highland's diary

一年で12記事目標にします。

いまだ語り尽くせぬアニメ『ガールズ&パンツァー 劇場版』

※『ガールズ&パンツァー 劇場版』を見ていない、あるいは楽しめなかったという方にはおそらく毒にも薬にもならない記事です。あとネタバレです。

 

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【感想】(10000字超え)

『ガールズ&パンツァー 劇場版』は水島努監督の過去のTV作品に何となく思いを馳せながら去年12月に観に行ったのですが、「いままで見たことのないような映画で、アニメだ!」と思い、それ以来劇場で何度も見てしまった。 

久々に、半々くらいの比率で「理解したい」という欲求「体験したい」という欲求を同時に掻き立てられるアニメだったというのが大きいと思う。劇中のミカの台詞にすっかり騙されたように何かを見出そうとしていたのかもしれない。

 ソフトが早く出れば買って見たいなと思うのですが、ソフトで見るとまた違った見方をするだろうから、体験としては変質してしまうかもしれない。

だから、劇場で見た際のとりあえずの感想を、メモ代わりに残しておこうと思います。 

 

▼映画の体験性としては、やはり音の印象だ。正に『プライベート・ライアン』を昇華したのかな、とも思わせるような耳元をヒュンッっと掠め空気を揺るがす砲弾の音響に、戦車によっては厚い装甲を感じさせる鈍い衝突音や、跳弾音

戦車戦では、俯瞰、アオリと多彩なアングルを駆使しカメラは戦況を間断なく捉え続け、スコアで展開を主導しフェイズを次から次へと切り替え続ける。

選抜戦では特にロケーションをふんだんに活かしアイディアを投入しまくり、遊園地と3Dレイアウト=箱庭感で、3DCGで構築した空間で箱庭っぽい遊び場で、ミニチュア戦車を走らせ回るような可愛らしさもどこかしらあり、それに全体にわたりごっこ遊びの文脈で小ネタが昇華されてるところ(台詞でもアクションでも)が面白いと感じた。

(そもそも戦車道自体が特殊コーティングとかそういうお約束で担保されて成り立っている世界であるから、箱庭的な遊び場をシチュエーションにするということ自体が心なしか批評性を持って感じられるところもある)

また、それと同時にキャラクターの成長を最も気持ちのいい演出で見せてくれるところがよく、記号的なキャラでありながら天丼ネタを上手く処理している。風紀委員の挫折を経ての再生や、カチューシャが他チームと入り乱れ共同作戦を組むといった描写がそれにあたるだろう。それらを通じては、組織論的に色々と面白いことも言えると思う。たとえば、チームプレイでいかにして自己のポテンシャルを発揮するか、といったようなことや、信頼できる人員をどう使うかといったことだけど。

良い演技を一杯入れよう、アクションはリアリティを底上げしよう 、というところからは映画としての佇まいが感じられ、キャラクター性に寄ったギャグの 積み重ねで気分を上げるファンムービーでもあった(しかし、歴女チームは見事にほぼ歴史の話しかしていない)。

天丼ネタの一つには、狂言回し役で出てくる継続高校の子たち(彼女らだけ後半に中継をTV画面を通して見ている)の戦車道への言及があり、映画全体がそれに挟まれオチがつく形になっている。

エンディングの最後では、中盤の「去っていく学園艦→西住みほの悲しげな顔」と重なるように、「西住みほの綻ぶ顔→水平線に見えてくる学園艦」が映される。当初の目的であった日常の回復の完遂が示唆されると同時に潔く幕切れとなり、終わり方は丁度これでいいと思えるものだった。

 

▼大まかな視聴体験としてはそのようなものだったけど、客観的に眺めてみて、

すぐに思うのは、『ガルパン』の劇場版は、TV版の続きであるだけでなく、実質的にはそのリメイクとして作られているということだ。

廃校を阻止するための試合という(主にプラウダ戦以後の黒森峰戦だが)展開をもう一度やり、西住母との関係だって仄めかしはするもののそれ自体で完全に和解までは行かない。

また、重戦車マウス撃退の再演や、チハ戦車とポルシェティーガーとで英国戦車追い詰めるところなど、TV版を見ている人であればすぐに想起するよう、それ自体への言及も数多くなされるし、そもそも最終二話の対黒森峰戦のアイディアの多くは劇場版でも使われ、選抜戦のプロトタイプになっていることも分かる。

しかし、「リメイクだ」ということ自体ではそれは「AとBは同じ」と言っているに等しく、内容については何も語っていない。

問題となるのは、メインの筋としては「廃校の決定を阻止するため勝負に出る」という同じ展開であることを観客は当然察するだろうということで、こういった方面については観客からの批判も当然考えられるだろう。第一「3分でわかる~」で、TV版が大洗を廃校の危機から救う話だったことが明言されているし、その点で「同じ展開である」ことは観客は容易に察せられるはずだ。

劇中でも、『劇場版』での廃校絡みの展開の前提とかは、もっと観客に違和感を抱かせないよう巧妙にもできたはずだろうけど、逆に、あえて明快な構図にして明示的に描いて見せている。そしてむしろ戦車戦の展開や個々の関係に注目させよう、といった気概を感じさせるのだ。

「廃校阻止のため試合勝利を目指す」というそれ自体が、一致団結展開のためのエクスキューズであって、「その前提を共有させた上で盛り上げる」というくらいであることを隠そうともしていないくらいで、ここまで踏み切った展開にできること自体が強みだ。

つまり、表現それ自体への注力があるのであればメインの筋は、共感できるよう一つの軸に絞った方が良い。そのためにあえてそれまでの雛形を用いてより強固な形で再現する。

「ストーリー自体は非常にシンプルながら、ドラマのディティール描写に力を込める

映画として作られており、また、そこにこの映画の成功はある。

その意味で、岩波音響監督が盛んに言及する『マッドマックス4』が、直線運動のみという単純なシチュエーションと対立構図に絞り多くのドラマをそこに投入したのとは確かに近いものがある。

 

▼この映画は描写として、静の部分動の部分も作りこまれており、記号的ではあるにしてもキャラの息づく存在感が確かにある。西住みほが久々に実家帰りして入った部屋は陽光の差し込む中でホコリがさり気ない形で舞っており、そこから流れるように過去の回想にも誘われる。

セリフがない、というようなシーンの殆ど無いこの活劇において、鮮やかに描かれるこの回想はきわめて強い形で印象づけられる。

アクション自体ももちろんこの映画の主要な要素を占め、世界観を形作っている。

水島監督の演出的な特性、あるいはアニメ的な問題かもしれないけど、ダブルアクション・トリプルアクションやスローモーションなどの、時間的に厚みを持たせるテクニックもこの映画ではそれほど使われていない(大洗市街戦の肴屋本店のとこでダブルアクション、対大学選抜戦のカール戦でスローモーションとトリプルアクションがいずれも効果的に使われているものの)。こういった重厚なアクションであれば通常はもっと多用されてもいいくらいと思う。

『ガールズ&パンツァー 劇場版』は基本的に一瞬で勝負が決まる反スローモーションな世界であり(特に中央広場での「残り5両」以降はそうだろう)、その意味で、アクションの次元ではあくまで緊張感を保ち続けているのだ。

時間を引き延ばす必要のないほど、アクションが詰まっているともいえるけど。

しかし、一方で重厚なアクションというものもありながら、あくまでキャラクターの賑やかさや可愛らしさを保った明確な「漫画映画」的(byアニメ様)的な活劇でもあり、安心して楽しめるという要素を担保している(逆に言うと、スーパーマーケット的な漫画映画でありながらアクションで手加減はしないということでもある)。

(漫画映画的なノリの良さ・快楽原則は、あの西住まほの台詞に合わせ逸見エリカがスッと書面を出すタイミングの良さなどに代表されるもので、期待に応え気分を盛り上げてくれる)

危機的な状況におかれても、全編を通じてキャラがノリの良く楽しんでいる感じを忘れていない。戦車を扱ってはいてもその挙動の可愛らしさを通じて、それを体感させている。「観覧車先輩、お疲れ様です!」といった、あくまでスポーツものとしてのノリや要素もそういったところにハマっている。

エキシビジョンマッチでは途中敗退したウサギさんチームが「私たちの分まで頑張って〜!」「河嶋先輩ガンバーっ!」(余談ですが大野あや「ぶっ殺せー!」が好きです)と応援してるとこが挟まり、部活モノっぽい(部活じゃないけど)ノリをそこで再確認させてくれる。

そして単にコンセプトの問題だけでなく、それを実現化するにあたっては膨大な労力と時間が投入されてことと思うし、それに対しては敬服せざるを得ないという気持ちもする。『ガルパンの秘密』や『ガルパンFebri』を読んでいるだけにより一層そうだ。

 

▼一般論として、起伏のあるドラマを描け、毎回インターミッションを挟むTVシリーズとも違って、あくまでひとつづきの体験として、巻き戻しの利かない状況で鑑賞されることが前提となる映画では、ドラマというよりは全体を通して描かれる主題が前景化される。『ガールズ&パンツァー 劇場版』の場合、そのうちの一つが「戦車と女の子、戦車道」というあの世界観であるけど(会長・蝶野が理事長と直談判する真面目なシーンでさえ背景には戦車道の世界観を表す絵画がデカデカと目立つ)、実際に劇場で一続きに鑑賞してちゃんと満足感と体験性が担保されるのは、映画的な工夫の数々によるのではないか。

 

▼『劇場版』は全体で、二つの長尺の試合に挟まれるような構成になっているが、最初の前哨戦的なエキシビションマッチでメインメンバーが試合の流れの中で顔出しして、そこはまたフラッグ戦であり、「一発逆転もあり」な試合だ。その試合ではまだ敵味方も入り乱れた形で描かれ、全貌が一挙には把握できない混乱した戦場になっているが、

それに対し、対選抜戦での30両対30両は敵味方がはっきりと統一され描かれ、何よりフラッグ戦→殲滅戦という設定により相互性・両極性を極めた戦いが展開される。要はあの闘いがハイライトですというのが、エキシビジョンマッチを配することでこの上なく明確になり、試合のテンポを徐々に増していくあの流れと同様に、映画全体の時間の流れを形作っているはずだ。

 

▼『劇場版』に繰り返しでて来るモチーフとして、一つには高低差を活かした配置があるだろう。エキシビジョンマッチで聖グロを囲繞する大洗知波単連合チーム、大学選抜戦で高地をいち早く占拠するひまわり陣営、遊撃戦を仕掛けた後に遊園地の野外ステージで一塊にされ選抜チームに取り囲まれる大洗陣営の、計三回そのシチュエーションがでて来るはずだ。更には高地で取り囲まれるシチュエーションはTV版11話にも共通して出て来る。

映画において、繰り返し出て来るモチーフに対しては、観客はそれ自体に意識的になるはずだ。見通しの良い高地を取る&多数で一挙に取り囲むという方が有利であり、それをやられると不利になるということが、感覚的なレベルで叩き込まれる。高地よりナビゲーションを行うアンツィオチームもこれに加えられるだろう。

そしてその配置のイメージにより、二度目以降は「また来たな」というスムーズな移行となり、また一方ではそのイメージを覆し、他方ではそのイメージを乗り越えていくという、飽きさせない面白さがあるのが良いなと。

 

▼また、ドラマパートと試合・戦闘シーンで共通して現れるモチーフもある。

ここで思い出しておきたいのは、そもそも劇場版のシナリオの縦軸で、主なドラマ的主題となっているのは西住姉妹二人の関係に加え、島田愛里寿と西住みほとの関係だということ。

前者については、姉妹が共同するセリフのない運動が、ラストの三つ巴の戦いと、中盤の回想シーンで、共通してある。戦車道の家元に育ち子供の頃から二号戦車で遊んでいたような彼女ら二人にとっては姉妹で共同作戦のプレーを演じられるという機会自体が、この戦場以外にはないだろう特別な場だとも考えられる。空砲で妹の四号戦車を送り出す姉の動きは、回想時代の妹の手を引く姉と逆位置にデザインされているけど、その前に姉が一瞬淋しげな表情を浮かべるのは行為自体の躊躇いと同時に、この試合をこうした形で決着をつけることの是非、あるいはここで終わらせてしまっていいのか、というような問いかけが感じられるのだ。

後者については、島田愛里寿と西住みほがボコを挟んで対峙し手を伸ばすというボコミュージアムでのシチュエーションが、同じ動作の形で劇中の中央広場の戦いで再演されているのが分かる。動き出したヴォイテクの乱入を見てみほと愛里寿の両者は怯んで攻撃を逃すのだけど、終盤戦の煮詰まったところでああいった描写が入るのはやはり両者に同じ反応をさせることで二人の同質性を際立たせるためだろう。「同じ振る舞いをするキャラ」が同一性を意味するのは当然の帰結だ。両者ともに共通してボコに肩入れしている人物であり、彼女らのその同質性は幾度か示唆されている。この描写が白熱したバトルの渦中に挿入されることで、見る観客が一瞬冷静になり両者の当初の動機に立ち返るという余地を設けている。

あの島田愛里寿(および島田流)はこの『劇場版』での戦いの理由を形作っているような存在で、愛里寿は同じぬいぐるみを通じてみほと対比になっているんだろうけど、そこで愛里寿の彼女の過去や動機は伺えないし(時間の都合でカットされた可能性もある)、大学選抜のメンバーとの関わりも特になく孤立のヒーローという感じなのだ。そこを探ってみても何かあるというわけでもないだろうけれど、みほは大洗&学園艦奪還、愛里寿はボコミュージアム復興のため戦い、結局特に両者の利害は勝敗のドラマと関係なくwin-winになってしまっているという批判はなされ得る。それについては以後にまた述べたい。

 

▼加えて、(ドラマパートと試合・戦闘シーンで共通して現れるモチーフということで)もう一つ言うと、一旦廃校が決定し各々の生徒が転校のためバスに乗ってそれぞれの地に分かれて行くところでは、3D構築のバスがエキシビジョンマッチでの戦車と同じような動作をし、Y字路に分かれていく描写がある。そういった仲間の集合離散のモチーフも、全編を通じて描かれており、テーマの一つとなっているだろう。

しかし、ここで、窓際から見たバスが分かれていって「ああ、皆バラバラになってしまうんだな……」というカットですかさず「でも戦車道選択の生徒は皆一緒らしいけど」という台詞が入ってくるのだ。あくまで映像の次元ではそういうテーマを描くけど、台詞を通じてはエクスキューズにより皆の団結を安心させるというところが、この映画に関して自分が象徴的だと思うところだ。

ともかくも、以上に述べたような映画的な工夫の数々によって『劇場版』の筋立ては、(ドラマ的にはTV版の続きであるものの)流れとしてまとまったものになり、ドラマがアクションを生み、アクションがドラマになるという連動があると感じた。

 

▼欠点について

次第に指示が高まるに連れフェードアウトしていった感があるけど、『ガールズ&パンツァー 劇場版』に対して当初からあった批判としては、廃校阻止展開の再演というところ以外では、

  1. 物語的な決着の付け方と試合の勝敗とを重ねてこなかった
  2. カチューシャの見せ場があの後目立ってなかった
  3. チーム間での垣根を超えたまとまりが特に深まったわけではない

といったものがあった。

1については最後に述べるとして、

2に関しては、カチューシャのドラマ自体は殲滅戦であるにもかからわずカチューシャ機一両のためにプラウダ校全滅するという戦術的には非常に非合理的なやり方ではあったけど、そうまでしてその後に大きな見せ場の活躍をしなかったということが言われる。しかしカチューシャがあそこを通じて学んだこと自体に意味を置くとそれはまた違ってくるだろう。キャラクターの次元では、あの後混成チームで新たな作戦に乗り出すということ自体に大きな意義があり、その細部にまで注意が及ぶか及ばないかという問題になる。

3については、各チームのメンバーをタンクごとにモジュール扱いしている以上、元々ある程度は犠牲にせざるを得ないところはあるんだけど、この批判も先述のカチューシャのシーンで否定されるし、それに、それぞれチームごとに作戦名を皆でゴリ押ししあうような作戦会議シーンと比べれば、試合シーンでの共闘オペレーションぶりは驚くべきほどだ。

最後に1についてはどうだろうか。

改めて考えてみれば、島田愛里寿は、(母親に西住流打倒について言い含められていたものの)「ボコミュージアムの閉鎖を防ぐため」というあくまでパーソナルな動機により戦っていたわけだが、島田愛里寿側の敗因は、主に遊園地に試合が移行してからは各中隊長の判断に任せ指揮系統として不連絡になり、傍観していたからというのも大きく、その孤立という性質自体によって足を掬われた感もある。

また、愛里寿とみほとはボコミュージアムで既に一度遭遇していたわけだけど、彼女の方から、思わぬところで再会した西住みほに対し反応をしているというところはない。ボコを渡すところでは西住みほについて「あそこで会った」と知っていたようなので、それ以前のタイミングで気付いていたことになる。単に感情の起伏を表に出さないということなのか、あるいはヴォイテクを挟んで対峙するところで悟ったのか?……

西住みほと島田愛里寿の目的は別に反目し合ったものではなく、共に矛盾なく実現し得るので、可能であれば両方とも実現させて問題はないが、ドラマの次元ではそれでは勝敗にかからわず目標が達成されるのであれば勝負にそもそも意味が無かったのか?とも思えてしまう。たとえば二回目以降に見る人にとっては、ドラマの前提があまりに人工的に仕立てられたものに思え虚しく覚えたりもするだろう。

細かく言えば、島田流師範のママが投資すればボコミュージアムはどうにかなるにしても、廃校阻止は契約や沽券の問題であり、個人の力でどうこうできる展開ではないからこの場合そちらがどうしても勝つ必要があるのだけれど、とすれば愛里寿側が負けるということを込みでその点を結果にどう反映させるかという工夫が必要で、今回はそれがなかったといえる。

しかし一方で、そこに関して違う捉え方をすることもできる。

僅差の戦いで大学選抜戦の試合が終わったとき、島田ママと西住ママが共に「ハーっ」と安堵の息を付くというシーンがある。実際このときの母親にしてみれば勝敗の行方云々よりも、子たち自身が真価を発揮して試合が出来ているかに重点があり、安全に決着が付いたこと自体に価値があるのだろう。「次はわだかまりの無い戦いがしたいものですね」という話もするが、それはがやはり真意だ。

ガルパン』世界であれば勝敗それ自体が重要ではなく、彼女らの目的に合致してそれが達成され、その過程で伸び伸びと試合が出来ていることの方がむしろ重要なのだ。

だから、勝敗の行方が活きるような付加的な筋立てを付加し、利害の問題を持ち込むことは、エンタメとしての『ガルパン』らしさとはトレードオフに働いてしまうため、結果的にサービス精神あるこの展開はバランスを取っているとも言えるのだ。

せめてボコミュージアム復元について蛇足であっても単なる寛容以外の理由付けがあっても良かったかも。戦車戦の被害の地割れで温泉が湧いてお金が確保できたりとかして……って『サマーウォーズ』か!

 

▼(この際だから好き勝手書くと)自分はガルパン劇場見るとロンゲスト・ヤード』('74年米)見返したくなる、と以前ツイッターで書いた後に、その理由を考えることがあった。

断っておくとアメフトものの『ロンゲスト・ヤード』は誠にアメリカンな精神を反映したといえる名作(勝利を収めた後には、そこに至るまでの葛藤や倫理的な判断について全く顧みることのない)だけど、主人公は刑務所内の囚人を集めてアメフトチームを形成して、所長率いる看守チームと戦うことになる…という筋で、B級だし、ガルパンとは似ても似つかぬ映画だ。

ただ、この映画は後半40分くらいを決勝戦の一試合のみに振り分けてじっくり描いてるんだけど、それまで各々のドラマを背負って描かれて来たメンバーたちが、試合になると清いまでのロングショットでひとまとまりに捉えられ、作戦会議で顔を寄せ合う集合シーンも下からカメラを空に向けて撮り、ごついマスクに隠れてメンバーの区別すら付かない、という状態にしてしまうのだ。

ガルパン劇場版でも、試合では、戦車内描写や、キャラクターの掛け合い・連絡、区別はもちろん維持されるけど、戦車外の描写では甘い描写を廃し、外部からは正に「戦車の中から声が聞こえる」的な状態で、それでもって即物的な映像の次元でも、迫力や満足を感じさせることに成功している。

結果的にだけど、そうした感覚を『ロンゲスト・ヤード』と紐付けて思い出したのかもしれない、と思う。これに関しては私の 単なる気の迷いですが。

 

▼大して個々の内容についても語ってないのにダラダラと書いていたら長くなってしまった。

思わず長くなってしまったけれど、おまけに書いていた内容もあるので以下に載せますね。

 

おまけ1

周辺的な細部(絵コンテなど)について

▼『ガルパンFebri』インタビュー記事から、工藤辰己さんおよび小林敦さんの演出パートは大雑把に分かっており、また、水島監督のパートはその残りであるとも分かる。それによって『ガールズ&パンツァー 劇場版』&『3分ちょっとでわかる!! ガールズ&パンツァー』の絵コンテ・演出担当パートを推測すると以下のような感じ?

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演出の方は特に推測入ってるので多分色々間違ってますね……間違ってたらすみません!(ソフト出たらちゃんと訂正したい)

とはいえ、絵コンテに関しては、水島監督はエキシビジョンマッチ(ペンギンまで)および、試合後半部分(ミカ「皆さんの健闘を祈ります」以後)、そして会長の宣言~選抜試合開始までの、いわばつなぎ部分を担当していることが分かる。水島努さんといえば、僕は「でかいぬいぐるみが暴れ回る」ようなのが妙に好きな人というイメージがあるんですが、どうなんですかね?

小林敦さんの絵コンテはと言えば、TV版のものを参照する限り、「PAW!」「BAM!」といった小林源文の劇画的な擬音と、戦車内の細かなディテール描写の指定、表情芝居などが個人的に見どころです。他方で、水島監督の絵コンテは「ドラえもん」的なあっさりしたタッチの書き込みながら的確な指示で指定しているという印象で、対象的な両者のものによってこの映画の絵コンテは構成されている。

また、両者のコンテパートを横断してなされる描写の数々から見ても、そのシンクロ具合、バトンタッチ、あるいは劇場映画としてのコントロール具合が伺えるはず。

実際にはもっと入り組んでいる?と思われますが、大まかには小林敦さんが中盤にかけてのドラマパートおよび後半戦の前半を担当し(でもボコミュージアムのシーン(ここがD?)はやはりしっかり水島監督自らやってますね)、残りの戦車戦をほぼ水島監督が手掛けるという、構成に合わせたシンプルな配分が伺えます。

ちなみにガルパンではスローモーションやダブルアクションなどをあまり使っていないという話を先にしたけど、小林敦さんは例外的にTV版ではダブルアクションを何度か使っているし、6話の対サンダース戦の終盤でもサスペンス描写に合わせ砲弾スローモーションが使われていたはず。

 

小林敦さんの絵コンテパートで自分がとりわけ好きなシーンは、確約を取り付けて帰ってきた会長と桃ちゃんが再会するところ。

大体のカット割りは

「机をリヤカーで運ぶ河嶋桃がゼーハーしてるとこを横構図で映し、あんこう提灯付き二宮金次郎のカットアウェイが入る。重みに耐えかねた桃ちゃん(正面から)が顔を出し見上げると、そこで桃ちゃんの視点にスッと移行し、正面顔の会長がこちらを向いて何でもないように立っている。そこで呆然とする桃ちゃんの切り返しを挟み、先ほどのポン寄りでバストショットの会長が『ただいまー』とやや気の抜けた風で答え、抱きつく桃ちゃんを会長が介抱する…(横ロング)」

という感じだったと思う。小道具や、カットの重ね方も好きなんですが、自然と桃ちゃんの視点に入り込んでいるとこが良いです。

元々会長は何もしていないようでいて、生徒会二人だけでは指揮を取れないというところがあり、その空白を埋めるためそれまでずっと気を張っていたツンデレ系キャラが、そこで張り詰めていたものが切れ、それまでの弱音も安堵も綯い交ぜになって堰を切ったように泣き出し、思わず駆け寄ってしまう…というさり気ない良いシーンを、気持ちに寄り添う形でとても自然に見せていると思います。

角谷杏も、サンダースのC5Mギャラクシーを生徒会メンバーで結託して呼んで、というのを影でやっておきながら「これで処分されずに済むね」と自分に何の功績もないようにそれを口にする飄々としたキャラです。

「大洗の子たちみんなの思いを背負って立つ」彼女の役回り、キャラクター性も、ドラマパートでは正面から逃げずに向き合うという形でよく表されていたと思う。

 

▼あとは、西住しほさんの「戦車道にまぐれなし(偶然での勝敗など無い!)」の宣言→湯呑みをバンと置く動作、をカット割らずに一続きの動作で見せてるとこも好きなんですよね。あそこは下手にカット割らない方が逆にインパクトを発揮するシチュエーションと思います(素人がエラソーに語っててすみませんが…)。アクションを契機とするカッティングでパンっとリズムをつけインパクトを出す手法も同時にあり得るのですが、割らないことで動きそれ自体に存在感を出す、という選択肢もあるということですね。その後の役員「大学選抜に勝ちでもしたら…」→会長「分かりました!」のどアップも快楽ですよね。

 

▼戦闘シーンのとこで好きだった描写(ここは水島監督のコンテパートですが)は、ウエスタンランド付近でのアリクイさんチームのパーシング撃破。

「トスした砲弾をボスッとグーパンで打ち出すように装填した後にももがーがレバーをグッと引っ張るという力強い身体描写、それに重なるように三式が旋回して回り込みながら砲弾がぶっ放され→撃破!」の流れ。

装填→レバー→ぶっ放される砲弾(瞬時に撃破)の流れが、凄く身体動作の延長線上に戦車の挙動があるという感じでグッと来るんですよね。砲撃が腕の挙動の延長線上にあるカットつなぎで、勿論3DCGや作画チームの功績も大きいでしょう。OVAアンツィオ戦」での「ガン=カタ」というのもそうですが、ああいう「身体動作が挙動にダイレクトに連動するような感覚」の描写は、実はガルパンにはそれほどない描写だと思うので、あそこは良いですね。

 

小林敦さんコンテの戦闘シーンだとやはり、継続高校のシーンが凄い良いですね…どこにいるか配置が分からない戦車内描写から始まり、全景が映ったと思ったら空を舞ってる……。演奏に合わせて同時録音のアクションで期待を煽る感がヤバいです。演出以前に、クロスカッティングにして二段オチにするという、あのアイディア自体すごいけど。

 

▼また、劇中においては、POV(厳密にはそう言うよりは、車体上の固定カメラ)を使ったいくつかの長いカットがある。POVがあまり適切な言い方じゃないと思うのは、戦車戦では、純粋な意味での長い主観カットは中央広場での三つ巴のとこの、キューポラから顔出した西住みほの主観カットくらいだったはずと思うから。髣髴とさせるのはロボットアニメや映画というよりはFPSジャンルのゲームで、また、ジェットコースターを駆け下りる体験のアトラクション的なものだったりするけど、ソフトの進歩もあってなのか、そういうメディアクロスオーバー的なものも以前よりアップデートされた表現で楽しめるようになっていることが感慨深かった。そして、日本の2Dアニメでも、CGレイアウトを駆使し立体的なカメラ移動やPANが見られるようになって久しいと思うけど、そうした表現の制約が解放され、濫用されることで、かえって以前までの面白さがなくなるというのも考えられると思う。『ガールズ&パンツァー 劇場版』では、そうした表現が効果的であると同時に、映画としての面白さを少しも削ぐことないやり方で使われていて、そうした体験にまた感動したりもしました。

 

ガルパン劇場版の2カット目は紅茶片手のダージリンとペコから、砲身内カメラでグッと引いていって観客は戦場に引きずり出されるので度肝抜かれるけど(更にはそれ以前の紅茶、そして「3分でわかる~」のSDキャラからの流れなのだ)、極端なアップからのロングでスケール感を出す『Gロボ』の今川監督的なダイナミズムも感じさせる。

そもそもガルパンは女の子と戦車というそういう主題である以上、そうしたコントラストを十全に活かせる素材なのだ。また、ヌッと突き出た主砲と車体とのレイヤーが形成する、遠景と近景のコントラストなども見過ごせない。比較的単純な形でスケール感を醸し出すそうしたキメカットが実際見せ場として使われているのが分かるだろう。

考えてみれば砲塔が平気でカメラの方を向くとか、BT戦車の砲口に吸い込まれていくカメラとか、カメラすぐ横を掠める砲弾とか、アニメの仮想的なカメラだから出来る(とは今は言いづらくなったけど)表現も数多い。実車ではないようなタンクの動きも面白いしね。

アクションについて、『ガルパン』は「戦車戦で人が死なない」という前提のイメージを全編を通じて作っているけど(吶喊した西隊長がキューポラから上半身出した状態で跳ね飛ばされるとことか、流石に挽肉になるだろうと思うけどw)、思うにこの前提もかなり効果的で、「キャラの存在を脅かすのでなく、純粋にアドレナリンを迸らせるためにしかアクションが機能しない」という、考えてみれば恐るべき体験を作ってしまっている…。

 

▼これも余談ではあるけどさきに書いた2カット目はTV版4話、Cut255の「砲身内カメラ 007のオープニング風」のリベンジ?  

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おまけ2

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それでは、今日は疲れたのでこれくらいで。合わせて全部で20000字くらいになっちゃってますが、読んでもらえた方はありがとうございます。

ガルパンFebri

ガルパンFebri