいざむらい」のような、A-1 picturesのファミリー向け作品の系列に位置づけられる感じであり、シンエイ動画的なフィルムが2連続だったような印象は持ちました(と言ってもテイストはだいぶ異なりますが)。国産の児童文学にあるような素朴な雰囲気で、渡部歩さんテイスト(偏見多し)な作品ですね。田舎の背景や自然に囲まれたシーンが多く、そういったレイアウトを多く描くこともアニメーターの訓練になったと思われます。武蔵野くんだりまで現地取材もしたそうな。派手なアクションはないですが、キャラクターの細かい演技などを楽しめるような出来栄えでした。ショタ好きの人は喜びそうだ。児童向けながら、ツインテの幼馴染みが出てくる作品でもあります。

 

3作目は「黒の栖」。これは初め、死神が見える高校生少年が出てきて、そういうドラマなのかなー(死神に焦点を当てて『死神の精度』的な感じに?)とか思ってたら幼馴染の女の子との関係がクローズアップされて、凄く(理由は不明確ながらヒロインが主人公を必然的に求めるような状況に陥り主人公との関係性に物語全体が収束していくという意味での)「セカイ系」的な作品でした。お話の方は、主人公の決断に至るまでの描写がやや不明確なので、説得力に欠けている感じ。だから、やや古臭いノリではあるな、という印象だったんですが、作画的には、4°Cらしい造形の(線がやや少ないリアルっぽい感じの)キャラクターで演技も日常芝居もアクションもちゃんとしたものだったし、申し分ないです。

 

最後に「アルモニ」。月並みですが、個人的にはこれが一番良かった。やはり吉浦康裕監督率いるスタジオ六花の力です。とりあえず情報量は一番多いし一度見たきりでは取りこぼしも多いので、またじっくり見返したいなあ。

作画的には、キャラデ/作画監督の碇谷敦さんもなかなかいい仕事をしていると思います。今期のキルラキルなどで作監やってる中森晃太郎さんも原画として参加していました。

吉浦監督は屋内を舞台にした作品が上手い人だと見ているのですが、「アルモニ」でも高校の教室が舞台としてクローズアップされています。そして、その臨場感や良しです。高校の教室って人物同士の関係性やコミュニケーションが重要になってくる空間で、あらゆる会話が関係なく耳に入ってきたり他人のしていることが目に入っていたりする訳ですが、そういった雰囲気が全体を通して出てて程よい緊張感があります。

また、「イブの時間」などでも出ているようにキャラクター同士の掛け合いの独特なリズムやおかしな感じなど随所に見られ、見ていて楽しめます。

他にも見所としては、物語中で言われる、ヒロインの持つ「セカイ」(=夢の中で見る光景)を「PV要素」として劇中に取り入れているのですが、これが『パテマ』的感じのファンタジー的異世界で結構いい感じ。同種のクリエーターである新海誠がPV作家として活躍しているのを見ると、吉浦監督もPV作家としてのポテンシャルは大きいのでないかと見ています。

「人は皆、異なる「セカイ」を持っているーーー」という印象的な出だしから始まるボーイ・ミーツ・ガールモノなのですが、ドラマ的な部分の落とし所は少々疑問に思うところも。

(持っているセカイが違う/同じ以前に、二人の間に誤解が生じているわけで…それも含めて、セカイとセカイとが奏でる”harmonie”ってことになるのでしょうか…?そもそもharmonieはharmonyと意味は同じってことで良いんだろうか。謎。)

あと、主人公たち男子がラノベを読んだりアニメの感想を話したりしている所も、リアル感に一役買っていると思います。いわゆる「2.5次元」(以下参照)的な味付けも効果的だったかと。

 

以上のような感じです。

アニメミライ2014総括としては、自分的にはなかなか良かったというところです。そして、何故か全て男主人公でした。それぞれの監督がその持ち味を生かせるものがたまたま全て男主人公だったのでしょうか。しかもその内3作品に幼馴染みヒロインが出てきます。幼馴染み好きの僕としては嬉しかったです。

 

関係ないですが、最近幼馴染み系ヒロインをあまり見なくなったのは、地縁的な共同体が失われていくと共に「幼馴染み」という存在がリアリティを失ってきた事と、あとは主人公との親密さや積み上げてきた過去の厚みという点では幼馴染みよりも姉・妹(あるいは兄・弟)の方が大きいので有利であるという事の二つが大きな原因と見ています。(地縁的な共同体の喪失と並行して一方で少子化も進んではいますが、実際に一人っ子ばかりというわけではないし、「姉妹」という存在がリアリティを失う程ではないと思います。また、姉妹は「結婚できにくい」というデメリットがありますが、最近では萌えの対象であるヒロインと「結婚」とか「家庭を成す」という回路や志向が少なくなっていってるのでデメリットが大きいものじゃなくなってきたのも関係しているのかな、と考えています)

 

というわけで、ではまた。

アイドルマスター劇場版を見に行って来た

アイマス劇場版を観に行ってきました。見に行くのはこれが二回目です。映画館は1回目が梅田ブルク7で2回目が京都のTジョイでした。以下写真

 

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 ブルク7の方はエレベーターの方もアイマス仕様だったりキャラクターポップにもサインがあったりと色々豪華で壮観でした

Tジョイにもサインはありましたが一箇所だけでしたね

 

 僕はガイナ出身のアニメタとして錦織監督が好きなのもあってアニマスは凄く好きですがゲーム版やモバマスには手を出していないのでいわゆる「非Pのアニマスファン」です。錦織監督は生き生きとしたアニメ美少女をデザインし描写するのが上手い人で、TVシリーズでいえばOPでもそれぞれのキャラの特徴を1カット1カット良く出せています。シリーズ全体の構成も、それぞれのキャラがアイドルとして羽ばたき各々の活躍をするようになったのを描いた上でその集まりとしての765プロの意味を問い直すという作りを丁寧に描いていてますね。このポスタービジュアルの一枚絵も錦織画、良いですね。ちょっと後期ガイナっぽい感じもします

 

 で、肝心の映画の感想ですがまあ一言でいうと「良くできたファンムービー」でした。ただその一言だけじゃ言い尽くせないことも多いしいくらか欠点も指摘できると思うのでもうちょっと書きます。(一応言っておくとこれを書く上で他の人の感想はあまり見ていないので既出の話も多々あると思いますがお許しを)

 

 まず映画館で観るとモーパイとかの近日公開映画の次回予告が延々続いたあとにあの劇中作『眠り姫』のトレーラーが来るわけで、このアイディアは個人的に膝ぽんでした。その手があったかと。シームレスに映画に入って行ける訳ですよ。TVシリーズ15話のキサラギ今石洋之と雨宮哲がやった)の時とかも劇中作は内容そっちのけでスタッフのお遊びというかファンサービスになってたと思いますが今回も劇中作は色々混じっててカオスな内容…でしたね。まあBD買う層としてはああいうアクション含めファンサービスですよ。

 

 OPシーンからして美希のハリウッド進出だったりそれぞれのキャラの活躍/成長が感じられるのですが、それでも春香はやはり授賞式で転ぶ…というキャラ付けを忘れない感じが良い。雪歩もちゃんと穴掘って埋まろうとするし。キャラクターでいうと伊織もTVシリーズと同じく今回は良い役どころでしたね。志保と春香の対立を取りなすという。伊織はTVシリーズでも影でいい役をしてる箇所が多く僕はTVシリーズで伊織を好きになったクチです。

 

 アリーナLIVEは映画のクライマックスを飾るに相応しい出来でした。監督の言うようにLIVEの一曲丸ごとアニメでやる、という先例の少ない試みでしたがわりとハマってました。神前さんの作曲で歌のポテンシャルも高いのですが、LIVEの一曲全部を通じての感情の高揚がちゃんとアニメで味わえるというのは結構いいものだなあと思いました。

 ライブシーンのCGですが、アクションに違和感なく組み込んでいるのはいいんですがCGを使うシーンはロングショットで(多くは俯瞰で)撮るカットが多かったですね。モーションの不自然さが際立たないようにするためでしょうけど。ストパンとかで使っていたようなCGの使い方でした。CGを使うのはやはり作画リソースに負担をかけないようにしながらダイナミックなカメラの回り込みカットとかを撮るためでしょうが、そのためかLIVEシーンはバックから遠景で撮るカットが多くなってしまったように思います。特に俯瞰のカットとかは感情移入の妨げになるのでよくないと思うのですが。

 せっかく3Dレイアウトでアリーナ会場を再現できるようにしたのだから会場全体を映すようにしながらアイドルを撮りたい!というのは分かるのですが、特に「ma@sterpiece」 のクライマックスのサビ部分で俯瞰のカットにしてアイドルじゃなくて会場を埋め尽くすサイリウムを映す、という所とかは正直うーんという感じです。直前にメンバーたちがサイリウムを「光の海」となぞらえてるしそれもかかっていて、プラスLIVEの雰囲気やファンの熱狂ぶりを再現する上で必要だったというのは分かるのですが。だからLIVEシーンは惜しい出来だと思っています。まあメンバーのカメラ目線サービスシーンとかバックダンサーの子達の可愛さとかを見るとそれも許せてしまう気がするあたりズルいですがw

 可奈が太るのは、まあ「ストレス溜まると甘い物を食べてしまう」という台詞とか、あと可奈の部屋を映す際にお菓子が映ったりするので薄々気付くんですが、やはり意表をつく感じはしますね。可奈ファンの人、怒ってないですか?とも思ったんですがそういう声も聞かないし、まあ大丈夫だったのでしょう(多分)。

 

 そしてEDはよかった。ちょっとした後日談をEDの静止画で見せる、という演出は正直弱いので、ぐっと来てしまいました。劇場版ドラえもんとかでよくあるやつですね。この見せ方は良いと思うのでTVアニメの最終回とかでももっと広まって欲しいですね。

「GO MY WAY!」はアイマスの中でもかなり好きな曲なので挿入歌で来たときは嬉しかったですね。「ラムネ色 青春」のシーンの自然体のアイドルたちもよかった。

 

 春香とプロデューサーが10年後の未来について話すシーンは思い深いシーンです。ただ自分はちょっとここで考えさせられてしまいました。この映画自体が「輝きの向こう側へ」というタイトルだし明確に未来をテーマにしているわけであって、プロデューサーが10年後の春香の可能性について話し、アイドルたちはまだまだ多くの可能性を持っていると言うわけですが、10年後とかのその可能性については絶対に劇中で描かれないんだろーなーと考えてしまったのです。本編で描かれるとしてもせいぜいが1,2年後なわけで、その未来の持つ可能性(特定キャラがPと結ばれたりとか)については各々の観る人やPの二次創作や妄想で補完するのに任せられてしまうのです。つまりその未来の「可能性」そのものが消費される対象であり、その可能性というのは決して描かれることのない薄っぺらいレトリックに過ぎないんじゃないかなーと魔が差したわけです。もちろんこれはゲーム原作のアイドルアニメとしてのアニマスの枠組みの中では仕方のないことなわけで、「その後」は決して描かれることのないわけなんですが、「輝きの向こう側」には何もないじゃないかな…と自分は考えてしまいます。ファンサービス映画だからそんなこと言っても仕用がないんですが。

 

 春香がプロデューサーによってグループリーダーに任ぜられたのは、TVシリーズ終盤においてバラバラになりかけた765プロを団結させる契機となるのが春香だったという流れを汲んでのことでしょう。ここでも765プロはメンバー全員それぞれの思惑や動機はあれど「団結」している、ということがグループのアイデンティティとして再確認されるわけですが、今回の映画でリーダーとして春香がしたことも結局はメンバーの団結を優先したことなわけで、TVシリーズとやっていることは繰り返しのようですがグリマスのメンバーがそれに触れて「成長」するというのが大きいですね。765プロの物語はやはりTVシリーズで完結しているわけで、今回「成長」の要素はグリマスメンバーに仮託されたのかなーと。もちろん「みんなは一人のために」の精神でメンバーを見捨てず「団結」を優先する765イズムというか、そういうアイデンティティをより際立たせるという意味もあるわけですが。

 グリマスメンバーもTVシリーズの765プロのように、可奈に代表されるダンスも不得手で消極的な子たちと志保を代表とする個人主義的でドンドン前に出たいと思っている子たちがいるけど、その子達の擦り合せが、春香をリーダーとする765プロのメンバーに触れることで解消されグループとして団結し「成長」する、そして765イズムを「継承」することにもなるーーという流れができていたのかな、と。

 グリマスメンバーは765プロのメンバーをラジオやTVで見聞きしているわけで、そういう「お客様」として入ってきたメンバーがちゃんとグループの一員になる過程が描かれていたのですよね。

 ただ、春香と対立していた志保が「このステージは私が思っていたよりずっと重たかったから」というシーンは、ちょっと圧力に屈したような感がありましたw。TVシリーズ25話で積み重ねてきたその765イズムの伝統には、私ごときの個人主義では太刀打ちできないから屈するーーみたいなね。映画では相互から歩み寄るように描かれていましたが、「重かった」という台詞はどうしても圧力というかプレッシャーを彷彿とさせるし、実際には志保が折れる形で終わったわけだし。

 

 前半はメンバーの成長を示すサービスシーンで、全体としては春香の演説→アリーナライブにつなげるためにドラマが積み上がられていくような作りでしたね。「ライブシーンのための映画」という評価もまあ分かります。前半で吉澤記者が春香に諭すシーンとか千早と春香がバーで会話するシーンなどもそこへつなげるためのいわば伏線の役目を果たしているわけで。プロデューサーの渡米というのも、緊迫した状況を作り出し春香に積極的な行動をさせるためのドラマ上の要請から来ているのだろうし。

まあ今回の映画の総括としては「いくつか文句をつけたくはなるけどこれ以上の出来は期待できないくらいだし、良くできたファンムービーだったよね」ということで。

 

余談ですが映画だとメンバーの使ってるケータイは、確認できる範囲だと

真ースライド式のガラケー

春香ーパカパカ式のガラケー

亜美or真美ーパカパカ式のガラケー

でしたが(伊織はスマホだったような気が)、グリマスメンバーは皆iPhoneなどスマホだったので時代が反映されてるというか、アイマスメンバーの方の時間が2000年代中盤で止まってる感じもしますね

 

2回目の視聴で「ミリオンライブ!」メンバーのキャラデを鈴木大さんがやってることを知りました。今『妹ちょ』のキャラデをやってる人ですね。そう思うと似ている気がしますねー。

あと、可奈が合宿の舞台裏でお菓子食べてる所を春香が声かけるシーンが何故か2コマ作画で異様に滑らかに動くのはちょっとおかしかったですね。あれは何だったんだろう。