highland's diary

一年で12記事目標にします。

『楽園追放』公開初日に見ての感想メモ

『楽園追放』、初日で見て来た。備忘録的なメモをば。見たのは公開初日ですが、立て込んで書くのが遅れました。他の人の感想とかはまだ見てません。

ゼロ号試写を見た氷川竜介さんが「ええ話や!」と仰っていたけど、それは非常に同感。まさに「ええ話」という形容がマッチ。
 
それにしても虚淵さんは、板野一郎真下耕一、新房、I.G.の塩谷×本広克行、村田和也(コードギアス副監督にミロス)、に続き水島精二とも組んで、順調にスターダムに登り詰めてる感があるなあ。
 
それというのも極めて王道のエンタメで、一本化したシナリオで、無駄のない構成だった(筋は単純ともいえる)。ラグランジュ点に位置するスペースコロニー内に築かれた電脳空間と、ナノハザード後の荒廃した末来の地球が主に舞台になっているけど、テーマはSFとしては古典的なもの(結局のところ電脳空間とリアルとの価値観の対立で、それに人工知能アイデンティティの話がある)で、虚淵的には現代的なテーマ性に刷新されてはいても、定型としては古いとも言える。ポストヒューマンでありサイバーパンク
 
タイトル(『楽園追放』)の意味もダブルミーニング、トリプルミーニング(或いはより幾重にも)になっており、ディーヴァから見たリアルワールド、リアルワールドから見たディーヴァ、地上から見た宇宙、といったように主要キャラ三者三様(アンジェラ、ディンゴ、フロンティアセッター)のテーマから見て取れるものになっている。
 
本作でのアンジェラ、フロンティアセッター、ディンゴらリアルワールドの住民とは、ガルガンティアにおけるレド、ヒディアーズ、現生の地球人類と置き換えて見てみることもでき、恰好の比較対象だろうし、比較されるだろうなとは(チェインバーと、本作においてそれに対応しているだろうフロンティアセッターとでは、構図的に位置づけが異なるものの)。
 
電脳世界において、階級によって割り当てられるメモリ量によって生活レベルや行動が規定されるというアイディアはイーガンの『順列都市』を彷彿とさせるけど、階級社会・管理社会のモチーフとして使われているという点ではシビュラシステムの方が近いかな。
 
テーマ的には生身の人間も、データ存在も意志を持った人工知能もそれぞれに人間であり多様性に寛容であろうという極めて分かり易いもの。その上で、多様性に偏狭な態度を取る電脳世界ディーヴァを主人公が放棄するという所に、ややプラスアルファで価値観が乗っかっているけど。きわめて明快で、テーマに合わせてシナリオが収束する強固なストーリー構造を持っている。
 
ラストの味わいも、宇宙進出への展望の礼賛ともとれ、多分に'50年代SF的なもの。『アイゼンフリューゲル』のラストとか見るに、虚淵氏はこういうの好きなんだろうな。
 
虚淵の思想的な面から捉えれば、以前『鬼哭街』のインタビュー(http://www.4gamer.net/games/130/G013023/20110617067/index_3.html)でガンガン言ってた「もし出来るなら、躊躇なくガンガン全身義体化しちゃうぜ!」に表れてるように、「電脳化とかそういう技術の発展に抵抗はないし楽観的な態度は取る(けどその技術に縛られ過ぎるのもどうかってところ)」という面は昔から一貫して変わらないスタンスだとは思う。
 
東映じゃなく例えばI.G.とかだったらもっとラディカルなテーマ性になった可能性もあるかなあとも思ったけどガルガンティアがそれですね。
 
本作の虚淵の脚本抜擢のきっかけは『神林長平トリビュート』に虚淵が寄稿したものが東映の野口プロデューサーの目に留まったかららしいんだけど、あれに虚淵が書いてた話、昔過ぎてほとんど記憶に残ってないなあ。元長柾木のやつのがまだ印象に残っているくらい。喋る人工知能が出て来たのは覚えている。
 
ディンゴのキャラ造形(外見)も往年のイーストウッドを転写したものだけど、砂漠地帯だし、アンジェラは保安官だし、虚淵がSF的世界観とウエスタンを絡ませるているのは多分に『続・殺戮のジャンゴ -地獄の賞金首-』(2007年)的だなあ。そういえば『ジャンゴ』の時、ニトロプラスは(新しいもの好きなNitro+らしく)「グラフィック上でモブキャラを全部CGモデルで描く」というのをやっていたけど、ショボくて合ってなさ過ぎて半ばギャグになってた。『楽園追放』がグラフィニカスタッフ総結集の豪華ビジュアルで作られてる事の有難さを痛感。思えばそれまで「バッドエンド症候群」に取り憑かれていた虚淵が初めて胸躍るハッピーエンドを書いたのって『ジャンゴ』だと思う。『Fate/zero』書いたあたりから「バッドエンド症候群」克服できた実感はあったみたいだけど。
 
映画の話に戻ると、3DCGで作られているというのが大前提で、大きなポイント。セルルックなCGという点ではかなり奏功している。モデリングも優れているし、動きの付け方もタメツメが利いている。アクション中でも止まっている所で止まっているのも大きいかもしれない。
一般論として、3DCGのアニメーションは演技が過剰でクドいものに見えてしまう傾向にあるけど、それは、3DCGのモデリングだと手描きアニメーションと違い中割り動画を重ねなくても動かせる部分があるから過剰なものになってしまうしそう見えてしまうのだと思うけど、かなりの部分でそのようなクドさや、不自然さは克服出来ていると感じた。
 
3DCGではクドさが抜けている部分のある一方で、脚本に関しては、(バトルに至るまでの過程の描写とか、そういうプロットの組み方はやはり上手いけど)細部の描写でくどく感じてしまう。明快なシナリオなのはいいけど、極めて演出意図、作劇上意図が見えてしまうという意味で。
 
フロンティアセッターの設定語りとかはある程度キャラ付けとして許されるものだとは思うけど 
セリフはもっとカットしてもいいのでは。
 
たとえば、「あの野蛮で不潔なリアルワールドで~」という終盤でのセリフはまだ良いにしても、
 
序盤にリアルワールドに降り立ったアンジェラの「何この埃っぽい大気......こんなの呼吸しろっていうの?」というセリフに、もう過剰さが見て取れるし、このセリフだけで後々のストーリー展開がもう予想出来てしまう。
 
食事のシーンが多いのも、アンジェラが初の地上で病気になったり偵察のため屋上に上らされたり(ディンゴが高所恐怖症というエクスキューズ)するのも、全部、後の(アンジェラがディーバに反旗を翻しリアルへ移行する展開の)ための前振りだって露骨に分かってしまう。
 
最初に砂漠に降り立つシーンも、単純に咳こんでさり気なく愚痴を言うぐらいだけでもいいし、車を運転するアンジェラが疲れでウトウトするとか、そういうさり気ない描写を重ねるだけで十分伝わっただろうと感じる。親切設計というかお節介というか。
 
そこは、映像で見せられるのだから映像で語れば良いというのもある。そこで稚拙さが見え隠れしてしまうのは良くない。もっとコンテ段階でセリフを大幅にカットして映像で語らせるか、原案・プロットだけ虚淵でホン自体は他の人が書いても良かったのかもしれない(でも虚淵の作劇はセリフ込みというのはどうしてもあるからそれは難しいかも)。
自分は虚淵のダイアログ好きな人間なのでそこら辺は寛容に見てしまうんだけど。
まあ当初はもっと前半とかで「世界観を象徴するような」セリフがあったのを尺の都合で大幅カットしたらしいし、尺の都合で切るべき所は切っているんでしょうけど。
 
映画というものでやってる以上TVシリーズ以上にキツキツの構成になってそのような粗が目立つようになってしまったのかなとは。
穿った見方をしてしまえば、これは3DCGの迫力ある映像に重点があるから、「プロットは練るけど(いい意味で見ている最中に頭使わなくて済むよう)ストーリーはその分明快な親切設計にする」、という連携なのかもしれない。
説明セリフという所からだと、SF的世界観だと虚淵はSF作家としての地が出るのかなあと思ったり。
 
筋立てについてはもう一点。説得力を持たせる問題として、最初の方である程度、もっとディーヴァでのアンジェラたちの描写をした方が良かったんじゃないかな。ポストヒューマンらしく高度な情報処理能力でディーヴァで浴びるままに快楽を享受してる様子が、ビーチでの描写だけじゃイマイチ伝わらないし。最初にあのフロンティアセッターとのバトルからの導入があるのを考えると難しそうだけど。
ディーヴァでの階級制度についてもダイアログで説明あるのみだから、ドット絵的なロースペック住民とかを少し描写しとくとかしても良かったのではと思う。そのせいで、「ディーヴァと比べてこの地上では~」っていうアンジェラの台詞や描写の部分が、観客が想像力で補うしかなくなってるし。まあキャラが増えるし蛇足かもしれないけどね。
 
以下雑談につき箇条書き
 
○『楽園追放』は、ガルガンティアのハナハル先生に続き、またもエロ漫画家(saitom名義)のキャラ原案。そういえばキャプテンアースもキャラ原案は成コミ作家先生だったなあ。齋藤将嗣さんはキャプアスでもデザインワークスとして参加されているんだなと知った。
 
 
○後半、アンジェラが再度ディーヴァに戻ってからは京田コンテパートとの事。エウレカでの村木靖の仕事も彷彿とさせるし本家板野監修(?)のサーカスは劇場スクリーンで圧巻。劇場での視聴を強く推奨。
 
○「'80年代のAICOVA」っぽさという話を京田さんが言っていたけど(バブルガムクライシスとかゼオライマーとかの辺の?)後半のアクションもそれを彷彿とさせるし(作画やタイミングも)、前半シーンのアクション以外の描写もウエスタンというよりはそっちのノリなのかな。SFとしての本作の位置づけもそうかもしれません。作画のバラつきもそうですが。 
 
○ロケット発射シーンは三角形ぽい破片の描き方とか、シーンの見せ方とか『王立』を感じる。
 
○3DCGらしくだけど、作画バラつきもいい味だと思う。公式アカウントがアップしている動画でもCGアニメーターごとにパート分け紹介していて良いなあと思う。


Expelled From Paradise Film Making Vol 2 - YouTube

既にCGアニメーター個別の作画wikiも出来てるし、CGも作画の一部として評価されていくんだろうと感じる。サンジゲンの名倉晋作さんも参加されていたのをクレジットで発見。
 
○3DCGでエロの描写に力入れるのは理解できる。CGだとやわらかい肉感というものは出しにくいというイメージがあるし、だからそこへのオブセッションがあるというのも極めて分かる。これに関してはどこまで出来るかという実験でやっている部分もあるだろうけど、それ含めて評価できるものと感じる。作劇上、そこで意識的なアングルで撮りまくってしまうのもどうかと思うけど。
 
○キャスティングも上手く行っていたと思う。水島監督の指名で縁のある人選というのもそうだけど。ディンゴのキャラも当初の想定以上に存在感あるものになっていたし、釘宮さんがこの主人公やってるのも、”生身の肉体の不在”という通底するキャラ性を持つ『ハガレン』(水島作品)のアルフォンスをずっと演じていた人だからというのもあるだろう。
  
しかし、ゲスト出演が高山みなみ林原めぐみ三石琴乃なのは完全に声優ギャグだなあ
 
(追記)2014.11.17
虚淵作品として見ちゃってて水島精二については全然触れてないなあとは思う。虚淵のストーリーラインありきでの企画でしょうというのが理由だけど。そこら辺は水島監督ファンの人に任せます。
<比較対象としてありそうなアニメ作品>:00、UN-GOハガレンガルガンティアサイコパスビバップゼーガペインアルペジオあたり

アニメ制作・アニメ業界もののアニメって

水島努×P.A.WORKSの新作アニメ『SHIROBAKO』はアニメ業界が舞台で制作進行が主人公のアニメ制作アニメ。世間的には、幾原監督をモデルにしたというアニメ業界小説『ハケンアニメ!』 が話題になるなどアニメ業界ものはタイムリー。しかしアニメ制作・業界物についてまとめているような記事が見当たらなかったので、多分に紹介文的なものになってしまうかもしれませんが書こうと思いました。

SHIROBAKO』に関して言うと、水島監督×シリーズ構成:横手美智子のコンビは『ハレグゥ』を初め『イカ娘』『じょしらく』など多くの作品で組んでいるけど、そこにP.A.の関口可奈味キャラのニュアンスが加わり、音楽は『TARI TARI』『ガルパン』の浜口史郎というスタッフィング。おそらくは『いろは』に続くP.A.の「働く女の子」シリーズ2弾ということですがアニメ制作アニメということで似たような系列の『まんがーる!』のような雰囲気も込みでいくのかなあ、、とか。女の子5人組がメインで、水島監督で横出美智子シリーズ構成という点のみ取り出せば実質『じょしらく』ですが。

 企画の始まりは2、3年前に水島監督と乗ったJR中央線の車中でのこと。制作現場を舞台にした作品を作りたい。制作進行の話ではなくて、制作進行の目を通して見たクリエーターへの敬意や、この業界の今を描きたいという話をしました。監督も制作進行の頃から作ってみたかったようで、「実はファーストシーンはもう考えてあるんです」と、2社の進行車が交差点で並ぶシーンの説明を受けました。監督構想20年のシーンです!じゃあ、作りましょう、というのがこの作品の始まりです。

 

(「メーカー横断アニメガイド2014SUMMER」『SHIROBAKO』プロデューサー 堀川憲司 インタビューより)

水島監督が(シンエイ動画での)制作進行時代から温めていた二十年来の企画とのことで、ギャグやフィクションを交えつつもアニメ制作工程を描きそれをエンタメとして仕上げていこうとする気概も伺えます。

水島努監督の制作現場時代の体験談もエピソードなり描写なりで活かされるのかなと思いますが 、ここに来て自分にとって思い出されるのは同じく制作進行の女の子が主人公のOVAアニメーション制作進行くろみちゃん』シリーズ。

 (……) その後さらに、ラッキーモアというアニメの撮影会社の立ち上げに参加し、その流れで、ラッキーモアの出資会社であったイージー・フィルム(以下イージーと略)というアニメ制作会社の制作部に移籍しました。そのイージーの頃の制作経験が『アニメーション制作進行くろみちゃん』で描かれているわけです。

 

大地丙太郎『これが「演出」なのだっ 天才アニメ監督のノウハウ』より)

大地監督のキャリア的には『ドラえもん』の撮影監督を5年ほど務めた後初のコンテデビュー、そして一旦アニメの仕事を離れた後に再び制作進行としてアニメ業界に復帰していますが、この頃の実際の経験が『くろみちゃん』においても活かされているとのこと。実際、制作進行の主人公に関してではないですが、大地監督がコンテ打ちの際に笑いながら説明しているのを前にアニメーター陣はひたすら真面目に下を向いてメモを取っている……というような上掲書において語っているようなエピソードが『くろみちゃん』においてワンシーンとして出て来るなど、実際の経験に裏打ちされた描写がなされている部分も感じられます。

アニメーション制作進行 くろみちゃん [DVD]

アニメーション制作進行 くろみちゃん [DVD]

 

 『くろみちゃん』はやや誇張も含まれますがアニメ制作の常に切迫したスケジュールや品質管理に関する厳しい状況をコメディタッチで描いていて、それにシリアスな要素を絡ませる大地監督お得意の芸風。

2作目はスケジュール管理に関して質よりも早さを優先させることで厳しい制作状況を乗り切ろうとする制作デスクが登場し、テーマ的にも更に踏み込んで、締め切りをとりあえず乗り切ろうとする現場主義的な考えと、それでも品質を維持しようとする向きとの対立軸になる。

制作されるアニメ本数に見合った人員やスケジュールが確保されていないアニメ制作の現状に対する大地監督の問題意識が根底にあるのでしょう。

 思えばアニメーションの厳しい制作現場における現場主義・商業主義に対しそれに抗って真摯な作品作りを進行しようとする態度を真面目に作品として描こうとするならばそれは作品内としては「理想/現実」の対立軸というところになるので作品のドラマ性はそこで担保できるのだと思います。『SHIROBAKO』でもその面は関係してくるのでしょうか。

ところで、アニメ制作に題材を取ったアニメのエピソードは多々ありますが、

  • 妄想代理人』10話「マロミまどろみ」(脚本:吉野智美 絵コンテ:佐藤竜雄 演出:遠藤卓司)
  • こいこい7』6話「熱血闘魂・鬼軍曹どのっ!制作進行サクヤさんです〜」(脚本:社綾 絵コンテ:八谷賢一 演出:米田和博)
  • GOLDEN BOY さすらいのお勉強野郎』6話「アニメーションは面白い!」(脚本・絵コンテ・演出:北久保弘之)

 など、役職でいえばアニメーションの制作進行を主人公としたものが目立ちます(前者2本はTVアニメの1エピソードで、後者1本はOVA)。『SHIROBAKO』も主人公は制作進行の子のようだし。その理由として考えられる内容のことを『妄想代理人』監督である今敏が証言しています。

他でもない我らが「業界物」なので、アニメの舞台裏、制作現場やスタッフ、制作プロセスなどの紹介も重ね合わせた方が良かろう、ということになった。となると、原画動画、美術 背景、色彩設計、撮影などなどの絵にかかわるポジションは主人公として除外されることになる。なぜなら彼らの仕事は机から動かない。監督や演出というポジションも主人公として魅力ではあったが動く範囲が限定されていることに変わらない。そのポジションの仕事ととして動き回ってくれないと各プロセスやスタッフの紹介もままならない。そして各スタッフの間を動き回るポジションというと「制作」しかない。制作といってもプロデューサー、制作デスク、制作進行など 色々あるが、各スタッフ間を頻繁に回って歩くのは「制作進行」しかない、ということになる。
 

妄想の九「アニメのアニメ」|「妄想」の産物|KON'S TONE

 アニメ制作の舞台裏に触れるような「業界物」の内容にするならば、アニメ制作の最も多くのセクションに関わる人間であり、かつ能動的に行動をとり物理的にも移動の多い制作進行を主人公にした方が当然やり易い、という計算の上で制作進行という役職が選ばれていたのが分かります。

アニメ制作ものとして個別に作品について触れると、「マロミまどろみ」は『妄想代理人』の1エピソードということで、アニメ制作の逼迫した状況を体現するかのようにアニメ制作の各役職が次々と少年バットに始末されていき、それを制作進行の主人公の回想という形で描いています。各役職の担う役割についても詳しい解説が入る。

OVAGOLDEN BOY』は北久保監督、キャラデの川元利浩のもと磯光雄本田雄の参加した作画アニメとして知られていますが6話は当時のセルアニメの制作の様子が細かく分かるエピソード。アニメ現場現場の実写素材を使ったりとなかなか面白く、またオリジナルエピソードの最終話としてそれまでのヒロインを総括するような構成にしているのも上手いし、原作の江川達也、北久保監督、作監川元利浩さんそれぞれをモデルにした原作者、監督、作監も本編内に登場。

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 『こいこい7』6話は主人公達がアニメ制作に駆り出されるギャグ回ですが(というかこのアニメはほぼギャグ回かもしれませんが)、過密スケジュールを管理するスパルタ制作進行として奔走するサクヤの台詞

「いいか!貴様ら動画は原画も描けない無能な連中だ」
「私の任務はその無能な貴様らにきちんと動画を上げさせることだ」
 
「いいか。貴様らは人間じゃない。色を塗るためだけの機械だ」
「筆を持たない貴様らにはひとかけらの価値もない」

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 などはなかなか衝撃(というか、言ってる当人がまず人間じゃなくサイボーグなんですが)。期日に間に合わせるため3徹したり逃げ出したスタッフを強制連行したりする描写もあったり。

また、アニメ制作の工程をなぞるようなものとは別に、プロデューサーと原作者、監督との駆け引きに焦点を置いているエピソードとしては

とかがあるかと。『こち亀』原作にもあるエピソードですが、アニメ版ではよりアニメに関して細かい描写になっています。両津が原作者不在の状況を利用して原作者の代理人としてアニメ制作に意見出しを行い、関連商品を売りたいスポンサー側の要求を持ち込み少女漫画の内容を改変しまくった挙句ロボット戦隊変身バトルものの商品紹介番組にしてしまうという内容ですが…。この回はアイキャッチ、EDが劇中作のものに差し替えになるなど遊び心が尽されてます。

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原作サイドとアニメ作品との関係というのをより深く掘り下げてシリアスなものにしてかつ今風のアレンジになっているのが

かもしれません。制作現場までは踏み込みませんがこれもアニメ回で、倉田脚本のオリジナル回として、センセーショナルな内容でもあったので記憶に新しい人も多いかもしれません。

そういえばこの当時『こち亀』 の監督だった高松信司監督は「アニメ業界ものやりたい」というつぶやきを以前していました。結果的にTVシリーズとしては水島監督が先に着手することになりましたが、高松監督のアニメ業界ものも見てみたいです。

高松監督といえば、アニメ制作回というのとは少し違いますが、コンテを担当した『銀魂』94話「電車に乗るときは必ず両手を吊り革に」のアバンでこんな事をしていたのが思い出されます。


銀魂 アニメになるまでの過程 - YouTube 

あくまでメタなギャグとしてですが、アニメを構成する素材を露呈させそれをスラップスティック的に見せて行くところに面白さがあるし、アニメ制作を題材にしています。

同じようなコンテ撮りやレイアウト撮を見せるような描写は川口監督の『SKET DANCE』でもしていました。

こち亀』のような長期シリーズのアニメだとアニメ制作回も挟みやすいのだと思います、『星のカービィ』では2回やっていましたが、『ハヤテのごとく!』『ケロロ軍曹』『美少女戦士セーラームーン』のいずれもファーストシーズンでアニメ回があります。

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上から『ハヤテ』、『ケロロ』、『セラムン』。

星のカービィ』49話のアニメ制作回は徹夜での作業、アニメーターの重労働、逼迫したスケジュールなどを描き、「アニメーターにも基本的人権はある」とキャラに言わせたりし、アニメ内でアニメの制作状況についてのバッシングを入れたり自虐ネタも取り入れたりといったアニメ内からの告発めいたエピソードとして有名ですが、本編内、アニメ放送の最中ぶっつけ本番でアフレコすることになったキャラの会話がこれで。

ブン「あーじれってえアニメだなもう」

フーム「さっきから全然動かないで突っ立って喋ってばかり」

パーム「動かすのが大変だからお喋りして誤魔化してるんだ」

メーム「しかも動いてるのは口だけ」

フーム「でもほら、カメラワークはあるわ」

メーム「動いてるように見せかけてるだけ。これじゃサギよ」

パーム「こういうアニメは安く作れるね」

エスカルゴン「お金も時間も無いんだからしょうがないでゲしょうが!」

 この49話の脚本は『カービィ』総監督の吉川惣司さんで、『ルパンVS複製人間』も監督している大ベテランですが、虫プロ設立後まもなくの日本TVアニメ黎明期からアニメーターとして活躍されている方による脚本と考えると重みがあるしブラックなリミテッドアニメ批判としても取れるのが面白い。89話の方の脚本も合作で書いていて、そちらはオタク的なネタも多くパロディ色も強い内容になっていましたが。

 他にもハヤテのアニメ回はアフレコアニメ的内輪ネタもあったりケロロのアニメ回では劇中劇のアニメの原画を声優が描いていたりしていてネタとしては面白いですが、一旦このくらいで。

あと、そういえばOVAの『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて』の4話もアニメ回でした。

 OVA小麦ちゃん』シリーズは3話から制作が京アニからタツノコに移り、それまでのパロディ多めのギャグ路線は踏襲しつつ米たに監督のカラーが強くなりタツノコの自社パロが入ったりギャグ色のより強いアチャラカ気味になっていた印象ですが、アニメ回も、アニメ制作については段階的な描写はありますが、脚本家の「あかほりさとろう」が登場したり「ヤシガニ」ネタが入ったりするギャグ回。

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 TVやOVAシリーズ内の1エピソードとしてアニメ回が挿入される場合、それはメタなギャグとして行ったり、アニメ制作者との距離を近づけるようなものだったり、アニメファンとしての製作過程への興味を刺激するようなものとしてのいわばファンサービスであったり内輪ネタであったりすることが多いかと思います。

余談としては、『小麦ちゃん』4話と『ハヤテ』44話とでどちらにもナベシンが劇中でのアニメ制作スタッフとしてカメオ出演を達成しています。

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『ハヤテ』一期に関してはおそらくは川口監督のつてでナベシンはローテに入っていたので他の回でも出まくっていますが『小麦ちゃん』の米たに監督の回でも出演で、もちろん声も本人。ナベシンの出演するような回だとアニメ制作のメタネタやパロネタでも許されるというようなところでしょうか。

アニメ制作アニメではアニメ内にまた劇中劇という形で作品が生じるいわゆるメタ構造になるわけですが、その作品の中での現実と作品のリアリティのラインも重要な要素になるかと思います。そこをギャグに振るかどうかというのもあるし(最近だと『俺妹』などは劇中劇については凝っていて後にスピンオフ的に作品が出たりしているし(実際の制作経緯はまた違うみたいですが)『ブラック・ブレット』劇中アニメの「天誅ガールズ」が独立に商品展開したりしていますが、『SHIROBAKO』でも劇中劇と絡めて(商品的にも作品的にも)どのように展開していくのかというのは楽しみです)。

また、アニメ制作を題材にした漫画や小説と違いアニメ制作アニメは実際の経験に裏打ちされた部分がでるのがやはり好きだし、そこに業界内からのカミングアウト的なものを感じたりもします。

そういえば以前、こんな話をしました。

 漫画制作が題材の漫画といえば『サルまん』や『バクマン』などスッと浮かぶのに対しアニメ制作が題材の漫画は少数タイトルに限られてる印象があります。

そこで気になって、アニメ制作を題材にした漫画についてもちょっと調べてみたところ、結構なタイトルが出ていますね。

戦場アニメーション 1 (ジャンプコミックス)

戦場アニメーション 1 (ジャンプコミックス)

 
アニメ95.2

アニメ95.2

 
アニメもんエッセイ~お江戸直球通信~ (NORA COMICS SP)

アニメもんエッセイ~お江戸直球通信~ (NORA COMICS SP)

 

 『これだからアニメってやつは!』はアラサー女性のアニメ制作進行を主人公にした漫画で、その点ではやや『SHIROBAKO』とも似てるかもしれませんが実際は全然違う感じはします。余談ですが1巻巻末には「アニメ監督という仕事」について作者と大沼心の対談というかロングインタビューが収録されているのでお勧めです。

自分は前から好きなのは『レイアース』などで有名な元アニメーターの石田敦子さんの『アニメがお仕事!』ですが、やはり実際の経験に裏打ちされた部分が大きいし、キャラの掘り下げやリアリティの面でも優れていると思います。アニメ―ター主人公たちの青春ラブストーリーモノですが、仕事に遣り甲斐を感じる部分も伝わるし原画マンや動画チェッカーの労苦、アナログ時代のアニメ制作の状況も分かり、仕事と恋愛の葛藤もある。

 自主制作アニメを題材にした今井哲也の『ハックス!』も佳作で、学生主人公の青春ものでもあり、アニメに関わらず現代におけるクリエイティブな創作行為全般に通じるような普遍性を持っていると思います。

ハックス!(1) (アフタヌーンKC)

ハックス!(1) (アフタヌーンKC)

 

 また、アニメ制作を題材にした漫画とはちょっと違うと思いますが声優を題材にした漫画も最近は数多くあるようです。

newsdays2008.blog.fc2.com

web.archive.org

漫画『こえでおしごと!』『REC』などはアニメ化もしていましたが、アニメ化すると実際に声優さんによる声が声優キャラクターに付くのでメタ・アニメ的になると思います。『REC』もシャフト制作、故・中村隆太郎監督でアニメ化していましたが、新人声優キャラの恩田赤を実際の新人声優(当時)の酒井香奈子が演じているし。吉田玲子脚本のもと漫画とは少し構成も変えて「恋と仕事」を軸にして実直に描くようにしており、また各回脚本やOPでのビジュアルなど大胆にオードリー・ヘプバーンをフィーチャーしてのアニメ化で、アニメ独自の良さがありました。ちなみに『REC』原作の方では声優ヒロインの妹がアニメーターであり、後の方でヒロインとしても出てくるし、アニメ業界の話も絡んできています。

REC DVD-BOX

REC DVD-BOX

 

 ここまできて『SHIROBAKO』に話を戻すと、主人公:制作進行をはじめ声優、アニメーター、ライター志望、CG担当という5人はとてもバランスの良い采配になっていると感じます。制作進行を主人公に据えることでアニメ制作工程についての見通しをよくし、今やますます重要性を増しつつあるCG担当を投入する一方、それに偏らないようライターなどもあり、新人声優という役もアニメファンにとっては魅力的なものとして機能する。そして彼女らが学生の頃自主制作アニメを作っていた仲間であるという設定も、既存の作品でも取り上げられていた部分を持って来る感じでニクいと思います。この配役は水島監督のキャリアとも深い関わりがありそうですが、このあたりはプロデューサー側の采配もあるのか、それとも水島監督によるものでしょうか。

なお、TVアニメやOVAでのアニメ回についてはここでとり上げた以外にもあると思いますが、自分の知っていて心当たりのある範囲では大体これが全部だと思います。長くなりましたがそれでは今回はこの辺で。
 
(追記1)2014.9.11 
TVシリーズの『ミンキーモモ』第二作にあたる『魔法のプリンセスミンキーモモ 夢を抱きしめて』(1991~1992)、通称「海モモ」の1エピソードもアニメーターが主人公の話と聞いたので追記します。
首藤剛志さんがWEBアニメスタイル連載のコラム「シナリオえーだば創作術」この回 で触れていましたがまだ見たことが無かったので見てみました。
リンク先でも触れられているように演出家の石田昌平さんの追悼エピソードとして制作された回で、プライベートフィルム的な要素も強いですが、生前の石田昌平さんの原案を作中のエピソードに取り入れているのに伴い脚本クレジットも首藤剛志さん石田昌平さんの共同表記。石田さんと重ね合わせる形で、死に瀕したアニメーターである一人の男を主人公にしており、彼が自らのキャラやモモに見送られながら月夜をバックに夢列車に乗って空に去っていく、昇天の美しいシーンで締めくくられます。彼の死の一因としてはアニメ制作現場の厳しさも描かれますが、そこが主眼にあるわけではなく、夢敗れ死んだ彼を悼むのと並行して彼の夢が継承されていくという要素も入っており、石田昌平さんという実在のアニメーターを悼む内容であるという外部的な文脈なしでも感動させられるような名エピソードでした。できればこれを機に『ミンキーモモ』のシリーズも通して見てしまいたいなと思います。そして『ミンキーモモ』の原案やメインの脚本でも活躍しこの話の脚本やコラムを書いた首藤剛志さんも今や故人になってしまわれました。ここで冥福をお祈り致します。
 
(追記2)2014.9.24
記事内でナベシンについて書いたのですがナベシンが監督した『へっぽこ実験アニメーション エクセル♥サーガ』(1999~2000)、でもアニメ制作回、というかアメリカを舞台にしたジャパニメーション回がありました。
  • 『へっぽこ実験アニメーション エクセル♥サーガ』17話「アニメーションUSA」(脚本:倉田英之 絵コンテ:別所誠人 演出:平池芳正・福多潤)

あんまりアニメ制作の描写もないので入れなかったのですが一応アニメ回なので書いておきます。エクセル演じる三石琴乃本人でセラムン(の月野うさぎ)パロやってたりネタ的な見所は満載、この頃のやりたい放題やってた(今も?)ナベシン節も楽しめる。脚本書いた倉田も後にホントにアメリカ行ってそれでルポ書いたりしてましたね。

ついでに、アニメ制作の描写があるだけなら『おたくのビデオ』2話とかも浮かびますけど、あんまり関係ないですね。

(追記3)2015.1.17

アニメ業界漫画に関して追記です。

上井草アニメーターズ (1) (カドカワコミックスAエース)

上井草アニメーターズ (1) (カドカワコミックスAエース)

 
新しく見つけたアニメーター漫画を追記。他にも畑健二郎が同人でやってた声優漫画がアニメ化したりするみたい。エロゲ業界漫画だけでも可視範囲で複数出てきてるし、全体にお仕事モノとしての業界モノの機運の高まり?
たまにアニメーターの同人誌とかに、原画マンや制作進行を主人公にした漫画みたいなのが載ってたりするのも見るので、業界モノをやりたいって人は少なからず居そうですね。
『SHOROBAKO』の所為もありか、こち亀でもアニメーター回がありましたね。『SHOROBAKO』はくじアンみたいに劇中劇もアニメにするとか。
もし『MAICO 2010』みたいにアニラジをアニメ化するとかがあるなら渡会けいじ先生の『O/A』やって欲しいかな。でもあれは声優じゃなくてアイドルか…。
ハケンアニメ!

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アニメーションの基礎知識大百科

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『セーラー服と機関銃』(1981年)感想

 

セーラー服と機関銃  デジタル・リマスター版 [DVD]

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 たまにはアニメ以外の映画の話でもしたいと思います。

相米監督の映画は初めて見たがカットの切り返しなどほとんど使わずに超ロングからの長回しを多用するスタイルに驚かされた。佐久間と主人公が二人が屋上で組の墓を全て燃やすクライマックスとなるようなシーンも望遠で撮影した俯瞰の超ロングショット。マユミと泉二人で歌うシーンやEDで街を歩くシーンも望遠レンズで超ロングで、先鋭的な表現。そういった印象的な表現が生っぽさを出したりしてこの映画自体の雰囲気に結び付いているかもしれない。かなりの手間をかけてあえてそういう撮影に踏み切るというところに思い切りを感じる。

特に前半がそうだが、手前に木の葉や金魚鉢などオブジェクトをナメたり窓や掛物を通した形での超ロングショットで、カメラがじっくりと回り込んでいくような画面が特徴だと思う。

仏像で泉や高校男子三人組が騒ぐシーンもかなりの長回しだが、そこから更に暴走族のバイク疾走の長回しシーンまでカット切り返し無しに繋いでおり5分以上の長回し。バイクの荷台から後ろ向きにカメラを向けて撮影したんだと思うけどここまで思い切った処理は凄い。バイクシーンもそうだが、アフレコでの音付けをしており、エコーをかけているような処理も多かった。考えてみればロングを多用する以上録音はしにくいのでどうしてもアフレコにせざるを得ないだろう、という話だけど。

玄関の覗き穴の魚眼レンズから主人公の魚眼POVショットへの切り替えは、エコーの掛かった台詞ともあいまって動揺した現実感の伴わない主人公の心情の表現なのではないかと感じる。

前半のカフェで泉が記者と話をする場面、記者が泉にマユミのことを尋ねる瞬間に、その決定的さが演出されるかのようにBGMがシャットアウトされカメラがイマジナリーライン越えのように180°回り込む。こうした変化の付け方が上手い。

全編にわたりロングショットの多用があるが、カフェでの会話シーン、海辺のセットでの食事シーン、そして最後の死した佐久間とのキスシーンなどのシーンには主人公の心情に寄るアップショットが使用され、抒情的なBGMとも合わせ使われる。節目となるところでポイントとしてアップショットを使用し、ロングとの対比で効果的な見せ方になっている。

冒頭でめだか組メンバーの殴り込みを止めていた泉が自ら決起し殴り込みをかけに行くシーン、ヘロインのローションを機関銃で粉砕しながら泉が叫ぶ「カイ・カン!」のフレーズ。この「快感」は太っちょの語る、「死の恐怖と肉体の旋律が入り混じった」ものとも通じるものはあるのだろうか。この映画を飾る有名なシーンだが、セーラー服で機関銃を放つシーンは映画内でここだけ、しかもそのとっておきのシーンに1回のみじっくりスローモーションを使っており、否が応にも印象深いものにしている。

一方、クレーンにより泉がセメント漬けにされるシーンや太っちょにより地雷の上に立たされるシーンなどは客観的なロングショットのためかどことなくドリフのようなバラエティ番組のセットのように見えてしまった。「人生はクローズアップで見ると悲劇、ロングショットで見ると喜劇」というのはチャップリンの言。超ロングで表情がよく見えないというショットも多かったが、それが悪目に出ているということかもしれない。

薬師丸ひろ子演じる泉の服装がコロコロ変わるのは角川のアイドル映画としての側面からだろうか。セーラー服だけでも複数バリエーションがあった。初登場シーンからいきなりブリッジだし、二日酔いになるところでは匍匐前進したり、独特の演技指導も際立つ。そういえば『ウテナ』の橋本カツヨ回でウテナがブリッジや屈伸していたのを思い出したが、おそらくカツヨさんも『セーラー服と機関銃』の影響でそういう処理にしたという話だった。細田守相米監督に影響受けまくっているらしいし。

泉が強姦されかかるシーンなど随所でかかる音楽が笙の雅楽というのも面白い。じっくりヒコの手当てのシーンを撮った直後にあっけなく射殺されるヒコ、という一幕も刹那性を際立たせる感じでこの映画らしい。

太っちょの基地のセットは、臓物らしきホルマリン漬けがあったり台形の扉だったり多分に東映特撮のそれを彷彿とさせるものでチベット仏僧のような敵人員や太っちょの義足など相まって、ここだけ雰囲気がかなり浮いていると感じるが、それもこの映画の、カルト的雰囲気には資していると言えるだろうか。そういえばあの海辺のセットは背景合成とかではなく実際に海辺に組んだのだろうか。

薬師丸ひろ子もそうだが、敵ボスを演じた寺田農も、マユミ を演じた風祭ユキも良い演技をしていた。

しかし、この映画は少女の初恋、青春を切り取ったものであるけど、反面相米監督の実験的な手法も目立つしカルト的な雰囲気を纏っていたりとかなりコアなものだろうので、薬師丸ひろ子の主演やキャッチ-なタイトルやコンセプトなどの求心力はあるものの、角川映画としての宣伝やプロデュースがなければここまでのヒットを見込み、一本のカルト映画として以上の人気と支持を獲得することもなかったであろうとも思う。

次は近い内にまたアニメについて書こうと思います。

アニメルカ特別号『反=アニメ批評 2014summer』に寄稿させて貰いました。

http://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-47.html

TVアニメ『彼氏彼女の事情』の演出について
――セレクティブ・アニメーションの美学
桐原

とあるように、故あって(「桐原」名義で)『カレカノ』について書きました。

 

放映から15年経って、アニメ批評のトレンドもボカロやアイドルモノや3DCGになって来ているのに今更にして『カレカノ』です。自分だけ10年前のパラダイムに属している気分です。去年『フルバ』や『ウテナ』と同じタイミングでニコ生一挙やった時に『カレカノ』熱が再燃したのもありますが、ここに来て自分の中でちょっと『カレカノ』を振り返る必要があると感じたのもありました。一つは(少女)漫画のアニメ化という観点から、もう一つはTVアニメ時代(新劇EVA以前)までの庵野監督の作家的側面、そしてリミテッドアニメとしてのスタイルに関して。

ところで、情景などを用いた『カレカノ』の心象風景描写が京アニ新海誠に影響を与えたというのはどこまで本当なのでしょうか、長井龍雪監督は『とらドラ!』の際に『カレカノ』を方針に据えたという話はあったりしますが。

お話についてはほとんど触れず、映像スタイルに主に着目して書いています。他の記事の方がよほど充実した内容かと思うので、そのついでにでも読んでいただけると有難いです。

『六畳間の侵略者!?』OPについて少し

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上記のツイートの内容だけでほぼ済むような内容ですが、大沼心が絵コンテ・演出を担当したこのOPのカード引き、画面垂直に白線を引いて画面に奥行きを出すというあまり見られない表現は、

下記の記事で取り上げられている内容からインスパイアされたものではないか?という仮説(既出かもしれませんが)。

アニメGIFに縦線2本を入れるだけで3D化できることが話題に http://takao.asaya.ma/article_5307.html

主人公の視点でヒロインを切り取った枠、そしてカードの枠を体現するものとしての白線の表現ですが、背景と合わせて画面に遠近感を生んでいます。

個人的には、デジタルネイティブなクリエーターである大沼心さんらしいアイディアの取り入れだと考えます。

カード引きも、現時点(3話まで放映)のアニメ本編で主要な道具立てとして取り上げられるものですし、OPでもこのパートは四者四様のリアクションが楽しめるものになっています。

OP自体については、賑やかな雰囲気を保ちキャラを順繰りに見せて行き、目のアップのカットを挿入したり独特の色彩で見せる、大沼心らしい構成およびディレクションですが、

4人のヒロインを順番に見せて行くにあたり、視点やキャラ配置を360°回転させるという手法を用いています。特に、カード引きのパートでは主人公を中心にヒロイン達の回転、後半のヒロイン歌唱パートでは卓袱台を中心に4人のヒロインが回転という具合ですね。

 

アニメ本編自体も、ゲームシナリオライターとして著名な健速先生の原作にヤスカワショウゴ氏ら脚本の力もあり、コメディとして楽しみな作品です。

『思い出のマーニー』 雑感

 一回しか見ていない上に記憶もおぼろげですが、一応感想を。大体は他の人に言われ尽してると思うけど。ネタバレです
 
『思い出のマーニー』原作は「過去を失った少女が時間のゆらぎをくぐり抜けて過去をとりもどす心理的なファンタジー」であり、その上で児童文学ならではの細やかな心情描写、そして作者自らの綿密な取材にもとづく、特別な時間を際立たせるノーフォーク湿地帯の風土が合わさり、「内側」と「外側」をめぐる主人公の葛藤と、過去を解き明かすことによる清算を経ての解消までを描いた名作です。
 
 映画の『マーニー』は、英国から日本への舞台変更に伴いノーフォークを北海道の自然に置き換えてはいますが、
過去と現在が入り混じる、二人だけの時間を彩る舞台装置としての湿地、屋敷、月夜といったイメージを可視化している点は非常に見事でした。これは背景美術、さざ波や風音とか音響とかの音響も込みですね。海を渡る行為が、その時間を行き来するものとして象徴的に描かれていたのも印象的。
 
舞踏会のシーンで、マーニーが杏奈の髪に紫色の花(シーラヴェンダー)を挿すのですが、マーニー舞踏会参加後に同じ色の紫の髪留めをする、そして、後半の回想シーンでは、幼少の杏奈にマーニー(祖母)が髪留めをするところから、今の杏奈の髪留めに重なる、というイメージの連鎖が美しい。 
 
気になったのは、かつて久子が描いた絵の中にマーニーの日記の千切れた部分の切れ端があって、それは風彦の名前を書いたものばかり、という描写で、久子がマーニーと和彦の関係に嫉妬し日記の中の和彦の頁を後に裂いた、ともとれます。映画での杏奈は久子と同じく絵描きである、という設定もあり、とすると、過去の久子はサイロの中で和彦に連れられて行くマーニーに見捨てられる杏奈、に重ね合わせられる部分もあるのかな、と思えたり。
 
マーニーが杏奈以外には見えないものとして描かれ、さやかが杏奈に話しかけると消える。ファーストシーンでもマーニーは月夜をバックに登場する幻想的シーンだし、湖上に浮かぶ月を見ると日にちが立っていないはずなのに三日月から満月に変わっている。杏奈が「私の部屋に来てくれる?」という風に訊いて、マーニーが否定するのもそうだし、マーニーや、杏奈が彼女と過ごす時間が杏奈の「空想の存在」である、というように強調されています。まあ、ある種ミスリードではあるんですけど、ミステリ的な要素の盛り込みは、杏奈の成長物語としてのドラマを寸断しているようなとこがあったのは良くなかったかな、という印象です。
 
杏奈の、過去の清算を経た後の「わたし今、とっても幸せなんです」というセリフも、作劇上陳腐になってしまった印象が拭えません、マーニーが杏奈に「貴方の両親は愛すればこそ孤児である貴方を拾った」と諭すようなところとかも、原作ではマーニーが自分のこととして言う内容が、結果的にアンナが自らの身に染みて感じられる、という風だったのに映画ではそのように改変しています。作劇上の要請による台詞をキャラクターの台詞で言わせ過ぎな嫌いはあったと思います。子供向けに作っているという事もあるかもしれませんが、そのような意味での分かりやすさが子供向けで求められるという事はないと思います
 
映画の構成的には、終盤になって、回想シーンの種明かしで説明的な描写が重なったのは良くなかったですね、
映画だと、大体理由や動機については回想>セリフ>細部の描写での説明、という関係になっていて、左に行くほど陳腐になり、活劇を停滞させる、という風になるようです。
説明によって、現在の作劇を進めるための(情報の)容量をどれだけ削るか、というのが問題で、回想している間は現在の作劇を一切進められないようになりますが、会話や、映像の細部で理由を説明すれば残りの容量で一応現在の作劇を進めることができる(ドラマが継続する)ので、そちらの方が当然映画としてはいいわけですね、これは当たり前の話でしょうけど。
 
映画の最初に、杏奈が「外側の人間」であることがモノローグの形で最初に明示され(原作ではそれはものの考え方による と結論されるが、映画では書かれない)、また、コミュニティから疎外される様子もはっきりした形で描かれるのですが、結果的に「内側」に入れたのか、というのは直接は描かれないのですね。
信子とも仲直りし、マーニーとの出会いも通じて彩香という友達も作れ(これもはっきりとそう描かれてますね)、真相を知り過去を清算したことで両親との不和も解消し、そして何よりマーニーとの日々(これは二重の意味でかな)、というのがかけがえのない拠り所となったことで今後は明るくなっていく、という希望を抱かせます(余談ですが映画だと、マーニーが去ってから彩香という友達が出来る、という所の流れが原作よりもシームレスに移行するようになっているのはいいですね)。
 
原作ではというと、「内側/外側」というのは「考え方による」と結論されるし、アンナの、二重の意味を込めた「内側にいます!」の清々しい台詞で決着されるのでいいのですが、映像ではこれをやっても映えないし、映画ではあえてこれを言葉では表現しなかったということですね、いずれにせよ、「わたし今、とっても幸せなんです」よりかはこちらの方がスマートだとは思いますが。
 
船漕ぎの十一に関しては確か「マーニー、青い窓に囚われた少女」というセリフがありましたが、これに関しては十一が当時マーニーとどのような関係にあったのか明かされない以上消化不良となった要素ですね、映画内で一から十まで説明しなきゃならないなんてことは勿論ないのですが中途半端に原作の要素を散りばめただけに留まってしまったのは惜しいところ。
杏奈の七夕の願いである「普通に毎日過ごせますように」が理解されず、青い目(ここは伏線ですが)も注目されたことで信子に「太っちょの豚」呼ばわりしてしまうシーンも、原作と簿妙にニュアンスを変えているので、「内側」の子が害意なく「外側」の子を傷つけることに対し杏奈が一方的に拒否反応を覚えて罵倒する、という構図になっていて、これについても不可解な感じは少々残ります。
 

この映画のハイライトとしては、やはりトレーラーでも目立って使われてますが、マーニーと杏奈のお別れシーンでしょう。ここでのセリフは、

 

「マーニー!どうして私を置いていってしまったの?どうして私を裏切ったの!?」

「ああ…杏奈...あたし…あなたにさよならしなければならないの。だからねえ杏奈、お願い 許してくれるって言って……!」

 

この部分の台詞は原作以上に祖母(マーニー)から孫娘(杏奈)へのそれが重ね合わされている、その裏の意味が明らかに意識されています(原作では、もっと台詞の抽象度が低いので祖母から孫娘のそれのようには聞こえない)

この部分、その裏にある意味付けと、嵐になり押し寄せる波、そして許しを貰った後の後光をバックに微笑むマーニー、と、かなりドラマチックな見せ方も相まってぐっと来る所ではあるのですが、それも2回目ならともかく1回目初めて見る人にとってはこれがハイライトでは普通に戸惑うんじゃないかな、とは思います。この別れのシーンはそれまでの流れからしても唐突に訪れるシーンであり、裏の意味についても、折角の良い要素であるのですが、2回目以降の鑑賞で初めて味わえるようなものでもあるので。その意味でも、この映画がその面白さの多くを原作小説に面白さに負っている部分がある、という批判もむべなるかなと思えてしまうところがあります。

 

パンフにもありましたが、「今まで会ったどの女の子よりもあなたが好き」というマーニーに対して杏奈が「今まで会った誰よりも好き」と答えるという構図は、まあ「今まで会ったどの女の子よりも好き」とアンナもマーニーも互いに言い合っていた原作からの微妙な匙加減での改変であり、和彦と結ばれてしまうのでマーニーと結ばれることのない杏奈、という結末の予兆ともなっており、かつ、杏奈の、マーニーへの許しをより際立たせるものともなっており脚本の妙だな、と思います。

 

あまりまとまってないですが今回の感想はこの辺で。

『マーニー』映画は(舞台設定上では大幅に改変してはいますが)筋やセリフは結構忠実に原作に添って作っているのですが、あくまで個人的な反省点として、先に原作を読んで見に行ったのは良くなかったかもしれません、原作と比べて粗ばかり目に付いたり、イメージに振り回されたりしたので。でも見所のある映画ではあったので、また劇場で見に行きます。

 

ちなみに映画『マーニー』については『虹色ほたる』『マイマイ新子』が類似作として挙げられているようです。僕も『マーニー』見た後に両方見返したりしたのですが、それほど類似は感じませんでした。ちなみにどちらも傑作だと思うので、マーニーとの類似点が指摘されているならこれを機により広く見られて欲しいな、とは思ったり。

 

追記.(2014/8/01)

しかもあの回想シーンに関しては、久子に全てを語らせるような構成になった点も良くない印象でした。いきなり久子一人が全貌を知っているような調子で種明かしをするから唐突にも感じが否めない。しかもその内容からマーニーと杏奈の関係はそこで大体察せられるのに(察しの良い人は杏奈の青い目の時点で気付くでしょうが)、その後でまたダメ押しのようにその事実を補強する説明が入るのでかったるく感じられる(しかもそのシーンがその前の回想ともシームレスにつながる構成になっている訳ではない)。『思い出のマーニー ビジュアルガイド』では以下のような顛末が語られているようですが、ミステリ的要素との噛み合わせは上手く行っていなかったのですね。

 

 舞台を日本に変えたのも、日本人にとってはその方がアクチュアリティが伴いますが、そのために帳尻合わせの変更を加えたりした部分や失われてしまった要素も大きいと考えます。

 

『たまこラブストーリー』雑感

たまこラブストーリー、見てきました。
所感としては大きく分けて、よく出来たイニシエーションものだ!というのと、実写的な画作りが印象的だ、ということ。
 
以下、イニシエーションものとしてお話についてと、「実写的」というところから画的な話について書きます。
 
1.お話について
 山田尚子監督が公式サイトインタビュー(http://tamakolovestory.com/special/interview/  )「一人の女の子が自分自身に向きあおうとするまで、悩んで、色をつけていく様が描けていればと思います」)で言っているように、たまこラブストーリーは恋愛映画であると同時にたまこという女の子の人間的な成長物語として見ることが出来ます。
 
イニシエーションというのは、劇中のたまこの台詞「どんな時も近くにいて大きくなったから、」「何か、大人になっても(二人の関係は)変わらないと思ってたんだ」で分かるようにこのままの商店街での人間関係や状態にとどまろうとし、それまで恋愛アプローチに奥手で戸惑ってばかりでいたたまこがもち蔵からの告白に向き合い応えられるようになる、ということですね(映画観た人にとってはこんなことは言わずもがなでしょうが)。
 
で、もち蔵の東京への大学進学の予定を聞いて、このまま変わらないままではいられないことを悟り、朝霧さんのホームステイの決意(「最初は誰でも何もかも初めて」の台詞に勇気を貰う) や「『なかったことにして欲しい』はどんな時?」についてみどり達にアドバイスを貰い、それに後押しされる形で自分の気持ちに向き合い告白へと踏み出す、という構成につながる。
 
バトン部の舞台披露への練習が随所に挿入され、バトンを掴めるようになる、というところで糸電話掴めるようになることの示唆→告白できる準備ができる、という小道具の使い方の妙も見事でした。
 
バトンの発表が終わるのと同時にタンポポの綿毛が舞い上がり、EDまで随所に表れ象徴的に見せていました。
 
TVシリーズでフィーチャーされた商店街じゃなく、イベントが起こるシーンは主に学校中心(体育館、教室など)であり、だからもち蔵の連れの二人の登場シーンが多く、男性高校生らしくつるむ様子とかも出てました。
 
たまこの、うぶで可愛らしい部分が脚本でよく出せていたと思うとこは、もち蔵から告白受けた時に「かたじけねえ口調」になったり「もち→もち蔵」と何回も言い間違えるとかの部分。ややオーバーな感じもしましたけど、良い具合だったかと、そして極め付けはやはり告白シーンで最初糸電話を二つとも渡しちゃうとこで、「このクライマックスのシーンで上がってミスボケをする」あたりは、可愛い感じ出せてるなーと素直に思いました。
 
もう一つ。設定で、もち蔵は東京の美大の映像科を目指してるとのことが映画で分かりますが、もち蔵が映像科志望なのは 監督や作り手の自己投影か何かなのかな、と勝手に思っていたのですが、このエントリ(http://d.hatena.ne.jp/los_endos/20140420/1398003204)で書かれてあるように山田尚子監督がTVシリーズの方のオーディオコメンタリーで「実はEDはもち蔵がたまこを撮っている映像で、恋する目線を描きたかったのですね。」と発言していて、ああ、あれから後にTVシリーズの方のEDを撮ることになるから映像科なのかも、と一人合点していました。
と考えると、映画の方のEDも、もしかしてもち蔵が撮ることになる映像なのかもな、と思いますがそれだとやはりたまこ達が高校の制服着てるとこが引っかかる…...大学進学後じゃないの?て。
 
2.画的なところについて
 
たまこラブストーリー』 「もち蔵」という名前の意味と、山田監督が言う「映画」と、あんこちゃんがやたらエロいのは恋愛年齢が高いから - 感想考察批評日常 http://htn.to/CVpfCw 
 
上記の方々の記事が画的な分析として優れていると思いますので、詳しくはそちらの方を参照してもらうとして、個人的な所感をば。
 
「実写的」/「生っぽい」空気感、というのは本作においてはキーとなる「血肉の通ったキャラ仕立て」をする上で重要な役割を演じており、山田尚子監督や堀口悠紀子さんが今回の映画のインタビューで「意識した」と度々語っていることですが、これは同時上映の『南の島のデラちゃん』と比べるとよく分かります。
『南の島のデラちゃん』も山田尚子監督ですが山田監督コンテの本編と違い石原立也さんが画コンテ・演出を担当していて、そのカラーが出ており、ファンタジックな南の島が舞台なのもあってアニメ的なコミカルな表現が目立ちます(NT5月号インタビューで堀口さんは「原画さんにデラ愛が強い方が多くて」と言っていますが、実際見ても演技付けが凝っている感じがしました)。たまこラブストーリー本編でも2カットほど南の島が映るのですが、そのシーンと『南の島のデラちゃん』内のシーンの画を見比べると歴然の違いです。
 
実写的な画作りしてるな、とは冒頭の商店街のシーンから真っ先に思いました。実写的、というか「堀口由紀子キャラが動いているのをカメラを通して見ている感じ」な印象。最初の紹介あたりはちょっと演劇っぽい仕立てになっていましたが、冒頭、商店街から入るカットの時点で3DCGの立体的で重層的な空間/そして望遠レンズでピンボケで驚きま
した。
 
特に実写的だな、と思ったのはレンガ作りの建物の横でたまこやみどり達が弁当食べるとことかで、ピンボケ&奥行あるレイアウト&木漏れ日の当たってる表現で、非常に実写的な空気感だなという印象が強い。
実写的、という意味で特徴的だったのはやはり画面ポジ固定のジャンプカットで、もち蔵が部屋で落ち着かない様子でいるとことか、告白されたたまこが慌てて川から走り去るとことかそうですね。
 
あと多分1シーンだけですが早送りも。もち蔵が告白した後のシーン、教室でたまこともち蔵の距離感がぎこちなく、他の人が動く中二人が「硬直して動けない」感じの表現として上手い。

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アニメでジャンプカットや早送りで編集してる感じを出すのが何故実写的になりうるのか、というとジャンプカットとかはもともと実写由来の表現であるのというのも大きいですが、実写と違ってアニメの場合実際に人物撮っているわけじゃなくて(ロトスコだとまた別ですが)キャラクターを一から起こしているわけなので「実際にそこにいるキャラを撮って編集しているように見せる」とか何らかの意図込みでないとそのような見せ方(ジャンプカットや早送り)はふつうしないからじゃないかと思っています。
また、これは人から聞いたのですが実写におけるジャンプカットっていうのは「本来ふつうにつなげるし、滑らかにつながるはずのカットを、あえて違和感の残るように滑らかではないカット割にする」というところに眼目があるけど、「アニメは実写ほど多分「滑らかなつなぎ」にこだわってないので(ジャンプカットは)実写っぽく見える」という説明を聞きました。
 
そしてもう一つこの「実写的」な画の話として重要なのは、劇場版本編はデラがいない状態から始まるということで。
TV版『たまこまーけっと』では商店街においてデラ(そしてのちに出てくる南の島の王子やチョイ)がファンタジックな部分を肩代わりしており、TVシリーズ1話冒頭でデラが出てくるまでの、たまこたちが橋を渡って下校する下りでは山田尚子監督は「実写感」を出すことに注力していますが(『アニメスタイル003』でのインタビューより)、デラ登場後は作り物らしい、コミカルな画作りや表現を交えつつ話が進むことになります。デラ以下南の島の面々の登場シーンがほぼない映画本編はむしろ、TVシリーズ1話冒頭の映像の感触が近く、デラが来なかったver.の『たまこまーけっと』をやっているような感じですね。

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(なお、『アニメスタイル003』での山田尚子インタビューで言っていた内容の中で関連するものとしては、キャラクターが恥ずかしがるシーンでも石原立也さんは真正面からキャラを撮るのに対し山田尚子さんはカメラを下に振ることが多い、ということで、『たまこラ』でも膝下のカットからシーン導入に入ることは多く空気感を出すのにも一役買っていた印象があります。あとは諸所のインタビューでも公言しているように彼女自身のフェティシズムによるところも大きいでしょう)
 
実写的という話をしましたがずっと実写的というわけではなく、もち蔵の告白後たま子が逃走するシーンでは幻想的な画になりエモーショナルな走りを見せたりもします(5/30補足:このシーンはコンタクトを落としてぼやけたたまこの視界→心象世界へつながるイメージ、とのこと。手描きの背景とCGを合わせて水彩画風の背景画を作っているようです(「Newtype2014年6月号」より))。
コミカルな表現もちゃんと映画内に同居しており、たまこがもち蔵を前にして動揺するシーンではコミカルな表現がよく交じり、お化け(手足の動く影を表現する技法)が入ったりしており、それでいてちぐはぐにならず良い具合で入っていて計算されていると感じました。
 
個人的に良いカットだと感じたシーンはいくつかあって、前半で糸電話を渡した際に糸が虹色に光って弦に見立てられメロディーが流れる表現はよく出来た演出と感じ、銭湯であんこが髪を結んだりたまこが服を脱いだりしている演技とかは扇情的なニュアンスも出ておらず、演技付けが細かく女性らしくていいなと感じました。
 
カメラの手ブレも上手く役割を果たしており、商店街でたまこがもち蔵に遭遇したシーンのカメラブレなどは動揺する心理表現と呼応した表現になっていました。
 
余談ですがエモーショナルな走りのあるアニメは
、それだけで名作になる!気がします。時かけとか。

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しかしやはり白眉は満場一致で告白シーンでしょう。糸電話をフォームを取って、投げて…と
1カット1カット一挙一動足を追う丁寧でエモーショナルなカッティングで目を惹きつけられる屈指の名シーン、そして最後告白の台詞と共にスパッとED入りする構成も思い切りが良くていい。

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見終ってすぐにもう一回見たくさせるような、気持ちのいい映画でした。
 
ただ、劇場パンフレットの最後頁で後日談の画を出すのはいいとして、その画を、ED後のCパート部で1カットくらいのシーンで出しても良かったんじゃないかな、とは思いました、パンフ買った人だけが後日談を味わえる、てのもどうかなとは思うので。