highland's diary

一年で12記事目標にします。

ボカロ音楽の「透明性」と、歌唱の「人間らしさ」の関係について

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編集で関わりました評論同人誌『ボーカロイド文化の現在地』が通販にて販売開始しました。

冬コミ、C103の1日目でも頒布予定になっています。『ボーカロイド文化の現在地』に加えて、新刊のコピ本『ボーカロイド文化の番外地』やカラーイラストのペーパーを出す予定です!

よろしくお願いいたします。

同人誌の掲載記事のなかからサンプルとして1記事掲載しようと思ったのですが、他の方の寄稿記事から選ぶのもはばかられるため、私自身の寄稿記事を掲載させていただきます。

「ボカロ音楽の「透明性」と、歌唱の「人間らしさ」の関係について」というタイトルです。

執筆時からもうすでに情報が古くなってしまっている部分もありますが、2023年10月時点での認識として書き残したものになっています。

Web掲載に際していくつか参考リンクを加えたりしています。また、Soundmainのサービス終了にともない当該サイト上のインタビュー記事がFlatさんのnoteに転載される形になったため、転載先のURLを付記しました。

ご興味ある方はお読みいただければと思います。ご批判やコメント等いただけましたら幸いです。

 

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ボカロ音楽の「透明性」と、歌唱の「人間らしさ」の関係について

1.はじめに

 「ボカロ音楽」の定義は何か?というと、「ボカロが使われている音楽」ということになる。細かい問題をすっ飛ばして言えば、「ボカロ=合成音声シンガーの歌唱による音楽」のことであり、逆に、この世にあまた存在するボカロ音楽の共通項はこの一点に限られる。

 すなわち、ボカロ音楽は「声がボカロであること」という条件によって規定されているジャンルだ。よくボカロ音楽の特徴として「高速早口歌唱」「音域が広い」「シニカルな歌詞」などが指摘されることがあるが、これらはあくまで一部の流行りの楽曲に当てはまる特徴であり、ボカロ音楽の定義とは関係がない。これらは、「声がボカロである」というおおもとの条件から派生した特徴であり、「結果的にそうなっている」という方が実態に近いだろう(実際、このような特徴に当てはまらない曲は山ほどある)。また、今はボカロ音楽出身のアーティストがメジャーデビューすることによってJ-POPの一部においてもこうした特徴は散見されるようになっており、必ずしもボカロ音楽に固有のものとは言えなくなっている。

 したがって、ボカロ音楽の特異性について考えるにあたっては、あくまでそれが「ボカロの声により歌われている」という点に着目する必要がある*1。歌曲を人間ではなくボカロが歌うことによって、どのような特異性がボカロ音楽には生まれているのだろうか?

 本稿では、先行する言説を参照しつつ、「ボカロ音楽の特異性」として「透明性」が語られてきたということについて述べ、それが「人間らしさ」とどのような関係を持っているかについて論じる。次いで、合成音声の分野におけるAI技術の進展によって、そのボカロ音楽の特異性にどのような変化が生じるかということについて考えたい。

 

2.ボカロ音楽の特異性

 ボカロシーンの初期より活躍し、教本なども手がけるボカロPであるアンメルツPは、「ボカロ曲を作ることの魅力」について、以下の四点を挙げている。作り手目線での意見ではあるが、リスナーから見たボカロ音楽の魅力についても関わってくるものだ。

1:誰でも歌モノ楽曲が作れる

2:人間ではなかなかできない歌わせ方をした曲が作れる

3:作曲者のメッセージが、ほかの人間を媒介せずに伝わる

4:歌ってもらうこと自体が楽しい!

 

ボカロ曲の作り方①【ボカロの歴史/ボカロPの作業/基礎知識】 | plug+(プラグ・プラス) https://plugplus.rittor-music.co.jp/training/series/how-to-make-vocaloid-songs/01-vocaloid-attraction/2/(2023年10月5日閲覧)

 このうち1については説明は不要だろうが、ボカロを使うことで、自分の声で歌えない、あるいは歌唱に自信がない人でも歌モノを作れるようになったことで、インディーな場としてボカロシーンが盛り上がって多様な音楽性が生まれたという点が指摘でき、本稿では取り上げないが重要なポイントだ。

 2については、アンメルツPは「初音ミクの消失」のような高速歌唱や、1オクターブを超える音域の曲を労せず作れるということを指摘し、「人間が歌うことを念頭に置かなくとも楽曲のアイデアを膨らますことができ」ると述べている。高速歌唱や広い音域に付け加えるならば、例えば「息継ぎがない」曲が作れるというのがあり、これを曲のテーマとして活かした「ノンブレス・オブリージュ」という曲もある。あるいは、「一千光年」のような異常に長いロングトーンや、あるいは音程が乱高下する曲などもこれにあたるだろう(もちろん、これらは誰にとっても分かりやすい特徴を抜き出したものであり、「歌いにくさ」も実際にはもっと多様な観点から見れることは確かだろう)。

 ニコニコ動画においてはこういった「人間が歌う難易度が高い」ボカロ曲には「歌ってみろ」というタグがつけられており、2023年10月現在「頓珍漢の宴」「高音厨音域テスト」「マシンガンポエムドール」などの曲が並んでいる。


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 4については純粋に作り手目線の話なためここでは割愛する。

 本稿が注目したいのは3の「作曲者のメッセージが、ほかの人間を媒介せずに伝わる」ということについてだ。アンメルツPは以下のように述べている。

 これはどういうことかと言うと、前出の『カゲロウプロジェクト』など、ストーリー楽曲にとりわけ言えるのですが、作曲者の持っている世界観やメッセージなどを、ほかの人間を媒介せずに直接伝えることが可能なのです。そういった”色の無い器としてのボカロ”が魅力の1つです。

 例えるなら、色の無い器(ボカロ曲)を用意して、そこに思い思いにみんなが料理(派生作品)を盛り付けていく。そうすると器も美しい、料理も美味しいで、みんな幸せになれる感覚を私は感じています。

(※太字は原文ママ

 ここで言われているのは、ボカロで曲を作ることによって、世界観やメッセージなどを、ほかの人間(=歌い手)を媒介せずに直接伝えることが可能だということだが、ボカロのことを「色の無い器」と形容していることに注目したい。

 「色の無い」というのは「透明」と言い換えることができる。即物的な次元においてはボカロはあくまで合成音声ソフトであり、自我を持たない。人間の歌い手が曲を歌う場合、作曲者・作詞者が別にいたとしても、必ずその歌い手の自我がそこに介在してしまうのだが、ボカロだとこれが起こらず、あくまで「透明」な器として機能する。

 こういった意味での「透明性」がボカロ音楽の特異性の一つとなっている可能性は大きい。そして先行文献を参照すると、これと部分的に重なるような指摘は、これまで多くのクリエイターやリスナーによってされてきたのだと分かる。次章においてはそれについて述べていく。

 

3.ボカロ音楽の「透明性」について

 まず取り上げるのは、ボカロPであり音楽評論家の鮎川ぱてが『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』(文藝春秋、2022年、p.142~143)で「ロストワンの号哭」を例に論じている内容だ。鮎川ぱては「透明性」ではなく「函数性」という言い方を使っている。当該箇所を引用する。

(中略)「ロストワンの号哭」を「自分の中の分裂と葛藤」という視点で解釈した人は多いでしょう。(中略)この曲の印象を「自分に向かって叫んでいるようだ」と語った学生もいました。

 ただ、考えてみてほしいんですが、この曲が生身の人間のボーカリストによって歌われていたなら、みなさんはすぐにそのような視点を得られていたでしょうか?

 一般に、楽曲を人間の歌い手が歌うと、「その人が持っているメッセージを聞き手に向かってぶつける」という情報伝達モデル=聞き手の受容のモデルが成立することを免れません。もちろん、シンガーソングライターによる楽曲以外においては、この受容モデルはフィクションですが、それでも強固なこのフィクションを、作り手は活用しようとします。

(中略)

 また、この曲は非常にパッションフルなメロディです。とくにサビは叫ぶように高音域で歌う構成になっている。これを人が歌ったなら「オレはこう思っているんだぞー‼」と、歌い手が自分のパッションをぶつけている印象になっていたと思います。もっと暑苦しい印象だったでしょう。

 けれどもそうはなっていない。なぜならボカロが歌っているからです。

 ぼくはこの曲を、ボカロが歌うに相応しい名曲だと認識しています。ボカロ曲になるべくしてなった曲。ボカロが歌っているからこそ、聴き手は「歌い手の感情をぶつけられている!」とは感じず、その歌詞で表現される世界を我が事として、「僕」という一人称に自分を代入して聴くことができる。人の葛藤を聴かされているというよりも、それが自分の葛藤のように聴こえる。そこに自分を代入させられてしまうような効果が、ボーカルがボカロであることによって成立している。

 これをもって、次のように言いたいと思います。

 ボーカロイドには函数性がある。


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 激情を歌った歌詞を、生身の人間ではない(=身体を持たない)「ボカロが歌っている」ことによって、リスナーはそのボカロという主体に自身を代入して聴くことができる。そのことを鮎川ぱては「函数性」と表現しているが、これはボカロが、メッセージを伝達するための「透明」な器として機能しているというアンメルツPの指摘とも軌を一にしていると言えるだろう。

 そしてここで述べられているような「透明性」/「函数性」は、ボカロ音楽を論じたり語ったりする側ではない、作り手においても共有されている(されていた)認識であるようだ。ボカロPとして「ウミユリ海底譚」「夜明けと蛍」といった代表曲を持ち、現在はヨルシカのコンポーザーを手がけているn-bunaは、2017年のインタビューにて以下のように述べている。

 ボカロって、言ってしまえば声に感情がないじゃないですか。がんばって付けることもできますけど、声に感情がないこと自体、ボカロの長所だと僕は思うし、だからこそ聴く人が感情を好きなふうに入れられる。僕がボカロで作った歌に、リスナーの方が自分の経験や感情を当てはめて、いろいろな聴き方をしてくれるっていう。と言うことは、歌詞に重きを置いた聴き方をされやすいのかなって思うんですよ。それにボカロって、感情のない無機質さこそが面白い音楽じゃないですか。ある意味、アーティストとしての色を感じさせない。

──こと歌に関してはそうですね。

 はい。曲においては作曲者ごとの色も出ると思うんですけど。歌においてはそれを感じさせないっていうのが、この文化がここまで発展してきた理由だろうなと思うから、そういう要素を生かした曲を作っていきたいんです。

 

ヨルシカ「夏草が邪魔をする」インタビュー|気鋭ボカロP・n-bunaが新たに挑む“バンド”という表現手段 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

https://natalie.mu/music/pp/yorushika/page/2(2023年10月5日閲覧)


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 n-bunaによれば、ボカロにおいては「声に感情がない」ことが長所になっており、それによって「聴く人が感情を好きなふうに入れられる」。これは先に紹介した「函数性」と重なる着想だといっても差し支えないだろう。また、くわえてn-bunaはその「函数性」が、ボカロの声の「無機質さ」に起因するという点を指摘している。これは彼がボカロ曲で主に使用していた初期の初音ミクやGUMIといったVOCALOIDが、ベタ打ち(ピアノロールにメロディと歌詞を打ち込んだだけの素の状態)だと生気のない無機質な機械音声であった、という性質とも関係しているだろう*2。また、論からはやや外れるが、「声に感情がない」というのはボカロシーンにおいて「歌ってみた」が発展した理由でもあると思われる。ボカロの原曲ではフラットなボーカルになっている部分を、歌い手が各々の個性でニュアンスを付けて歌い、自由に味付けすることができるからだ。

 ボカロの「透明性」に関して、もう一つ興味深い論点を指摘している作り手があり、それはボカロを用いてポエトリーリーディングの楽曲を制作するボカロPとして知られる「アメリカ民謡研究会」のHaniwaだ。

──合成音声のことをどのような存在として認識していますか?

「新しい楽器」という感じがします。ピアノを使えばそのピアノの音色を生かした音楽ができるというのと同じように、合成音声を使えば合成音声らしさを生かした音楽ができます。AIを利用した最近の合成音声は人間の発音やイントネーションにどんどん近づいていっていますが、やはり人間ではない合成音声にしかない魅力というものを感じます。

──もう少し詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか。

たとえば、悲しい内容の歌があったら歌手は悲しそうに歌おうとすると思うんですけど、その瞬間の歌手は、本当に悲しいわけではないじゃないですか。そこに一種の、演技をしているような雰囲気を感じてしまうこともあると思うんです。

 

一方で合成音声が歌っている曲だと、演技も何も全部が嘘なわけですから、人間を通さずに言葉がやってくるというか、言葉が直接聴者にやってくる感覚があるのではないかと感じています。

 

アメリカ民謡研究会・Haniwaインタビュー 合成音声×ポエトリーリーディングで紡がれる、唯一無二の作風の根源に迫る

https://blogs.soundmain.net/17374/2/(2023年10月5日閲覧)/ 再掲先はこちら


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 Haniwaが、合成音声が歌っている曲(≒ボカロ音楽)の魅力として挙げている「人間を通さずに言葉がやってくるというか、言葉が直接聴者にやってくる感覚」というのは、これまで確認してきた「透明性」とも共通するものだが、その理由付けとして、そもそも合成音声の感情は(いかに感情豊かな表現であっても)全てフィクションである、という性質を挙げているのが興味深い。

 Haniwaは前述のn-bunaの立場とは異なり、人間の発音やイントネーションに近い(=人間らしい)声であっても「透明性」のようなものは生起すると考えているようだ。この立場の相違については次章で論じる。

 ここでHaniwaが指摘しているのは、ボカロの感情がそもそも最初からフィクションだからこそ逆に真実性を見出すことができる、といったことだが、ピノキオピーの楽曲「君が生きてなくてよかった」(2017)の歌詞においてもそれに近い観点が表現されているとみることができる。

変わらぬ愛も 儚い恋も

君からすれば ただの記号で

正義も悪も 帰らぬ日々も

君の前では どうでもよくて

ずっと ずっと 君が生きてなくてよかった


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 あくまでこの曲の解釈の一つではあるが、(当時の)VOCALOIDに歌詞を歌わせる際には言葉の意味をインプットすることはなく、言葉をすべて発音記号に直してエディター上で一音ずつ入力していくため、ボカロのソフトウェアが意味を解釈するというプロセスは挟まらない。ボカロが処理しているのはどこまでいっても単なる記号であり、そしてその感情の欠損が逆に「生きてなくてよかった」という長所として解釈されている。ボカロには感情がなく透明な存在だからこそ、作り手やリスナーに寄り添う存在ともなれる。そのような希望について歌い、支持された楽曲ではないだろうか。

 これ以外にも、「透明性」に関してはボカロアングラシーンで活躍するヒッキーPがインタビューにて「このボーカルの感情はボーカロイドのものなのか、作者のものなのか。その曖昧な半透明な感じがボーカロイドの魅力だ」というなっとくPの指摘に納得を表明している*3ほか、ボカロPのフロクロも、「日本文化における〈主客合一〉」を論じた記事において、ボカロ楽曲の「無人称性」が「〈ゼロ化〉した主体」への移入をもたらすのではないかという指摘を行っている*4。ボカロPとして活動歴のあるキタニタツヤも、ボカロ音楽について「声という一番手前にあって分厚いフィルターが限りなくニュートラルに近い」ので、「その奥の作り手の人間性が出るときはとことん色濃く出」ることを楽しんでいると発言している*5

 いずれにせよ、このような「透明性」に関わる観点が一定数以上の作り手や論者からボカロ音楽の特異性として語られてきたとはいえるだろう。

 

4.「透明性」を成り立たせている要因について

 次に述べたいのは、ボカロ音楽における「透明性」を成り立たせている要因は何なのかということだ。もちろん「声がボカロであること」がそれにあたるのだが、もう少し掘り下げると以下の二つに分けられるのではないかと思う。

A.  ボカロの声に「合成音声/機械音声らしさ」が残っている、ないし合成音声であることを示すようなシグナルがあること

B. アーティスト名やボーカル名の情報やキャラクターの認知など、「ボカロが歌っている」ことが分かるコンテクストが存在すること

 AとBはともに、「声がボカロである」という認知をリスナーに対して与える要因になっている。両者の違いは「音楽以外の情報が存在するかどうか」であり、聴取体験それ自体に「ボカロらしさ」が内在するかどうかだ。

 Aについて、「ボカロらしさ」とは声が人間らしくなく、「合成音声/機械音声らしさ」があること、もっと言えば「身体性がない」という言い方も可能だろう。実際に、ボカロ音楽についてはよく「身体性がない」ということが言われる。ただ、「身体性」という言い方は多義的で分かりにくい。そこで、「身体性」に関して鮎川ぱてが「ボカロのじかん」(『CDジャーナル 2012年06月号』音楽出版社、p.25)にて書いていた記述を引用する。

 ボカロに「身体性がない」というのは、あまりに雑な印象論にすぎません。とはいえ、"そこに身体があること"を直接連想させるサイン――たとえば、“喉"という人間の身体の一部が運動していることを連想させる音程のしゃくり上げや、音の末尾の揺れや、吐息のノイズなど――が歌唱に埋め込まれていないことを、端的に「身体性がない」と言っているのだとしたら、それはボカロの最大の可能性のひとつです。逆に言えば、歌に「身体性を感じる」というのは、実は非常に記号性の高い、意味論的な経験でもあります。

 当時の伝統的なボカロ(例えば「初音ミクの消失」などをイメージすると分かりやすい)においては「音程のしゃくり上げや、音の末尾の揺れや、吐息のノイズなど」はあらかじめ組み込まれていない(逆に、こういった身体性のサインが曲に含まれるとしたらそれはボカロPが調声技術によって付け加えたものということになる)。実際、ボカロには人間と違って舌や唇、喉や肺が存在しないため、それら身体器官によって人間の声に自然と加わるようなニュアンスは欠ける傾向がある。以後の記述で用いる「ボカロらしさ」には以上のような性質が含まれると考えていい。

 もちろん「人間らしさ」対「ボカロらしさ」という軸で考えるのは物事を単純化し過ぎではあるが、本稿ではそれらを特に細分化せずに用いる。

 トートロジー的な言い方になるが、ボカロ音楽において、どういうサウンドが流行っているかといった問題を抜きにすれば、ボカロ音楽とそうでないものをリスナーから見て弁別できるのはボーカルに「ボカロらしさがある」ことにほかならないだろう。

 合成音声であることのシグナルには、先に述べたようないわゆる「ボカロじゃないとできない歌い方」=「人間が歌う難易度が高い」という点も含まれると思われる。

 他方で、Bはボカロの声が人間らしいかどうか、といったことにかかわらず合成音声であること自体によって「透明性」が成り立つということであり、これはHaniwaが明確に述べていたことでもあった。

 とはいえ、これについてはコンテクストに依拠する以上、状況がやや限定的になってしまう面はあるだろう。例えば「ロストワンの号哭」のような曲*6がSynthesizer V AI小春六花やAI きりたんといった人間と区別がつきにくいAIシンガーのボーカル(これについては後述する)で作られ、それがYouTubeで視聴されるのではなく有線などで流れた場合、同じような認知は抱けないのではないだろうか。

 もっとも、AとBとを比べた場合、Bの方がより大きく「声がボカロである」という認知に寄与するものであることは間違いない。例えばPerfumeの楽曲のような、人間の声にオートチューン加工を施されている楽曲に対しては、いかにそれが機械音っぽくても「透明性」を感じることはあまりないように思われるからだ。

 

5.非人間的な目線での歌詞について

 ここでやや脱線するが、「透明性」とは重なりつつも別の観点として、ボカロ音楽には「非人間的な目線で歌詞が書ける」という効果もあるためそれを指摘しておきたい。ピノキオピーは「君が生きてなくてよかった」をリリースした2017年のインタビューにて以下のように述べている。

 人間が歌うと、その人の人格というフィルターを通して聴いてしまうんですけど、ミクは無色透明で人格がない。だから書ける歌詞がいっぱいある。俯瞰で物事を見るような歌詞なら、人が言うより人じゃないものが言ったときのほうが破壊力も出るんですよ

『別冊ele-king 初音ミク10周年――ボーカロイド音楽の深化と拡張』(Pヴァイン、2017年、p.55)

 「人が言うより人じゃないものが言ったときのほうが破壊力も出る」というのはある種のボカロ音楽の一側面を言い当てているようで興味深い。これはピノキオピーの風刺的な、あるいは人間の生自体を相対化するような歌詞においてボカロが寄与しているポイントだ——近作においては「神っぽいな」や、「匿名M」で初音ミクが人間に対して述べる「存在しててウケますね」などがそれにあたるだろう。

 そしてこれは初音ミクの、機械音声と人間の声の中間にあるような体温の低いボーカルの性質とも繋がっている。ピノキオピーの楽曲以外も見ると、これがホラー的な想像力と結びついている例もあり、ハチの「結ンデ開イテ羅刹ト骸」やMARETUの「うまれるまえは」(「生まれるまえは しんでいたんだから」)、「ホワイトハッピー」(「命は尊くて重い、とかいう常識は(中略)最高に勝手気ままな妄想」)の詞にも繋がっている。


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 こういった性質の楽曲には初音ミク機械的な声が必要だ、という見方はできる。感情は乗りつつも人間の声になりきらないことで、ある種不気味でぞっとするような感じを醸し出しているからだ。これは、人間の声に寄ったSynthesizer V AIやCeVIO AI、あるいはVOICEPEAK等のキャラで歌詞・セリフを言わせると違う印象になりそうな点だ。

 

6.ボカロと現在のAI合成音声技術

 ここで、Aとして挙げた、ボカロの声の「合成音声/機械音声らしさ」について、'20年代以降にAI合成音声技術の進展により変化が起こっているという点を指摘する。前章までで述べてきた「ボカロらしさ」は、多かれ少なかれ'10年代までの音声合成技術で作られたボカロ曲を前提にしている面があるからだ。

 '10年代までのボカロ楽曲はその大半がヤマハの開発したVOCALOIDないしUTAUを使用して作られていたが、'20年代に入って以後はCeVIO AIやSynthesizer V(以下、場合によりSVと略)をはじめAI技術を活用した様々な合成音声ソフトが台頭し群雄割拠となっている。

 こうした状況について細かく見ていくのは難しいが、見通しの良くなる整理の仕方として、ボカロシーンでキュレーターとして活躍する御丹宮くるみが2020年末にまとめたnote記事がある。

合成音声方式の違い……喉の種類のようなものが、ざっくり2種類あります。それが「波形接続型合成音声」と「AI合成音声」の2つです。

 

AIシンガーに関するあれこれを考える【ボカロリスナーアドベントカレンダーhttps://note.com/oniku_kurumi/n/n07c5db49638b(2023年10月5日閲覧)

 御丹宮くるみは記事中でボカロのソフトウェアを二つの方式に大別して整理している(厳密には「AI合成音声」のなかにもHMMやDNNなど様々な方式があることにも言及しつつ)。'10年代に支配的であったVOCALOIDやUTAUは波形接続型であるが、2020年に入りリリースないしリリース発表されたNEUTRINOやCeVIO AI、Synthesizer V AIなど多くのソフトはAI合成音声となっている。

 「AI合成音声」は概ね「歌声をディープラーニングして歌声モデルを生成して、その歌声モデル(AI)に歌を歌わせる方式」であり、声優やシンガーといった学習元の演者本人の歌い方の癖をシミュレートする。花譜の声をもとにした「CeVIO AI 可不」のような「音楽的同位体」はコンセプトにおいてもそれがよく出ていると言える。これは「波形接続型合成音声」が旧来的な「ボカロらしい」情報量が少ない声であることと対照的だ。


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 「音楽的同位体」に代表されるCeVIO AIと並んでメジャーなAI合成音声ソフトとしてはSVがあり、著名なライブラリとしては「小樽潮風高校PROJECT」を中心とする小春六花、夏色花梨、花隈千冬などが挙げられる。

 なお、2022年にリリースされたVOCALOIDの最新版であるVOCALOID6はAI合成音声を搭載したため、VOCALOIDについても現行のバージョンは波形接続型合成音声ではなくAI合成音声になっている(波形接続型はVOCALOID5まで)。

 現代のボカロにおける波形接続型合成音声からAI合成音声への切り替えが、楽曲の性質にも影響を及ぼしている顕著な例を一つ挙げる。2023年4月末にそれまでUTAU版しかなかった重音テトのSynthesizer V AI版がリリースされた。そのおよそ一ヶ月後に古参ボカロPのNemは、「キューティーハッカー」をSV版重音テトのボーカルでリリースしており、その際「重音テトほぼベタ打ち&初期設定のままです。歌うま過ぎ」とコメントしている*7が、YouTubeの当該曲のコメント欄では2023年6月時点において「神調教」「テトでこの調教はすごい」とったコメントがついており、それだけUTAU版とSV版には体感的な落差があったことがうかがえる。UTAU版重音テトを人間のように歌わせるのはかなりの調声(調教)技術を要するので難しいが、SVだとほぼベタ打ちで容易に達成できるということを示していると言える。


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 前掲のnoteにおいて、御丹宮くるみは「今波形接続型合成音声を採用してる歌声合成ソフトがめちゃくちゃ少ない」「もはや初音ミクNTとUTAUしか波形接続合成音声採用の知名度のある歌声合成ソフトが存在しない現状」と述べている。これは実状を巧みに捉えている指摘だが、より正確に言い直せば、「『2020年以後新しくリリースされている歌声合成ソフト』で波形接続型合成音声を採用しているものがめちゃくちゃ少ない」となるだろう。例えば鏡音リン・レン歌愛ユキなどは現在も広く使われているが、それぞれ「鏡音リン・レンV4X」(2015)や「VOCALOID4 歌愛ユキ」のVOCALOID4対応版(2015)が最新版であり、それ以後リニューアルされていない。

 '20年代に入って以後、波形接続型合成音声で新しく出たものが少ない(著名なものは初音ミクNTとUTAUしかない)、ということが'10年代のボカロシーンと現在のモードの違いを決定づけているように思われる。

 こうした動きのなかで、声自体が持つ、旧来の「ボカロらしさ」は目減りしていくことは考えられそうだ。

 旧来的な、'10年代までのボカロの声については、人間の声に近づきつつも人間の声そのものにはならない、ということが特徴としてよく指摘されていた。

 例えば佐々木敦『ニッポンの音楽』(2014年、講談社現代新書)の第四章においては、初音ミクとボカロ音楽に関して以下のように記されている。

 ところで、彼らの歌姫である初音ミクのヴォーカルは、高度な最新技術によるものとはいえ、まだまだ本物の「人間の声」とはやはり似て非なるものです。むしろ、ミクの「声」がヒトの「声」に漸近しつつも決定的に異なっているという点こそが、ボカロPたちの音楽的想像力のエンジンだったのではないかと思います。

(中略)

 初音ミクも、音声合成技術の行き着く先は「人間の声」そのものです。そこまでは行かず、絶妙なバランスで「谷」(引用者注:「不気味の谷」のこと)の手前に踏み留まることによって、彼女たちの歌声は、多くのリスナーの心を掴むことに成功したのだと思います。

 『ニッポンの音楽』においては言及されていないが、ボカロの声を人間の声に近づける要因はソフトウェアの技術発展だけではなく、個々のボカロPがボカロにほどこす「調声」の工程がある。

 人間らしさがあらかじめ失われているボカロの声に調声をほどこすなかで「滑舌を良くして歌詞を聴き取りやすくする」「自然な発音にする」「声にニュアンスをつける」といったことを行い、違和感なく聴けるものにしていく。一方で、旧来のボカロの場合、ベタ打ちの段階での「ボカロらしい」声を人間の声に近づける「調声」を行っても、やはり「完全に人間の声にはならない」ことが一つの魅力を生み出してもいた。

 「調声」について触れている初期のボカロ論として、川本聡胤『J-POPをつくる!』(2013年、フェリス女学院大学)の第五章がある。川本はボカロ音楽の特徴の一つとして「機械的な節回し(音の抑揚や高低)を残す」を挙げており、ゆよゆっぺ巡音ルカ曲「You and beautiful world」(2009)について、「全体を通してとても上手に調教されているなかに、わずかに残る機械的サウンドがおもしろい響きとなっている」と述べている(p.153)。

www.nicovideo.jp

 大まかに言えば、ボカロはどれだけ調声をしても、言葉の発音に機械的な雰囲気が残り、それがボカロらしさを生み出している、ということが述べられている*8。'10年代的なボカロのパラダイムは概ねこの見方に沿っているとも言えるだろう。

 一方で、当初のVOCALOIDが人間の声になりきらなかったのは開発者側が匙加減を調整したというよりも、技術的な限界の問題が大きかったと考えられる。そしてリスナーの側もどちらかというと「人間の声に近ければ近い方がいい」という価値観の人が多かったのではないかと思われる。人間の近いリアルな歌唱を実現した楽曲には「神調教」と絶賛コメントが付いてきたし、2009年の「ただでさえ天使のミクが感情という翼を持って女神になろうとしてるな」といったバズワードの誕生の背景にもそういった価値観は反映されている。

 とはいえ、「ボカロらしさ」を擁護するなかで技術発展やその可能性を否定するのは多分に守旧派的な姿勢ではある。ヤマハVOCALOIDの開発者が著した『ボーカロイド技術論』(2014年、ヤマハミュージックメディア、剣持秀紀・藤本健)においては、初音ミクVOCALOID2でのリリースが最初)が出るより以前、2005年にVOCALOID1.0からVOCALOID1.1にアップデートした際にも、声が「滑らかになったことへの不満も飛び出した」というエピソードが紹介されている(p.79)。

 そのため、LEON、LOLA、MEIKOの歌声は、システムアップデートによって、改良されるという形になりました。チームとしては、よりよい声になったと満足していたのですが、ユーザから予想外の不満が出てきたのです。

 とくにLOLAやMEIKOは歌い方の表情が顕著に変わったため、「俺のLOLAを返せ!」といった声がいくつか上がりました。自然に聞こえる声にしたからよいということではなく、やや不自然だった歌声を気に入ってくれていた方もいたのだと強く実感する出来事でした。

 LOLAやMEIKOの時期から「自然に聞こえる声」への反発があったことを考えると、今日私たちが「ボカロらしい」と思っている歌声も、2005年のリスナーからすれば「ボカロらしさ」が失われたものとして聴こえることだろう。逆に、我々が2005年のLOLAやMEIKOの歌声をいま聴くと、「自然に聞こえる声」とはあまり感じないはずだ。その意味ではボカロに感じる「人間らしさ」の感覚は年月とともにアップデートされていくものであり、現在における「ボカロらしい声が良い」という主張も相対化されるべきものだと言える。

 ただ、2005年当時と現在とで大きく違うのは、現在の最新技術では合成音声の人間らしさが、真に人間と区別できなくなる閾値に達しているということだ。

 こうした動きのなかで、2020年にリリースされた初音ミクNTはAI合成音声ではなく、波形接続型の合成音声となっている(自社開発の歌声合成エンジンを採用)。初音ミクがAI化しない理由としては、クリプトン代表の佐々木渉は以下のように述べている。

 AI歌声合成ソフトの開発やリリースがトレンドであり、進化していることも理解しています。

 初音ミク NTは収録した音声波形を切り貼り・加工して音声を合成する「素片接続」という仕組みのソフトです。操作性と自然さのバランスという意味で、見習わないといけない部分が多くあると思います。

 他方で、人間の歌声を再現するAI歌声合成ソフトが、生のグランドピアノの音色を目指すようなものだとしたら、われわれは初音ミク NTでエレクトリック・ピアノを目指しているともいえます。

 この方針では、歌唱を機械的にも抑揚たっぷりにもできるところにメリットがあります。うまくユーザーに使ってもらえるソフトにすると同時に、操作の難しさは拭い去っていかなくてはという難しさもあります。

 

ニュータイプになった初音ミクはどこへ向かうのか “VOCALOIDじゃないミク”の開発者に聞く ITmedia NEWS

 https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2011/30/news062_2.html(2023年10月5日閲覧)

 これは機械音声としての初音ミクのブランドを重視し、既存の「ボカロらしさ」「初音ミクらしさ」を保とうとしていると見ることができる。ベタ打ちの状態では機械的な声になるようになっており、ユーザーの介入によって「機械的にも抑揚たっぷりにもできる」幅を作ることが重視されている。

 ただ、「操作の難しさは拭い去っていかなくては」とコメントにあるように、AI合成音声は波形接続型合成音声よりも、労力をかけずに表現力の高い声が実現できることや、UIの使いやすさにおいて優れているから支持されるという側面がある。ボカロPのいよわはREDとの対談において、VOCALOIDと比べた際のCeVIO AIの「使い勝手の良さ」「カスタマイズのしやすさ」について述べている。

いよわ:『CeVIO AI』って音を打ち込んだら自動的にピッチが生成されて、それが線になって見えるじゃないですか。僕は「Mobile VOCALOID Editor」を使っているので、基本的にピッチを書いたりすることがないんです。なので、自動的に生成されたピッチが視覚的に見えるということは新鮮でしたね。あとは、打ち込んだ時点でほぼ完成系の歌い方になっているというのが今までにない感覚だと感じました。それでいて、微調整をしたいと思ったらいくらでもできる。こだわらない人は最初の時点で完結させても様になるし、こだわりたい人はとことん細かく詰めていけるという、融通の利きやすいソフトだなと感じました。

 

ボカロシーンに広がる「音声合成ソフトウェアの多様化」から生まれた新たな“創作論” いよわ×RED 対談  https://realsound.jp/tech/2023/03/post-1279359.html(2023年10月5日閲覧)


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 CeVIO AI以前のVOCALOIDに顕著であったような、人間の声と機械音声のあわいの声質になったり、調声によって作家性が出るというのは、それだけユーザーが介入して手間をかける必要があるという難しさと隣り合わせではあるだろう。

 本来的に、ソフトウェアとしての使い勝手が良いというのはあらゆる点で望ましいことであり、むしろこれによって歌唱の平均的な表現力が上がり、参入障壁が下がれば色々なクリエイターがボカロに参入しシーンが活気づくというメリットも考えられる。

 

7.「ボカロらしさ」の現在

 前章ではボカロの歌唱について旧来の「ボカロらしさ」が目減りしている点を指摘したが、他方で、現在のボカロシーンにおいてそうした「ボカロらしさ」の余地がなくなっていると考えるのは早計にすぎると思われる。

 前述の御丹宮くるみのnoteにあるように、2021年にリリースされたCeVIO AI版の可不は、あえて波形接続型合成音声の特徴を残したものとしてリリースされた*9。可不は「フォニイ」や「きゅうくらりん」、「キュートなカノジョ」などの大ヒット曲に使われており、もっとも著名なCeVIO AIシンガーとなったと言っていいだろう。


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 また、前述したSV版がリリースされた重音テトも、完全に人間らしさのシミュレーションに徹しているというわけでなく、UTAU版の重音テトの特徴を残したものになっているとされる*10

 ボカロ音楽の祭典である「ボカコレ」の2022年秋では、いよわによる足立レイ「熱異常」がランキングトップになったが、人間の声を混ぜずに作っているUTAUの音源である足立レイのロボットボイスを存分に活かした歌唱になっている。

 VOCALOID4やそれ以前のボカロの音源が近年に再評価され脚光を浴びるような例もある。2009年リリース、2015年のVOCALOID4版が最新版である歌愛ユキは、2016年にデビューした稲葉曇が使い始め「ロストアンブレラ」(2018)、「ラグトレイン」(2020)などヒット曲を出したのを一つのきっかけとして広く使われるようになった。「ボカロ小学生」キャラである歌愛ユキは大人の声優が小学生風の演技をした声ではなく実際の(素人の)小学生の声を元にしており、収録時の演者のコンディションが影響して、ハスキーでこもった感じの声になっている。それがダウナーな曲調にマッチすることを見出されて、広まったという形のようだ。


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 '20年代においてもAzari、式浦躁吾、なきそなどのボカロPの楽曲に使われることで存在感を放っており、あどけなさと枯れた感じが同居した声質を活かしてダークな曲や妖艶な曲も多く作られている。曲調はそれらとは異なるが、2023年リリースのボカロ楽曲の中で10月現在YouTubeの再生回数トップを記録している「強風オールバック」(9月末時点で6000万再生超え)も歌愛ユキのボーカルおよびキャラクターを前面に押し出した楽曲だ。

 UTAUはことにインディー音楽シーンにおいて影響力が強く、SV版の重音テトがリリースされた後にUTAU版の重音テトも再注目され、原口沙輔「人マニア」「ホントノ」のようなヒット曲も出ている。


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 また、一般的なボカロと比べてもはるかに機械音的な「ゆっくり」音声を使った耳中華の楽曲も注目されている。なお、「ゆっくり」(AquesTalk)の開発者である山崎信英は、「人間の声に近づけよう」という音声合成業界の流れと異なり「人間“らしくないけど”聞きやすい声」を目指している、という旨をインタビューで述べている*11

 もっとも、現在のボカロシーンは刻一刻と状況が変化しており、ほとんど月単位で勢力図が塗り替えられていると言っていいため、今後どうなるかは不確かだ。

 先述した可不も2024年1月にはSV版がリリースされる予定であるし、ヤマハが2023年8月に発表し、10月現在試験的にリリースされているVOCALOIDβは、いわゆる既存の「ボカロらしさ」の癖がないボーカルとなっている。作り手から見ればカスタマイズの幅が広がり表現力が増す一方で、リスナーから見た際にボカロ音楽的な特性がなくなり他と変わらなくなるという可能性はありえる。

 一つ確実なこととして言えるのは(今更な指摘ではあるが)「合成音声」=「人間らしくない/機械音声っぽい」という構図は成り立たなくなってきているということだ。

 これはAIボイチェン技術の浸透もそうであるし*12、TTSの分野においても、例えばマイクロソフトが「電子書籍を“好きな人の声”のオーディオブックに変換するシステム」として、テキストを人間的な声で感情や強調を込めて読み上げることを可能にするシステムを開発し発表している*13。AIボイスエンジンで色々な声を混ぜてオリジナルの声を作り人間そっくりに歌わせることができる「Pocket Singer」というスマホアプリもリリースされている*14。合成音声技術・作曲技術の進展はボカロ音楽に限定されない範囲で起こっており、それによって一般大衆における受容も変化している。

 ボカロ音楽の一部をなす「人間っぽくない声」という特性は前提ではなくなっており、今後は例えば選択肢の一つとして「あえて人間っぽくない声にする」という位置づけになり、それによって「透明性」が生じることもあれば生じないこともある、という形になっていくと思われる。

 

8.おわりに

 本稿においては旧来のボカロ語りと現在の文脈を結びつける意味もこめて「ボカロらしさ」対「人間らしさ」という対立軸で話したが、合成音声技術を使った音楽はもっと多様な可能性を持っていると言えるし、それは理論および実践の双方において今後掘り下げられていくと思われる。

 この二つを単純に二項対立で考えるのは正しくなく、問題はボカロの「調声の上手さ」が「人間らしいかどうか」という基準で判断されがちだという状況にあるのかもしれない。

 また、色々なタイプの合成音声が共存して残っていくという前提に立てば「どっちも良い」という意見も当然ありえる。VOCALOID・UTAU・CeVIO・SVの歌声をそれぞれに楽しめばいいし、選択肢が増えるのは単純に環境として恵まれているということだからだ。

 もちろん新しいバージョンが出たからといって古いバージョンが使えなくなるということはないし、CeVIO AI版「IA」が出てもVOCALOID3版「IA」を使い続けることもできる*15。一方で、ソフトウェアとして新しいバージョンが出ないことの影響は小さくないと思われる。それは例えば十分なサポートがされなくなるという可能性とも隣り合わせだからだ。先述した通り、新しくリリースされる合成音声ソフトはほぼAI合成音声になっており、今後のシェアの動きによるものの、「ボカロらしい」声は選択肢としてあまり残らないということも考えられる。

 ただ、これまでの論を覆すようだが、「ボカロらしさ」に固執するのは、ボカロ音楽リスナーのなかにおいても必ずしも一般的な観念だとまではいえないだろう。そうでなければ、ボカロ音楽シーンにおいて「歌ってみた」や歌い手の存在感が非常に大きいことの説明はつかない。「命に嫌われている」(オリジナルは初音ミク歌唱)の死生観をとうとうと歌う歌詞は「『透明性』のあるボカロ曲ならでは」だとも言えそうだが、一方で歌い手であるまふまふのカバーバージョンの方が多くの人に聴かれており、この曲をまふまふの曲だと受容しているリスナーの方が全体として多いだろう。

 また、「ボカロらしさ」や「ボカロじゃないとできない表現」というものがあったとしても、それを金科玉条のように掲げるのはもちろん正しくない。ボカロでナチュラルなポップスを作っている人が、合成音声ならではのエクスペリメンタルな表現をしている人より劣っているといったことはないし、個々のクリエイターにとっては、自分がやりたいことに最も適している表現や媒体を選ぶのは当然のことであるからだ。

 加えて、本論のような「透明性」という枠でボカロを捉えていると見過ごされる観点として、例えば初音ミクもキャラクターとしてそれ自体のストーリー性を持った存在になっているということだ。これは「ODDS&ENDS」(2012)や、「砂の惑星」(2017)や「ブレス・ユア・ブレス」(2019)といった歴代の「マジカルミライ」の象徴的なテーマソング、重音テトとのデュエット曲「あいのうた」(2023)などを通じても分かることだろう。個々のボカロの持つキャラクター性やストーリー性が前景化する際は、「透明性」という側面が弱まる面はあるだろう。その意味では「Synthesizer V AI Mai」や「VOCALOID6 AKITO」のような、キャラクター設定やデザインが存在しないボカロの方が、キャラクター付きのものよりも「透明性」を獲得しやすいという可能性もあるかもしれない*16

 上記のような取りこぼしはあるにせよ、本論では、ボカロ音楽の特性として「透明性」があり、それが多かれ少なかれ合成音声自体の「ボカロらしさ」とかかわりを持っていること、そして現在の合成音声方式の変化によってそれが部分的に目減りし、部分的に保たれる可能性について見てきた。

 ボカロカルチャーによって育まれた価値観があるとすれば、それは「歌声にキャラクターを投影する」というものに加えて、表情の乏しい機械音声を必ずしも劣化版と見なさず、抑揚を欠いた声であってもそこに魅力を見出すような感性があるとも指摘できるのではないだろうか。

 そうしたなかで、ボカロ音楽の一つのアイコンでもある初音ミクがソフトウェアとしてどう変化するのかというのは大きなトピックの一つだと思われる。

 現在において初音ミクを用いるボカロPの代表格にはDECO*27とピノキオピーがいるが、2017年に初音ミク10周年を記念して刊行された『初音ミク 10th Anniversary book』(KADOKAWA)に収録された両者の対談(p.97)では、それに関して興味深い発言がされている。

――ミクはどんどんリアルに歌えるようになったほうが良いでしょうか。それともボカロらしさが残っていたほうがよいでしょうか?

DECO*27:以前は、“ミクはミクっぽいほうがいい”と言っていたんですけれど、最近は新しい技術にどんどん乗っていきたいなって思うようになりました。僕は、今届けたい層が中学生や高校生なんです。ゲーム機に例えると、僕らはスーファミスーパーファミコン)から知っているからPS4PlayStation4)を見たら「うお~~」ってなるじゃないですか、グラフィック進化したなあって。でも最初からPS4で始める人はそのグラフィックであたりまえなんです。だからミクも同じで、はじめから進化した歌声を聴けば、そういうものだって思うはずなので、リアルになるのは良いと思いますし、その進化を拒絶しないほうが人とボカロの壁みたいなものが無くなりやすくなるのかなって考えています。

ピノキオピー:僕はボカロのしょうもなさ、力の抜けた感じが好きなので、リアルになりすぎなくてもとは思うものの、ボカロを聴いたことのない人が、歌詞が聴き取れないという意見はまだ聞きます。ですから普通に聴いて歌詞がちゃんと聴こえつつも、いわゆる“ボカロらしさ”も残っているようなものになったら自分としてはすごくうれしいですし、壁もなくなっていくと思います。

 DECO*27はボカロの存在をリーチさせたいため、初音ミクがリアルな声になっていくのを希望するが、ピノキオピーはボカロの声の特性それ自体に愛着があるため、「ボカロらしさ」を残した上での進化を望んでいる*17

 この両者の意見は第四章におけるBとAの立場とも対応させることができるだろう。単純化して言えば、ボカロ/初音ミクアイデンティティはキャラクターやコンテクストの部分にあるか、声質それ自体にあるかという考え方の違いだ(これはDECO*27が初音ミクのアイドル性を押し出した楽曲群(『MANNEQUIN』シリーズなど)を展開し、ピノキオピーがボカロの特性を生かしたコンセプチュアルな楽曲を発表していることとも符合する)。

 DECO*27のこの時点での提言によれば、初音ミクの声は人間らしくなっていくのが望ましいが、人間の声と同一化したとしても、初音ミクのキャラクターやアイドル性の部分で「ボカロらしさ」は担保されることになる。他方で、ピノキオピーの提言によれば、ボカロの声がリアルになり切らないことにも「ボカロらしさ」という価値が存在しているため、ある種の不完全さを残した方が望ましいことになる。「PS4」(最新版はPS5だが)のハイスペックさとの類比で言うと、ピノキオピー的な立場によれば初音ミクはレトロゲー的な価値を持つようになっていくのかもしれない。あるいはクリプトン代表である佐々木渉の「エレクトリック・ピアノ」から連想すれば、初音ミクのデザインのモデルになっているシンセサイザーである「DX7*18のような存在になるだろうか。

 そういった当の初音ミクが今後実際にどうなっているかということも含め、ボカロ音楽の行く先に注目していきたい。

 

*1:もちろん、ボカロ音楽というジャンルが「歌ってみた」動画を中心とする人間の「歌い手」カルチャーと共鳴して発展してきたのは事実であり、そのことを否定するものではない。

*2:もっとも、n-bunaは『Sound & Recording Magazine 2015年9月号』(リットーミュージック)のインタビューにてボカロの調声について以下のように語っており、ただ無機質なボーカルを目指していたわけではないことには留意する必要がある。

「ボカロの声に感情のようなものを込めたくて、方法を模索していたんです。それで生身のシンガーの声を聴き、エモーショナルな歌い方には何か特徴があるのではと考えたところ、"ピッチをうまく揺らす"という結論にたどり着きました。『透明エレジー』では、歌の出だしのピッチを大きく揺らし、涙声のような震えを作っています」(p.35)

*3:ヒッキーP インタビュー ボカロアングラシーンの重要人物が語る、「感情の音楽化」と現在のボカロシーン  https://blogs.soundmain.net/14162/(2023年10月5日閲覧)/ 再掲先はこちら

*4:日本の芸術・文化における〈主客合一〉の傾向について ~『雪国』とシャニマスの共通点~ https://note.com/2r96/n/n4bd3047f8a36(2023年10月5日閲覧)

*5:https://twitter.com/TatsuyaKitani/status/1638516822650818563(2023年10月5日閲覧)

*6:「~のような曲」という言い方をするのは、制作に用いられるソフトウェアやライブラリが異なればそもそも違う性質の曲が作られると考えられるからだ。

*7:https://twitter.com/Nem_P/status/1666043069744164864(2023年10月5日閲覧)

*8:副次的に言えば、調声の過程で個々のボカロPの作家性が発揮されて特徴的な声になり、「うちのミク」といった概念が生じる側面がある。例えばDECO*27とピノキオピーが共作した初音ミク「デビルじゃないもん」(2023)においては、DECO*27とピノキオピーがそれぞれ調声をほどこした初音ミクが交互に歌っているが、両者の声が混ざることなく対比されている。

*9:詳しい経緯については、以下のTogetter等を参照。

音楽アーティストと同じ声の合成音声ソフトが出たら「私の居る意味がなくなる」?VSinger花譜とCeVIO AI可不について、情報の整理と反応のまとめ https://togetter.com/li/1610827(2023年10月5日閲覧)

*10:島村楽器 イオンモール大高店」Twitter公式アカウントの投稿を参考にした。

https://twitter.com/shima_oodaka/status/1653290334359805952

https://twitter.com/shima_oodaka/status/1653292056390021134 (ともに2023年10月5日閲覧)

*11:ゆっくりしていってね!!!」の声はどうやって生まれたのか 開発者が語る“起業エンジニアの生存戦略https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1901/22/news098_2.html(2023年10月5日閲覧)

*12:RVCやSVC等を用いたAIカバー楽曲について、2023年12月現在の最新情報は以下のnoteに詳しい。

AI Coverは新しい音楽文化なのか? & # 2023年Vtuber楽曲10選 (裏) |すら note https://note.com/bluesura/n/n4c18c4a7aa18(2023年12月13日閲覧)

*13:https://www.techno-edge.net/article/2023/09/18/1930.html(2023年10月5日閲覧)

*14:https://play.google.com/store/apps/details?id=com.accidental.ocsinger(2023年10月5日閲覧)

*15:歌い手のAdoは、例えば初音ミクNTなど新しいバージョンが出ても初音ミクV3など旧来のバージョンが使えなくなるわけではないため、むしろ選択肢の拡大に繋がる感覚があると指摘している。(『別冊カドカワ 総力特集 初音ミク』(KADOKAWA、2023年、p.98~99))

*16:ボカロPのサノカモメは以下のインタビュー記事で、「音楽に声と歌詞を乗せたいだけであって、そこにキャラクター性を乗せたくはなかった」という理由から「VOCALOID VY1」を使うようになったということを述べている。

サノカモメはCeVIO AI『POPY』をどう使った? 人間と機械、双方の“らしさ”を備えたAI音声合成ソフトの魅力 https://realsound.jp/2023/08/post-1393678_3.html(2023年12月13日閲覧)

*17:もっとも、DECO*27は「プロフェッショナル~仕事の流儀~」の「初音ミク」特集回(2022年3月1日放送)に出演した際に、自身の初音ミクの調声について「機械と人間のちょうど中間 どっちにも寄らない感じ」と発言しており、実際には2017年時点でのこの発言がそのまま現在の立場というわけではないと思われる。

*18:初音ミク」ができるまで:クリプトン・フューチャー・メディアに聞く - ITmedia NEWS https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/22/news013.html(2023年12月13日閲覧)

「炉心融解」から考える、ボカロ曲の解釈と動画の関係(評論)

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というわけで、同人誌に寄稿した「炉心融解」の記事をブログにアップします…!

以下に掲載するのは、今年5月に刊行された『GOETIA』という同人誌に私が寄稿させていただいた、「「炉心融解」から考える、ボカロ曲の解釈と動画の関係」という文章の全文です。

ちなみにこの記事は『ボーカロイド文化の現在地』という先日刊行した同人誌にも再掲させていただいています。これが2回目の再利用ということになります。

(同人誌はただいまBOOTHにて予約販売中ですので、よろしくお願いいたします)

asyncvoice.booth.pm

現在ニコニコ動画にアップされている公式の「炉心融解」は最初の動画が削除された後に再アップされたバージョンです。今回、その再アップされたバージョンが1000万再生を突破しましたが、削除された初代動画は266万再生されており、両者を合わせると1266万再生超えです。

これによって「炉心融解」はニコニコ動画のボカロ曲の再生数ランキングで「歴代6位」!になります。

1位が「千本桜」2位が「みくみくにしてあげる♪【してやんよ】」3位が「メルト」4位「ワールズエンド・ダンスホール」5位「マトリョシカ」、そして7位に「モザイクロール」なので、この間の位置にある「炉心融解」がどれほどのモンスター曲かが分かることでしょう。

そんな「炉心融解」について書いた記事です。ご興味ある方はお読みいただければと思います。ご批判やコメント等いただけましたら幸いです。

 

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炉心融解」から考える、ボカロ曲の解釈と動画の関係

◆「炉心融解」の個人的受容体験

 筆者が初めてハマったボカロ曲は何か?というと、2008年末に出た「炉心融解」だ(実際に聴いたのは2009年)。それまで「メルト」などの有名曲を聴いてはいたが、それらはなんとなく「初音ミクボーカロイド」という流行ジャンルの一部として聴いていたのに近く、初めて惹かれた具体的な曲はiroha(sasaki) feat.鏡音リンによる「炉心融解」ということになる(ちなみに、「2009年頃から聴いている」と言うとすごい古参リスナーのように思われるかもしれないが、'10年代の間はほぼボカロ曲を聴いていなかったのでリスナー歴自体は長くない)。

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 「炉心融解」は今聴いても問答無用でカッコいいと思える曲だ。「街明かり 華やか エーテル麻酔の冷たさ」という完璧な歌い出し、ささくれ立った心象風景を活写した切れ味の鋭い歌詞、ドラムンベースの打ち込み……そして何よりも鏡音リンの合成音声感ばりばりのキンキン声でアタックの強いパワフルなボーカル。悲痛を叫ぶような歌詞で、歌い方も人間だったらほとんど熱唱しているような感じだけど、それが身体を持たないボーカロイドによる歌唱であることで、「激情があるけど冷めている感じ」になり、それがこの曲の独特の空気感を形作っている。もちろん当時の自分はそこまで言語化して捉えていたわけではないが、この曲の世界観には惹かれたし、多くの人間が歌えないような高音域なボーカル(最高音はサビの「~思う」の部分のhihiC#とのことだ)などは「ボカロじゃないと歌えない曲」という印象を心に刻みつけ、それによって「炉心融解」という曲に「プレミア感」を個人的に抱いていたと思う。これを書いている今は天音かなたやヰ世界情緒らによる歌ってみた動画が人気になっているが、この曲はやはりその歌唱の特性上、鏡音リンというボーカルと分かちがたく結びついているものだと言えるだろう。今振り返ると、高音域で歌われるボカロの悲痛な叫びや「激情があるけど冷めている感じ」というのは、wowakaの一連の楽曲(「ローリンガール」「ワールズエンド・ダンスホール」)やNeruの「ロストワンの号哭」、Orangestarの「Alice in 冷凍庫」に通じるものでもある。
 そして、「炉心融解」は歌詞も強くイメージに残っていた。露骨に希死念慮感が強く、疎外感、自己滅却の欲求を歌っている(「核融合炉にさ 飛び込んでみたら また昔みたいに眠れるような そんな気がして」と歌っている)。これも前述の「ローリンガール」などと共通する印象を抱かせるものだった。


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◆バージョンによる解釈の違いについて

 そういったわけで、筆者は「炉心融解」について、その歌詞と曲調から判断して素直に「希死念慮ソング」として受容していたのだが、最近になってこの曲の動画および作者解説を見て、その印象がひっくり返ることになった。
 「炉心融解」のMVは、自殺(あるいは他殺)のようなモチーフをストレートに描いたものにはなっていない。なかばストーリー仕立てのMVになっていて、そこではモラトリアムの渦中にある思春期の少女が、心的世界で「子供時代の自分」を殺して決別し成長する、ある種のイニシエーションが描かれている。それもあって、ネットに上がっている考察記事も「二つの自分」の対峙と葛藤、あるいは「もう一人の自分」との決別、のように解釈していることが多いようだ。
 実は筆者は「炉心融解」を当時聴いたとき、動画のフル版をそこまでじっくり見たことがなかった。というのも、当時の自分はニコニコ動画に上がっている曲の音源をmp3ファイルでローカルに落として、PSPで再生することが多かったためだ(また、個人的に、「歌詞の意味について考察する」という行為をあまり積極的にしないというのもある。音楽に対しては情緒的に身を任せられるかどうかを重視するため、細かい事実関係や整合性をあまり気にしないことが多い)。つまり、ごく最近になるまで、「炉心融解」の動画を抜きにして、ほぼ曲自体からイメージを膨らませていたということだ。それにより、MVで描かれていたような、「もう一人の自分」との決別という解釈はあまり持っていなかった。
 そしてどうやら、制作者側の解説を見ると、このMVには曲の歌詞自体とは意図的に異なった解釈が込められているようだ。まず前提として、「炉心融解」はボカロ曲としてはやや珍しく完全に集団制作で作られた曲であり、作詞を「kuma(alfled)」、作曲を「iroha(sasaki)」、動画を「なぎみそ」が手がけている。しかもこの3人の間で綿密な打ち合わせをして進めたという形ではなく、それぞれ独立して作業が行われている。歌詞となるテキストも元々は歌詞に使われることを想定せずにkuma(alfled)が書いたテキスト(詩)であり、それにiroha(sasaki)が曲を付けたことで曲が誕生したという経緯とのことだ。
 動画担当のなぎみそは、「炉心融解」MVのメイキングを含めた解説動画を上げており、その中で曲の解釈に関わる要素についてもあけすけに言及している。動画内でのなぎみそによるコメントを以下に引用する。

今回の動画作成にあたって演出面でのコンセプトはとてもシンプルで どストレートに後ろ向きなこの歌詞をマイルドにする作業でした。
そのまま読めば『自分が消えてなくなればスキッと爽快ビューティフルワールドに違いない』的なテーマなので 動画側でもその良い中二感を受け止めつつ、自己全否定ではなく一部だけパージするという、打算的なやり方で角を取って丸めておきましたw

【トゥース!】 炉心融解 動画サイド解説 【ウィ】 - ニコニコ動画

 MVでは歌詞の内容を受けて、その方向性のまま作るというよりは、それを中和するようなやり方をあえて取ったということが語られている。
また、この解説動画を引用した上で、作曲者のiroha(sasaki)は自身のHPでの「炉心融解」解説記事において以下のように書いていた。

要はモラトリアム的な内容です。
曲の真意としては、そういう内容なのでした。
精神上、色んなものを殺しながら人は生きていくよね、と。
寂しさとか葛藤とか、色んなものがごっちゃになったような、複雑な気持ち。
(中略)
つまり、PVとしての炉心融解は純粋になぎみそさんの解釈が100%入ってるわけです。
なにせポジティブな人なので、まんまネガティブ解釈にはしないとは思いましたが!

この曲のめんどくせーところは、PV無しだと本当にネガティブ解釈の強い曲になってしまうという事。
伝えたいメッセージ性としては、当然ながらなぎみそ版前向き解釈の方なわけでして、
真意を伝えるにはPV映像が切っても切れない関係になっているのでした…
曲と映像がセットで、初めて成立してくれる、と。

曲だけで聴かれたら誤解されてしまうのは間違いないでしょうから。

ネガティブな、そんな解釈で聴くのもアリだとは思いますが、そこは人として…

■Xiao-Sphereブログ(更新終了)■ 炉心融解 曲について

 つまり、「炉心融解」はもともとの歌詞は後ろ向きだが、歌詞をもとに作曲→動画の工程を経る中で方向転換が行われて、最終的に前向きな結論&成長の描写を含んだ曲として世に出たということになる。そしてiroha(sasaki)&なぎみそ両氏にとっては「前向き版解釈」の方が真意に近いということになる。
 作詞家の解釈と、作曲者の解釈/動画制作者の解釈とがほとんど真逆の方向性を持っていたことが興味深いし、そのようなズレにもかかわらず作品全体として非常に統御されたものになっているのにも驚かされる
(もっとも、穿った見方をすると、世間体的に「希死念慮を肯定してます」とはふつう言えないだろうから、制作者側がこのような言い方をするのはある意味で当然といえるかもしれないし、照れ隠しで言っている側面もあるかもしれないため、そこは割り引いて考える必要はあるだろう)。

 

◆「動画版の解釈」の是非

 さて、以上のことを受けてここで提起したいのは、動画MVの解釈は絶対か?という問題だ。ボカロ音楽は「ネット音楽」というジャンルの一部であり、その性質上、動画投稿サイトにて動画とセットで発表されることがほとんどなため、他のジャンルと比べても曲とMVの解釈が強く結びついていることが多い。2022年に刊行された鮎川ぱてによる「東京大学ボーカロイド音楽論』講義」(文藝春秋)においても、「モザイクロール」や「ロストワンの号哭」について、そのMVのディティールをもとに細かい考察を行っている。だが、そもそもこれらの曲をMVをもとに論じることにそこまで必然性があるかというと、そうではないように感じられる。


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 今はネット発かどうか、メジャーかインディーかどうかといったことに関係なく、あらゆるシングル曲はYouTube等でMVとともに発表されるのが一般的になっていると言えるが、その一方で、ではあらゆるジャンルにおいてMVと曲の解釈の結びつきが強くなったかというと、必ずしもそうではない。
 例えば米津玄師の「KICK BACK」のMVを記憶している人は多いだろうが、あの曲をMVのストーリーに沿って解釈して「自分の妄想の中にいる男に異常に執着する男視点の曲」だと捉える人はほとんどいないだろうと思われる。ああいったコミック的なMVは曲自体の解釈には触れない、プロモーションのための「ネタ」や「賑やかし」のようなものとして存在している。であればそこには「読解に使われるMVと、そうでないMV」を腑分けするという判断が介在していると思われる。しかし、その判断は恣意的なものであって絶対ではないし、「MV動画による解釈」はある程度相対化されてしかるべきではないだろうか。

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 初音ミクのボーカルに代表されるボカロ音楽は元来ニコニコ動画が発祥であり、動画とセットで視聴されることが主だったが、2023年現在はSpotifyApple Musicのようなサブスクリプションサービスで聴かれることもかなり増えている。例えばFlatさんというユーザーがSpotify上に「Spotify1000万再生超えボカロ曲」というプレイリストを作っているが、2023年11月15日現在、91曲が入っており、一位の「愛して 愛して 愛して」は再生数一億回超えを誇っている。Spotifyでの再生数がYouTubeでの再生数を超えているケースも多い。

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 Spotify等で音楽が聴かれるとき、その聴取体験に直接紐づく情報としては「曲名」「アーティスト名」「アルバム名」「歌詞表示」などの文字情報に加えて、「ジャケットイラスト」等の断片的なイメージのみであり、公式のMV動画から独立した体験がそこに立ち上がるだろうことが想像できる。いや、そもそもこれは今に始まったことではなく、ボカロ音楽初期の頃からボカロ曲が『EXIT TUNES PRESENTS』(2009年~)のようなコンピレーションアルバムに入ってCDで売られたりTSUTAYAレンタルで借りられたりしていて、必ずしも動画とセットで聴取されるというわけではなかったはずだ。にもかかわらず、そのような体験はボカロ曲についての語りから疎外されてきた側面はあるだろう。

 もちろん、サブスクリプションサービスやTikTokで聴かれることが多くなったとしても、作者の意図を忠実に反映しているのはあくまでYouTube等にアップされている公式動画であり、それ以外の形態での聴取体験は不完全なものだ、と主張することはできる。しかし「炉心融解」のような、MVの解釈が作詞家の解釈と別個になっているような曲の場合、MVがその曲のオリジナルだとは言い切れなくなるのではないだろうかと思う。

 MVの話からは外れるが、個人的に、Spotifyでの聴取体験とYouTubeでの原曲とのずれを感じた曲としてはwotaku(ボカロP)の初音ミク曲「DOGMA」がある。この曲の初出はYouTubeで、シスター・クレアの非公式イメージソングとして発表されたのだが、のちにシスター・クレア本人によってカバーされたり配信のBGMに使われたりすることで「シスター・クレアオリジナルソング」として地位を確立したという経緯があるようだ。

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 しかし、私はSpotifyでこの曲に触れて、その歌詞と曲調から来る世界観に惹かれたところがあり、YouTubeで動画を見に行くまで、そもそも「DOGMA」がシスター・クレアの曲だということすら知らなかった(私がにじさんじを積極的に追ってないという要因もあるが)。

open.spotify.com

 それに、シスター・クレアのキャラソン的な楽曲は、基本的にはシスター・クレアの清楚なイメージを反映した清廉な雰囲気の曲が主だが、「DOGMA」はwotakuの音楽性が十二分に発揮されたゴシックでダーク、治安の悪い系のトラップミュージックであり(イントロでオルガンと発砲音から始まる曲だ)、ほとんど真逆な雰囲気だ。おそらくYouTubeで追っていないほとんどの人は「DOGMA」を聴いてシスター・クレアをイメージできないはずだ。つまりこの曲にSpotifyで触れるか、YouTubeで触れるかで捉え方は全然違ってくるし、もし原曲の「公式」な見解に沿うならば、Spotifyで聴いている人も「DOGMA」をシスター・クレアのキャラソンとして捉えなければいけなくなってしまいそうだ。
 しかしそれは「DOGMA」という曲の持つポテンシャルを狭める考え方であるし、やはりSpotifyでの聴取体験は公式動画と独立した体験として価値を認められるべきものだろうと思われる。

 

◆バージョンによる解釈の違いについて

 本稿の論旨としてはだいたい以上のような感じだが、最後に「炉心融解」に関連づけて、「後ろ向きな歌詞」や「ネガティブ解釈が強くなる曲」はそんなに望ましくないものなのか?という話をしたいと思う。
 「炉心融解」の作曲者および動画制作者の考え方では、この曲の歌詞で描かれている希死念慮の体験は思春期に卒業するべきものであり、「自分が消えてなくなればスキッと爽快ビューティフルワールド」と揶揄されるものだったのかもしれないし、それによって「MVでは前向きに軌道修正しよう」というモチベーションが働いていたのだと思われる。
 しかし、個人的にはストレートに希死念慮を歌ったり後ろ向きだったりする曲であっても別に構わないと思っている節がある。なぜかというと、実際に希死念慮や絶望を抱えている人が共感できるのはそういうがっつりと後ろ向きな曲だろうし、別にみんながみんな、そこに励ましやエールのメッセージを求めて聴くとは限らないからだ。
 一言でいうと、「自殺するのは止めよう」というところまで行かなくても、その手前の「自殺したいよね、その気持ち分かるよ」ってメッセージの時点で十分価値があるのだと思う。
 もちろん、自殺したい人の気持ちに寄り添ったうえで、最終的にそれを止めさせるところまで持っていく歌詞の曲が「強い」のは間違いない。しかし、そういうメッセージの曲ばかりだと逆に息苦しさも生まれてしまう。「いまここ」からの逃避先として、純粋な後ろ向きな曲などもあってもいいのではないかと思う。
 自分が音楽に対してこのような見方をするようになったのは、cosMo@暴走Pの「ディストピア・ジパング」の歌詞の影響を受けているため、それを以下に引用する。

誰かを励ますことを躊躇うくらいに 明日に希望は抱けないけれど  
同じ時代生き 共有した運命を 解かり合って寄り添うくらいならできる
何かが変わるとは思えないけど それでも……

www.nicovideo.jp

 音楽ができる最良のことの一つはこれなのではないかと自分は思っている。例えば音楽の力で実際に人を救うとか、あるいはもっとスケールアップして動員して社会問題を解決させるということは現代においてそんなに多いとは思わないが、少なくとも疎外感を抱えている人に寄り添うものにはなれる。
 別に頑張っている人にエールを送ったり、勇気づけるものに必ずしもならなくても、ただそこに居場所として「ある」だけでもいい。
 そのような音楽のあり方を自分は美しいと思うし、それがたとえ客観的に見て自虐的で自閉的なものと見なされようとも、そういう体験を大事にしていきたいと考えている。

 

『劇場版 CLANNAD』のドイツ語版BDについて

はじめに

2022年9月は何の月か。自分にとっては、2007年9月に公開された『劇場版 CLANNAD』の15周年にあたる月です。15周年を祝う意味も込めて、2020年に海外で販売された『劇場版 CLANNAD』のBlu-ray版について書いてみようと思います。もうとっくに10月に入ってますが。

2020年、自分は『東映版Keyのキセキ』という同人誌を作っていました。これは東映版Key三部作──京都アニメーション版と並行して、東映アニメーションによって制作されたアニメ版『Kanon』・『劇場版 AIR』・『劇場版 CLANNAD──についての評論同人誌です。

発端となったのは主にその前年に刊行された『Keyの軌跡』(星海社新書)において東映アニメーション制作のアニメ版についてほぼ記述が割かれていなかったことですが、根強い人気を誇る京アニ版と比して東映版のKey作品は十分な評価を得られず見過ごされることが多いため、これら三作品の地位向上の狙いを込めて作ったものでした。

ちなみに現在もBOOTHで販売しているので気になる人は手に取ってみてほしいです。

littlefragments.booth.pm

しかし、自分たちが同人誌を作っているのとほぼ同時期において、ヨーロッパにおいても『劇場版 CLANNAD』が再び注目を集めていました。日本でまだ発売されていない『劇場版 CLANNAD』のBlu-ray版が2020年11月にドイツで販売されるというもので、これには当時衝撃を受けました。

現在、日本版Amazonのページでも一応注文可能になっているので、ドイツ版Amazonのアカウントを作らなくてもここからでも購入できそうです。

もちろんDVD版は日本でちゃんと出ているので、基本的にはそちらを買えば良いと思います。

これまでの経緯

実は、『劇場版 CLANNAD』のBD化については紆余曲折があります。元々『劇場版 CLANNAD』は2008年にDVDが出ると同時にBD版も出る予定でした。

av.watch.impress.co.jp

上記のページの情報にある通り、『劇場版 CLANNAD』DVDのコレクターズ・エディションにBD版が特典として付属する予定になっていたのですが、これは直前になって中止となり結局BD版は付属しないことになったらしい。BD版の映像は確かに存在しているのだが、それがお蔵入りになったということですね。

なお、実際に出たコレクターズ・エディションにはBD版は付いてませんが、脚本の決定稿および出﨑統直筆の絵コンテがフルで付いてくるのでお勧めです。

 

それから10年経ち、2018年になって転機が訪れます。Netflixにて、『劇場版 CLANNAD』が『劇場版 AIR』とともに初めて配信サービスに乗ることになりました。

この配信版の特筆すべき点は、おそらくBlu-ray版に収録される予定だったであろうHD画質版で配信されていたことです(既にリリースされているDVD版よりかなり画質が良かった)。『劇場版AIR』もHD画質でした。

京アニ制作のTV版『CLANNAD』や『AIR』を配信していないNetflixが、東映制作の劇場版の方を配信したのは、権利関係やコストの問題か、それともNetflixスタッフに劇場版派がいたからなのかは分からないですが、ともあれ東映版『CLANNAD』『AIR』を高画質で、なんならオプションで字幕付きで見られる機会が提供されたのは嬉しい限りでした。

実際、これによって劇場版『CLANNAD』『AIR』に触れたという人も多かったと思います。

しかしその後、筆者が『東映版Keyのキセキ』を作っているさなかの2020年4月に『劇場版 AIR』が配信終了、そして2年後の2022年4月に『劇場版 CLANNAD』が配信終了し、またもこれらバージョンお蔵入りになってしまいました。

ちなみに2022年9月現在、『劇場版 AIR』はビデオマーケットやGyaoで有料レンタルの形で配信されていますが、なぜか『劇場版 CLANNAD』の方は配信していません。

www.videomarket.jp

gyao.yahoo.co.jp

 

評価について

『劇場版 CLANNAD』のドイツ語版(タイトルは『CLANNAD Der Film』)が販売されると知った時に、一番気になったのは「ドイツ人にはどのような評価を受けるか?」ということでした。せっかく映像ソフトが出たとしても、現地ファンに散々に叩かれて受け入れられなかったらどうしようもありません。東映版の評価は日本と海外でそんなに変わらないというイメージもありますし…

Clannad - Der Film - [Blu-ray]: Amazon.de: -, Osamu Dezaki, -: DVD & Blu-ray

そこで、こわごわドイツ語版Amazonのページでレビューを見に行ったら、意外にも好意的なレビューが多かったです。

いくつかポイントを抜粋すると、

「長いシリーズの要約としてよく出来ている」(1本の映画としてよくまとめている)

「全編にわたって渚と朋也の関係を描いていて見る価値がある」

「事前知識なしで楽しめる」「コロナ時代の良いエンタメ」

などなど……

なかには心ないレビューもありますが、基本的にポジティブ寄りな評価が多いです。

おそらくですが、ドイツだと原作ゲームをプレイしている人があまりいないというのは影響していると思います(少なくとも日本よりは相当少ないはず)。『CLANNAD』は最近Steamで海外販売しており、かなり売れているという話もありますが、リリースされているのは英語版と簡体中国語版でありドイツ語版はありません。また、今はSekai Projectなどのパブリッシャーが精力的な活動をしていますが、国産ギャルゲーは元々(海賊版を除けば)海外輸出があまり進んでいない分野でもあります。

レビューを見ても原作ゲームについて触れているレビューはほぼなく、基本的に劇場版とTVシリーズ版を比較しています。どちらかというと「劇場版はTVシリーズ版の要約」のように捉えている人が多いようです(それは違うのですが)。

原作ゲームのプレイ体験がないことで、TVシリーズと比べる人はいても、「原作ゲームと比較してどうこう」という話にはならず、一本の映画としてある程度フラットな目で見てもらえている側面はあるのかもしれません。

また、「京アニ版と同じ吹替声優が再び結集しているのが良い」という感想もあり興味深かったです。過去にリリースされた京アニ版と同じキャストで声を当てているので同窓会みたいで嬉しいという感覚でしょうか。

ちなみに日本版でも原作ゲーム、ドラマCD版、京アニ版、東映版などで声優はほぼ同じ(主人公の声優だけ違ったりする)であり、色々なバージョンがあるなかで結局のところ、キャラクターの同一性を担保してくれるのって声優が大きいんだろうなと思います。

 

商品紹介

ともあれ、実際に買ってみないとどのようなローカライズがされているのか分からないし、単純にBD版は欲しかったので、Amazon.deのアカウントを作成し、『CLANNAD -Der Film』を注文しました。

買った時点ではそうではなかったけど2022年9月現在は円安でユーロ円のレートが上がっているので、日本円で購入すると少し高くなるかもしれません。

 

「動画菓子/FilmConfect Anime」というドイツのパブリッシャーがローカライズの対応をしているようで、もちろん海賊版とかではありません。

filmconfectanime.de

(もしかしたらAmazonで買わなくてもこの公式サイトから直販で買うことも可能だったのかも…と買った後に思いました)

 

同じパブリッシャーでTV版の『CLANNAD』も数年前にローカライズしており、TV版をやったんだから劇場版もやるか…!とドイツ人スタッフが律儀にやってくれたのではないかと想像します。

海外版のBDなのでリージョンコードが違っており(日本の通常の再生機器はリージョンAだけど欧州はリージョンBが多い)、再生するにはリージョンフリーのプレイヤーを入手するなどする必要はあります。

吹替音声はドイツ語に日本語(オリジナル)、字幕はドイツ語・フランス語・イタリア語の3言語。英語字幕や日本語字幕も欲しかったところですが、ヨーロッパでのローカライズなので致し方ありません(ちなみにAmazonレビューによるとフランス語字幕は訳が悪いらしい)。

特典映像として、「動画菓子」が担当している他作品の販促PVも映像として入っています。

TV版『CLANNAD』のほか、『そにアニ』、『百花繚乱 サムライガールズ』、『はぐれ勇者の鬼畜美学』、『ダンガンロンパ』(第1期)など、『CLANNAD』以外はなぜか’10年代前半頃のいわゆるB級深夜アニメが多かったりします……

ドイツ語音声にドイツ語字幕を付けると語学の勉強になるかもしれないし、日本語音声でドイツ語字幕にするとどのように訳しているかが分かって面白いです。

 

以下、商品の見どころについていくつかのポイントに絞って順に解説します。

吹替の演技について

全体的に、女性キャラはみな声のトーンが低くなっていると思います。考えてみればオリジナルの渚の声(中原麻衣さん)は、客観的に見てかなりアニメ声でロリ声に近いトーン(差別意識はなく、オリジナルの声も素晴らしいです)。

CLANNAD』に限らず海外の吹替声優が声を当てたら、特に女性キャラはあまり「アニメ声」にならずにリアル目で落ち着いた雰囲気になる気がしますが、『CLANNAD』ドイツ語版もご多分に漏れずそうでした。

『劇場版 CLANNAD』には出ないけど、京アニ版のトレーラーを見る限りドイツ語版の伊吹風子の声もオリジナル(野中藍さん)ほどロリ声ではなくなっています。

ドイツ語版の風子の声は日本語版の渚と同じくらいの高さになって、ドイツ語版の渚の声は日本語版の公子先生と同じくらいの高さになっている……という感じでしょうか。

ただ、東映版の渚は京アニ版の渚よりもちょっと素朴で親しみやすい雰囲気なので、結果的にドイツ語版の声質がフィットしている感じもして、悪くない感触でした。

 

また、特に合っていると感じたのは春原の声優。

日本語版の春原(阪口大助さん)のあのハイテンションな感じの声質とは違うけど、ところどころ頑張ってオリジナルの声に寄せようとしているのが伝わってきます。

演じているDirk Petrickさんは他にも日本アニメの吹替をやっていて、『鬼滅の刃』の善逸や『かぐや様』の白銀会長もこの人がやっているらしい。春原、善逸、白銀会長を同じ人がやるのは何となく分かる感じがしないでしょうか?

 

だんご大家族」の歌をちゃんと歌う!(ドイツ語で)

『劇場版 CLANNAD』では、テーマ的にも「だんご大家族」がかなりフィーチャーされるし、渚が「だんご大家族」の歌を歌うシーンも前半にあります。

京アニ版は「だんご大家族」という曲名でED曲になっているけど、東映版は「だんご だんご だんご」という曲名になっていて、メロディもちょっと変わって編曲もアップテンポでノリの良い感じになっています。そしてこの「だんご だんご だんご」は出﨑統監督が自ら作詞していて、歌詞もこの映画のテーマを反映したものになっていて……とてもプレミアムな存在です。

吹替だとこの歌唱部分だけ日本語のままって可能性もあるな……と思っていたのですが、ちゃんと吹替声優が歌っていました!ドイツ語で!

なんというか、日本語ではなくドイツ語詞で「だんご大家族」の歌唱を聴いていると、マザー・グースを聴いているみたいな感覚になって良いですね。これは是非聴いてもらいたいところですが……

「♪だんごの家族は大家族」という歌詞があるのですが、ドイツ語訳は「♪Dango sind eine große Familie」になります。

 

ダジャレの翻訳

東映版Keyのキセキ』の座談会でも話題になったのですが、『劇場版 CLANNAD』はダジャレを言う箇所がいくつかあり、わりとマジでしょうもないんですが、それもまた作品を形成する一部であり、ストーリー的にともすれば暗い一辺倒になりがちなこの映画を明るいものにすることに一役買っているとは言えます。

天丼で2回使われるダジャレに「さんすうベリーマッチ」というものがあります。

どういうものかというと、文化祭のシーンで落語をやっている生徒が、

「なんだって英語の授業で数学を?」というフリに対して「これが本当の『さんすうベリーマッチ』!」(算数 very much)とオチで言うもの。

この「さんすうベリーマッチ」の部分がドイツ語でどういう訳になっているのか気になったのですが……

ドイツ語だと「Thank you very Mathe.」と訳している。

「very much」の「much」の部分を、「Mathematik」(数学)の略語である「Mathe」とかけたものになっていて、シンプル極まりない形でちゃんと訳せていて感動してしまいました。しかもオリジナルより無理矢理感が少なくて自然な感じになっている……まあいずれにしろギャグとして面白くはないかもですが。

ちなみに「惣菜パンでよかったら、一つ、そうざい?(どうだい?)」ってダジャレもあるのですが、こっちはジョークとして訳すのを諦めたのか、別にかかっていない普通の会話になってます。

※Sandwich(ウィッチ)とwitzig(ウィチッヒ)がかかっているという旨をご指摘いただきました。

 

高画質のBlu-ray版ならではの良さ、魅力の再発見

やっぱり一番重要なのはこれかもしれない。HD画質で見ることで、DVD版より本来に近い映像を見れて、作品の魅力の再発見に繋がるというものです。

特に印象に残ったのは光の表現。

出崎監督の演出の特色として、撮影効果への強いこだわりがあります。

上に挙げたようなカットを見てもらえれば分かると思いますが、要所要所で、目にも眩しい強い光が差し込むことでハレーションがかかったようになり、画面の一部分はほとんど白飛びするほどになっています。これはただ前衛的な技法ではなく、青春のきらめきを確かにフィルムに刻印するものと言えます。

こうしたカットはDVD版の画質だと画面全体が白っぽくなり少しぼんやりした印象になってしまってる気がするのですが、BD版だとよりクリアで繊細な表現を見ることができます。

出崎監督は入射光や透過光といった表現を開発して日本アニメに持ち込んだパイオニアであり、アナログ時代も、デジタルになってからも一貫して光の表現に挑戦し続けた作家なので、それを鮮明な形で見ることができるのは嬉しい。

 

もちろん、光があるところには影があり、その影を使った演出も効いています。

強い光線が差し込むことで、それと対応するように黒い影が伸びたり、演劇のシーンにあるように深い陰影が形づくられていることが分かります。

特に、原作でも京アニ版でも描かれなかった渚の演劇のシーンは、渚の内面に秘めたものが出て、その人格の両面性が強調される場面なので、光と影のコントラストが効いています。

光と影を使った演出で良いなと思ったところ

上で述べた所に関連付けて、演出的に良いなと思ったところを2シーンとりあげてみます。

一つ目は、朋也が川べりで過去を回想する場面。

光できらきらする川を臨みながらの回想が終わったのち、バスケット選手の夢を諦めたことをナレーションで言いながら朋也は橋の下を通ります。

このカットのレイアウトは優れています。右上から光が差し込むなか、朋也は影のなかに入っていき、そして叶わぬ夢を象徴するかのように白いハトが、朋也が歩むのと逆方向の画面左側へと横切っていきます。光と影、ハトと人物の向きの対比。こういった絵作りに、出﨑監督の演出的巧みさが出ていると思います。

 

二つ目は、日中のシーンではなく夜のシーン。

朋也が渚の家に初めて泊まって、家族が寝静まった後にベランダで二人だけで会話するところ。
映画全体のなかでは何でもないような場面だけど、ここで初めて見せる親密な雰囲気や、二人の関係の深化が印象的な場面です。

渚はここで執筆中の演劇の脚本について話をします。

何を書けばいいか分かっているが上手く書けず、眠れなくなってしまったこと。そして、「それに、岡崎さんが近くに居てくれるのが、嬉しくて…」という台詞に差し掛かったところで、流れる雲の間から北極星のような明るい星が見え、光が差し込みます。

 

ここでしばし、ベランダに立つ二人は星から降り注ぐ美しく幻想的な光のなかに包まれますが、渚の「ごめんなさい、です…」の台詞とともにすぐに別の雲の中に星は隠れてしまい、光は差し込まなくなってしまいます。


ふたたび、薄く光が差し込む影の中で会話する二人。

渚は、小さい頃から繰り返し見る夢のことを脚本にしていることを伝え、朋也も、繰り返し見ている悪夢があることを伝えます。ベランダに立ち暗い町並みを眺める朋也は、そこに夢の中の荒野の風景を幻視します。

そうしているなかで、朋也は、家に呼んでくれたことの感謝を渚に伝えます。(父親と家庭内別居の状態にある)朋也にとって、今日は久し振りに家族の温かさに触れて、心から楽しい、嬉しいと思えたこと。

すると渚は、朋也のその感情に触れて涙を流します。

渚というヒロインが、人を思いやる心を持ち、誰かの気持ちに感化されて涙を流せる優しい人物だということが伝わる場面です。

そして渚が涙を流したところで、今度は上からではなく下から光が溢れだします。

二人のなかにある優しい感情を際立たせるかのように、渚と朋也の二人の下から強く光が差し込むようになるのです。どういう原理かはまったく説明がないにもかかわらず…!

空からは一度、祝福の光が降り注いだけどやんでしまった、しかし光が差さなくなり影に呑まれても、やがて二人のうちから自ずから光が立ち上るというこの流れ!これ自体がまさに舞台芸術のような完璧な描写です。

出崎監督の絵コンテでもこのカットは「ライトなぜか、下からの感じ」と書いてあります。「なぜか」と書いていることから分かるように、監督自身もこれは理屈じゃないと割り切ってることが読み取れます。

おそらく、今の普通の演出手法であれば、物理的・光学的なリアリティを考えて、下から光を当てたい場合には何がしか光源になるものがベランダの下に来ている、という理屈付けをきちんとすると思います。あるいは、「ここはリアルではない何かしらファンタジックな力が働いている」というのがはっきり分かるように描写すると思います。

少なくとも京アニの演出家はそのような映画的リアリティをベースに演出していると感じます(光を当てたいときには背景に自動車を横切らせてライトがかかるようにするとか、そういった工夫ですね)。

しかし出﨑統はそういったやり方を取らず、「リアルな表現をする」のでもなく、「リアルでない表現をファンタジーとして描いている」のでもありません。あえて言えばドラマに一番寄与する表現を選んでいます。

リアリティを強引にねじ曲げてでも、ドラマを強調させる表現を選ぶという大胆さが発揮されたシーンではないでしょうか。

 

映画全体の話

また、これは作品の読解的なものを含みますが、『劇場版 CLANNAD』は学校の屋上で会話するシーンがとても多いです。原作は基本的に校舎の中、屋内で会話するシーンが中心なので、これは独自のアレンジと言えます。

これは一つには登場人物の数が限られているからかもしれません。学園編のメインになるのは朋也に加えて渚、春原の三人です(智代と杏は出ますがメインではありません)。渚や春原以外のキャラクターと関係を深める過程があまりないので、教室など校舎内で話を展開する必要性が薄いのです。逆に、教室でずっと三人で会話していたら他の生徒が絡まないのが不自然になってきますよね。

しかし、屋上で会話させているのはそういった作劇上の要請だけが理由ではなく、彼らに光を当てさせたかったからではないかなあと思います。

渚が一人で屋上にいるとき、あるいは朋也と春原を加えた三人でいるとき、彼らはそこで孤立した存在です。

朋也と出会って当初、渚は「学校へ行っても、私、何をしていいか分からないんです。嬉しいこととか、私がいなければいけないこととか、何もないんです」と言っています。朋也と春原も、ともにバスケットやサッカーの選手の道を挫折しており、進学校にありながら大学受験も受けないドロップアウト組です。

屋上に降り注ぐ日差しは、いわばそんな「はぐれ者」としての彼らを祝福する光です。

学校に居場所がないような三人だけど、他に誰もいない屋上では確かに繋がりができ、そしてその聖域が祝福されているような、そんな優しい目線を感じます。

そう考えると、先ほど述べたベランダのシーンも屋上の変奏です。そこは屋外ですが二人きりの空間であり、空が開けていることによって光が差しているからです。

 

もちろん、光と影についてのこうした演出については、DVD版で『劇場版 CLANNAD』を見ても十分に伝わるものであると、確信を持って言えます。自分はたまたまBD版を見る機会を得て、よりクリアにそれを体感できたというだけです。

光と影についてだけでもこれだけの工夫が凝らされていますが、『劇場版 CLANNAD』では、光や影にくわえて桜、雨、海、夢…といった力強いイメージの連鎖によってストーリーが紡がれていきます。あたかも人生を綴る映像詩のような赴きがあり、見れば見るほど味わい深く感じられるような作品になっています。

 

おわりに

上では出﨑監督の手腕について語るような書き方をしてきたのですが、『劇場版 CLANNAD』が完全に出﨑色に染められた映画であるとか、Keyの原作を軽視しているといったことは全くないと思います。

原作の本質にある「家族」や「人生」というテーマは取りこぼしていないし、個人的には「友情」というモチーフが原作以上にクローズアップされているのも好きです。

渚と朋也を中心にした「だんご大家族」で繋がっているメンバーや、彼らが最後に朋也を合宿に連れ出すところなどは『リトルバスターズ!』のバスターズのあり方も思わせてぐっと来るものもあります。

出﨑統が、Keyの原作ゲーム/麻枝准の描く世界観に触発されて出てきたものが『劇場版 CLANNAD』にはぎゅっと入っています。それは一つには「孤独な魂と魂が呼び合う」ようなドラマであり、弱者をすくい上げるような眼差しであると自分は思っています。

 "だって、世の中で思った通りに上手くいく人間なんて一握りでしょ。大体アジのあるいいやつっていうのはね、失敗して思い通りいかなかったやつだよ。思い通りにいったやつなんて、天狗になっちゃってさ、醜悪な人間になるものだよ。これは成功した人間への妬みかもしれないけどね(笑)。挫折するからいろんな事を考えるし、人に優しくなれる。その方が、面白い人生を生きられるんだと思うよね。だから、失敗して投げやりになっても、最終的にはポジティブな方向に向かってほしい。成功しなかった人間には、そういったロマンがあるんだよ。だから、成功したやつには興味ないんだ。成功したやつなんてつまらないと思うもの。"

──『劇場版 CLANNAD』公式パンフレットの出﨑統インタビューより

バスケットボールの道を挫折した朋也が渚に出会うこと、渚を失った朋也が汐を見つけること、秋生と早苗が渚のために演劇の道を諦めて町での生活に落ち着くこと、メジャーの道を挫折した芳野さんが町で幸せを見出すこと、などを通じて出﨑が辿り着いたのがこうした結論でした。

智代アフター』の言を借りれば、『劇場版 CLANNAD』は出﨑統から送られた「人生の宝物」だと自分は思っているし、これからの人生においても繰り返し見続けたい映画です。

 

『劇場版 CLANNAD』は一応海外版でBDになりましたが、やっぱり国内版でちゃんと出して欲しいのはあります。また、『劇場版 AIR』と東映版『Kanon』もDVD版だけでBD版は出ていません。

限定販売とかで良いので、三作入ってBD-BOXとかで出して欲してくれたら大変嬉しいのですが、どうでしょうか…?

円盤は出ないまでも、せめて配信サービスに乗って多くの人に見られるようになって欲しいという思いはあります。特に国内でこれまで一度も配信されていない東映版『Kanon』はそろそろ入って欲しいし、『劇場版 CLANNAD』もどこかで復活して欲しいです。個人的には、そのための布教活動は続けたいと思っています。

 

最後に、『劇場版 CLANNAD』の視聴方法について

『劇場版 CLANNAD』のDVDは通常版に加えてスペシャルエディション、コレクターズエディションの3つが出ていて、個人的には絵コンテ・脚本が付いてくるコレクターズエディションがお勧め。スペシャルエディションは予告編や録り下ろしドラマCDなど細かい特典に興味がなかったら買わなくても良いかな…と思います。

また、単純に見たいだけであれば購入しなくてもゲオ宅配レンタルTSUTAYA DISCASなどオンラインでDVDレンタルもできるので、参考にしてもらえればと思います。

 

 

世界の終わりの安らぎと、その系譜(評論)

以下に掲載するのは、2018年に刊行された『少女終末旅行トリビュート』という同人誌に私が寄稿させていただいた、「世界の終わりの安らぎと、その系譜」という文章の全文です。

hanfpen.booth.pm

 

本自体は『少女終末旅行』の二次創作小説集なのですが、自分だけ評論を寄稿しています。自分は当時『少女終末旅行』に入れ込んでいたのですが、ありていに言えば小説が書けない人間なので、イラストと合わせて評論を書くことで作品愛を表明したいと考えていました。

本が出た時点で漫画は既に完結しており、寄稿者(京大SF研有志の人たち+α)は皆それをもとに原稿を書いていたと思います。

 

そしてこの評論は『少女終末旅行』にリスペクトを払い、『少女終末旅行』について論じたものでもありますが、より広く「世界が終わるということの安らぎ」を扱った作品について論じるものでもあります。

自分自身が当時、そういった終末系の映画やフィクションにハマっていたのもありますが、『少女終末旅行』を、「安らかな終末」を扱ったさまざまなフィクションの系譜の中に位置づけたいという思いから文章を書いていました。

また、「安らかな終末」というモチーフそれ自体の持つ魅力について語ることができたと思います。

ちょうど去年くらいから「セカイ系」や「終末」のようなテーマがサブカル評論でまたよく取り上げられるようになってきて、この文章を人に読んでもらえると何らかの示唆を与えられるかもしれない…と感じたため再掲することにしました。

同人誌の編集を担当した鯨井久志さんから掲載許可をいただけまして、ありがとうございます(ちなみに本自体もとても面白い作品がいくつも収録されているので、『少女終末旅行』のファンには是非読んでもらいたいですね)。

今読み返すと、事実誤認を含んでいそうな記述があったり、今の自分であればここまで不用意な発言しないだろうと思う部分もありますが、内容は変えずにほぼ原文のままで掲載しています。記述を変えたのは、主に年表記や文法ミスなどの細かい部分です。

また、同人誌にはこの評論以外にイラストを2枚寄稿していまして、そのイラストも記事の最後に掲載しています。

ご興味ある方はお読みいただければと思います。ご批判やコメント等いただけましたら幸いです。

 

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世界の終わりの安らぎと、その系譜

◆はじめに

ホップ・ステップで踊ろうか

世界の隅っこでワン・ツー

ちょっとクラッとしそうになる

終末感を楽しんで

 上に挙げたのは現実逃避P=wowaka(作詞・作曲)による初音ミク巡音ルカのボカロソング「ワールズエンド・ダンスホール」の歌詞の一節であるが、この曲の歌詞は「終末」「世界の終わり」といったワードがいかに人口に膾炙しているかを端的に示していると思う。SEKAI NO OWARIというミュージックグループが現に存在するほどである。

 今日にはポップソングの歌詞にもなるほどに一般的になっているものの、この「終末」というワードは非常にあいまいなものであり、いわゆる「終末もの」というジャンルにしても、それが指し示すものは多様である(そもそも「世界」が指し示すものが、地球であるのか文明であるのか、といった違いも存在する)。

 従って、ここで取り扱う「終末」の種類、及びそれらが各々指し示す作品ジャンルを明確化するために、必然的に区分けをする必要が生じる。

 

◆区分け

漠然とした区分として、まずはこの三つが考えられるかと思う。

  1. 「世界が徐々に滅んでいく/衰亡していく系」
  2. 「実際に世界の終わりが近い(タイムリミットが存在するなど)/ハルマゲドン or カタストロフ」
  3. 「文明が一度崩壊した後/荒廃後の世界/ポストアポカリプス」

また、

の二つの方向性に分かれると言えるだろう。

 Aの方向性はどちらかというと分かりやすい。世界が終わるということは人類が築き上げてきた文明が霧散し、無に帰してしまうことだからだ。ハルマゲドンものであれば、それは一個人にとっては自分の死をも意味する。

 1-Aとしては『トゥモロー・ワールド』(子供が生まれなくなってから18年経過し内戦が激化した世界)などが挙げられる。これはある意味現実的な設定であるが、「世界の終わり」がはっきりとしたタイミングで指定されているわけではないため、いわゆる「終末もの」の中では少数派にあたる。

 そして二番目に、世界の終わりやそのタイムリミットがはっきりとした形で示されている場合は2-Aに該当する。「ハルマゲドン」は黙示録信仰に代表されるものであるが、例えばこの場合は、

 そのものズバリで終末における天使と悪魔、人類の最終決戦を描いた『デビルマン』や、人類補完計画による世界の終末を描いた『新世紀エヴァンゲリオン』(TV版及びその続編の劇場版)などがそうだ。人類の存続をめぐっての天地の勢力争いを描くCLAMPの『X』もその系譜に属するだろう。

 より科学的な設定としては(こちらは「カタストロフ」寄り)、天体衝突による世界の破滅を扱った数多のフィクション(『アルマゲドン』,『妖星ゴラス』,『地球最後の日』,etc.)や、地球の磁場が不安定になったことで地上が太陽風に晒されるという設定の『ザ・コア』などもそれにあたる。加えて、(ややズレはあるが)ゾンビによる世界の終末を描いたフィクションや、『博士の異常な愛情』といった核戦争による世界の終末ものもこれにあたるだろう。あるいは異星生命体からの侵略による『宇宙戦争』などなど……。列挙していけばキリがないが、要は、1が世界の終焉までが、衰亡という形でゆるやかなグラデーションになっているのに対し、2は世界(=地球=文明)の終焉が具体的な形で描かれるものである*1

 三番目に、一度現在の文明が崩壊/荒廃したのちの世界、あるいはそこで新たに築き上げられた世界をディストピアとして描くものは3-Aにあたる。典型的には核戦争後(古典的には第三次大戦後)/ウイルスの蔓延後/生物兵器の使用後に築き上げられたディストピア世界(荒廃した無秩序社会も含む)であり、

『マッドマックス』シリーズ(第2作以降)、映画『12モンキーズ』及びその元となった『ラ・ジュテ』、TVドラマシリーズ『ウォーキング・デッド』、『ウォーターワールド』、弐瓶勉の『BLAME!』などもそれにあたるかもしれない。そして、H・G・ウェルズの『タイムマシン』(1895)においてもすでに80万年後の世界がディストピアとして描かれていることから、これはSFにおいて古くからある類型であると分かる。こういった設定が持てはやされる背景には、SFとして、現生人類のものとは異なる新しい文明を描き出す上でとりあえず「今の文明が崩壊したのち」ということにしておけば便利であるという事情があるだろう。

 他方で、これら殺伐とした終末作品群を差しおいて、世界の破滅を心地よいものとして描いた作品も数多く存在する(1-B、2-B、3-B)。本稿ではそれらのフィクションに通底する「終末の安らぎ」について取り上げてみたい。

 ただ、留保しておかねばならない点として、同じポストアポカリプスものであっても、例えばアレクサンダー・ケイの「残された人びと」を翻案した宮崎駿監督のアニメ『未来少年コナン』などの作品は、ディストピア世界を扱ってはいても、現状の文明を一掃した上での(新たな秩序構築への)再生への希望が示されているという点で、3-Aか3-Bどちらの区分にあたるかはあいまいになっている。他にも、菊地秀行『風の名はアムネジア』(人類が言語能力を含めた記憶の一切を失ってから十五年経過した世界)や『風の谷のナウシカ』、『クラウド・アトラス』、あるいは『幼年期の終わり』のようなポストヒューマンものなどといった、3-Aと3-Bとのどちらに位置するかあいまいな作品が多く存在するが、本稿は分類学に趣旨があるわけではないのでこれらの作品も一旦除外して考えることにしたい。

 

◆癒し系としての終末

 全体的に、まずは日本のサブカルジャンルに絞って考えることにする。

 卑近な話であるが、この記事を書いている直近において、"cosy catastrophe"*2について取り上げたツイートがバズっていた。

 それによると*3

ヨコハマ買い出し紀行灰羽連盟ソラノヲト少女終末旅行けものフレンズ……
これらに共通する魅力「滅びた世界で自分なりに豊かにマイペースに生きる人々」という概念そのものズバリの名前があった。“cosy catastrophe”「心地よい破滅」というらしい

 つまり上述の『ヨコハマ買い出し紀行』『少女終末旅行』『けものフレンズ』『灰羽連盟』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』といった、「滅びた世界で自分なりに豊かにマイペースに生きる人々」を扱ったフィクションが、「心地よい破滅」に当たるのだという。

 このツイートの前後では『人類は衰退しました』(現生の人類が衰亡し次世代の存在に取って代わられつつある世界)も言及されており、また、ゲームブランド・Keyのキネティックノベルplanetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜』(廃墟と化した世界の中、百貨店のプラネタリウムにおいて案内サービスを続けているロボットが主要キャラ)もここに含めて良いだろう。

 心地よい破滅、安らかな終末と聞いてまず日本の多くのオタクが思い浮かべるだろうこれらの作品群の中にも、1-B、2-B、3-Bが混在しているが、共通項として、これらの作品には文明が破滅することに対し気張っていない、どこか楽観的な気分が見られることが指摘できる。

 例えば、典型的なのは『ヨコハマ買い出し紀行』である。この漫画作品においては世界が「夕凪の時代」の中にあり、地球温暖化が進んで海面上昇が続き(かつての横浜が海の底に沈み、水上に新たな横浜が築かれている)、産業が衰退して人口が激減、閑散とした荒野が広がっている。詳細には描写されないが、人類の文明社会が徐々に衰亡して消えようとしていることが示唆されており、最終巻に近づくにつれ一層それが顕在化するが、そこには深刻なムードはない。むしろわずらわされることが少なく、時間の流れがゆるやかになったことで、平穏な日常を謳歌するようになった人たちの姿が描かれる。黄昏の時代における日常をメイドロボット・アルファさんの目から美しい断片として切り取っており、癒し系作品として天野こずえARIA』と同じジャンルとして扱われることも多い。

(画像1 『ヨコハマ買い出し紀行』)

 

◆'90年代後半~'00年代初頭にかけての「終末もの」流行期

 これらの作品で描かれる「終末」は、同じ「終末」であっても'90年代から'00年代初頭にかけて流行した「終末もの」とはその性質において違いがある。『新世紀エヴァンゲリオン』の例がやはり典型だが、この時期の日本ではしかつめらしく(シリアスに)終末を扱ったアニメや漫画、ゲームが台頭した。

 『エヴァ』のTVシリーズに続いての劇場版公開が1997年から1998年にかけて行われ、同時期の'90年代後半から'00年代初頭までにかけては「殺伐としたディストピアもの」と「セカイ系」の隆盛が見られることになる。

 こうした現象が巻き起こった背景の一つには、当時の世相が大まかに言って「病んだ」状態であり、また、終末論が幅を利かせていたことが大きかったと考えられる。社会的にはこの時期はバブル崩壊による深刻な不況に見舞われていた(失われた十年)。後にロスジェネと呼ばれる世代は就職氷河期を経験し、終わりの見えない迷路のような閉塞感を味わう。そうした気分がこの時期のフィクションにも反映されている。加えて、

 もこの傾向を後押ししたと言えるだろう。ネットがこの時期においてはまだアングラなものであった(『serial experiments lain』などが放映される)という事情も付け加えておきたい。

(画像2 厚生労働省作成「自殺対策白書」より)

 

 統計的に見て日本で自殺率が最も高かったのもこの時期である(『完全自殺マニュアル』が刊行されたのは1993年であり、それ以後ベストセラーになった)。岡崎京子が『エンド・オブ・ザ・ワールド』(両親を惨殺した姉弟の逃避行)を発表したのもそれと同時期である。

 こうした情勢により日本のサブカルにおいて陰鬱/あるいは深刻な形で終末を扱ったフィクションが支持される土壌が生まれた。

 例えばこの時期のアニメにおいて、ディストピアとしての世界観を扱った作品としては

  • BLUE GENDER』(コールドスリープから目覚めるとそこは荒廃した世界で、謎の生命体・BLUEによって支配されていた)
  • DTエイトロン』(強い紫外線が降り注ぎ荒廃した地上においてドーム都市「データニア」が、感情を制御するディストピアとして構築される)
  • 『今、ここにいる僕』(少年兵が兵役に駆使される荒廃した異世界への転生)
  • アルジェントソーマ』(エイリアンの襲来で多大な被害を受けた人類は軍隊を再編、対エイリアン特殊部隊を組織する)
  • ベターマン』(集団自殺・殺戮行為を引き起こす「アルジャーノン」と呼ばれる奇病に冒されつつある人類)

 などが挙げられる。やや時代が下って『スクライド』(大規模な隆起が起こり首都が壊滅、多数階層に分かれた世界)が2001年に放送される。ちなみに『今、ここにいる僕』は同じく鬱アニメに数えられる『無限のリヴァイアス』と同クールに放映されていた*4

 また、ディストピアに含めるかどうかは曖昧であるが、終末経験後の世界を扱った作品としては、

  • セイバーマリオネットJ』(宇宙船が不時着した異惑星において築かれた、クローン技術で維持される男性のみの閉塞した文明)
  • 『THE ビッグオー』(全人類が記憶を喪失してから40年後、ドーム都市「パラダイムシティ」の中でのみ人類は暮らしている)

 などもこの時期に発表されている。そのうちのいくつかは『エヴァンゲリオン』の余波もあるかもしれない。

 この時期にはさらに終末における最終戦争を扱った『X』の映画版(1996)や、ホラー色の色濃い『デビルマンレディー』(1998~1999)が公開されているが、マンガにおいて陰惨な形で終末を取り上げたものとして『なるたる』(1998~2003)を挙げておきたい。

 物語は主人公の少女シイナが星の形をした変わった生き物「ホシ丸」に助けられるところから始まる。ホシ丸は少年少女の意識とリンクし、変幻自在の能力を発揮する「竜の子」であった。シイナは、竜の子を利用し世界を作り変えようとする一派との争いの中に巻き込まれていく(このあたり、同作者の『ぼくらの』(2004~2009)もこの枠組みを引き継いでいるといえるだろう)。

 「ホシ丸」以外の竜の子のリンク者である子供たちは、設定上、それぞれにコンプレックスを抱えていたり陰湿ないじめを受けていたりする。ミミズジュース、凌辱、惨殺シーン等、精神的にダメージを与える描写により鬱々とした世界観を築き上げている。

(画像3 『なるたる』)

 

◆終末ものの亜流としてのセカイ系

 次いで、ゼロ年代初頭にかけては(世界の)終末ものの亜流として「セカイ系」の流行が見られた。これらはアニメ作品にも影響が色濃いが、どちらかというとライトノベル・ノベルゲームのジャンルにおいて興隆した。やや乱暴な言い方をすれば、これらの作品はそれ以前の「終末もの」の影響をある程度引きずって生まれたのではないかと指摘できる。

 「セカイ系」の代表として主に挙げられるのは東浩紀が例に挙げた『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』であり、これらも「終末」の文脈で捉えるとそれぞれに終末観/ハルマゲドンを描いたものとなっている(2-A)。

 ディストピア作品と異なる点としては、これらの作品においては終末の要因が社会を巻き込んだ具体的な形で描かれないことが多く、また、主人公の周囲の人間関係とリンクする形で描かれる傾向にあるということが挙げられる。

 例えば『最終兵器彼女*5においては、世界の命運をかけて争っている「敵」の正体や戦争原因がはっきりとは描写されない。『イリヤの空~』においても異星人と軍との戦争の事実がややぼかされる形で描かれる。『ほしのこえ』は具体的な描写が豊富にあるという点で前述二作とは距離があるが、やはり異文明との抗争が主人公とヒロインとの閉じた関係性に回収される形で描写される点では同じである。

 ただし、「セカイ系」と定義される作品群のすべてが「世界の終わり」を取り扱っているわけではない。例えば後に東浩紀が『ONE~輝く季節へ~』や『AIR』を『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年、講談社現代新書)で論じたことから、これらKey作品などが「セカイ系」に含まれることも多いが、これらは直接的に「世界の終わり」を扱っているわけではない。「セカイ系」という語に包含されているのは、ヒロインが世界の命運を握っているのにもかかわらず主人公は静観することしかできないという問題系であり、「セカイ系」において「終末」はもとより主題の一部であるにすぎないからである*6。 

 だがしかし、「セカイ系」に厳密に該当するか否かはおいても、「世界の終わり」を非常にざっくりした形で設定する作品群がこの時期に多く生まれたことは事実である。

 また、この時期の美少女ゲームにおいて狂気を扱った作品として物議をかもした「三大電波ゲー」*7のうち『終ノ空』(世界が終わるという予言により狂気に包まれる学校、世界の終焉と認識についてのホラー)『ジサツのための101の方法』(自殺波動により死に包まれる世界、殺伐とした内面描写と世界観とのリンク)はそれぞれに世界の破滅を描いているといえるし、ライアーソフトの『腐り姫〜euthanasia〜』でも「赤い雪が降りつもり死んでいく世界」が描写される。これらは「セカイ系」としてとらえてもいいが、殺伐とした終末ものの系譜にも位置付けることができるだろう。

 また、後述する作品であるが、ゲームブランドのアボガドパワーズが1999年に発売したアダルトゲーム『終末の過ごし方-The world is drawing to an W/end-』なども、この時期の「世界設定要素が欠落した」終末ものとして典型的である。

 このノベルゲームはハルマゲドンによる世界の終末が近付き、残り一週間で世界が終わるという時点から物語がスタートする。そしてこのゲームにおいては、(ミニマムなシナリオであるという事情もあるが)タイムリミットが設定されていながら世界が終わる原因について全く描写がされない(漠然と「寒冷化が進んでいる」という描写のみなされる)。それが戦争によるものか、天体衝突によるものか、災害によるものか、そういったことさえ全く不明である。その意味で、上述の「セカイ系」作品群よりもさらにストイックな描き方だといえるだろう。逆に言うと、1999年においては、こういった非常に漠然とした終末を描いてもそれが説得力を十分に得るような世相があったのだということができる。

(画像4 『終末の過ごし方』)

 

 余談であるが、2017年にアニメ化されたライトノベル終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』のタイトルも、この『終末の過ごし方』から取られていると思われる。「週末」と「終末」をかけているところがほとんどそのままであるが、何故かみなこのことは指摘していない。

 

◆反映されている気分

 '90年代末から21世紀初頭にかけての「終末もの」について述べたが、もちろん、この時期にあっても、癒しをもって終末を取り扱った作品はもちろん存在する。『ヨコハマ買い出し紀行』(1994~2006)もこの時期に連載されアニメ化も1997年と2002年に行われている*8。よって、この時期の「しかつめらしい終末」作品群と、先述の「安らかな終末」作品群とがはっきりと時期によって分かれているとはいえない。

 が、いずれにせよ、ディストピアものにしてもセカイ系にしても、これら「しかつめらしい終末」作品群と、先述の「安らかな終末」作品群とでは、世界の終わりに対するスタンスが異なっているということが指摘できる。

 もちろん一つには、後者においては世界が終わることに対する楽観的な視点が見られ、終末に対する「切実さ」の点で両者に隔たりがあるという点がある。

 二つ目には、後者は、前者の時期のものと比べると世界観が全体的にミニマムになっているということが挙げられる。世界全体とつながりを持つというよりは主人公たちの見聞きできる範囲で物事が語られるということである。

 戦争による荒廃後の世界が舞台の『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』においては、二国に分かれた世界が一時的な停戦状態にあることが示されるが、戦略的に重視されていない辺境の砦に派遣された小隊は少女兵のみで構成されており、ドラマはもっぱら彼女たちがそこで過ごす日常や、彼女たちが抱えるバックグラウンドにフォーカスしていく。

 『少女終末旅行』においても、社会的背景がぼかされているということが指摘できる。当初はこの世界が何故滅びたかの謎明かしがされるかを期待する声もあったが、結局のところ世界の成り立ちや歴史については触れられないままに終わった(これはあくまで二人の視点を通して見た世界を描くという選択をしたからだと思われる)。背景は緻密な書き込みがなされているが、それは何か特定の設定を含んでいるからというのではなく、各々どこか抽象的にデザインされている。

 受け手からすれば、それらの作品においては、いろいろな煩雑なことを考えなくてもよくなり、終わった世界で日常を過ごす人たちの実存に集中して意識を傾けることができる。

 それは、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるジャンルの作品において世界設定がぼかされたことと表面的には近しいが、「セカイ系」を生み出していたのとはまた違うモチベーションをそこに感じることができる。

 そして、ここから先は本当に個人的な仮説なので与太話ととってもらって構わないけれども、これらの作品が一定数の支持を集め、癒し系たり得ているのは、時代の気分をある程度を反映してのことではないかと思う。

 つまりこうである。日本のこの時代に楽天的に生きようとすると、社会・文明といった大きな単位で夢のある未来像を描きにくくなっている。縮小している社会にあって、今後日本人や日本社会が発展を続けるという展望は弱く、どちらかというと、今後数十年にわたり社会に希望を見出し続けるよりは、自分の手の届く範囲で享楽的に過ごしたい。だから、衰亡に対し大上段に構えなくとも良いし、手の届く範囲の、睡眠や食べるということの方が大事になってくる。

 文明といった巨大なシステムに対して手を出せず、大きな認識を持つことができないということは、こうしたミクロな意味での喜びに対し注意を向けることも促しており、その意味で「日常系」も、今後ともに隆盛を続けるだろうと思う。

 実際の衰退や破滅は決して穏やかなものではなく、むしろ憂鬱な気分にさせられることがほとんどだ。だからこそ、それを癒しとして美しく描いた作品には尊さがあるのである。

 

◆決定された終焉

 漠然と終末を扱う段が長くなった。1-Bや3-Bにおけるゆるやかな衰亡の安らぎについてはすでにある程度触れたとして、次いで2-Bについて取り上げたい。

 すでに触れたとおり、1-Bや3-Bのような終末においては、世界が終わっていくことに安らぎを見出すということはまだ理解しやすいだろう。破滅に対して気張らなくてもいいという安心感がそこにはあり、それに対し楽観的なものを感じ取ることは十分納得できる。 

 しかしその反面、2-Bのように世界終末までの道筋がすでに定まっており、すでにそれが差し迫っているという場合はどうだろう。これは三つのうち、世界の終末としては最も先鋭化したケースであるといえる。この場合においては「決まった死」が全人類の共通認識として扱われる。その中において安らぎを見出すのは、1-Bや3-Bの場合よりもやや難易度が高いといえるだろう。

 しかし、世界の終わりが定まったものになった状況においてなお、その状況に対する諦念という形で安らぎを見出すことはできる。そうした気分が描かれた作品として、ここでは、ネビル・シュートの同名小説を原作とするスタンリー・クレイマー監督のSF映画渚にて』(1959)を紹介したい。

 この作品においては、世界は第三次大戦での核爆弾使用による放射能降下物で北半球全体が壊滅状態になっている。居住可能地域が残った南半球にも放射能汚染が広がりつつあり、やがては全世界が放射能汚染に包まれるので、シェルターによって避難するといった選択肢は意味を持たない。まさにカタストロフである。

 だがそこで描かれているのは、汚染の広がりとともに世界がだんだんと崩壊していくのに際し、静かにそれを迎え入れる人びとの姿である。南半球において残った数少ない居住地のオーストラリアにおいて、住民は皆あきらめの境地に達し、配布される薬剤を用いて自宅での安楽死を望み、死を覚悟しながら残りの人生を享楽的に過ごしている。

 そんな中、生存者たちは米国西海岸から発信されている謎のモールスコード信号を検出し、潜水艦の艦長であるドワイトは発信者に会うためオーストラリアから北米に向かうことになる……というのが大まかな物語の筋である。

 オーストラリアと北米を行き来するその過程で、ある者は故郷の街で死にたいという願いから放射線下のサンフランシスコにとどまり、あるものは自らの思い入れの品とともにガス死を迎える。

 そして、この映画における出色のシーンは、潜水艦が米国のサンディエゴに着き、モールス信号の出元を突き止めるシーンである。調査のため地上に降り立った乗組員は、無人となった発電所において、ひとりでに通信電波を発し続ける無線機に遭遇する。無線の発信は人力によるものではなく、コカ・コーラの瓶がブラインドのヒモによって吊るされ、海風で揺られてシグナルレバーがランダムに押されるという仕掛けが何者かによって作られていたのだ。彼はボトルを仕掛けから外すと、適切なモールス信号を潜水艦に向け発信し、虚しく終わった結果を伝える。知らせを受け取った艦長は思わず苦笑を漏らす。

 この場面は何とも言えない寂寥感と終末感に満ちた素晴らしいシーンであり、忘れがたい印象を見る者に残す。

 

◆個人の生と終末

 「安らかな終末」を考える上で、個人の生と終末との関わりについて今一度触れておきたい。

 アメリカの女性歌手、スキータ・デイヴィスが1962年に発表したヒットソング「この世の果てまで」(原題:"The End of the World")の歌詞においても愛する人との別れを「世界の終わり」と表現しており、個人の実存と世界全体とを重ね合わせるのは決してセカイ系に特有の感覚ではない。

 現実には人間一人が死んでも世界が滅ぶことはない*9のだが、独我論的に考えれば自分が死ねば世界はその時点で終わる。その意味でも、個人にとっての死と世界の終わりの結びつきは普遍的なものである。

 人間の生は最終的に死しかなく、それゆえ終末を受け入れるということは個人にとってのタナトスや、人生における諦念の受け皿にもなって来たのだといえる。

 世界の終わりは個人にとっての死を包含するが、その意味で両者に違いがあるとすれば、世界全体という非常に大きなスケールにおける自意識か、個人にとってのものかどうかという違いである。

 これが「個人の自意識が肥大化し、世界全体の自意識に繋がる」という形で現れ出ると、自分語りの傾向が強くなり、「セカイ系」のような色合いを帯びてくる。いずれにせよ、世界という非常に大きなものと、個人の自意識とを重ねる姿勢にはある種普遍的なものがあり、そしてそれは個人の実存や生死といった切迫した状況において、より強く顕在化していく。

 

◆終末に救いを見出す鬱的心理

 個人の生に対する自意識と世界の終わりとが結びつくというのは、ラース・フォン・トリアー監督による2011年のデンマーク映画メランコリア』においてはっきりと現れている。

(画像5 『メランコリア』)

 

 この映画では惑星「メランコリア」の衝突による地球の崩壊/破滅が描かれる。しかもこの惑星は地球よりはるかに大きい!冒頭のシーケンスであっけなく惑星の地球への衝突が描かれ、そこからの回想で話が進むので物語における希望はあらかじめ排除されている。

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『奇跡の海』で知られる映画作家トリアーの作品ということもあり、この映画の第一部は主人公である鬱病の女性・ジャスティンの行動を丹念に描写している点が特徴的である。

 エリート企業でコピーライターをしているジャスティンと花婿とが結婚式に向かうところから物語は始まる。ジャスティンと花婿は当初理想的で幸福なカップルに見えるが、ジャスティンは結婚相手に対し自分が鬱病であることを明かしておらず、その関係は不安定さを抱えている。

 彼女は、封建的な結婚式で冷たい仕打ちにあったり、寄る辺なさを感じたりするといきなりふさぎ込み、花嫁衣裳のまま抜け出してしまう。さらには夫と初夜をともにすることができず、ほかの初対面の男とセックスしたりする。嫌みを言ってくる雇用先の上司に挑発的に当たり散らし、最終的に結婚自体もご破算になってしまう。第一部において、ジャスティンはこれまで築き上げてきた社会的なつながりの一切を崩壊させてしまう。

 第二部においては鬱の深刻化したジャスティンが姉夫婦に引き取られる。その姉夫婦とジャスティンとの生活描写に並行して、惑星の接近が本格的に進行していくさまが描かれる。

 結婚式を機に花婿との関係が崩壊し、職も失った妹とは対照的に、主人公の面倒を見る姉は夫も子もいて裕福な家庭を築き、幸福な状態である。

 しかし、(これはこの映画の骨子であるが)世界の終わりが近付くにつれ健常者である姉はどんどん悲惨な状態に陥っていくが、それに対し、世界の終わりを確信している主人公はどんどん回復していくかのように描かれる。

 姉夫婦が世界の終わりを否定したり、シェルターを築いて備えたりするのに対し、ジャスティンはひとり惑星の接近に際して動じることなく、美しい「世界の終わり」をただ望むのだ。

 これはトリアー自身が鬱病患者のセラピーに出席する中で知った、「鬱病患者は先に悪いことが起こると予想し、強いプレッシャーの下では他の者よりも冷静に行動する傾向がある」という教訓がもとになっているようである。鬱病の人は現実の社会には適応できなくなっているが、破局的な事態に際してはむしろ冷静にふるまえるのである。

 「メランコリア」という語それ自体が鬱状態を指すものであるからも分かるが、メランコリアの接近は、明らかにジャスティンの精神に呼応する形で描かれる。メランコリアがその美しい姿を露わにして迫りくるのを、ジャスティンはその光に照らされながら川辺で裸身になって横たわり、待ち構えながら見つめている。

 惑星の衝突を予言してジャスティンは言う。「地上の生命は邪悪」であり、地球以外には宇宙に生命はおらず、その地球はそこに住む生命もろとも滅ぶべきであると。そこに現れているのは死を前にした悟りであり、生の否定である。ラストで惑星の衝突が不可避的に描かれるのは、ある意味至上のハッピーエンドでもある。煩瑣な俗世を憂い、美しい破滅に浸り、死に救いを見出す心理をこの映画は描き出している。

 もちろんこういった死に救いを見出す鬱的心理は、決して『メランコリア』のような「終末もの」作品に特有して見出せるものではない。破滅/死に救いを見出すというのは、世界全体とのかかわりを持たずとも、スケールのずっと小さな個人の生においても等しく成り立つものだからである。もちろん自分以外の世界のすべてを巻き込むかどうかという違いはあるものの、両者が持つモチベーションとしては類似し、近い性質を帯びてくる。

 例えば、ジョン・オブライエンの小説を原作にマイク・フィギスが監督した『リービング・ラスベガス』(1995)がそうである。 

 アル中の映画脚本家がそれが原因でハリウッドを追われ、治療をあきらめてラスベガスで死ぬまで飲んで暮らすことを決める。そこで出会った娼婦と、死までの束の間の時を過ごす。そこではラスベガスの煌くネオンサインに気怠いブルースがかぶさり、独特の癒しを生み出している。もはや断酒が困難になっている状態において、彼は抵抗を止めて破滅へと直進していく。それはゆるやかな破滅であり、緩慢な自殺である。

 もはや失うものをなくし、この世の様々なものから未練を断ち切ると、人間は平静を保ったまま死に向かうことができるのだろう。

 

◆終末に向けて

 前述の作品においては、終わりが決まってしまっている世界において描かれる滅びの美しさが、同時に、暗い死の冥府に感じる安らぎと重なった形で描かれた。

 他方で、来るべき終末に際し、上述の作品とは全く異なった姿勢をとる作品もあまた存在する。例えば前述の『終末の過ごし方』がそうである。透明な空気感あるグラフィックと音楽を通じて穏やかな終末を描き出した佳作である。

 世界の終わりまで一週間しか残されていないという状態で物語はスタートし、終末をきっかけとした人間関係の回復や、個人の人間としての再生、それぞれにとっての居場所=死に場所を見つける選択が描かれる。

 終末をきっかけにやけを起こす人がいる一方で、主人公たちである生徒や教師は、それまで送っていた自分たちの日常をそのまま維持し続けることを選択し、迫りくる終わりを前に学校に通い続けている。それぞれの登場人物には終末に対する現実逃避から「苦しいことは知らなくていい」「最後まで自分にウソをつき続ける」といった状態になっている者もいる。現実逃避を続けることを止め、それまでの過去のわだかまりや己に貸していた制約をふりほどき、残された時間を生きるようになる再生が物語の一つの主題である。

 この物語において、主人公の千裕が、学校に入り浸る風来坊・重久に問いをかける象徴的なセリフがある。

「確実に死ぬって判っていながらそれに対して何もしないのは、自殺になると思う?」

 重久の答えは「死は待ってりゃ向こうから来るが、生きるにはこっちから向かっていくしかない。だったら生きれるだけ生きた方が得だろ?」というもの。

 終末に救いを見出すのは自殺と変わらない、だから残された時間をわだかまりを残さないように生き、それぞれの居場所を見つけていく必要がある。そうこの作品は訴えるのである。

 ノベルゲームのジャンルにおいては、その後にetudeより発売された『そして明日の世界より──』(2007)も、隕石落下によって世界が終わることが決まった世界でそれを受け入れることを選択して生きる主人公たちが描かれており、同様のテーマが異なる形で掘り下げられている。

 

ゾンビ映画に見出される安らぎ

 もう少し脱線を重ねるが、一見殺伐とした終末世界の中にも、それにもかかわらず安らぎを見いだせるものがあるという点について触れておきたい。

  終末の安らぎはホラーの1ジャンルであるゾンビ映画にも求められる。例えば、ジョージ・A・ロメロによる記念碑的な作品『ゾンビ』(1978年公開、原題は"Dawn of the Dead")がそうである。

 現代のゾンビ像を決定づけたとされるこの映画は、全編にわたり終末感に満ち満ちている。この映画のファーストカットは、主役級の女性が悪夢にうなされるようにして目を醒ますところから始まるが、起きた先も悪夢のような状況で、ゾンビの感染がもはやとどめようもなく世界に広がっている。

 女性が目を醒ますのがテレビ局であるという点が優れており、ファーストシーンにおいて米国の惨憺たる状況が情報として提示されていく。ニュース番組放映の最中にもかかわらず情報が途絶えたり、スタッフが逃げていったりと混沌たる状況となっており、世界の終焉感に満ちた素晴らしいシークエンスになっている。

 よく知られていることだが、『ゾンビ』は(同監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』同様に)SFの枠組みで社会風刺を試みた作品である。「人間だった頃の行動を繰り返す」という性質がロメロゾンビにはあり、習慣に従って無為にショッピングモールに集うそれは、あてもなくモールに集う我々の消費者の姿と重なる。はたまたそこに集った生存者たちはそれを巡って争いを繰り広げる。無軌道な若者たちは物資を無駄遣いし、野蛮な破壊活動を行う(ゾンビと等しく彼らは脅威である)。大量消費の資本主義社会や、人間の本性を皮肉っているところがこの映画にはある。ディザスタームービーであるだけでなく文明風刺のサタイアな気分も感じ取れることが『ゾンビ』の魅力である。

(画像6 『ゾンビ』)

 

 『ゾンビ』には複数のバージョンが存在するが、一番長いバージョンはロメロ自身がカンヌ映画祭での上映用に編集したディレクターズカット版であり、こちらは139分の長尺である。日本において『ゾンビ』のディレクターズカット版というとこのバージョンを指すが、このディレクターズカット版になると、より一層ゆるやかな終末映画としての性質を強く帯びてくる。

 このバージョンにおいて出色なのは、逃げ込んだ主人公たちがモールからゾンビを一掃したのちに、そこでダラダラと平穏な日常がしばし続くという点にある。人がいなくなったが尽きることない物資があり、電力が供給され続けるショッピングモールで彼らはつかの間の日常を送る。このバージョンにおいてはこれがけっこう長く続くのだ(のちに軍隊の荒くれたちの侵入によりこれは終わりを告げる)。

 危機と隣り合わせにありながら、これはある意味ユートピア──それも終末という状況によって可能になったユートピアである。『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズで知られる荒木飛呂彦の言葉を借りれば以下のようになる。

 "主人公たちがゾンビに取り囲まれて、でもショッピングセンターの中だから、食料品もあれば服でも武器でもなんでもある。もうやりたい放題、盗み放題で、物質的には凄く充足した状態に置かれる。だから外にいるゾンビもゆるいけれど、店の中の暮らしもゆるいという、そこのところがまた面白い。見ているほうもそういう雰囲気に浸るのが心地よくなり、ホラー映画を見ているにもかかわらず妙に癒されたりもしてしまう。これはゾンビ映画を見ている者だけに許される、一種のユートピア体験と言っていいでしょう。"

──『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(2011年、集英社新書

 『ゾンビ』で描かれる終末において無人となったユートピアの描写は、押井守うる星やつらビューティフルドリーマー』(友引町という閉鎖空間において展開する、永遠に続くモラトリアム)を始め、多くの後身の作品に影響を与えていると思われる。

 また、同時期のSF作品では小松左京『こちらニッポン…』(1976)の前半では、突如として人口の大半が消失した日本において、生き残った人びとが目減りする物資を享楽的に消費する姿が描かれる。こちらも終末ものにおいて描かれるユートピアの変奏と言えるものだろう。

 人が一掃され社会が瓦解し、しかし物だけが残された世界はある人にとっては理想郷に等しい。

 荒木飛呂彦が上述の本にて挙げている映画『アイ・アム・レジェンド』(2006)もそうした風景を描いている。リチャード・マシスンの原作"I am legend"(「地球最後の男」の邦題でも知られる)はロメロのゾンビ映画に着想を与えた作品であり、さらには感染の伝播による世界の破滅というイメージを世に知らしめることになったものである。

 人類を吸血鬼化する感染症の蔓延で人類のほとんどが滅んだ世界で、人間の主人公は夜な夜な起こる吸血鬼の来襲に備え、昼間は殺されないよう狩りを行う。それを原作とするこの映画においては、感染によって人類が駆逐され、誰もいなくなった閑散とした市街地の風景が描かれる(いわゆるゴーストタウン)。町でウィル・スミス扮する医師の主人公がただ一人物資を消費し、時間を持て余して孤独に生きているさまが描かれる。

 廃墟において感じるものとも相通ずるが、こうした人類が突如として滅んで残された風景というイメージは、ある種の異化効果を見る者にもたらす。人の存在が取り払われることで、非日常的な空間をそこに現出させるのだ。束縛が除外されることで可能性が解き放たれ、それは時にわくわくさせられるような体験にすらなる。

 『アイ・アム・レジェンド』における、無人となった広大な都市においてサバイバルを続け、一匹の愛犬とともに生きる物寂しい姿は、それにもかかわらず、どこか現実の社会に縛られて生きざるを得ない私たちの憧れをかきたてるところがある。

 同じくゾンビものである漫画『がっこうぐらし!』(2012~2020)においても当初、そのようなユートピアが描かれていた。主人公たる女子高生たちは無人と化した学校に合宿よろしく住み着いて、楽しげに暮らす。もっともそれは表面上だけの話であり、彼女たちが仮初の日常を謳歌しているのは理由付けがある(ことが明かされる)というのがあの作品の狡猾なところではあるが。

 次いで、さらにホラージャンルにおいてゾンビが癒しとなる根拠について挙げたい。

 『ゾンビ』が無人のスーパーマーケットという束の間のユートピアを描いていることは述べたが、もう一つ描いているテーマとして秩序と無秩序というのがあると思われる。

 それは、人形のように個を失いモノ化した人間=ゾンビがフロアを徘徊し規則的に人間を襲うという秩序と、対照的に無軌道な若者が破壊活動を行い、また、無人のモールで若者が無意味に享楽的に過ごすという無秩序である。

 ロメロの設定したゾンビについてのルールとしては「ゾンビに咬まれたり殺されたりするとその者もゾンビの仲間入りする」「ゾンビはヘッドショットか首を切ることでしか倒せない」があるが、「人間であった頃の習慣や行動を繰り返す」という性質も持ち合わせている。従って、意志を欠いた状態で無目的に行動を繰り返すゾンビが誕生するわけである。

 さまようゾンビによって埋め尽くされたショッピングモールに気の抜けたBGMが鳴り響く……どこかそれは秩序だったものを感じさせる。死体となったことで全員が等しくゾンビとなり、集団で行動するというそれは、どこか軍隊の行進にも似ている。つまり、秩序だった行動を繰り返すゾンビは、各々が等しく一個体としてさまよっているわけであり、その点において彼らはヒエラルキーを持たないのだ。

 先に引いた荒木飛呂彦の著作の中において、ゾンビの平等性について雄弁に語っている箇所があるため引用したい。

 "ところがゾンビというのは集団で襲ってくれば怖い存在ですが、動きが鈍いから一人一人はそうでもない。つまりはキャラクター性に乏しいというか、個性がないわけです。噛まれたら誰でもそうなってしまう、誰でもなれてしまう、没個性のモンスター。観客にしてもゾンビ一人一人の見分けはつかないと思いますし、無名だけれども大勢存在しているという、その不気味さがゾンビの持ち味だと言えるでしょう(……)無個性な人の匿名性というか、存在感の希薄さみたいなものがゾンビの不気味さと重なってくる。だからこそゾンビはミステリアスで、魅力的な存在になっているといっていいでしょう。"

 "ゾンビの本質とは全員が平等で、群れて、しかも自由であることで、そのことによってゾンビ映画は「癒される」ホラー映画になりうるのです。"  

──『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(同上)

 こうした、無個性であるがゆえに人間だったときの意味を脱して平等性を獲得したゾンビは、どこか癒しをもたらすところがある*10。ロメロゾンビにオマージュをささげた、アニメ『スペース☆ダンディ』の第4話「死んでも死にきれない時もあるじゃんよ」においては、こういった側面が拡大して描かれている。

 死んでしまえば皆仲良くゾンビの群れに加わり、没個性な存在になる。仮にさまよう死体によって悲惨な状況に追い込まれ、どうにもならなくなっても、ゾンビになれば特に問題はなくなる。この開き直りの図々しさを得ることで、心地よい憂鬱に浸らせてくれるところがあるのだ。

 人間の生命に現実世界におけるほどの価値がないからこそ、そこに平等性を見出すことができる。ロメロを始めとしたソンビ映画からは、そんな救いを見出すこともできるのである。

 

少女終末旅行の安らぎ

 話を大きく広げたため、これ以後においては『少女終末旅行』にフォーカスを当てたい。

 当初「くらげバンチ」で連載されていた本作を、筆者は第3話*11ほどから読んでいたのだが、当初は癒し系の漫画として受容されていたと記憶している。

 「SFは絵」であるというのはSF作家・野田昌宏の言葉であるが、これにのっとると、少女終末旅行において見出されるイメージは「廃墟と少女」の取り合わせである。

 一方で、少女たちの実存が世界の見え方に反映しているというのがあるが、他方で、廃墟に対して感じる癒し(いわゆる「廃墟萌え」)も、この漫画に対して読者が抱く感触の内に含まれている。

(画像7 『少女終末旅行』第1話より)

 

◆廃墟になぜ惹かれるのか

 根源的な問いとして、なぜ人間はときに廃墟に癒しを見出すのか?という問題提起が可能である。

 現代においては廃墟を扱った写真集や雑誌も多く刊行されており、また、軍艦島などの廃墟ツアーも盛んに行われている。あるいは、例えば霧に包まれたゴーストタウンが舞台となるホラーゲーム『サイレントヒル』において、そのさびれて廃墟と化した屋敷にどういうわけか癒しを感じてしまったりした経験はないだろうか?

 もちろん朽ち果てて骨組みが丸出しになった無機的な建造物や荒涼とした風景が単純に形象として美しいというのも挙げられるだろうが、さびれて人がいなくなり、壊れゆくままになっている建築や土地には何か特有の魅力があるように思われる。

 廃墟に惹かれる要因を考えてみると、次の二つが主に考えられる。

 一つにはノスタルジーをかきたてられるという点が挙げられる。かつての人間の痕跡を生々しく残しているものに触れて、過ぎ去りし日々について思いを馳せることができる。

 『少女終末旅行』においても、例えば図書館や美術を扱った話数においてその要素は強く出ているが、かつての人間が残した爪痕や機構には、どこか哀愁漂うところがある。

 『少女終末旅行』においては、カナザワにもらったカメラに収められていた過去の記録映像を通じ、かつての文明を形作っていた人々に会うというシーンがあるが、同種のシーンは、同じく「心地よい破滅」に該当する『けものフレンズ』『planetarian』においても見られる。終末後の世界において、文明崩壊前の人々に触れるというのは、普遍的に見る者を感傷的な思いにさせるのだろう。

 ディストピア映画に数えられる『リベリオン』(2002)にもこれに近しい印象的なシーンがある。このディストピアにおいては、戦争を再び巻き起こさないために人々は感情を持つことが禁じられている。全員に感情抑制薬の服用が義務づけられ、文学や芸術といった「感情を呼び覚ますコンテンツ」はすべて検閲され処分されている。主人公であるプレストンは感情違反者を取り締まる特殊捜査官であり、当初は感情を持たないことに何の疑問も覚えていなかったが、とある一連の出来事に遭遇した後、感情に目覚めていく。

 主人公が感情を呼び覚ます直接のきっかけになったシーンがある。任務のため偶然に入り込んだ廃墟で、反乱者によって収集されていた芸術や音楽に触れる。それまではすべてが統御された無機的な社会に生きていた主人公が、感情が規制されるようになる前の人間的な事物に心動かされて感情に目覚めるのだ。これもやはり、そのようなことを直接経験したことのない我々にもノスタルジーを強く感じさせる場面である。

 思うに、我々が抱く思い出というのは過去に属しており、今となっては触れられないものだからこそ、それに強く惹かれてしまうところがある。上述のシーンはその図式を文明という大きなスケールにおいて再現しているところがあり、それゆえエモーショナルなシーンになっているのだろう。

 また脱線してしまったが、ともあれ、廃墟に対して感じる魅力の一つにはノスタルジーが挙げられることは確かである。

 もう一つの廃墟の魅力として、社会に存在するものに対し、やがては終わってしまうものとして接するニュアンスを見出すから、ということが挙げられるだろう。人工的な文明の痕跡を残したまま、それが途絶えてしまっている荒涼たる景色を目の当たりにすると覚える感情は、ある意味仏教における諸行無常に通じるものである。世は無常、盛者必衰であり、万物は流転していくのだから、衰亡も仕方ないことだと教えてくれるところがある。滅びゆくものに特有して感じられるわびさびである。

 繰り返しになるが、高度にシステム化された社会にあって、気張って抗っても仕方のないという教えを受け取ることは、一種の処方箋たり得る。いっそすべて終わりにしたって構わない、どうということもないと思わせてくれるからであり、それゆえそこに癒しを見出すことも可能になるといえる。

 

◆終末における実存

 少女終末旅行において描かれる終末は徹底したものである。文明や文化が不在であるだけでなく、そもそも出てくる人間がほとんど二人しかいない。それ以外の生態系も消失している。絵として背景の描き込みは細かいものの、旧来社会のシステムなどは非常にあいまいな形でしか描写されない。それはそもそもミクロな存在である彼女たち二人には分かりようのないことだからだ。

 極端な言い方をすれば彼女たちはいつ自殺してもおかしくない状態だ(少なくともそうなったとしてもそれを気にかける人間は存在しないのである)。モニュメントや遺跡だけが残り、観測者のいない世界において、彼女らの存在を観測する人間がいないという意味では生きていても死んでいても同じであるともいえる。

 生きながら死んでいるような旅を送る彼女らは、寂しさを互いに癒すことはできるが、あの世界において子孫を残すという希望はなく、自分たち以外に未来を託す相手もいない。過去の全貌を知る手段がないばかりでなく、彼女たちには未来も残されていない。

 具体的には、様々な終末ロケーション巡りをするなか、チトは日記をつけており、またユーリがカメラで写真を撮ったりする描写はあるものの、それを伝えるべきメッセンジャーはどこにもいない。彼女たちの記憶が閉じられるとともにそうした記録は灰燼に帰すだろう。

 このような、現代社会に生きる我々の目を通せばいくらか深刻さを帯びて感じられる状況においても、それでも二人がむしろ気楽な状態で生きているのはかえって異常ですらある(『アイ・アム・レジェンド』においてさえ終末状況に対する深刻さは伴う)。おそらく彼女たちにしてみれば常にそうした状況に置かれて生まれ育ったためにそれが日常であるという認識もあるのだろう。彼女たちには食糧を求め頂上に登り詰めるという漠然とした進路はあるものの、確かな目標意識を持たない。それは大げさに言ってしまえば、客観的に見て死ぬ未来しか見えないということでもある。

 『少女終末旅行』において彼女たちの存在に対比されるのは、他の生き残りとして出てくるカナザワとイシイである。社会や文明が崩壊、というより完全な消失を迎えた終末という状況に際し、カナザワやイシイは、生を駆り立てる意味が失われた中においてそれぞれの意味をみいだして生きている。カナザワは地図を作ることに心血を注いでいるし、イシイは飛行機を用いて都市の外を出ていくというロマンがある。その世界の中での生き方を見つけているのだ。

 地図作りや飛行機開発といった行為はいわば生を駆り立てるトリガーであり希望なのだ。それは死への抗いでもある。社会も生命も消滅した世界で生きるためには、己でそうした意味をみずから作り出す必要がある。それにすがっていないと自分を保てない。

 二人と対比されることで、ますます目的を何ら持たないという彼女たちの特異性が感じられるようになる。第8話「街頭」からも分かるように、彼女たちはあえて能動的にそのようなスタンスを選択しているのだ。この作品自体の特異なところもそういったスタンスにある。例えば、そのような状況において生の意味をいかに見出すかということをテーマに設定するという選択もあったはずだ。しかしこの作品はあえてそういった主張を回避する。

 もっとも、正確にいえば、彼女たちの中は、漠然と何かをせずにはいられないという気持ちがあり、それが上方を目指すという行動につながっているという方が良いだろう。それは食料という存続につながるものを求めているからでもある。

 『チーズはどこへ消えた?』という本がある。これはスペンサー・ジョンソンが著したビジネスマン向けの啓蒙書であり、起業家精神がいかにして人生の充足に繋がるかということを説いた内容である。

 洞窟があり、そこには山のようなチーズがあり、しかしチーズはどんどん古くなっていっている。人間はあれこれ考えてそこでの生活を維持しようとするが、思考回路が単純なネズミは新鮮なチーズを求めてあっさり外の世界に飛び出していく。この話が言わんとしているのは「保守的で自己分析を繰り返す人間より、割り切った思考回路で新たな領域を開拓していくベンチャー気質な人間のほうがより多くのものを得る」というそのままの教訓なのだが、ここでいうチーズというのは食糧というそのままの意味ではなく人生の充足に結びつく「何か」を象徴している。

 しかし、彼女たちにとってはいわばその「何か」が明確にない状態なのだ。「上を目指す」というのはマクガフィンのようなものであって、明確な何かとして設定されない。第43話で言及されているように、それは意味をもつ何かではなく、目的以前の気持ちなのだ。

 では、彼女たちの無目的な旅は、どのような形で幸福につながり、そして肯定され得るのだろうか?ことにそのテーマが現れるのはラストの話数(第47話「終末」)においてである。

 都市の上方を目指す二人の旅が終わりに近付くにつれ、仕組まれたかのように彼女たちは色々なものを失う。ケッテンクラートが壊れ、銃を捨て、最後は頂上に登りつめるために、日記も燃やしてしまう。

 頂上に着いたところで彼女たちの旅は終わりを迎える。その後、無限にズームアウトしていくカメラは昇天を表すものともとることができる。単行本での加筆部分をヒントに、二人は石の裏からワープに成功したという裏読みもあるようだが、そうしたifを排除することで見えてくるものも多いだろう。

 他の人もいなくなり、食料も尽きて、何もかも失ってもなお突き進んでいく。不可逆な工程を辿ってまで探求を続け、尖塔を上るその姿は、どこか(『テルマ&ルイーズ』といった)アメリカンニューシネマのような悲痛さを帯びているようにも見える*12。だが、ここでのチトとユーリの台詞内容を見ると、単にそれだけにはとどまらず、ここに来て最後に彼女たちは一つの認識に達したように思われるのだ。

 

◆終末に対置される生

 第38話において一コマだけちらりと登場する、『意志と表象としての世界Ⅱ』という本がある。図書館の入口の前に落ちている本である。

 このショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(原著:1819年、邦訳:2004年、中公クラシックス、訳者:西尾幹二)は、イデアとしての意志とその表象という形で世界像を説明したものであり、彼の思想の集大成と呼ぶべき内容になっている。

 この著作におけるショーペンハウアーの中心的な主張は幅広いが、この世を皆苦であると表現し、意志=欲求からの解脱を説く厭世主義の立場をとるなど、仏教哲学とも共通するところが多い。後の大陸系哲学の思想家や、ワーグナーといった芸術家にも多大な影響をもたらしたことで知られる。

(画像8 『少女終末旅行』第38話より)

 

 『意志と表象としての世界Ⅱ』(邦訳版)は原著では全6巻という大著のうち、3巻目と4巻目の内容を収録しており、このシリーズの中でも主に芸術・倫理に焦点を当てて書かれた部分が収録されている。

 『少女終末旅行』においても、このショーペンハウアー哲学と関連付けて語れるところがあるため、以下でそれを試みたい。

 第47話「終末」において、屋上に上り詰めたチトとユーリが以下のような会話をする。

「…私不安だったんだ。こんなに世界が広いのに…何も知らずに自分が消えてしまうのが」

「…だけどあの暗い階段を登りながらユーの手を握ってたら、自分と世界がひとつになったような気がして…」

「それで思った…見て触って感じられることが世界のすべてなんだって」

「…よくわかんないよね…こんなこと言っても」

「わかるよ」

「私もずっとそれを言いたかった気がする」

──少女終末旅行』第47話(句読点など筆者が適宜補足)

 チトとユーリのここでの会話は、「見て触って感じられる範囲が世界のすべて」であり、唯一それこそが世界との接点たり得るということを物語っている。そしてこの会話内容は我々に、『意志と表象としての世界』におけるこのような記述を思い起こさせる。

 "いうまでもなく、もしわれわれが過ぎ去った何十万年や、そのなかで生きてきた何千億の人間のことを振り返って考えてみるなら、それらの年月はいったい何であったのか、彼らはその後どうなったのかと問わざるを得ないであろう。──けれどもわれわれが振り返って過去を呼び出すことが許されるのは、せいぜいわれわれ自身の人生の過去だけに限られるのであって、われわれは自分の過去のいろいろな場面を生き生きと想像のうちに蘇生させて、さてそれらすべては何であったのか、それらは一体どうなったのか、とあらためて問うてみることが許されているにすぎないであろう。──かの何千億かの人間の生命にしても、しょせんはわれわれ自身の生命と同じことなのだ。"

──『意志と表象としての世界Ⅱ』第五十四節

 『少女終末旅行』において彼女たち以外に登場する人間は、カナザワとイシイ以外には、

  • 彼女たちの記憶の中で出てくる人々(第40話)
  • カメラに収められた記録に出てくる人々(第31話)
  • 想像の中で出てくる影のような人々(第37話)

 といったかつて生きていた人々である。

 彼女たちがその限りある手段の中で接点を持ったこれらの人々も(あるいは彼らが残した遺跡も)、呼び出され得る範囲という観点では、彼女たち自身の人生における過去と変わらないのだ。

 過去に生きた人々も己自身の過去と同様に想像のうちに再生されるにすぎない。よって、それと接点を持つというのも、彼女たちが自身の過去を、生きてきた記憶の範囲で再生するということと同じなのである。

 過去にあったことが実体のない夢であり、想像の中にあるとすれば、彼女たちにとっての生の根拠はそのままの現在に求められる──そしてそれで充分であるといえるのだ。

 "われわれがなににもまして明瞭に認識しなければならないのは、意志の現象の形式、すなわち生命の形式ないし実在の形式というものが、もともとはただ現在だけなのであって、未来でも過去でもないということである。未来や過去などは単に概念のなかに存在しているものでしかない。つまり未来や過去は根拠の原理に従っているような認識の連関のなかにのみ存在しているのである。過去を生きたことがある人はいないわけだし、未来を生きてみるというような人もけっしていないであろう。現在だけが生きることの形式なのであり、また現在だけが人間からけっして奪い取ることのできない彼の確実な財産なのである。”

──『意志と表象としての世界Ⅱ』同上

 ここで言われているのは、人間の生は現在において生きられているのであって、それが未来や過去とつながりを持っているというのは人間の世界の捉え方(それは彼によると時間・空間・因果律という形式に縛られている)によるものにすぎないということである。

 より実践的な形で言うと、現在という形式を人間は生きているのだから過去や未来によってその生を惑わされるのは迷妄である、ということになる。何にも邪魔されない今というものを人間は持ち得る。そして、唯一現在という形式においてのみ人間は生きており、生はその時点の連なりなのであるから、その限りにおいてそれは始まりや終わりといった時点を持たないものなのである。

 "だからもしも現にあるがままの生に満足し、それをあらゆる仕方で肯定しているような人がいるならば、彼は確信をもって自分の生を無限なものとみなして、死の恐怖を錯覚なりとして追い払うことができるであろう。"

──『意志と表象としての世界Ⅱ』同上

 『少女終末旅行』において見出されるのは、冥府に救いを見出すのとは別なモチベーションである。

 見て触って感じられることがすべてであり、その限りにおいて、今生きているところの生、その幸福や快を何より貴いものとすることが美徳となる。そして実生活において良さを見出すというそれは、何物にも邪魔されないものなのだ。

 『少女終末旅行』は、未来がなくなった惑星、過去に確かな形で触れられない状況にあっても、彼女たちが現在を充足させ生きてきた過程の記録なのだといえる。彼女たちはイシイやカナザワと対比すると、明確な目標意識を持たないが、だからこそ、現在という形式における生をあるがままに生きているとも言い得るのではないかと思う。そういった生を送り、その最後の時点においてラストシーンの彼女たちも在る。

 そうしてそれが、死に迫っていてなお彼女たちが自分たちの生を十分に肯定できる根拠でもある。ここに描かれているのは、そのような意味での人生賛歌なのではないか。そうしてそれは、現在を生きる我々においてもつながっているものなのではないか──そのような問いを起こしたところで、筆を置くことにしたい。

 

 

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*1:ハルマゲドンのほうが世界の終焉という原義に近く、カタストロフはこの場合世界の破滅をまねく大災害のことなので、本来は分けて考えるべきであるが、ともに人類や文明、地球に対し「直近に」滅びをもたらすという意味で一括りにしている。

*2:灰羽連盟少女終末旅行けもフレ…「滅びた世界で豊かに生きる」概念にそのものズバリの名前があった「自分はこのジャンル好きだったんだ…」" - Togetter  https://togetter.com/li/1193042(2018年6月28日閲覧)

*3:cosy catastropheという語は元はブライアン・オールディスが『百億年の宴』(1973)において用いた語であり、ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』などの戦後の英国SFにおいて主流だった、「文明全体が危機に扮している状況ながら主人公たちはそこから逃れた快適な状態でその事態を分析・傍観することが許される」ようなフィクションを揶揄して用いた語である。これには例えばJ・G・バラードの『沈んだ世界』や、同じくジョン・ウィンダムの『海竜めざめる』などが該当する。従って、日本語でいう「心地よい破滅」とは異なる概念であり、cosy catastropheをこの意味で用いるのは本来誤用である。

*4:事故により宇宙船内に子供たちだけ取り残された状況で話が展開する。ジャンルとしてはデスゲームものに近い。

*5:著名な「実を言うと地球はもうだめです。突然こんなこと言ってごめんね。でも本当です」コピペを生んだ元ネタ作品である。

*6:前島賢セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』(2010年、ソフトバンク新書)第2章の記述などを参考にした。

*7:『ジサツのための101の方法』『終ノ空』に加えて、CRAFTWORKより2001年に発売された『さよならを教えて 〜comment te dire adieu〜』の3作品である。

*8:それぞれ安濃高志望月智充監督により、亜細亜堂制作のOVAとして映像化されている。

*9:ここではそういうことにしておいて欲しい。

*10:ここでは便宜上触れていないが、ゾンビ化せずにバラバラの血肉になって食されてしまう人間も存在する。ゾンビ映画においては、劇中での悪役ポジションに対する制裁として描かれることがよくある。

*11:本稿で言及される『少女終末旅行』の話数は、単行本の記載にのっとっているため、ウェブ掲載版と異なるナンバリングが存在する。

*12:テルマ&ルイーズ』は1991年公開でありニューシネマ期の映画ではないが、否応なく犯罪を重ねてしまい折り返しがつかなくなった女性二人の逃避行を解放的な形で描いており、ニューシネマ的なエンディングが印象的である。

『戦う姫、働く少女』(2017年、河野真太郎)感想

 『戦う姫、働く少女』(2017年)を読んだので、その感想について書きたい。

ざっくりと内容を言うと、現代における新自由主義的な体制と流動化した雇用形態のもとで(女性)労働者が搾取されるという状況が、ポストフェミニズム的な想像力といかに結び付いているかということを、『スター・ウォーズ』『アナ雪』『おおかみこども』『千と千尋』『インターステラー』『かぐや姫の物語』などのアニメや映画、漫画をテキストに論じるというものでした。

あくまでフェミニズム関連の本で、女性を主体とした論が展開されるけれど、扱っている問題の射程は女性に限らないものでもあり、フェミニズム批評に抵抗のある人にも読んでもらいたい感じはする。マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』とも相性が良い。

個々の作品分析においては、やや牽強付会を感じる箇所もあったけれど、問題提起の面で見るべきところの多い本だと思います。

 

特に、ポストフェミニズム的な地平にあるフィクションにおいて「社会的な格差や貧困の問題がアイデンティティの問題に置き換えられてしまい、物語上では解決されている(少なくともそう見える)けどシステムへの異議申し立てはされないままだよね」ということについて筆者は繰り返し書いている。

例えば『おおかみこども』について、具体的なシーンや台詞を検証しつつ著者は以下のように述べている(以下、第2章から3箇所を抜粋、アンダーラインは筆者)。

 

このように、『おおかみこども』における田舎という場は、福祉を提供する国家や、教育を提供する大学制度の否定の場なのである。その意味で、田舎の共同体を肯定的に表象することは、逆説的にも新自由主義的な現在の追認になっているのだ。そして重要なのは、そのような田舎を背景にしてこそ、貧困の反復が文化的なアイデンティティ選択によって覆い隠されることだ。

 

先に述べたように、狼として山に入り、母から独立しようという雨の決断は、おおかみという比喩形象を取り去ってみれば、十歳という年齢で労働過程に参入する決断なのであり、彼は父と同じような貧困の道を歩んでいるように見える。物語はそのような貧困と階級の問題を、アイデンティティの選択という衣でつつんで覆い隠す。雪が草平に対してカミングアウトする場面でそれは最高潮に達すると言っていいだろう。そこでは、人種的差異(この場合は人間とおおかみ人間との差異)のリベラルな肯定が物語を解決している。

 

興味深いことであるが、この雪の選択は、ジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』における主人公ダニエルの選択を反復している。彼は、みずからがユダヤ人であることを知ることで、マイラ(入水自殺をしようとしているところをダニエルが救い、その家族捜しを手伝った貧しいユダヤ人の歌手)への愛を認め、ともに東方に向かう決意をする。『ダニエル・デロンダ』では人種の同一性の確認であったものが、『おおかみこども』においては無縁社会の共有へとずらされている。つまり逆に言えば、『おおかみこども』は無縁社会という貧困と階級の問題を、人種的差異の問題であるかのようにあつかうのだ。『ダニエル・デロンダ』においても『おおかみこども』においても、人種的差異の肯定がプロットを解決しているが、その解決は登場人物たちの階級的な上昇を保証することはないし、ましてや階級社会のなんらかの変化を保証するものではなおさらない。 もちろん、映画は表面上はそのような読解を許さないかたちで作られている。この映画が貧困の再生産についての作品ではないといえるのは、また、一般的にもわたしたちが階級的問題が解決しない物語に違和感を抱かずにいられるのは、多文化主義と、その中でのアクティヴなアイデンティティの選択というモチーフが、あまりに強力だからなのだ。

 

この指摘はある意味では『おおかみこども』よりむしろ、本書の後に公開された『竜とそばかすの姫』(2021年)においてよく当てはまっているような感もあり、現代的な題材を扱っているがゆえに、細田守作品においては事態がより深刻化しているともとれる*1

(『竜そば』では直接的に、現代における貧困や疎外を前にして児童相談所の制度が無力なものと描かれており、ヒロインの自助努力による救済を称賛するような形で描いている。)

そしてこの問題意識は、批評家の杉田俊介氏が『天気の子』(2019年)の「セカイ系」を「ネオリベラル系」として批判した記事の内容とも繋がっている。

gendai.ismedia.jp

また、『魔女の宅急便』や『千と千尋』をもとに「やりがい搾取」の問題を指摘している章の議論は『若おかみは小学生!』(映画版2018年公開)に繋げて論じることも十分に可能なように思われる。

そういった意味で、この本のとり上げているテーマは2022年現在においてもアクチュアルなものだし、むしろ重要性は増しているとも言えそう。

 

ただ、その一方で、こうした記述に全て妥当性があるかと言われると疑問に感じるところもある。

本書で問題にされているような物語の型は昔からある普遍的なものであるかもしれないし、言い方次第では、古典的な物語の中にも(本書のようなやり方で)福祉国家体制の否定や新自由主義を見出すことは十分できそうではある。

いくつかのフェミニズムの潮流や、'70年代以降の新自由主義流入について、個々の作品においてその反映を見出すことはできるけれど、例えば「ある時期以前の物語はそうじゃなかったけどそれ以降はそういうイデオロギーが反映されてるよね」といった通時的な観点をもう少し入れて書いていた方が、恣意的な記述という感は少なくなると思う。

そういった意味だと、ディズニー映画や、著者の専門である英文学と絡めて論じた箇所ではそれは上手く行っているように思えるけれど、『魔女の宅急便』『千と千尋』『かぐや姫の物語』などはそこまでピンと来なかった感じはする。

また、本書では、宮崎駿作品がかなりの点でネオリベラル的な価値観を体現しているように指摘されているけど、他方で宮崎駿自身は熱心な左翼であるという事実についても触れていて、そこにある思想的ねじれ(?)についてより詳しく読みたかった気はする。

 

加えて言うと、『インターステラー』を「セカイ系」との関わりで論じた第4章はわりと苦しいところもあった。

そもそも『インターステラー』を「セカイ系」と結び付けるのは、東浩紀が「セカイ系」論者として『インターステラー』を擁護したこと*2が背景にあると思われるけど、『インターステラー』は「母性不在」でありポスト・エヴァの作品群に連なるものである、という論の運びはやや違和感があり、「セカイ系」批評を今復活させて作品を論じることの困難さを感じさせるところもあった。

 

全体的には「この作品はイデオロギー的にけしからんのでダメ」という論調ではまったくなく、例えば行政側がその作品をどのようにとり上げているかといったことも取り上げ、作品をもとに現在進行形の社会的問題について問うといったニュアンスが強く、個々の作品がそれを克服する可能性についても同時に取り上げている。

アニメファン的な見地から言うと、実際のところアニメ作品をまっとうに社会や政治の問題と接続して論じるのは難しいことなので、その隘路を突破するようなテキストとしても読めるのではないかと思います。


*1:「田舎」の扱い方については「VR=インターネット世界」と併存していることから、異なった性質になっているという留保は必要。

*2:このtogetterでの発言この記事

『sense off 〜a sacred story in the wind〜』プレイ感想

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ちょっと前からプレイしていたゲーム『sense off 〜a sacred story in the wind〜』(2000年、otherwise)をクリアしたのでその感想について書きたい。

本作はメインシナリオを単独で手掛けた元長征木の代表作であり、ゼロ年代初頭の「セカイ系美少女ゲームにも数えられる作品だ(元長自身、「セカイ系」の論客であったのでこの評価は適正と言える)。

元長が作詞し、I'veの高瀬一矢が手がけた主題歌(OPの「sacred words」およびEDの「birthday eve」)で名前を知っている人も多いだろう。

パッケージ版はロットアップしているが、FANZAやDLsiteにてダウンロード販売されており現在もプレイ可能である。

※以下は本作についての微ネタバレを含みます。

 

総評

季節は、春と初夏の端境期。

舞台は、地方都市。

その都市には、1つの施設がある。
大学に附属する研究機関だが、そこでは、学園生活が営まれている。
どこにでもあるような、それでいてどこかが違う、擬似的な学園生活。

そんな舞台設定に訪れる、聖なる物語――

(本作のOPムービーのテキストより)

あらすじとしては、主人公が「認識力学研究所」という国立の研究施設に移り住むところからストーリーが始まる。そこでは特殊能力の研究が行われており、能力を保持する思春期の男女が施設内の学校に生徒として通っている。潜在的な特殊能力を持った主人公(物語開始時点では何の能力か不明)はそこで疑似的な学園生活を送ることになる…というもの。

所感としては、かなり旧Key作品(というか『ONE~輝く季節へ~』と『Kanon』)の泣きゲー的なエッセンスを取り込んでおり、ただ、それを認識力学のようなSF的なギミックと、抽象的で思弁的なモノローグを凝らして行うことで独特の作風を築いているように思える

例えば『ONE』における、主人公が幼い頃の盟約により「永遠の世界」に去ってしまう、というモチーフは、主人公らが人間という枠に収まらない知的生命であるということによって説明される。

企画・メインライターの元長によると、本作の元になったのは『ONE』ではなく『Kanon*1ということだが、ささやかな蜜月ののちに訪れる唐突な終焉、エンドロールを経てエピローグにて二人が奇跡のように再会を果たすといった流れは、演出まで含めて『ONE』そのものだろう。

また、各ヒロインが特殊な力を持っており、それに縛られることで災厄がもたらされるという構図は『Kanon』的であるし、当初は明るいが実は傷つきやすく、壊れそうな繊細さを見せるキャラクターも『Kanon』の直系であろうことを感じさせる。

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また、本作は、各ルートのエンディングが「世界の終わり」("the end of the world")というタイトルになっており、主人公とヒロインの自他認識によって世界が規定されるという「セカイ系」的な展開もあり、成瀬や珠季のルートにはそれが顕著に見られる。その記述においては、SF的な仕立てはあるものの、具体的なメカニズムは常に欠落しているのが特色だ。

ただ、個人的には考察が好きだったり得意だったりするわけでもないので、あまりそういった側面で本作を楽しもうとは思わなかった。(本作の作家のテーマである)「21世紀的な新しい人類の存在様態」とか、あるいは本作のシナリオがギャルゲーとそのプレイヤーの関係を内包しているといったメタ的な読み込みなどについては個人的には割とどうでもよく、ベタに新海誠的なSFラブストーリーとして楽しんだ(新海誠作品がベタという意味ではない)。

 

一つ目立った瑕疵として挙げられるのは、日常シーンが正直退屈だった(しかも長い)。随所にハッとさせられるようなテキストはあり、抑制された雰囲気も良いのだが、特に共通ルートでは当たり障りのない会話をずっと読まされている感じで、笑えるギャグもあまりない。それが味でもあるけど同時にプレイがしんどくもある。

思うに、『ONE』や『Kanon』は泣ける展開があるというにとどまらず、久弥直樹麻枝准が書く日常シーンが楽しかったり、破天荒なギャグがあったりしたから人気作になったという面も強い。また、片岡ともの書く日常シーンは、ギャグがなくてもぽんこつのヒロインとのやり取りに独特の居心地の良さがあるし、丸戸史明の書くラブコメ仕立ての日常も、その人気に寄与している。

やはり楽しい日常シーンを書けるのはある種の特殊技能だし、ある程度定評のあるライターは、皆その前提があって評価されてるんだな…と実感させられるところはあった。

日常シーンが長いわりに、クライマックス以降の展開はかなり唐突で描写も少ないので、やはりこれは敢えて空白を多くしているんだろうと思った。

 

作品全体の雰囲気は良く、OPのテキストにある通り、4月~5月の、春と初夏の端境期、地方都市の郊外を舞台としており、グラフィックに新緑の清涼感ある空気感がよく表現されていると感じる。原画を手がけた、ゆうろ氏によるキャラクターの絵柄も素朴で清潔な感じがして好きだ。キャラクターの造形も派手なところがなくて良い。

I'veによる主題歌はもちろん文句なしに素晴らしく、OPの「sacred words」はゆったりとしたリズムに乗せてたっぷりとした美しいストリングス、透き通るようなベル音を奏でており、このゲームのサブタイトルにある「聖なる物語」の空気感をそのまま表現しているような趣がある。EDの「birthday eve」は一転してユーロビート調の疾走感あるアレンジにクールなメロで、ストーリーのキーワードを散りばめた隠喩的な歌詞を歌うのが非常にかっこいい*2折戸伸治によるエピローグのBGM「コズミック・ラン」も哀愁たっぷりのハウスで、音楽的にも充実しており、かつストーリーテリングと分かちがたく結び付いているという良さがある。

以上のことから、2022年現在においても十分にプレイするに足る魅力を備えたゲームと言えるだろう。

 

※以下は本作についての大幅なネタバレを含みます。

各ルートについて

各ヒロインにはそれぞれに、世界に干渉しうる特殊な能力が備わっている。成瀬は未来を予知することができ、珠季の場合は物理的な念動力、椎子は治癒能力、透子は世界の「読み替え」を行う能力、美凪は人の心が読める能力、といった具合。

各ルートにおける帰結は、「演算者」としての主人公の能力によって各々のヒロインの能力がある方向に発現した結果として生じたものと捉えることができる。従って、「選ばれなかったヒロインが救われずに終わるのではないか」という「Kanon問題」のようなものはあまり考えなくても良さそう(例外もあるけど)。

ちなみに自分のシナリオのプレイ順としては成瀬→椎子→珠季→透子(→依子)→美凪(→慧子)という感じ。最初の3人はかなり直感で、あとは個人的に後回しにした形になる。なお、依子と慧子は隠しヒロイン的な扱いで、他の特定のキャラを攻略済みでないとルートに入れないとのこと。

以下、全てではないが印象に残ったルートについて触れる。

 

織永成瀬のルート

成瀬ルートのストーリーでは、未来予知の能力を持つ成瀬が「世界の終わり」を予言し、その時刻が来るまでの数日を主人公とヒロインは二人きりで過ごすも、世界は終わらず、成瀬ただ一人が死んで終わる。成瀬の予知は成瀬ただ一人にとっての世界の終わりを意味していたことが分かる。

しかし、この世界から消えた成瀬の意識は持続しており、(何らかのメカニズムで)世界が一周することで成瀬は転生し、次の世界で主人公と再会して終わる。

ここでは「自分自身の命の終焉=世界の終わり」と規定されており、ヒロインと主人公とのハッピーエンドのために世界そのものを1周させるという明快な構図である。成瀬ルートはそのシンプルさゆえに、「セカイ系」の一つのアーキタイプとも呼べるものだろう。

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また、ゲームの翌年に販売された本作のドラマCDは、元長氏自ら脚本を書いており、成瀬ルートを下敷きにしたストーリーになっている。

(「sacred words」が、先日発売された「I've 20th Anniversary E-VOX」に未収録であったため、プレミア価格になってしまうかも)

このドラマCDでは、ゲーム版の成瀬ルートでは簡素な描写で終わっていた「世界の終わり→二人の再会シーン」までの流れが、双方の視点を交え、ゲーム版にないシーンや台詞とともにより詳しく描かれている(それでもやはり抽象的なのは変わらないが)。現世での成瀬は生命として消失したのち、二人の再会のために作り直された世界に移行する。転生した成瀬は夢の中にもう一つの世界の記憶を見る。成瀬は主人公との出会いを予感して育ち、そしてその成瀬を主人公が見付けて前世からの約束を果たすという流れだろう(多分)。

ドラマCDのクライマックスシーンから、印象的で直接的な台詞を以下に引用。

俺は、旅をしてきた。いくつもの場所を、いくつもの季節を旅してきた。

いつかどこかで、誰かと巡り会える。そんな予感に誘われて。

漠然とした予感だったけど、確信はあった。それは、世界に対する確信だ。

この世界に俺がいる限り、俺はそいつと巡り会うことができる。

何故なら、この世界は、俺とそいつのために出来ているからだ。

世界というものが存在すること、それは、俺と誰かとの出会いを、あらかじめ約束しているということを示すのに他ならない。

何回目になるのか分からない春は、もう半ばを過ぎようとしていた。

 

このモノローグはかなり『ONE』とか『Kanon』に近い距離にあると思うし、『君の名は。』に接近しているところも感じる。

特にこのクライマックスの場面、相手との記憶は失っており、ただ漠然とした残滓だけを抱えている二人が運命的に偶然再会するという流れはめちゃくちゃ『君の名は。』のラストを思わせて良く、演出的にもゲーム版より優れていると思う。「birthday eve」(誕生日の前日)のタイトル回収も完璧であり、このCDの内容をゲーム本編に入れていたらもっと評価上がったのでは?と思ってしまう。

 

真壁椎子のルート

椎子ルートは個人的には一番琴線に触れたシナリオだった。数学を通して主人公と椎子とのコミュニケーションが描かれ、それが二人の前世からの宿命と繋がっていく。

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途中でいきなり歴史小説みたいなパートが始まり、『AIR』の「SUMMER」編みたいで良かった(他のルートでは前世の記憶がほとんど有史以前まで遡るのに対し、椎子ルートは具体的に近世ヨーロッパの話になる)。

アクロバティックな展開の多い『sense off』のシナリオにおいて、椎子ルートは物語の類型としては一番クラシックなものだと思う。

ライプニッツをはじめとする数学の歴史や、情報理論のような観念的な話は出るが、それらはシナリオ上のギミックとしてではなく、あくまで物語を彩るモチーフの1つとして出る。

自己犠牲の是非というテーマがあるが、世界対個人ではなく、多人数対1人という対立軸になっており、「セカイ系」のような仕掛けも中途半端だ。

しかし、だからこそか、自分は透子ルートのシナリオに最も惹かれた。特別な他者というモチーフがより具体的なものになっているし、一人の数学者の人生の話でもある。

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ベタベタだけど、こういうのは泣けてしまう。

 

御陵透子のルート

透子は自我が希薄という意味で最も元長っぽさのあるヒロイン造形と感じる。ほぼ感情や意志を持たないかに見えるヒロインが、ぎりぎり感情を見せるかどうか…?というラインまで持って行くまでをじっくり描いているところを感じた。

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透子の掴みどころのなさをよく表していると思える台詞

 

「世界の読み替えを行う」という能力は、本作のヒロインの中で最も規模が大きく、主人公の能力に近いところもある。

個人的には、もともと自我が希薄なキャラクターが存在ごと消えてしまい、よく分からないままに復活するというのは常道という感じがして、あまり刺激的なところがないままに終わってしまった。

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「もしも叶うなら肉体というハードウェアからも軛解き放つよ」というEDの歌詞は透子シナリオから来ているのだろう。

 

飛鳥井慧子のルート

このサブシナリオは元長氏ではなく、シュート彦(うつろあくた)氏が担当しているとのこと。ストーリーとしては主人公が自室のPCでネットを開通させてアクセスすると、よく分からないページに飛ばされて、そこで思念体のような少女に出会い、チャット上で交流していくというもの。

慧子ルートは本作のグランドルートとして読めるという評判があり、認識論をテーマにした本作のことだから、てっきり飛浩隆の「ラギッド・ガール」のような話になるのかな?と思ったけど全然違った。一応サイバネティクス寄りのストーリーではあり、本作を象徴するような終わり方を迎える。

あと、飛鳥井慧子(というか、他ルートを含めて前世でのヒロインの姿)のビジュアルはわりと『YU-NO』を思い出させるところがある。

飛鳥井慧子ではなくモブの少女Aだけど、グラフィックがやたら可愛いので印象に残った。

 

まとめ

  • 『ONE』や『Kanon』のエッセンスを取り入れ、それをSF的に解釈したようなシナリオ。
  • 成瀬シナリオはドラマCDと合わせて触れると良いかも。
  • 椎子シナリオが一番良かった。
  • 音楽的にも充実しており、ストーリーと結び付いて使われている。

という感じでした。やっぱり評価が高いだけあってそこそこ面白かったです。

一応、『未来にキスを -Kiss the Future-』は『sense off』の精神的続編にあたるとのことなのですが、本作でそこそこ満足したのでプレイしなくても良いかなと思っています。

個人的には最初に触れた元長柾木の作品は『全死大戦』であり、結構気に入っているので、多分もう出ないけど続編を読みたいなと思っています。

 

 

 

 

*1:東浩紀ゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』(講談社BOX、2009年)、44頁。

*2:『visual style vol.5』に掲載の高瀬一矢のインタビューによると、「birthday eve」は「accessっぽく」というオーダーがあり「C.G mixの真似をして書いてみた曲」だという。accessで言えば「MISTY HEARTBREAK」という曲が「birthday eve」と似ており、おそらくこの曲を参考曲として提示されたのではないだろうか。

「’10年代のTVアニメ各年ベスト」企画の集計結果発表

highland.hatenablog.com

 

2019年の11月~2020年の1月にかけて「'10年代のTVアニメ各年ベスト」という企画をTwitter・ブログ上で実施しまして、その集計結果の記事を出せていなかったのですが、このたび2年越しに出すことにしました。

Twitterでのハッシュタグ付きツイートのほか、以下の7つのブログにてコメント付きで投票いただき、合計383人に投票していただきました。

ご協力ありがとうございました。

hokke-ookami.hatenablog.com

kyuusyuuzinn.hatenablog.com

toriid.hatenablog.com

privatter.net

proxia.hateblo.jp

www.icchi-kansou.com

turnx.hatenablog.com

最初に掲載した自分の記事にも書いていますが、企画の趣旨をまとめると

・2010年代のTVシリーズのアニメ(Web配信のシリーズ作品含む)からベスト10作を選ぶ
・各年につき、その年のベスト1作を選出する

となります。

例えば、2019年時点での自分の投票作は以下のような感じです。

10年:探偵オペラ ミルキィホームズ
11年:放浪息子
12年:戦国コレクション
13年:琴浦さん
14年:ソードアート・オンラインII
15年:六花の勇者
16年:Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-
17年:プリンセス・プリンシパル
18年:ダーリン・イン・ザ・フランキス
19年:約束のネバーランド

https://twitter.comsh/statsそのus/1439825315589545984?s=20

1年につき1作と絞る利点としては、ある特定の年の作品に票が偏ったりするのを避けられることと、その方が集計した際に通時的な見方ができることがあります。

各年の作品から選出するという縛りがあることで、10年間にわたって作品を見てきたような、ある程度玄人なファンの意見を集められるのではないかという見込みもありました。

また、投票の際はある程度ルーズなレギュレーションだったのですが、今回集計するにあたっては以下のようなルールを定めてそれにのっとり行いました。

  • 年をまたぐ場合は前年の作品としてカウントする

例えば2014年10月~2015年3月に放映された『SHIROBAKO』は2014年の作品と見なします。仮に2015年ベストに『SHIROBAKO』に投票した人がいた場合、その票は死票になります。

 

  • 同じタイトルの続編や、2期、3期等は別作品としてカウントする

これについてはごく当然ですが『ヤマノススメ』(第1期)と『ヤマノススメ セカンドシーズン』(第2期)は別作品としてカウントされるということです。

ただし、いわゆる「分割2クール」作品については、基本的には同じ作品として考え、タイトルが変わる場合のみ別作品としてカウントしています。

例えば分割2クール放映の『Fate/Zero』の一期と二期は同じ作品としてカウントされますが、『デュラララ!!×2承』と『デュラララ!!×2転』は別作品としてカウントされます。

 

  • 同じ人が1年に2作品以上投票した場合、死票にはしない

例えば、レギュレーション違反で2017年ベストに「けものフレンズ宝石の国」と投票した人がいた場合、それらを死票にはせず「『けものフレンズ』に1票、『宝石の国』に1票」としてカウントしています。

本来であれば、例えば2作品に投票があった場合は0.5票ずつ投じたことにして適切に重みづけを分散する、といったやり方が良いかもしれませんが、集計が煩瑣になることと、分散して投票できることになると当初の趣旨に反するのではないかと考えて、このようなやり方にしました。

ちなみに、二重投票については、ランキングに影響を与えるほどの数はなかったと付言しておきます。

それでは、以下にランキング形式で各年のトップ10を発表いたします。

 

2010年 1位 - 四畳半神話大系【46票】

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現在でも根強い支持を受ける『四畳半』が、'10年代の記念すべき初年度の1位になりました。

最近だと原作小説を翻案元として『四畳半タイムマシンブルース』のアニメ化が決定したりもしています

2010年前後はノイタミナがメジャーになり出した時期でもありますし、湯浅政明監督と森見登美彦は’10年代を通じて売れっ子になっていったため、その象徴となるような結果ではないでしょうか。ことに森見登美彦については、文芸方面の出自からアニメオタクになった人が漏れなく好きな印象があり、批評家受けする面は大きいかと思います。

そして、1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 四畳半神話大系【46票】

2位 - けいおん!!(2期)【42票】

3位 - STAR DRIVER 輝きのタクト【28票】

4位 - Angel Beats!【21票】

5位 - ハートキャッチプリキュア!【18票】

6位 - ソ・ラ・ノ・ヲ・ト【17票】

7位 - 探偵オペラ ミルキィホームズ【14票】

8位 - 刀語【11票】

8位 - ストライクウィッチーズ2【11票】

10位 - ヨスガノソラ【10票】

 

けいおん!』の2期が『四畳半』と接戦になっているのが面白いですね。

けいおん!!』以外にも『ストライクウィッチーズ2』があったりと、まだこの時期はゼロ年代の名残がありますが、一方で『スタドラ』や『ミルキィ』1期があったりと、オリジナルのIPの健闘ぶりも光ります。

個人的には、2010年は『Angel Beats!』と『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の年だったという印象があり、ともに野心的なオリジナルアニメとして発表されましたが、どちらも最終話で賛否が分かれる結果になった…と記憶しています。

 

2011年 1位 - 魔法少女まどか☆マギカ【86票】

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2011年は圧倒的な大差を付けて、『まどかマギカ』が1位という結果になりました。今回のランキングでも383票中86票とトップの票数を獲得しており、’10年代の最重要作(であり、’10年代前半の顔)と言えるのではないでしょうか。

 

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 魔法少女まどか☆マギカ【86票】

2位 - 輪るピングドラム【34票】

3位 - STEINS;GATE【26票】

4位 - 花咲くいろは【22票】

5位 - あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない【17票】

5位 - Fate/Zero【17票】

7位 - THE IDOLM@STER【12票】

8位 - 境界線上のホライゾン【10票】

8位 - ジュエルペット サンシャイン【10票】

10位 - UN-GO【8票】

10位 - 日常【8票】

10位 - 放浪息子【8票】

 

2011年はアニメ界にとって驚異的な年で、今でもアニメファンは大体知ってて見ているような作品が上位ランキングを占めており、『あの花』など社会現象になったタイトルもいくつかあります。’10年代で最も豊作の年と言えそうです。

アイマス』や『Fate』はこの後雪崩を打ったかのようにアニメシリーズが展開されましたし、『ピンドラ』で幾原監督は14年振りにアニメ監督として復帰し、『花咲くいろは』はその後のP.A.WORKSの作風を決定づけたと言っても過言ではありません。

個人的には『TIGER & BUNNY』【6票】が圏外だったのがやや意外で、それだけ他の作品が目立っていたということでしょうか。

この時期はループものが強いという印象があったのですが、ほとんど『まどか』と『シュタゲ』のイメージが大きいですね。

 

2012年 1位 - ガールズ&パンツァー【39票】

やはり現在でも大きな支持を受け、シリーズが展開されている『ガルパン』1位となりました。『スト魔女』に続き、萌えミリタリーもの(ありていに言えば女子学生が戦争ないし疑似戦争をするアニメ)の人気を決定づけた形になります。

ガルパン』については、TVシリーズの時点で支持は受けていましたが、劇場版の公開以降に本格的に人気に火が付いたような印象があり、後年になっての評価も大きいのかなという感じもします。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - ガールズ&パンツァー【39票】

2位 - 氷菓【29票】

3位 - PSYCHO-PASS【26票】

4位 - 戦国コレクション【21票】

5位 - 戦姫絶唱シンフォギア【17票】

6位 - 人類は衰退しました【16票】

6位 - TARITARI【16票】

8位 - 新世界より【15票】

9位 - アイカツ【12票】

10位 - ココロコネクト【8票】

10位 - 中二病でも恋がしたい!【8票】

 

1位からやや票を空けて京アニの『氷菓』が2位になっており、一般文芸小説のアニメ化としてはかなり高い票数を獲得しました。

PSYCHO-PASS』や『シンフォギア』『アイカツ』など、後にシリーズ化された作品の1stシーズンが目を引きますが、6位から10位にかけて『TARITARI』『新世界より』『ココロコネクト』のような1、2クールの佳作もランクインしています。

戦国コレクション』はソシャゲのアニメ化として初期の作品であり、ややマニアックな内容ながら4位に入っているのは個人的に嬉しいです。

 

2013年 1位 - ゆゆ式【34票】

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まんがタイムきらら原作のアニメ化、そして「日常系アニメ」としては最も評価された作品の一つである『ゆゆ式』が2013年の1位となりました。

ゆゆ式』の魅力を言語化するのは難しいですが、テンポよく交わされるとりとめのないやり取りの快さであったり、三人らを中心としてゆるくまとまった博愛的な関係という形でしょうか。

レイアウトやキャラクター芝居の面でも評価され、キネマシトラスはこの作品を機に、ハイクオリティな作品を生み出すスタジオとして台頭していきます。TVシリーズの放映後は単発でOVAが出たのみですが、第2期を望む声も根強くあります。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - ゆゆ式【34票】

2位 - キルラキル【24票】

3位 - 凪のあすから【21票】

4位 - ガッチャマン クラウズ【20票】

5位 - ガンダムビルドファイターズ【15票】

6位 - 革命機ヴァルヴレイヴ【13票】

6位 - 進撃の巨人【13票】

6位 - のんのんびより【13票】

9位 - 有頂天家族【11票】

10位 - 銀河機攻隊 マジェスティックプリンス【10票】

10位 - 翠星のガルガンティア【10票】

10位 - プリティーリズム・レインボーライブ【10票】

 

2位『キルラキル』から6位の『ヴァルヴレイヴ』までをオリジナルアニメが占め、これらラインナップを押しのけて『ゆゆ式』が1位になったことは地味に凄い気もします。

『マジェプリ』や『ガルガンティア』を含め、ロボットアニメのオリジナル作品が多く出た年ですね。『凪あす』に『有頂天家族』と、P.A.の快進撃も続きます。

進撃の巨人』や、今年完結した『のんのんびより』などは、ブランクを挟みながら長期間にわたりアニメが展開されました。

ラブライブ!』の1期【9票】が、『プリティーリズム・レインボーライブ』に僅差で負けて惜しくもランク外という結果になりました。

 

2014年 1位 - SHIROBAKO【44票】

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花咲くいろは』に続くP.A.WORKSのお仕事アニメとして『SHIROBAKO』が2014年の1位になりました。丸ごとアニメ制作の舞台裏という題材でTVシリーズのアニメをやるのは前代未聞の試みでしたが、水島努監督らしい緩急のついた演出で手堅くまとまっていました。

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アニメ業界を描いた群像劇として、クリエイターとしての苦悩もそうですが、キャリアパスについての葛藤などが個々のキャラにおいて描かれるという意味で出色の出来であったと思います。昨年にはTVシリーズから5年越しに劇場版も公開されました。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - SHIROBAKO【44票】

2位 - ピンポン【23票】

3位 - ご注文はうさぎですか?【15票】

4位 - スペース☆ダンディ【14票】

5位 - 四月は君の噓【13票】

6位 - 未確認で進行形【12票】

6位 - 結城友奈は勇者である【12票】

8位 - 月刊少女野崎くん【11票】

9位 - ガンダム Gのレコンギスタ【10票】

9位 - selector infected WIXOSS【10票】

 

『ピンポン』や『君嘘』、『野崎くん』から『ごちうさ』『未確認』といったきらら系にいたるまで、漫画原作が堅調な印象を受けます。特に4コマ漫画が人気の年でした。

『ピンポン』は’10年の『四畳半』以来の湯浅監督のノイタミナ作品であり、全話の絵コンテを担当、最高傑作との呼び声も高い作品となりました。

『ピンポン』は最終話の演出で、LINEやTwitterの画面を分割画面で出したり、ポップアップでLINEのコメントを出したりしていたのですが、LINEをアニメの演出で使った最初期の例かなと思います(LINE演出はこの後『ここさけ』で使われてから増えるイメージ)。

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『未確認』や『野崎くん』のランクインから、既に『ゆるゆり』や『GJ部』をヒットさせていた動画工房のプレゼンスがこの時期あたりで上がって来ていることも伺えます。

『結城友奈』『WIXOSS』といった現在も展開中の百合もののシリーズもこの年から始まっていました。

スペース☆ダンディ』は円盤売上が全然なかったらしいですが、4位にランクインしているのを見ると、批評的な支持はそこそこ得られているのかな、と思います。

 

2015年 1位 - 響け! ユーフォニアム【73票】

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2015年といえば、一にも二にも『ユーフォニアム』が絶賛された年で、2位以下に大差を付けて1位を獲得しました。この作品については作劇やキャラクターのレベルから、作画や演出スタイルのレベルまであらゆる側面から語られ尽くし、’10年代のTVアニメで最も被言及数の多いタイトルの一つではないかと思います。部活ものであり青春ものであり…ですが、シビアな現実も描いています。京都アニメーションの新たなスタンダードともなりました。

個人的には、同人誌企画にも参加したので思い出深いです。

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1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 響け! ユーフォニアム【73票】

2位 - 放課後のプレアデス【35票】

3位 - 血界戦線【16票】

3位 - コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜【16票】

5位 - 蒼穹のファフナー EXODUS【14票】

6位 - アイドルマスター シンデレラガールズ【13票】

7位 - 機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ【11票】

8位 - Go!プリンセスプリキュア【9票】

8位 - 落第騎士の英雄譚(キャバルリィ)【9票】

10位 - 聖剣使いの禁呪詠唱(ワールドブレイク)【7票】

10位 - のんのんびより りぴーと【7票】

10位 - ユリ熊嵐【7票】

 

1位の『ユーフォニアム』が2位の『プレアデス』の2倍以上、2位の『プレアデス』が3位の『血界戦線』の2倍以上の票を獲得するという、イレギュラーな事態になっており、それだけこの上位2作が圧倒的だったということでしょうか。

10年越しに制作された『ファフナー』の2期が5位に入っているのは地味に凄い。

ラノベ勢として『落第騎士』に『ワルブレ』もランクインしており、全体的にバトルものやアクションものが快調な年です。

のんのんびより』は2013年の第1期に続き第2期もランクインしており、人気の高さが伺えます。

プリンセスプリキュア』は、プリキュアシリーズとしては2010年の『ハトプリ』以来の5年振りのランクイン。また、’10年代のプリキュアシリーズで年度トップ10に入ったのはこの2作のみという結果になっています。

おそ松さん』【5票】、『ローリング☆ガールズ』【4票】、『Charlotte』【2票】といったオリジナル(または半オリジナル)の話題作が意外にもランク外となりました。

 

2016年 1位 - 響け! ユーフォニアム2【28票】

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前年に引き続き『ユーフォニアム』シリーズの『響け! ユーフォニアム2』が首位となりました。

鎧塚みぞれと傘木希美の関係が一つの焦点となっており、後の『リズと青い鳥』に直接繋がる作品でもあります。

2年連続で同一のシリーズが首位になるというのは驚異的なことですが、同時に、2期ものが1位になるというのは、2016年の他の作品に相対的に存在感がなかったということでもあります。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 響け! ユーフォニアム2【28票】

2位 - 昭和元禄落語心中【19票】

3位 - フリップフラッパーズ【17票】

4位 - この素晴らしい世界に祝福を!【15票】

4位 - Re:ゼロから始める異世界生活【15票】

6位 - ふらいんぐうぃっち【12票】

6位 - 僕だけがいない街【12票】

8位 - コンクリート・レボルティオ~超人幻想~THE LAST SONG【10票】

8位 - 終末のイゼッタ【10票】

10位 - 灰と幻想のグリムガル【9票】

10位 - Vivid Strike!【9票】

10位 - ユーリ!!! on ICE【9票】

10位 - ラブライブ!サンシャイン!!【9票】

 

ラインナップを見て分かる通り、わりと粒ぞろいの年です。まず、人気シリーズ『Reゼロ』と『このすば』の1期が放映されました。『僕だけがいない街』や『灰と幻想のグリムガル』は、1シーズンでまとまった、原作ものの良作です。オリジナルのタイトルとしては、百合ものの『フリップフラッパーズ』・『終末のイゼッタ』に加え、『ユーリ!!! on ICE』が目を引きます。

優れた作品は多いのですが、誰もが認めるような「2016年といえばこれ!」というタイトルがなく、多数の佳作に票が分散した結果、そこそこ人気のあった『ユーフォニアム』の2期が1位になったという見方もできそうです。同順位のタイトルの多さからもそれは伺えます。

ここまで来たらいっそ『フリフラ』か『落語心中』に1位を取ってもらいたかったところですが、どちらも中堅的なポジションに留まり、首位獲得まで至らなかった形でしょうか。

『ユーリ』の票数が意外に少なかったのは、何だかんだその後の展開が途絶えたのが大きい気がします(続編として劇場版の制作が発表されたものの、公開時期未定)。

ラブライブ!』のシリーズは2013年の1期が【9票】、2014年の2期が【8票】となり、いずれもその年のトップ10には入らなかったのですが、『ラブライブ!サンシャイン!!』【9票】でついに10位に並び、ランクインしました。

前年の第1期に次ぎ、『コンレボ』の2期が8位にランクインしています。

 

2017年 1位 - 宝石の国【36票】

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市川春子の漫画を原作に、『ラブライブ!』シリーズの監督や『プリリズ』シリーズのライブシーン演出などアイドルアニメで定評のあった京極尚彦監督が初めて手がけたフル3DCG作品です。3DCG作品としては唯一の首位獲得となりました。

CGスタジオのオレンジの持つ技術が題材にマッチしており、宝石の髪にはフォトリアル系のCGを取り入れたり、セルルックCGに留まらない表現の幅を見せました。

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 宝石の国【36票】

2位 - けものフレンズ【34票】

3位 - プリンセス・プリンシパル【32票】

4位 - メイドインアビス【20票】

5位 - 月がきれい【19票】

6位 - 少女終末旅行【13票】

6位 - フレームアームズ・ガール【13票】

8位 - 小林さん家のメイドラゴン【12票】

9位 - リトルウィッチアカデミア【11票】

10位 - アイドルタイムプリパラ【8票】

10位 - ボールルームへようこそ【8票】

 

1位~3位がほとんど接戦になっているのが注目ポイントです。個人的にも、2017年の話題作といえばこの3作品だったなと感じます。オリジナルものとしては『プリンセス・プリンシパル』が強かったです。個人的には、4位の『メイドインアビス』はもう少し票数を獲得してもいいなと思います。

主に『けものフレンズ』や『宝石の国』に端を発してですが、3DCG作品のプレゼンスが一気に増した年です。

また、この時期から、いわゆる百合ものがガッツリ上位に入るようになってる感じがします。上位3作品に加えて『フレームアームズ・ガール』『メイドラゴン』『リトルウィッチアカデミア』など…もっとも、宝石に性はないのですが。

亜人ちゃんは語りたい』【4票】、『Fate/Apocrypha』【4票】、『エロマンガ先生』【3票】がいずれも思ったより低い票数でランク外だったのですが、どうもA-1 Picturesの作品はあまりこういう場で支持を得られない傾向にあるようです。

 

2018年 1位 - 宇宙よりも遠い場所【80票】

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「よりもい」こと『宇宙よりも遠い場所』が1位になりました。2011年の『まどかマギカ』【86票】に次ぐ80票を獲得しています(総合での投票ではないので、年をまたぐ比較に大きな意味はないですが)。

社会現象を巻き起こすといったものではないですが、着実にアニメファンの支持を集めた作品です。シリーズ構成は『ユーフォニアム』『ラブライブ!』シリーズと同じ花田十輝で、それに連なる女子高生の群像劇と言えます。

北米でもクランチロールで配信され、ニューヨーク・タイムズ紙に取り上げられたことも話題になりました。「女子高生みんなが何かする」という一見アニメオタクが好みそうな題材ながら、思春期の悩みやトラウマを友情を通して克服していくさまが普遍的として評価されたようです。

本作のメインスタッフが再び集結した映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』が来年に公開される予定で、期待を集めています。

 

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - 宇宙よりも遠い場所【80票】

2位 - SSSS.GRIDMAN【32票】

3位 - ゾンビランドサガ【29票】

4位 - ヴァイオレット・エヴァーガーデン【27票】

5位 - 刀使ノ巫女【14票】

5位 - ゆるキャン△【14票】

7位 - 少女☆歌劇 レヴュースタァライト【13票】

8位 - やがて君になる【11票】

9位 - ウマ娘 プリティーダービー【9票】

10位 - 青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない【8票】

 

2018年は『よりもい』に限らず話題作が多かった年です。まずトップ3をアニメオリジナル作品が占めており、これは他に例を見ません。ジャンルとしてもティーンの青春もの、ロボットアニメ、アイドルものといった形で上手い具合にテイストが分かれています。

オリジナルの『GRIDMAN』『ゾンビランドサガ』『レヴュースタァライト』はいずれも今年に入って続編が公開されました。『ゆるキャン△』と『やがて君になる』のアニメはいずれもこの後数年にわたって漫画原作アニメのスタンダードになりそうな作品でした。2011年と並ぶような豊作の年だったのでは?と思います。

2期が大ヒットしたアニメ版『ウマ娘』の1期もこの年です。

また、『青ブタ』と『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(TV版)を除く?ほとんどの作品が百合として消費された作品と言えて、2017年に続いて百合系のアニメがいよいよ覇権になっている感じです。

 

2019年については前もって断りを入れますが、2019年が完全に終わらないうちに投票してもらった人が多いため、軽い参考程度に見てもらえればと思います。

 

2019年 1位 - まちカドまぞく【28票】

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’10年代最後を飾る2019年の1位は『まちカドまぞく』になりました。きらら原作のアニメとしては、2013年の『ゆゆ式』以来の首位獲得です。

桜井弘明さんの監督作としては久々の美少女アニメ、4コマ漫画原作のアニメでした。漫符やイメージBG、書き文字やテロップを多用する桜井監督のお馴染みのスタイルにキャラクターのポップさが合わさった楽しい画面、かけあいの中毒的なテンポ感、原作漫画ページの意匠を取り入れたOP・ED、大地監督や佐藤竜雄さんといったベテラン勢の参戦と見所の多い作品であったと思います。

来年の春クールより第2期の放映も予定されています。

 

1位以下のランキングは以下のようになっています。

1位 - まちカドまぞく【28票】

2位 - ケムリクサ【21票】

2位 - 私に天使が舞い降りた!【21票】

4位 - かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~【19票】

4位 - さらざんまい【19票】

6位 - 鬼滅の刃【14票】

7位 - 彼方のアストラ【12票】

8位 - Re:ステージ! ドリームデイズ♪【9票】

9位 - 荒ぶる季節の乙女どもよ【8票】

9位 - グランベルム【8票】

9位 - BEASTARS【8票】

9位 - ひとりぼっちの◯◯生活【8票】

9位 - 星合の空【8票】

 

1位が『まちカドまぞく』ですが、2位に『わたてん』が入っており、珍しく萌え4コマ作品が上位に入っています。『けものフレンズ』に次ぐ、たつき監督の作品として注目を集めた『ケムリクサ』ですが、『わたてん』と同順位という結果になりました。

『かぐや様』も『さらざんまい』と同順位で、2位~5位までがわりと接戦です。『さらざんまい』はそのポテンシャルを鑑みると、もう少し票を獲得しても良かったのでは?と思います。『鬼滅の刃』は、2019年の段階ではまだ6位に留まっています。

上記の作品以外にも『彼方のアストラ』『荒ぶる季節の乙女どもよ』『BEASTARS』がありますし、オリジナルアニメがそこまで目立たなかったためか、漫画原作が圧倒的に支持された年ですね。

9位に『星合の空』が入っていますが、2019年の末に放映された最終話がかなり物議を醸したため、後から選んだ場合もっと票数は低かったかもしれません。

 

まとめ

さて、2010年~2019年の年度トップ10が出たため、各年の年間ベストを獲得した作品を並べてみましょう。

10年:四畳半神話大系
11年:魔法少女まどか☆マギカ
12年:ガールズ&パンツァー
13年:ゆゆ式
14年:SHIROBAKO
15年:響け! ユーフォニアム
16年:響け! ユーフォニアム2
17年:宝石の国
18年:宇宙よりも遠い場所
19年:まちカドまぞく

 

こうして見てみると、男性主人公の『四畳半』と、キャラが無生物の『宝石の国』を除くすべての作品が女性主人公であり、メインキャラクターが女性で固められています。『まどか☆マギカ』『ゆゆ式』『まちカドまぞく』など、男性キャラがほとんど背景に退いている作品も目立ちます。

また、女性主人公の作品のうち、業界ものの『SHIROBAKO』以外の7作品は女子高生・女子中学生ものを占めています。

もちろん、この投票はアニメファン全体を対象に実施したのではなく、自分のTwitter上で近い界隈の人が多めだったりと、サンプルに偏りがある可能性は多分にありますが、深夜アニメのコアなファンや、玄人の人はそういうアニメを好みがちなのかもしれません。日本の深夜アニメってやっぱり偏っているのかな…?という感想も抱きました。

 

ですが、例えば京アニ作品は一貫して人気ですが、1位を獲得したのは『ユーフォ』のみですし、アイドルアニメや4コマアニメばかりが1位になるということもなかったので、日本のアニメはなんだかんだバリエーションの豊かさがあるんだなと思いました。

まどか☆マギカ』以外のシャフトアニメは、『3月のライオン』等も含め、ランキングトップ10にかすりもしなかったことは微妙に切なかったです。

 

もっとも、今回の投票は2019年末~2020年初頭に実施したものであり、今投票をしたらまた違った結果になりそうです。例えば2019年の6位の『鬼滅の刃』はもっと高ランクに来るのではないかと思いますし、2017年の『メイドラゴン』や2018年の『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『ウマ娘 プリティーダービー』も前より評価が上がっていそうです。

 

アニメファンの人は、自分にとっての「’10年代のTVアニメ各年ベスト」がどのようなラインナップになるか改めて考えてみると、自分の嗜好の傾向が分かったりして面白いのではないでしょうか。