highland's diary

一年で12記事目標にします。

映画『バースデー・ワンダーランド』(2019)感想メモ

※基本的にダメ出ししてます注意。 

 

ファーストショットから人物不在のBG6連続、そこからパンアップするカメラ、主人公の登場、「空が青すぎて溺れそうになる…」とビートルズの歌詞のようなセリフを言う。続く場面での料理表現の異様な力の入りよう、そしてブランコに乗る伸びやかさの強調された芝居を見るにつき、日常的な芝居を描写する原恵一の才能をまざまざと感じさせられる一方で、学校での回想シーンをクロスカッティングで挿入するつなぎの野暮ったさ(回想に入ったのか学校に行ったのかが判然としない)に観客は既に幾ばくかの不安を掻き立てられることだろう。

この映画ではSAVE THE CATの法則で言われているような、観客がキャラクターの行動に共感し、好きになれるような掴みがないため、主人公のパーソナリティをよく分からないままに見なくてはいけなくなっている。この映画が冒険ものとして成功していないとすれば、そこに敗因があるのかもしれない。

映画全体を通じて目につく問題点は多数あるが、気にかかった要素を以下に順に挙げてみたい。一つ目はアカネの旅に同伴する、叔母のチィのキャラクターである


■叔母のキャラクター

ワンダーランドに入ったところで二人は、ピポとヒポクラテスによって、この世界から水が枯渇しつつあり色が失われていっていることが知らされる。しかしその場面において叔母さんのチィは平然と水をおかわりし、「話を嫌々聞かされている」という態度を隠そうともしない。この時点でこのキャラクターのことを「わがまま」としか認識できなくなる。

映画全体を通じ、チィの、他キャラに敬意を払わず勝手に動き回る行為がこのキャラクターの「自由奔放さ・元気さ」の表現として提示され、その振る舞いが作中で断罪されないところに、この作品はそういったことが普通にまかり通る世界観なんだなと脱力感に襲われる。
チィは勝手に冒険に付いてきた上に、アカネの後押しをするといった役割も果たさず、ついに世界を救うことに全く貢献せずに元の世界に戻っていく(車のドライバーになったことくらいか)。元の世界に戻って来てから、映画の最初にランプを売りつけた客に対してもすげなく放置するだけで終わり、疲労感を漂わせるだけで彼女自身のパーソナリティに変化も見受けられない。彼女のせいで物語がすっきりと終わらない。叔母さんのキャラクターは何故この映画に登場したのか。不要ではないのか。こうするくらいなら案内役・保護者としてワンダーランド内の住人を一人設定して同行させても良かった。
最後にしずく切りの儀式をする辺りで、これが(チィの見せどころとしては)最後のチャンスだぞ!と祈ったのだが、とうとう何もなかった。


■劇伴

音楽をかけるシーンのセンスのなさが目立つ。映画冒頭、ヒポクラテスの登場シーンは絨毯がめくれ上がる前から元気よく曲がかかりはじめるため、異世界への扉が開くことに何の驚きもない。ここは音楽のタイミングを後の方にずらすべきだった。
また、後半、ヨロイネズミの中で馬が現れ暴れるだけのシーンで、大詰めのクライマックスのような緊迫感に満ちた音楽が流れるところは思わず笑いそうになってしまった。


■旅の目的

本作はワンダーランドを舞台にした一種のロードムービーであるが、彼女たちの旅の当初よりの目的は、村で編まれたセーターを市に届けに行くことである。しかしセーターは審査に回されることであっさりとフェードアウトする(エピローグで1カット成功が示されるのみ)。旅の目的それ自体はどうでもいいものだということになってしまう。それがあくまでマクガフィンとして機能するものということが了解されるとしても、全く本筋と関係なくなるのはどうなのか。

そもそも「村長の母が作っているセーターが売れなくなっている」のは作中ファンタジー世界におけるその村の相対的な不幸であって、それが「世界の破滅」に帰属するものだと考えるのは錯誤であろう。そのため、セーターを届けに行くこと自体、後の、世界を救うという展開には関係のないものになっている。


■儀式を前にした王子と、ザン・グのパーソナリティの連続性

王子には、しずく切りの儀式を行うことに対する恐れがあり、それによって世界の破滅を招いてしまうのだけれど、王子の抱える弱さ/闇の部分がどのように解消されたかが分からない。
映画を見る限りだと、

アカネが王子に「この世界の美しさ」を伝え、王子は儀式に臨む
→「しずく切りの儀式は命をかけて行われる」という情報の開示
→アカネが儀式に失敗した王子を命を懸けて抱き留める

という風に物語が進んでいる。
何故情報の出し方がこういう順序なのかというと、王子が儀式への参加を決意するシーンで「命の危機」がほのめかされると、主人公はおちおち王子に儀式への参加を説くこともできなくなるからだろう。
かといって、映画内における当該のシーンを見ると、命をかけて行われる儀式に対する恐れを払拭するだけの説得力のあるイベントは配置されていない。王子には、それによって世界全体を犠牲にしても構わないと思えるだけの強い不安があったと考えられるけれど、それが、よそ者から「この世界が美しい」という事実を説かれるだけで解消されるものなのだろうか?

思うに、「王子の内面=ザン・グの意志」が直結しているように見えるのが良くない。王子の抱える闇の部分は王子のパーソナリティとして直接描くべきではなく、「自らの弱さに付け込まれて悪の力に利用されていた」といった見せ方にするべきだった。映画を見る限りだと「王子の内面=ザン・グの意志」に直接つながってしまう(そのように見える)ので、ザン・グの抱える闇の部分があっけなく解消されるのにどうしても違和感がある。

映画内においてアカネは「運命の少女」ということになっていて、そのことは二人が同じようなヒカリ虫を持っている描写で仄めかされているっぽいのだけれど、実態のないつながりであって、それが説得力を持つまでに至っていない。


■主人公の内面が変化する描写

終盤に主人公が命を賭して王子を救おうとするのも唐突で、ここは映画全体を通じて段階的に変化を描くべきだった。

ワンダーランド内において「前のめり」の力によって主人公は動かされているのだけれど、実際には最初の一度しか使われていないと終盤になってヒポクラテスから種明かしをされ、それは世界に入って行くところだけだという。ワンダーランド内で前のめりの力が使われたシーンは村からセーター届けに旅立つところだけれど、これは実際には嫌々ながら説得されて旅立ったということだろう。
終盤、王子を救う場面で、「前のめり」の力を借りて主人公が行動を起こすという描写にするなら、

最初は「前のめり」の力に強制されて、嫌々やる
→(人から言われて初めて、「前のめり」の力を借りて行動する)
→嫌と思いながらも、やるべきなのだなという意識から行動する
→自ら主体的に考え、積極的に行動を起こす

といった風に段階的に「前のめり」の力を内面化していくべきで、そうした過程がすっ飛ばされているためクライマックスに「前のめり」の力であっけなく命を懸けることの唐突感が凄い。感動を誘う場面であるのに特に感動できるところがない。
しずく切りの儀式では映像での盛り上がりとドラマの高まりが全く同期せず、いきなりボーカル付きソングが流れてアカネとチィが当然のように涙を流すのでギャグかと思った。

この映画においては主人公の動機やモチベーションの変化といった部分が圧倒的に不足している。最初に主人公は学校で友達がいじめられているのを放っておいてしまい、罪悪感を覚える。そこからの変化なのに、ファンタジー世界を通じての変化の内容が、いじめの看過という出来事と全く対応していない。ビフォアアンドアフターにおける変化も、さして重要なものではないかのように、本編後のエンディングロールであっけなく(仲直りが)示されるのみである。

そして冒険が終わった後、「私の世界は前より広がった、気がする。」という圧倒的説明台詞に本編のストーリーが集約されてしまい、またもや脱力感に襲われる。


■旅行ムービーと世界の救済

この映画が主人公の冒険を通じての成長を描くものではなく、日常生活の延長線上での旅行を描きたいのであれば、ストーリーの要素をもっとずっと削るべきであって、彼女たちのロードムービーに「世界を救う」という展開を強引に繫げていることが破綻を生んでいる。無理に世界の命運を握らせるのではなく、ファンタジー世界での旅行を描くアニメがあっても良いと思う。「世界を救う冒険」をさせたがるのはアニメ映画の呪縛のようなものなのだろうか。旅行や日常描写の多さは新しいことをやろうという試みの一つなのだろうけれどこの映画においてはあまり上手く行っていないように見える。

映画は、彼女たちの能天気な旅行と ザン・グによって破壊される街が交互に入る構成になっており、つまり「世界の美しさ」を示す部分と「世界を壊そうとする者」の部分とが並行して続いている。上映開始から70分くらいまでそういった流れなのだが、雄大な超ロングショットで世界が映し出されその美しさが示される、といった場面が三度も四度も出て来るといい加減飽きてくる。
シナリオ上のセオリーとしては、

世界の美しさに驚く
→しかしその世界は破滅の影が見られ、主人公たちはそれを感じ取る
→それを救うことに決める

といった順序があり、「美しさに驚く」といった場面は映画の中盤過ぎにさしかかるまでの時間をかけて何度も何度もやるべきではない。

 

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以上のような専らシナリオに起因する問題点は差し置いても、最初に羊の大群に襲われるシーンに始まり、全体的に演出や編集があまり上手くなくて、原恵一さんの代表作が『オトナ帝国』であるとするならそのホラー演出のキレの良さはどこに行ったのか。

結果として、「シナリオと演出は壊滅的だけどスーパーアニメーターによる作画表現は素晴らしい」という屈折した評価を下さざるを得なくなっている。実際、しずく切りの儀式のシーンを始め、作画表現の素晴らしさを感じるところはいくつもあった。あくまでカット単位での素晴らしさであって、ドラマと有機的に結びついた素晴らしさではないのが歯痒いけれど……。

細部で気になったこととして、カマドウマに弟子入りしたドロボがああなったことについての説明はあっただろうか?特になかったように見える。実は細部で説明されていたのを見逃していただけだろうか。

『響け!ユーフォニアム』の演出における位置関係の設計~第5話と第8話を例に~

 数年前に「『響け!ユーフォニアム』演出総解説」という同人誌に参加しまして、『ユーフォニアム』一期の全13話から、ハイライト場面を11シーンセレクトし、それぞれのシーンについて全カットを解説していくというものでした。私はメンバーの一人として、主にカット解説文を書いたり修正したりといったことで参加していました。

だいたい『ユーフォニアム』の第二期が放映されている時期に、アニ同有志の方々と作っていました。

highland.hatenablog.com

さて、最近になって、同人誌を中心になって作っていた編集長と久々にコンタクトが取れるようになり、残部が10部ほど残っていたのがアニ同のサークルに戻るようです。

そこで同人誌の紹介も兼ねて、自分が寄稿したコラムの部分を切り出してブログに掲載することにしました。ちょうど『誓いのフィナーレ』が現在上映中でタイミングも良いかなと思い、編集長やアニ同の方の許可も取れたので掲載させていただきます。

なお、元々の同人誌では以下のサンプルのように、シーンのナンバリングやカット解説が載っていたのでそれを参照する形でコラムを書いたのですが、ここに掲載するにあたっては(カット解説のパートがないので)ブログ記事用のフォーマットに直し、いくらか書き足したりしています。

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それでは以下よりコラム本文です。

 

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響け!ユーフォニアム』の演出における位置関係の設計~第5話と第8話を例に~

 

今回取り上げるのは、『響け!ユーフォニアム』一期の第5話「ただいまフェスティバル」において、マーチングの練習帰りに久美子が麗奈と居合わせて会話を交わす場面(乗り合わせた電車内で目が合ってからAパート終わりまで)と、同じく一期の第8話「 おまつりトライアングル」で、祭りの日に久美子と麗奈が待ち合わせて大吉山に登り始める場面です(二人が会ってから、宇治上神社を通り過ぎるあたりまで)。

便宜上、それぞれにシーンA(第5話)及びシーンB(第8話)と呼称することにします。

シーンAは、『響け!ユーフォニアム』のBDソフト第3巻において再生時間10分28.5秒~12分20.0秒の箇所であり、1分51.5秒で計42カット。シーンBは、BDソフト第4巻において再生時間36分12.0秒~38分7.0秒までの箇所であり、1分55秒で計31カット。

この2シーンをセレクトした理由としては、この二つの場面はともに久美子と麗奈が歩きながら会話をするという、基本的にはそれだけのアクションしかないにもかかわらず、それを見る者の心に不思議な感動をもたらします。単に「交わされている台詞や音楽が印象的」であるというだけの理由なら、それはオーディオドラマで聴いても大差ないはずですが、実際には映像を通じて豊かなドラマが展開されています。 

もし貴方がアニメを真摯に鑑賞したいのであれば、「映像上でどのようにドラマを展開しているか」、その「技」をこそ見るべきでしょう。 

(同人誌内の)カット解説では、もっぱら「構図」や「フレーミング」「編集」などを見たのですが、ここでは補足として、それらを成り立たせている「(二人の)位置関係の設計」について整理してみたいと思います。なお、カット解説で書いた内容との重複もありますのでご留意ください。 

 シーンAの設計

まずは第5話前半のハイライトとなるシーンA。電車内で鉢合わせた二人が、駅を出て、帰り道を一緒に歩き、横断歩道を渡りきったところで別れるまでの場面です。

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帰り道ということもあり、二人は画面上でずっと同じ方向に歩き続けています。「下手(しもて)=画面左側」から「上手(かみて)=画面右側」への方向です。これはたとえば『ちびまる子ちゃん』などでも登校するシーンは「上手→下手」方向、下校するシーンは「下手→上手」方向になっていることからも分かりますが、いわば日本アニメのお約束のようなものです。なので、ここで二人が歩いている方向自体に深い意味はないのですが、移動しながらどのように位置関係が変化しているかということは注目に値します(いわゆる「上手-下手理論」はここでは関係ないです。念のため)。 

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まず電車内で二人が鉢合わせした(というか目を合わせた)ところ(【カット1】~【カット3】)では、麗奈が上手側にいて久美子が下手側にいますが、電車を降りて改札口まで歩いてきたところでは久美子の方が麗奈の若干前(上手に近い方)を歩いています(【カット4-1】)。しかしこのカット内においても麗奈と久美子の間隔は徐々に縮まっていき、次のカット(【カット5】)になると麗奈が久美子より先を歩いて行っています。

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麗奈が久美子の先を行くという位置関係は、ここでの、麗奈に振り回される久美子という二人の関係をそのまま示す配置ですが、久美子の方が先を歩いているというカットを最初に入れていることで、(性急なカット割りも相まって)「麗奈の方がスタスタ歩いていくので久美子は追い越されて後ろに付いて行っている」というような印象を作り出しています。 

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道中、久美子は麗奈に適当な話題を振って話しかけようとしますが、「うん」と返されるだけで相手にされません。久美子のアクションが何の効果も生んでいないことが客観的な水平の構図によって示され、ややコミカルな印象が生まれています。

麗奈が久美子の先を歩くという位置関係は駅の出口を出て、信号前で二人が立ち止まるところまで続きます(【カット11】~【カット17】)。【カット17】において麗奈の足が点字ブロックまで着き、これ以上は足を踏み出せないことが分かります。

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ここで赤信号になっており二人は立ち止まるので、そのまま信号待ちで会話を続けることになります。

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ここで麗奈は出し抜けに「どう思う…?滝先生」と久美子に対し問いかけを投げてきます。信号は赤で止まり続けており(【カット21】)まだ歩き出すには時間があるため、答えを適当に濁してやり過ごすことはできず、久美子は逃げ場を無くしたことになります。久美子は麗奈の真意が掴めず困惑しながらも、何とか言葉を紡いで返答しようとします。

 

ここでの会話で、久美子が何気なく漏らした一言「(滝先生は)カッコいい…とか?」に対して麗奈が驚いて振り向く芝居があります(カット【23】)。「カ……カッコいい!?」と麗奈が言うカットです。

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ずっと前をみていて振り返らなかった麗奈が突然久美子のひとことに反応し、振り向くところであり、この【カット23】はその衝撃を表すために生々しさをもって描かれています。麗奈が振り向くとき、このカットの背景に絶妙なタイミングで車が横切ることで、振り向きがいっそう強調されて感じられると思います。ヘッドライトも光源になっており、後ろから光が差し込むようになっているからです。そして、振り返る麗奈の背景に車が横切るためには、麗奈の後ろに久美子がいるという位置関係である必要があります。つまり、「麗奈が久美子の先を行く」という位置関係は、二人の関係を象徴していながら、同時に「振り向く麗奈のバックに車が横切る」というおいしい展開も実現させていることになります。 

 

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麗奈はここで場を取り繕うための言い訳をしなくてはならなくなりますが、その後信号が青になったとき、今度は久美子が話しながら麗奈の前に出て大股で歩き始めます。信号前での一時的な歩行停止を経ることで、「二人の位置関係の転換」が実現します(【カット26】~【カット27】)。

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ここでなぜ久美子が麗奈の前に出るかというと、第一義的には久美子は居たたまれなさを感じているからです。麗奈をまた怒らせてしまうかもしれず、会話内容が気づまりで、つい逃げ出すように小走りになってしまうのですね。しかしメタ的な目線で見ると、「久美子が麗奈の前に出る」ことによって、麗奈が追い付くまでのあいだ、しばし久美子はひとりで話をする時間を与えられたことになるのです。実際、ここでの久美子は自分の内面に没入しており、麗奈がいることも忘れたかのように吹奏楽部に対する本音を話してしまっています。そしてそこに、後ろから麗奈がやってきて内容を聞いてしまう、というような動きの設計になっています。 

 

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ここの演出が上手いのは、【カット28】で久美子を正面からとらえ、麗奈を画面外にはけさせているところです。このカットで久美子がひとり芝居のように話していると、画面左手奥から麗奈の足元がフレームインしてきて、久美子はハッと麗奈の存在を思い出し、あわてて言い訳をすることになります。

「内面への没入によって麗奈の存在がしばし意識の外にある→麗奈に気付く」という展開を、「フレーム外に麗奈をはける→フレーム内に足元が入ってくる」というように画面で直感的に表現しているのが上手いです。これは久美子を正面から俯瞰でとらえるという、このフレーミングとアングルによってはじめて実現する演出になっています。 

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そしてまた、「久美子が麗奈の前に出る」という展開は、これに加えもう一つおいしい展開を実現させています。それは勿論このシーン全体を象徴するショットである【カット35】のことであり、麗奈が「黄前さんらしいね」の台詞を言いながら、髪をかき上げるあの芝居のことです。

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このカットで麗奈は逆光になっており、台詞を言う麗奈のバックを立て続けに三台の車が横切ることで、やはりここでの麗奈の仕草を印象的に見せています。やはりここでも【カット23】同様に「久美子から見た麗奈のバックで車が横切る」という展開が実現しています。そして「久美子が麗奈の前(上手方向)に出る」という位置関係があってはじめて、この展開が成り立っているのです。 

こうして考えてみると、横断歩道での二人の位置転換(久美子が麗奈の前に出る)は【カット28】で麗奈が突如フレームインしてくるという展開に寄与しているだけでなく、【カット23】と【カット35】をともに印象的な場面にするのにも役立っていたことになります。シーン全体の展開を考えて、このような位置関係と移動を設計したことが分かると思います。 

そして久美子と話し終わった麗奈は横断歩道から見て左側(画面奥方向)へ去っていき、久美子はその方向をじっと見つめています(【カット38】【カット39】)。最後にはやはり、「久美子の視線の先に麗奈がいる」=「久美子が麗奈の先を歩いている」という位置関係になっており、この時点での二人の関係が示されているといえるでしょう。 

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さて、シーンAでの 動線(シーン内での動きの軌道)について見てきましたが、そういった動線の設計だけでなく、その映し方という意味でもここでの演出はよくまとまったものになっています。

このシーンでの三好一郎さんの演出は、場所や位置関係の変化は客観的な横構図(二人を側面から映す)で見せて、二人が重要な会話を交わすところでは正面構図(二人を正面から映す)を使っています。

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二人が横構図で映っているところでは位置の移動が起こっており、歩くことで久美子が「やりすごそう」「逃げよう」と思っているところです。そして二人が立ち止まって会話しているところでは二人は正面構図で映されます。ここで二人が立ち止まって会話しているということは「重要な会話をしている」ということです。重要な会話はふつう立ち止まってするものです。実際このシーンにおいて、麗奈が単に相槌をうつのではなく、自分から話しているときは必ず正面構図で映されています。逆に横構図で歩いているところではそっけない反応をしています。 

客観的な横構図で移動を映すことで、場所の移動、どんどん上手(かみて)側に逃げようとする久美子を表現し、主観的な正面構図で重要な会話を印象的に見せる、という整理が行われています。脚本上でのアクションと演出による表現が上手く結合した、卓越した計算がなされていると感じさせます(そして横断歩道や信号というロケーションが、そうした展開にいかに寄与しているかということに注目すべきでしょう)。 

さらに言えば、このシーンAで久美子と麗奈の間に行われる「振り返る」(【カット23】)、「見つめることで相手と目が合う」(~【カット3】)といったアクションはこの第5話全体の演出的な主題にもなっています。久美子と麗奈の間で「相手を見つめていると、その相手が気付き目が合う」というアクションが話数全体で二回交わされ、「麗奈の振り向き」という印象的なアクションもなされます。それらの反復は、このエピソードの最後、サンフェスのシーンで久美子が吹奏楽部を「振り返る」というアクションで総括され、久美子と麗奈二人の関係から、「吹奏楽部のみんな」の関係にまで膨らんでいきます。 

何気ない視線のカットや、振り返りや仕草といった細部のアクションの積み重ねで演出というものは出来上がっており、それらをないがしろにしてはならないでしょう。 

 

 シーンBの設計

次に第8話のシーンBを見てみましょう。こちらは久美子と麗奈が夏祭りの日に、山で待ち合わせて登りはじめるというシーンですから、二人は画面上で「上手(かみて)」から「下手(しもて)」方向へ最初は歩いています。山へ登るところですから、学校へ登校するのと同じ要領であり、二人がこの方向(上手→下手)へ歩いているのは納得がいくでしょう。 

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久美子が待ち合わせ場所に到着したところで、麗奈がぬっとあらわれて遅刻を宣告します(【カット3】)。ここで麗奈はやはり久美子から見て前位置(進行方向から見て前の位置)にいます。 

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麗奈の登場シーンでは久美子が疲れで身をかがめているために、麗奈を仰ぎ見るという姿勢になるのが良いですね。汗を流す久美子と、疲れ一つ見せない麗奈とが対比になります。

大吉山を登るシーンはずっと麗奈が久美子を先導するという位置関係になっています。これもシーンAと同様にこの二人のこの時点での関係を示しているといえますが、こちらでは久美子が麗奈の美しさに魅入られ惹きつけられているという要素も付加され、そのことが久美子のモノローグ以外にも、目線(の向かう先)や、ゆっくりと歩み出す足取りによって視覚的に分かるようになっています。 

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宇治上神社に着いたところで二人はいったん立ち止まって会話するのですが、ここで前を行く麗奈が、久美子に問いかけ(「(こっちの神社の方が)渋くて大人な感じがする……分かんない?」)を発するために「振り向く」という芝居をするのが、やはりこの前後の位置関係ならではのアクションになっています。振り向いて問いかけることで、普通に横並びで会話していたのでは出ないニュアンスを出すことが出来ます。ここでの久美子が麗奈の幻想的な美しさに魅入られていることが台詞の上でも示されている以上、細かい仕草を拾っていくようなディレクションは功を奏することでしょう。

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振り向くところでは麗奈の足元から映しており(【カット20】)、サンダル履きの足をクロスさせるような仕草が大人っぽさを表現しています。 

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さて、宇治上神社を過ぎた辺りで二人の歩く方向が転換し、丸石の行列を横切って二人は階段の方へ歩いていきます(【カット27】)。ここでは麗奈の台詞内容に合わせ、日常から外れた(ささやかではあるが)非日常へ向かう、ということが示されている箇所です。丸石の規則的な行列は単調な日常生活といったもののイメージであり、それらを横切って進むという描写によって「非日常へ向かうこと」を暗示しているのですが、ここではそれと同時に「歩く方向の転換(下手方向へ歩く→上手方向へ歩く)」を同時に行っており、「非日常へ向かうこと」が二重に表現されているといえるでしょう。 

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つづくシーンで階段を上るところでは、麗奈が久美子の先を歩いているために、麗奈が先に階段上に着いて久美子がまだ階段を上りはじめていないという状況になっています(【カット28】)。これによって、【カット29】で麗奈が口にするとっておきの台詞は久美子より高い位置で言われることになり、アオリのアングルで有無を言わせぬ力を持ったものになっています。 

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おそらく演出家としては、このシーンをしめくくる麗奈の最後の台詞「明日、学校だから。」を石段の上に立たせて言わせたいと発想したはずです。そのために、その直前の【カット28】では、階段に上る麗奈と地面を歩く久美子をワンフレームで収めるという、難易度の高いレイアウトを持ち込んでいます。この【カット28】で二人の位置関係をロングで見せておくことで、その次の【カット29】でのアオリのアングルが際立つようになっているのですから。 

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ここで総括としてシーンB全体を見て行くと、久美子が疲れているところに前方から麗奈がフレームインしてくるように登場させ、「非日常に向かう」ことを表現するシーンでは、ロケーションを活かした丸石のようなモチーフを用い演出すると同時に方向の転換でダイレクトに逸脱を表し、シーンを締めくくる最後の台詞は、階段の上下をいかして有無を言わせぬ麗奈の説得力を表現する……という具合に、このシーンBもまたシーンAと同様、脚本上のアクションを演出としてどう表現するかについて細かな気配りがなされています。この大吉山は実在する場所であり、制作過程でロケハンもなされたと考えられますが、このような実在するロケーションであっても、それをアイデアとして取り入れ表現したいドラマを自由に表現できるというのは、演出家の想像力の賜物であると言っていいでしょう。 

やはりアニメにおいても、動線や演出といったものは、一筋縄ではいかないものなのだと痛感させられます、といったところでしょうか。 

 

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スクショが散逸していたため新しく撮り直したりしたのですが、やはり三好一郎さんの演出回は良いなと思いました。カットの切り替わるタイミングがアクションと連動していてテンポ良く、カット頭とカット尻が緊密に詰まっている。キャラクターの芝居や表現手法も大胆で独特、総合的な表現力が凄くあるなと感じます。もちろん藤田春香さんの8話も傑作であるし、11話などもとても見応えある回だったと思いますが、『ユーフォニアム』一期は三好一郎さんの担当した5話と12話がやはり好きでした(個人の意見)。

 

「演出総解説」については、作ったメンバーの中で「このカットにはこういう意味がある」というよりは「このカットを置くことでこういう効果がある」という書き方をする、という合意がありました。

アニメの演出について語るとなった時に、たとえばコンティニュイティ(カットの連続性)の話をする人があまりいなくて、静的な画面を切り出して意味を読み取っていくという方向性に行きがちなのですが、そういった象徴表現を凝らすといったことはあくまで手法の一つに過ぎないし、アニメの映像が私たちに働きかけている作用は、編集や音響も含め、もっと多様で豊かなものであるという問題意識がありました。なので、「意味」というよりは、演出によって生み出される「効果」に焦点を当てて書いていたと思います。

個人的には、今でもそういった問題意識についてはあまり変わっていないなと思います。こういったものはまた書いたりしても面白いかもしれません。

前回の更新から二連続で過去に書いたものの再掲になっており申し訳ないですが、次回以降はまた新しい内容について書きます。

TVアニメ『彼氏彼女の事情』の演出について――セレクティブ・アニメーションの美学

以下に掲載するのは5年ほど前に、批評誌のアニメルカ特別号『反=アニメ批評 2014summer』に私が寄稿させていただいた、TVアニメ『彼氏彼女の事情』についての文章の全文です。

highland.hatenablog.com

彼氏彼女の事情』のBD-BOXが先ごろ発売されたので、その販促に何かできることがないかと思い、アニメルカの編集をされている高瀬さんのご許可もいただけたため、過去に書いた記事をブログ掲載しようと考えるに至りました。内容については一字一句変えていません。

これは元々は違う場で発表に使った内容を(アドバイスをいただきながら)記事用に加筆訂正し、載せていただいたものでした。2014年にもなって1998年のTVアニメについてのこのような文章を批評誌に載せていただけたのはとてもありがたいことだと思いますが、それから5年後の2019年になって本作のBD-BOXが発売され、追加で色々な新事実が明らかになるなどとはよもや思っておらず、面白いことだなと思います。
このときの自分の悪癖として「インタビューを引用しまくる」ということをしてしまっており、 これについて反省も多いですが、これはこれで何がしかの論点の整理に役立つかもしれません。今の自分が書くとするとより細かいトピックに限定して分析的に書くか、あるいはもっと作品論寄りの、これとは異なる問題意識で書くと思います。

ご興味ある方はお読みいただければと思います。ご批判やコメント等いただけましたら幸いです。

 

TVアニメ『彼氏彼女の事情』の演出について――セレクティブ・アニメーションの美学

1.はじめに

 GAINAXJ.C.STAFF制作、庵野秀明監督によるTVアニメ『彼氏彼女の事情』(1998~1999)(以下『カレカノ』)は、津田雅美による少女漫画を原作としながら、その独特な演出が話題になった作品でもあった。ここでは主にその演出面に着目することでアニメ版『カレカノ』を振り返ってみたい。

 『カレカノ』は庵野が監督したアニメ作品の中でも数少ない漫画原作の作品であり、また原作のエピソードをほぼ忠実に映像化している作品でもある。庵野監督の他の多くのアニメ作品が原作なしのオリジナルか、あるいは『ふしぎの海のナディア』のように原作つきであってもオリジナルの要素を多く含んだものであることを考えると、映像作家としての庵野秀明の作品の中でも『カレカノ』は原作である漫画の比重が大きかったという意味で特異な存在であったといえるだろう。そこで他作品とは別に、原作との兼ね合いという観点からアニメの細部を検証する必要があると考えられる。

 また、庵野秀明のアニメ作品に関しては、とりわけTVシリーズ新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996)(以下『エヴァ』)の第25、26話(TV版最終二話)を引き合いに、リミテッド・アニメーションを極限まで突き詰めるという傾向にあると言われる*1が(これについては後述)、『カレカノ』においても同様のことがいえる。しかし、『カレカノ』においては、いわゆるリミテッド・アニメーションの手法を突き詰めるというだけでなく、「漫画の印象をアニメに落とし込む」という、映像作品としての『カレカノ』のコンセプト*2とも結びつく形でそれが実現しており、興味深い題材であるといえる。

 ここではTVアニメ版『カレカノ』について論じるが、まずは、マンガ原作がどのようにアレンジされ映像化されているか(そしてどのような要素がオリジナルで追加されているか)を具体的な事例に則して見ていき、 それから本論の結論部へと繋げることにする。

 しかし、『カレカノ』についてその演出スタイルを見て行くとしても、勿論TVシリーズ全体を通して見ると演出スタイルも一様ではない。第3話以後は写真から背景シーンのレイアウトを起こして使うようになり、第4話以後は意図的に色彩を抜くようになっている*3等のスタイルの変化もあるし、各話に演出や作画で参加した今石洋之平松禎史鶴巻和哉などのアイディアが取り入れられている部分も多い。

 TVアニメ『カレカノ』の特徴として挙げられるものとしては、まず脚本段階で原作に忠実であるということで、第1話においても強調する部分は台詞を長くしていたりするものの、漫画の台詞を抜かずにほぼそのまま脚本に再使用している。シリーズを通して見ても、序盤に入る「これまでのあらすじ」ナレーションを除き第24話前半、第25話のオリジナル回以外は原作の台詞をほぼそのまま使用しており、省略や追加されたシーンは随所にあるものの、提示する順序の変更や時系列の組み替えもほぼ見られない。そして、演出面での特徴としては、信号や街並みなどの実写から書き下ろした背景が場面間に挿入される一方で、キャラクターの映るシーンでは薄いトーンの背景や心情を投影したイメージBGが使われ、そのリアルな背景とキャラクターが同居するシーンがなく(劇メーション手法が取られた第19話は例外といえる)、また漫符も積極的に使用され、しかも画面としては漫画の書き文字やコマ内での構図(やコマの形)をそのまま再現している部分があるなど、漫画のコマをそのまま取り入れたような画を使っていること、『エヴァ』や『ラブ&ポップ』同様のキャラ紹介や場面解説のテロップ挿入、第19話での劇メーション、更には音響面などが挙げられる。まずは、これらの演出手法について見ていくことでそれらがどのような効果を果たしているかを検討する。

2.背景と人物の乖離と同調

 前節で述べたように、『カレカノ』の演出面の特徴の一つは、実写調のリアルな背景が呈示される一方で、そのリアルな背景とキャラクターが同居するシーンがほぼないということである。これは、キャラクターの動くシーンで通常の背景として呈示される教室や家庭(あるいは描かれておらず心情に対応したカラーのイメージBGが使われる場合も含む)と、実写をもとにした背景カットやリアルな背景描写(そこにはキャラクターが描かれていない)として呈示される風景とで乖離が生じているということである。これについての演出的な意図として監督の庵野は、「まず最初の背景のみのカットで「学校」「家」などの場面を示しておいて、その後カメラで教室や廊下などを映した後キャラを見せれば「このキャラはずっと教室にいる」という理解が成立するので、あとはキャラの心象風景としてBG(背景)を置いて、教室の最低限の記号として窓や机を書いておけば済むので、そのために最初のBGオンリーは限りなくリアルにしておく」という趣旨のことを述べている*4。つまりは舞台となる場所を呈示する順番としては漫画に倣っているわけだが、キャラの心象風景だけを描いていては場所の情報が抜け落ちるので、シーンの冒頭などに背景を情報として提示するのだという。

 また、背景が写真ベースでリアルなものになっているのは、第3話以後はレイアウトから背景を起こすのが非効率なので写真ベースにした*5という理由によるところがある。これによって、キャラが動くシーンでは場所や場面を背景によって呈示する必要がほぼなくなり、純粋に心象風景を描くことに注力することが可能になっていると考えられる(また同時に、背景の描かれていない少女漫画のコマをそのままの印象に保ちつつアニメの画に落とし込むことが出来るようになっている)。

 そして『カレカノ』では写真ベースの背景に加えEDでも多くの話数で実写映像(主に都内の高校や駅周辺を撮影した映像*6)が用いられている。これら実写映像をアニメに取り入れることは視覚的な違和感を生み出すが、リアリティを底上げすることに繋がっていると言われる。つまり、アニメ内で描写される内容は少女漫画的な「ファンタジー」であり「視聴者の夢」であるため、キャラクターの映るシーンは実写的な背景と本質的に相いれないものであり、したがって両者は分離されざるをえないが、背景(やED映像)として用いられる実写映像(や、更には校内の風景やコンビニの看板や信号、道路標識、自転車置き場などの実写ベースの背景)が視聴者の日常的現実感覚に訴えるものとして作用し、作品世界に同調させることにつながっている*7。一方でキャラクターのリアリティを心情描写で掘り下げ、他方でそのリアルな背景画のカットにより視覚的なリアリティを補完していると考えられる*8

 実写パートは『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年、以下『EOE』)においても用いられている。が、その当初の構想は、『エヴァ』の出演声優陣が物語の役柄そのままのキャラクターとして(たとえば三石琴乃葛城ミサトを演じる、というように)出演する実写ドラマであった。その案を持ちかける際に庵野が実写パートのプロデューサーに語った意図は次のようなものであった。

 「アニメの世界に実写を入れることによって、閉塞したアニメの世界を打破したい。同時に、安全な自分だけの世界に安住しているアニメ・ファンたちを、外の現実に直面させたいのです」*9

 この実写ドラマパートは実際には満足いくようにはいかず公開時には別の実写パートに差し替えられたが、映画館の観客席などの現実の風景を映すもので、アニメファンに対し「現実に帰れ」と露骨に訴えかけるようなものである点は変わらなかった。 『EOE』の実写パートがこのような悪意が見られるものであったのに対し『カレカノ』のED、次回予告などの実写部分に関してはもちろんであるがこのようなものはみられない。『カレカノ』の主な視聴者層は『エヴァ』ファンのようなコアな層ではなくフィクションへの過度の耽溺からは無縁なティーン層やファミリー層であったろうし、そのようなメッセージ性はおそらく不要だっただろう。むしろ、本編から実写のED(ED曲を歌っているのも本編の主役を演じている声優二人である)、声優のアテレコ現場を映す次回予告とシームレスにつなげることでアニメ本編の世界と現実の世界とが陸続きになっているかのような感覚を与えるものとなっている。なお、後述するように、監督の庵野が声優をアニメとリアリティを接続するものと捉えていたことともこれは無関係ではないだろう。

 また、実写をもとに起こした背景の部分も、無機的なものでありながら心情表現に資している部分が多い。信号や標識、街角の風景などがそうである。信号は事態やその変化を示すサインとして機能し、おおむね赤信号は閉塞した事態、青信号は好調、黄信号は不安定さをそれぞれ体現するものとして使われる【図1】。主人公二人の関係などが好転すると赤→青に切り替わり、現状への疑問を表すモノローグに重なるように青→黄に信号が切り替わる(第2話)。

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図1 アニメ第3話より

 二人の関係が未発達なものであることを示す「工事中」標識【図2】などは、モノローグの内容と重ね合う形で用いられるが、一方で信号も標識も街角の風景も、脚本上のセリフと独立して表現として使用されるカットも数多い【図3】。

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図2  アニメ第4話より

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図3  アニメ第2話より

 また、第3話においては主人公(の一人)有馬の幼少期のトラウマについて「鉄とコンクリート(と雨)」のモチーフが原作から追加され、後の話でも繰り返し登場するが、この脚本上のモチーフは演出とも重ね合う形で用いられ、赤背景に雨が降り、工場群のシルエットが浮き出るカット【図4】が繰り返し用いられる。これはどちらかというと心象風景の方にカテゴライズされるであろうが、幼少期のトラウマにより傷つき荒んだ心理状態を上手く表現したものであり効果的な心情表現となっている。

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図4  アニメ第3話より

 道路標識、信号、電柱(『エヴァ』でも多用された)など日本人であれば皆馴染みのある対象物を用いての心理描写は数多く見られるが、その効果はカット単体ではなくシークエンス単位で捉えるのがよく、台詞との兼ね合いでなされている表現も少なくない。

3.漫画をアニメに持ち込むということ、画面構成とコマの形

 漫画のアニメ化というところから言うと、漫画で一般的に使われていた「空に飛ぶ星」「頭に流れる汗(いわゆる「しずくマーク」)」などの漫符を最初に取り入れたのはTVアニメ『きんぎょ注意報!』(1991~1992)であると言われる*10。また、「背景やキャラの顔にスクリーントーンで縦線を入れる」(いわゆる「ガーン」の表現)をアニメで初めて使用したのは『ちびまる子ちゃん』である*11。このように、漫画(特に少女漫画)のアニメ化について見ていくと、それまで漫画特有だった表現が徐々にアニメでも使われ出し違和感がなくなっていく、という流れがある。たとえば、TVアニメ『会長はメイド様!』(2010)においては漫画の擬音や書き文字もそのままアニメ上で違和感なく再現している部分も多く見られるが、東映が’90年代半ばに制作した『ママレード・ボーイ』(1994~1995)などのいわゆる「トレンディアニメ」枠のTVアニメにおいては漫画的なイメージBGや漫符は取り入れられていても擬音や書き文字などはあまり用いられていない。

 また余談ではあるが、『カレカノ』制作の際に監督の庵野秀明は「ギャグと少女漫画」という切り口から『きんぎょ注意報!』を参考にしたようである*12。確かに表面的に見ても漫符を多用したり、端正な「ノーマル」のキャラ造形から誇張された「ギャグ」にキャラが一気に切り替わる*13など、コメディ描写の面では『カレカノ』は『きん注』に影響を受けているかもしれない(なお、『きん注』監督の佐藤順一も『カレカノ』第18話に絵コンテで参加している)。

 再度『カレカノ』に話を戻すと、『カレカノ』では漫画の書き文字やコマ内での構図(やコマの形)をそのまま再現している部分があるのが特徴である【図5】。また、モノトーンでグレースケールの漫画の絵の印象に近づけるためにモブキャラクター以外のキャラに関しても色を抜いており【図6・7】、これについては他の作品ではあまり見られることのない独自の処理である。もちろん漫画の構図とコマをそのままアニメに持ち込むことで印象を崩さずに映像化できるが、色を抜いたり書き文字を再現することを通じてより近い印象を再現できるだろう。

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図5  アニメ第1話より

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図6  アニメ第6話より

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図7  アニメ第6話より

 監督である庵野自身もインタビュー内で述べているように*14、映像一般においては、演劇用語でいうプロセニアム・アーチ(額縁舞台を指し、演技空間を規定する語)が固定されているため(TVやスクリーンの画面の大きさやサイズは固定されている)、漫画の大きさ、形の自由なコマ割りとは性質の異なるものである。したがって、たとえば縦長のコマをそのままアニメの画面に落とし込もうとする場合、縦長の画を作っておいてカメラをPAN UP(もしくはPAN DOWN)させて映していく、というのが手っ取り早い手法である(現に『カレカノ』においてもそのようにPANで処理されたカットは多い)。が、そのような置き換えをせずに漫画のコマの印象をそのまま持ち込むことが庵野監督の意図であった。【図8】は原作の【図9】のシーンに対応するアニメ版の画面であるが、ここにおいては映像における固定画面の原則は無視されているように見える。この一連のシーンでは原作の1コマ1コマがそのまま形を変えずにアニメの画面に持ち込まれ(画面の両側がマスキングにより塗りつぶされ)、それを次々に映していくことでシーンが展開されている。

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図8  アニメ第1話より

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図9  漫画第1巻、ACT1、ページ47より

 固定画面の原則を無視したこのような画面の見せ方は、鶴巻和哉らが絵コンテを担当した第六話において顕著に表れている。キャラが白抜きでモノトーン調や薄いカラーになり、吹き出しのセリフや書き文字、漫符などもそのまま再現されている。なお、第6話は口パクを省略していることもあり動画枚数が少なくまとまっており*15、止め絵中心の構成により動画枚数を抑えつつ漫画の印象を映像に落とし込む効果的な演出に成功している(なお、鶴巻は第四話において、主人公の妹らの回想シーンをモノクロにし、原作でスクリーントーンが貼ってある箇所をグレーで塗って表現するという手法*16を用いており、その後白黒技法がそれ以前より積極的に使われ出すようになった)。また、シリーズ全体を通しシネマスコープサイズのような横長の画面も多用されている【図10】。

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図10  アニメ第1話より

 ここで、画面のサイズやアスペクト比が一定しないことについて考えを深めるために、庵野が『カレカノ』後に監督することになる実写映画『式日』(2000)についての竹熊健太郎の評を参照しよう。

スタンダードサイズのビデオ画面やビスタサイズシネマスコープサイズの35ミリなどさまざまなサイズの映像を織り交ぜ、画面も縦長になったり横長になったりと自由に変化する実験作だった。観た瞬間に「ははあ、監督はマンガのコマがやりたかったのだな」とピンと来たが、本人に聞いてみたら、やはりその通りで、アニメにせよ実写にせよ、決まった画角の中での絵作りをしていると、マンガの「コマ」の自由さがうらやましいのだという*17

 『式日』は主人公の男性が映画監督であり、彼がカメラで撮影したという設定の劇中劇のパートを縦長の画面として処理することがあるが、庵野が固定されたアスペクト比に捉われない画作りを志向していたという事実はここからも伺える。『カレカノ』の場合、漫画の印象をアニメにそのまま持ち込むというコンセプトとも相まって多様な画面構成となっている。

 映像の場合、漫画の自由なコマ割りと違って画面のサイズが固定されて画一的になるのは確かだが、分割画面にしたり、カットインを挿れたり、レターボックスやマスキングを用い画面をあえて狭めたりすることで、PANに頼らずとも画面に多様性を持たせることができる。【図11】などは、原作漫画のコマ編成をそのまま再現したカットである。その意味で、映像画面(スクリーン)は漫画のコマというよりページに相当するものとしても考えられる。

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図11  アニメ第7話より

 ゼロ年代に入ってからは新房昭之監督のシャフト制作の作品においてもシネスコを用いたりして画面アスペクト比を変える演出は多用されているし、近作ではノイタミナ枠のTVアニメ『ピンポン』(2014)でも漫画のコマ割りを描画で再現し漫画の視線誘導をアニメ上で行わせるような処理がなされたりと、少なくとも現在ではこれらのアニメ表現は当時と比べそれほど前衛的なニュアンスは与えないようになっていると考えられる。

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図12  アニメ第7話より

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図13  漫画第1巻、ACT10、ページ73より

 【図12】は原作のコマ割りをそのまま再現したシーンであるが、このコマ割りは原作においては、誇張されたキャラ絵からシリアスタッチな絵への移行、表情の変化を見せ、さらにそれを通じて思索する様子や心情的な変化を伝える意図があるコマ割りであり、視点(映像だとカメラ)を固定してその中で変化の動きを追う、コミカルながら映像的な演出といえる*18。通常、漫画でのこのコマ割りを映像で再現しようとすればコマ間の動きを補って入れるか、間に中割りを入れない形で見せるとしてもこの一コマ一コマごとを画面に当てはめてO.L.(オーバーラッピング)などで切り替える手法が考えられる(実際原作の【図13】のコマなどはアニメではコマ間の動きを補う形で処理されている)が、『カレカノ』第七話においては白画面にこの四つのコマを右から順にフェードインさせる形で処理しており、映像の影響を受け漫画で成立した手法が、今度は映像の側でそのまま再現されるという再帰的な現象が起こっている。『カレカノ』が漫画での印象をアニメに落とし込む、という点においては先鋭的な表現を選択しているといえる。

 一般に、漫画のアニメ化に際しては漫画の持つ枠(コマ割りや、漫符や台詞などの記号)を画一的な画面サイズや、音声などのアニメ的な枠組みに添ったものに置き換える処理がなされることで原作漫画の持つイメージが解体されてしまうという側面があるが、こういった処理によりその点が克服されることになる。

 

4.セルアニメに捉われない表現、破壊衝動

 『カレカノ』では第19話で用いられた劇メーション(実質ペーパーアニメ)を初め漫画をトレスした線画、写真、クレヨン画などセルアニメに捉われない様々な素材の絵が用いられている。第12話では親子二人の蜜月が崩壊することの象徴として写真(セル描き)を破る表現【図14】、第8話では「作り物めいた穏やかな日々」を否定することの象徴としてタップ台に置かれたセル画を手で引きはがす表現【図15】がなされる。これらの表現は、いずれも各回において象徴的なモチーフとして用いられ演出上の効果を果たしているが、セル画などの素材をそのまま出すことでアニメーションそれ自体を解体してしまうかのようでもある。GAINAXでの庵野監督の過去作品を見ると『トップをねらえ!』第6話における最終決戦は原画での直接的な表現を越えた想像をかきたてるような線画の止め画で表現され、『ふしぎの海のナディア』第22話ではエレクトラの凄惨な過去の回想シーンがあえてモノトーン手描きでスケッチされて木炭を使ったような風合いの背景になり、あわせて人物も手描きの調子が出たものになった。また、『エヴァTVシリーズ終盤においては制作現場の逼迫状態を示すかのように次回予告にセリフ付きの原画や絵コンテがそのままの状態で使用された。これらの手法はいずれもその場面場面において効果的な演出として機能することを意図されているが、アニメーションの仕組みを解体していくような趣のある表現でもある(特に第25話、第26話における実写や、コンテの絵をそのまま使う手法は制作における時間、労力のリソースがない部分から模索して出て来たものだろうが、「あえてその手法が」選択されたという事実は重視されるべきだと考えられる*19)。

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図14  アニメ第12話

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図15  アニメ第8話

 『カレカノ』の話に戻ると、第19話ではほぼ全編ペーパーアニメの劇メーションが展開され、セルアニメと写真との融合など実験性の高いエピソードになった。そしてEDではまさしくその本編のアニメーションにより作られた世界自体を解体するかのように、本編で使われたセル画が燃やされる映像が使用された。

 また、最終話である第26話は、「殆ど全編が、漫画のコマを映像に移し換えたかたちとなっている。画面の中に漫画のコマのような枠が作られ、キャラクターはその中に配置。色はポイントのみにつけられ、大半がモノクロ。背景も、漫画のように白地か点描、模様等。セリフも大半が、画面に文字で表示されている」*20という「漫画の印象をそのままアニメに落とし込む」というコンセプトを突き詰めたような内容となった。

 ここでは、素材の取り入れでセルアニメの枠を打破したり、アニメーションにより作られた世界の虚構性を露呈させ解体してしまうような処理が行われている*21(なお、アニメーションの仕組みを明かしその虚構性を浮き彫りにするような演出自体は、既に国産第一号のTVアニメである『鉄腕アトム』(1963~1964)において、手塚治虫の原作漫画に準ずる形で視覚的ギャグ表現の一環として行われている*22が、庵野の方がセルアニメーションの素材自体をそのまま出すような所がある点でより先鋭的であるといえる)。

エヴァTVシリーズ放映後の『アニメージュ』のインタビューで庵野はこう述べている。

 「〔引用者注:TVシリーズエヴァ』の〕最終回をああいうふうにしたのは、もう一つ、セルアニメからの解放を目指したということもあるんですよ。頭のカタいアニメファンが、セルじゃなきゃアニメじゃないと、思い込んでいるのもイヤだなって。」*23

 セルアニメ-ションの中に写真や線画など異質なものを持ち込み表現の幅を広げること、アニメーションそれ自体をアニメにおいて解体すること、その場にある限りのリソースを用い最大限効果的な見せ方を行うこと(「完全主義者による間に合わせの芸術」*24)、そしてそれがセルアニメーションに対する破壊衝動と結びついていること、これらは『カレカノ』においても見出された庵野秀明の作家性の一面だったといえる。

 『エヴァ』においては制作現場が逼迫していく終盤にかけて、特に第25、26話には動画枚数が少なくなっていき次回予告においても素材をそのまま出してきているし、これらTV版最終二話における実写や止め絵の手法も制作における時間、労力のリソースがない部分から模索して出てきた所があると思われるが、『カレカノ』の最終回における漫画の再現は動画枚数やリソースが足りないのが理由ではなく明らかに意図的なものである。第一、この手法は、動画枚数は削れてもコストの削減には役立っていないように見える。実際、原作のコマを画面上にレイアウトしてトレスしセル画にした後に通常のアニメの作画作業を行い、なおかつ完成フィルムに後からビデオ編集でテロップ付けをする必要があるためかなり労力を要する手法のようだ*25。終盤において総集編が続くなど制作現場が厳しい条件下で使われた表現もあっただろうが、最終話の漫画再現に関してはコンセプトを突き詰める意図で使われたのだろうと思われる。

 

5.演出手法のまとめ

 『カレカノ』について、漫画に倣い、場所状況を呈示するための背景を前もって出すことでキャラのシーンで背景を極力書かずに心理描写を行う手法、レイアウトを起こす手間をなくすために写真ベースの背景を使用すること、漫画の画面構成や色の印象をできるだけ変えることなくアニメに落とし込むこと、セルアニメ-ションの中に写真や線画など異質なものを持ち込み表現を広げること、またアニメーションそれ自体をアニメにおいて解体する手法などについて触れてきたが、これら以外にも、セリフやキャラクターの顔が滲む心理描写や、BANK(カットの使い回し)の多用が挙げられる。BANKについては、たとえば教室のドアを開閉するカットは基本的にBANKを使用しているがドアを正面からでなく側面から撮っているカットを使っているのでBANKとして汎用性の高いものになっており多用されていた。

 アイキャッチやテロップ出しなどの文字演出もある。フォントに凝ったタイトルや、現代アートを思わせるタイポグラフィアイキャッチなど美的な彩りを加える効果も大きく、漫画のモノローグシーンにおける文字列の並びを再現するようなものもあった。が、基本的に解説や説明を入れたりまた、印象的な語句をテロップで入れて更に強調したりするのは伝達手段として文字情報(さらに言えば音声も)を信頼しているからだろう。

 また、『エヴァ』同様に、岡本喜八監督に影響を受けたというカットの切返しのリズムで見せるというやり方*26も同様に踏襲されているといえるが、各話に参加した演出家の裁量に委ねられている部分も大きい。

 ここまで『カレカノ』において用いられてきた独自の演出手法を列挙してきたが、これらは、実験性が重視されてドラマが寸断されているような部分もあるが、概ねリソースの限られたTVシリーズアニメの制作現場において、なるべく動画枚数や労力をかけない方法論を選択し、その範囲内で最大限の演出効果を狙っているという風にまとめられるだろう。

 ところで、日本のTVアニメーションで主流になっているのは欧米のフル・アニメーションとは異なる形でのリミテッド・アニメーションであり、それは虫プロ手塚治虫らにより導入された手法がもとになっている。「リミテッド」は使える動画枚数が限られているという意味であり、止め絵やBANK、口パクなどの部分的な動きを取り入れることで枚数を削っている。自由に枚数を使えない分、止め絵の効果的な見せ方や映画的な画面構成、BANKシステムなどの独自の表現が編み出されていったことが知られている。

『アトム』は回を重ねるにつれて、“必要最低限の絵だけで物語を語る”独特のスタイルを固めていった。それは“いかに動かすか”ではなく“いかに動かさずにすませるか”という、アニメーションの本質とは逆方向への模索であったが、同時に、“動きのない画面に動きを見せる”という、奇妙な表現への道を開くことにもなったのである*27

 なお、ここで言及されているような、部分的な動きで効果的に見せようとする日本のリミテッド・アニメーションの形式を再定義するものとして、顔暁暉は 「セレクティブ・アニメーション」(クリエーターがある架空世界をうまく表現するための美的選択として、(画面内の)動きを選択的に制限するアニメーション)という概念を提唱している*28。その分類に従えば、『カレカノ』はフル・アニメーション的な部分もリミテッド・アニメーション的な要素も取り込んだ「ミクスト・アニメーション」に該当するのだろうが、最終話で選択された、漫画の絵を切り替えて見せていく手法などは「エクストリーム・リミテッド・アニメーション」に当たるといえる。またこれまでにみた、シリーズを通して行われている演出法もセレクティブ・アニメーション的手法を突き詰めたものと見ることが出来る。

 日本のリミテッドアニメにおける一理念である「いかに動かさずに済ませるか」(そしてその中でいかに効果的に見せるか)という思想(「セレクティブ・アニメーション」と読み替えられる)は、『エヴァ』においても止め絵の効果的な使用、場面つなぎの動きの省略、口パクの省略などで追求されており、それに対して霜月たかなかは「“動きのない場面に動きを見せる”必要性そのものを、切り捨ててしまった」と指摘している(いわば、“動きのない場面に動きを見せる”を逆転の発想で克服しているといえる)が、先に触れた、漫画に倣った背景の呈示の仕方や、漫画の画面構成や色の印象をそのままのアニメに落とし込み静止画のスライドで見せることなどを通じ、漫画的な手法や見せ方を導入することによって、『カレカノ』においてはそれがより極まった形で実現していると考えられる。漫画における手法をなぞることが最小限の手間で高い効果を与えることに繋がったため、そうした演出上の効率論が「漫画の印象を映像上で再現する」というコンセプトと結びついた形で成功しているといえるだろう。

 また、セレクティブ・アニメーションにおいては、動きの面では制約がある分、カメラワークやモンタージュを用いて静止画や動きを効果的に見せることが重要となるが、 映像のリズム感を作り、シーンやキャラを演出し、更に物語をより理解し易いものにするために台詞を含めた音響面が重要となる。『カレカノ』での庵野はほぼ全話の脚本に加え音響監督も兼任しているが、台詞を含めた音響面を監督である庵野がコントロール下においていたというのも極めて重要であるように思われる(実際には『カレカノ』で庵野が音響監督を務めていたのは、『式日』後に行われた林原めぐみとの対談における「アニメーションは、アフレコから先の感覚だけは実写に一番近いね」「音の作業は、実写に感覚が近い。」「絵に対して、肉付けとか、厚みとか、そういう部分は生の声に頼らざるをえない」 などの発言*29に表れているように、庵野監督は、「リアルさ」「生っぽさ」と言うことに関してアニメの限界を感じており、そこでアフレコでの声優の演技や音響の面でそれを克服しようと考えていたこともあるだろう。また、芝居や演劇のような部分を持ち込もうとしていたことも大きい*30)。

 なお、いわゆるリミテッド・アニメーションにおける制約下において時に実験的な手法がとられるという点からは庵野や手塚だけでなくアニメ史的には、画面分割や、ハーモニー処理や三回PANなどの止め絵の効果的な見せ方を導入した出崎統や、制作的な条件から画面の平面的な構成、奇抜な色遣い、カッティングのリズムで見せる手法をとった新房昭之も挙げられるだろう。たとえば新房昭之も漫画原作のTVアニメを多く手掛けているが、独自の演出コードで原作漫画を読み替えるものも多かったのに対し、庵野の『カレカノ』は漫画のテイストをそのまま持ち込んでいる点で際立った対比を成しているといえる。

 

*1:トーマス・ラマール『アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-』藤木秀朗監訳、大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、2013年、p.236

*2:月刊アニメスタイル 第6号』(スタイル、2012年、p.138)において、『カレカノ』に主要スタッフとして参加した今石洋之は「『カレカノ』は、マンガをそのままアニメ化しようという庵野(秀明)さんのコンセプトがありましたから。アニメと違って、マンガは色がないとか、背景がないとか、文字が出るとか、コマ割りがあるとか、そういうことをアニメでも表現してやろうという命題があった」と述べている。

*3:小黒祐一郎『アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい 2001-2002』、講談社、2011年、p.337~339

*4:同書、p.337

*5:同書、p.337

*6:「エンディング調査隊」『彼氏彼女の事情カレカノパラダイス〜』 http://karekano.gravi.info/survey.htm (2014年6月27日閲覧)

*7:WEBどうかんやまきかく「現実と非現実の彼岸、その少女マンガ的表象 または、「劇メーション」再考」『彼氏彼女の事情 雑記四篇』1999年

*8:同書

*9:吉原有希『ドキュメント『ラブ&ポップ』』小学館、1998年、p.115

*10:岡田斗司夫オタク学入門』新潮社(新潮文庫)、2008年、p.44

*11:同書、p.44

*12:月刊ニュータイプ』1998年10月号(角川書店)の幾原邦彦との対談より

*13:佐野亨 編『アニメのかたろぐ』、河出書房新社、2014年、p.27

*14:小黒、前掲書、p.338

*15:平松禎史Twitterでの発言より https://twitter.com/Hiramatz/status/364296348671025152 (2014年6月27日参照)。こちら http://togetter.com/li/544546 からも参照できる。

*16:小黒、前掲書、p.339

*17:竹熊健太郎「デジタルマンガの現在」、『ユリイカ』2006年1月号(38巻1号)、青土社、p.185

*18:秋田孝宏「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』(NTT出版、2005年、p.168~170)においては、漫画における、固定された構図のコマを並べることによる動きの示し方とそれに対する映画からの影響について例を挙げて説明されている。

*19:長岡「島編とエヴァのあいだ」『灰かぶり姫の灰皿』 http://d.hatena.ne.jp/c_a_nagaoka/20070610/1181480425 (2014年7月12日参照)

*20:小黒、前掲書、p.378

*21:カレカノ』第一九話の劇メーション処理などがアニメ世界の虚構性を露呈させること、そしてその意味付けについては、先に引用したWEBどうかんやまきかく「現実と非現実の彼岸、その少女マンガ的表象 または「劇メーション」再考」(『彼氏彼女の事情 雑記四篇』所収)でも触れられている。

*22:顔暁暉「セレクティブ・アニメーションという概念技法」山本安藝+加藤幹郎訳『アニメーションの映画学』臨川書店、2009年、p.292~295

*23:「あんた、バカぁと、言われてみたい。」『月刊アニメージュ』1996年7月号、徳間書店

*24:吉原、前掲書、p.132. 庵野秀明の制作姿勢を評して言われた言葉。

*25:平松禎史Twitterでの発言より https://twitter.com/Hiramatz/status/364379722584559618 (2014年6月27日参照)

*26:「『新世紀エヴァンゲリオン』をめぐって」『STUDIO VOICE』1996年10月号、INFASパブリケーションズ

*27:霜月たかなか「アニメよアニメ!おまえは誰だ」『ポップ・カルチャー・クリティーク 0. 『エヴァ』の遺せしもの』、青弓社、1997年

*28:顔、同、p.272. なお、著者である顔はこの論中でリミテッド・アニメーションについて考えるにあたっては、必ずしも虫プロ以降の日本のリミテッド・アニメーションに捉われない、一般的な意味でのより広いリミテッド・アニメーションを念頭に置いている。

*29:庵野秀明庵野秀明のフタリシバイ―孤掌鳴難』、徳間書店、2001年、p.247

*30:同書、p.73. 『カレカノ』について、「芝居っていう部分をちゃんとやりたい」との発言がある。

好き/嫌いに対する私の立場

未だに、自分の好きな作品を貶されると死ぬほどムカつくし、自分にとって何の価値も見いだせない/あるいは嫌いなものが褒められているとイライラしてしまう。こればかりは本当に成長しない。

 

本当はそのような状態からは脱した方が良いのかもしれないけれど、一方で、これは人間だから(そのような認知を持つのは)ある程度しょうがないとも思う。作品に強い思い入れを持つオタクの人は、特にそうなのではないだろうか。

 

ただ、人に対して「私の気分が悪くなるから作品を批判しないで」とは全く言えないし言いたくない。自分にとっての「好き」が相手にとって「嫌い」であるというのはごく普通にあり得ることだし、「嫌い」を口にすること自体は全く悪いことではない。

 

その代わりに、相手が自分の好きな作品を批判した場合には、(ある程度相手にも共有され得る根拠をもって)正当に反論します。「好き」「嫌い」はあくまで個人に帰属するものですが、「批判」や「称賛」は客観的な次元の話であり、それについてはこちらから反論する余地があります。そのように処するのがフェアというものでしょう。

 

それが好きな作品に対するdisであっても、正当な批判であれば甘んじて受け入れなくてはいけないし、時には、自分のその作品に対する評価を考え直すことにも繋がります。ただ、不当に貶められた場合には当然反論したくなるし、反論するのが正しい。

 

「好きなアニメの批判を聞かされたためにアニメを見れなくなった」「アニメを批判するのは正しくない」と言い出す人が前にいて、togetterにもまとめられていたけれど、それはそもそも自分の中で作品への見方や価値観が確定されてなさ過ぎだと思います。「好きなものを否定されるのは悲しい」こと自体は感情として理解できるけれど、自分の見方を持てていればそこで自信を失わなくて済むはずだし、そこで相手に反論したり、自分に納得させたり、あるいはその怒りをモチベーションにして創作に励んだりできる。

 

 「アニメ見れなくなった」までは仕方ないにしても、「批判されたせいでアニメを楽しめなくなったから、作品への批判をしないで」は流石に身勝手すぎるし、オタクとして以前に人間としてどうかと思う。「(自分にとっての好き嫌いも含め)正しい評価を下す」という権利を人から奪ってはいけないし、批判それ自体はそもそも悪いことではない。

 

逆に、「好きな作品の話だけする」「高評価しか付けない」レビュワーやブロガーの人はあまり信用できないようにも感じている。「好き」「嫌い」であったり「ここはいいけどここは悪い」といった部分にはその人の基準や考え方が表れており、そこが見えてこないと、何にでもとりあえず高評価を付けるのかなと思ってしまう。実際、嫌いなものを語るときの網の目が細かいレビュワーの方が、褒める際のレビューも信用の置けるものであることが多いです。

 

そもそも、「好き or 嫌い」「良い or 悪い(評価に値する or 値しない)」「面白い or 面白くない」はそれぞれ別の評価軸であり、本来は弁別して然るべきものです。

「これは嫌い」と言われたからといって、それは「その作品は(客観的に見て)評価に値しない」と言われているわけではないし、そこが分かれていないと、「批判すること=嫌いを述べること=やってはいけないこと」になってしまうのだと思う。

また、客観的な見地から悪い評価を付けられたからといって、自分にとっての「好き」が否定されたわけではないし、それを不当な評価だと感じるのであれば反論することができる。

 

なので、これら三つの基準をごっちゃにして、「嫌いなものの悪口をとりあえず言いまくる」といった振る舞いをする人がいたら、その時はその人のことは「害悪」と認定して全く差し支えないと思う。

 

「嫌いなものを語るのは良くない」「人が好きなものを批判するのは良くない」は作品に対する正当な批評、公正な評価の敵であり、それを人に対して強要するのは本当に良くない。

(アニメや映画についての評論をやっている人が「悪い評価を口にするのはやめています」とオープンに発言したり、「批判的なことを言うのはいけないことだ」という不条理な言説が支持を集めたり、作品に対し批判的なコメントを発した著名人のことを、その内容を吟味することもせずに皆で一斉に叩いたり、といったことが日常的に起こっているのが日本の言論空間の現状です。それはもしかすると和を重視し、ディスカッションを忌避する国民性に由来するのかもしれませんが、そういった民族学的な考察についてはひとまず措きます。)

 

不当に作品をdisられた場合はこちらから反論しましょう。正当な評価であれば甘んじて受け入れるか「相手は相手、自分は自分」と割り切りましょう、そうすることで自分の精神も保てるのではないかと思います。

『バトルアスリーテス 大運動会』5話のちょっとした技巧

昨年も記事で取り上げた作品だけれど、『バトルアスリーテス大運動会』(TV)5話にこれは!と思う描写があったので書いておきたい。なお展開は割とネタバレしてます。

 

バトルアスリーテス大運動会』(TV版)のあらすじについて一応述べておくと、

西暦4999年、世界最高クラスのスポーツエリートたちが年に一度の「大運動会」に参加し、王座に輝く宇宙撫子〔コスモビューティー〕を目指しトーナメントを繰り広げている世界。その登竜門となるのが衛星軌道上に位置するスポーツ専門大学「大学衛星」へ進学することであり、その大学衛星に進学する生徒を選り抜くために設けられた訓練校から話はスタートする。

主人公である神崎あかりは宇宙撫子の母を持ち、競技について天性の資質を秘めているのだけれど、物語開始時点においてはまだ才能を開眼させておらず、競技でも万年ビリの意気地なしで、弱音ばかり吐いている*1

臆病をこじらせまくった結果「あかりハウス」と書かれた段ボール箱を常に持ち歩いており、何かくじけそうなことがあるとすぐにその中に籠って隠れてしまう。

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そんなあかりを献身的に支えるのが関西出身の柳田一乃である。あかりの体たらくに対し普段は容赦なくツッコミを入れるものの、主人公のことを思って何かと面倒を見てくれるいわゆるツンデレキャラであり、声優を担当した久川綾さんによる関西弁の演技もこのキャラのパーソナリティに絶秒にマッチしている*2

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さて、本題に移ると、5話ではあかりは訓練校でトップの成績を持つジェシー・ガートランドに対戦を申し込まれてしまう。

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あかりの母である伝説の宇宙撫子・御堂巴を崇拝するジェシーは、その血を受け継いでいながらヘタレで弱い存在であるあかりのことが許せず、激しい敵意を抱いているのだ。あかりはこれまでで最大の苦境に立たされたと言っていいだろう。
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ジェシーから激しい叱責を受けた末に一騎討ちを申し込まれてしまい、またも落ち込んだあかりはやはり「あかりハウス」に籠ってしまう。

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そこで、普段はつれなくあかりを叱責している一乃も今回ばかりは見かねて、普段は見せない側面を見せ、あかりに諭すようにして、素直な激励の言葉を飛ばしてくれる。

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言葉を言い終えた一乃はあかりに呼び掛ける。
「出てこい、あかり」

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だがここで、その声を聞いていたあかりが横のトイレから登場する。あかりは実は「あかりハウス」の中におらず、たまたまトイレに入ったタイミングで段ボール箱を外に置いていただけだった。あかりは一乃の励ましの声を、トイレの中から聞いていたのだ。

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あかりは感激してトイレから出て来て一乃に抱きつき、涙ぐみながら、めげずに頑張る意志を伝える。

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だがそこでシリアスなムードになるかと思いきや、

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ハッとした一乃が「お前ちゃんと手洗ったんか?」とあかりに訊き、「あっ…」「ドアホー!!」とそこでギャグに流れるのだった。

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さて、一通りの流れを全部書いてしまったが、このシーンの流れで優れているのは
あかりが一乃の激励を「あかりハウス」の中から直接聞いているのではなく、トイレにいながら傍らで聞いていたということである。

あかりがこの激励を「あかりハウス」の中で直接聞いていたとするとどうだろう。確かにそれでもやっていることは変わらないのだが、それはこれまで何度も繰り返されてきたことであり、劇的な要素に欠ける。ここで「それまで100パーセント弱気だったあかりが行動を変える」ためには、それだけの説得力を持つ描写が必要になる。

一般的に、我々の中には刷り込みとして、「対面での会話で口にする言葉は必ずしも真実であるとは限らない」という発想があります。相手の前だと気を遣って真実を言わないか、打算が入るため都合の悪い部分を抜かしてしまったりする。

 

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自分がいない場所で、自分に関して口にされる言葉に人はとても敏感です。第三者である自分に対する気遣いがなくなることで、往々にして「相手が本音では自分をどう思っているか」を知ることになる。それが陰口であれば相手への信頼が一挙に崩れ、それが誉め言葉であれば相手からの確かな信頼を感じられることでしょう。「相手の言葉を陰から聞く」というシチュエーションには確かにそうした決定的な作用があります。そしてその効果をこの展開は活かしているのではないか。

 

ただ、それだけだと例えばここで一乃が他の人に対してあかりの話をするところをあかりが聞いていたという描写でもいいはずだけれど、その場合は効果が半減してしまうだろう。ここでのあかりは外ならぬあかり本人に対し激励の言葉をかけているのであり、そうであるからこそあかりは一乃の真っ直ぐな言葉に心動かされ、反応を返すのだ。

 

繰り返しになるが、このシーンにおいて行われていることは「一乃があかりを叱咤激励し発破をかける」「あかりはそれを聞いてやる気を取り戻す」の二つであり、それはこのシーンを「一乃が直接面と向かってあかりを励ましている」シーンに置き換えても、やっていることは何も変わらない。

しかしあくまでその二つの要素は保ちながら、「あかりが一乃の言葉を隠れて盗み聞きしている」という風にワンクッション置くことで、ここでのあかりの心変わりを説得力を持って描くことに成功しているのである。

 

また、あかりがトイレから登場することは一乃にとってと同時に視聴者にとってもサプライズにあたり、ここでの一乃と同様に視聴者も意表を突かれ、半ば強引な形で展開を受け入れざるを得なくなる。その驚きの要素が、こうした展開を退屈させない、刺激的なものにしてる。

それに加えてシーン最後にはしっかりとオチまで付けて、湿ったムードになり過ぎないように計算もされていることが分かる。

(ちなみに、ここでギャグに流れるのは、このアニメがラブコメとしての要素を持っているからだろう。つかず離れず、友達以上恋人未満の状態を持続させ、それを完結させないまま常にサスペンスを生み出すことがラブコメの主題である。)

 

5話の脚本は黒田洋介さん。

こうした展開をさらりとやっているところに、黒田洋介という脚本家の、シチュエーション作りの上手さが表れていると思う。

さて、もう少し話を進めたい。

このシーンの説明の最初に「落ち込んだあかりは『あかりハウス』にこもってしまう」とただ書いたけれど、ここには誤魔化しの要素が入っています。

というのも、「あかりがジェシーに対戦を申し込まれるシーン」から、この「一乃があかりを叱咤激励するシーン」の間には二つのシーンが入っており、それは「1.あかりが部屋で一人落ち込んでいるシーン」と「2.王鈴花が二人の勝敗で賭け商売をしようとするのをジェシーが止めるシーン」である。

1.

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2.

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1.のシーンを見ていると、対戦を申し込まれたあかりが「自分の部屋で一人で落ち込んでいる」ということが分かるので、「あかりが外であかりハウスに籠って落ち込んでいる」というシーンが出てきたときに、冷静に考えるとそこには不自然なところがあるはずである。なので、「実はその中にはいなかった…」という展開が後に出てきたときに、それをよりスムーズに受け入れることができるだろう。


実際には、「あかりがあかりハウスに籠って落ち込んでいる」シーンの最初には、あかりハウスの前を通りかかった一乃が「こないなとこにおったんか。」とあかりに対して呼び掛けるセリフがあり、つまり「一乃はあかりハウスを偶然に見かけて呼び掛けた」という描写になっている。


これはたとえば小説のような媒体で文章に起こしてみると、「あかりがあかりハウスに籠っているのを一乃が見つける」という描写が入ったときに一気に不自然さが明るみに出るだろう(何故そんなところにあかりハウスがあるのか?となる)。しかし映像作品では、「あかりハウス」を映像に出してしまえば否が応でも視聴者はそれに説得されてしまい、一乃と同様にこのシーンで勘違いを起こしてしまう。

そしてその上で、2.のシーンが挿入されているのは効果的だ。1.のシーンと、「あかりハウスに籠るあかり」のシーンの間に別の挿話が入ることで、二者はダイレクトには繋がらないため、これも不自然なところを軽減するのに役立っている。


脚本上の展開についてこれまで述べてきたれど、このシーンにはもちろんのこと演出も必要十分に貢献している。
あかりがあかりハウスの中にいないことが分かるシーンで、それまでのカットにおいてはトイレのドアを示す「W.C」の文字をさり気なく画面内に入れることで、次に続く展開が不自然なものにならないように布石を打っている。

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一乃があかりハウスを階段手前で見かける箇所についても、カメラが右から左にPANするのに合わせて一乃が画面左からフレームインしてくることで、ここで突然に出て来るあかりハウスを画面内にさり気なく位置づけることに成功している。これらはシナリオ上での仕掛けを活かすための演出として位置づけられるだろう。

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絵コンテ:村田雅彦/演出:小村敏明


バトルアスリーテス大運動会』はシリーズを通してとても充実した内容だったけれど、あかりと一乃、ジェシーとアイラたちの生々しい気持ちのぶつかり合いが描かれている前半が特に好きだ。
シリーズ構成を務めた倉田英之および、黒田洋介両氏のシナリオが展開に弾みをつけ、感情の生々しさやキャラクターの魅力に貢献しており、両氏は他作品でも見るべき仕事を多く残していると思う。

*1:なお、OVA版のあかりは初登場時から大学衛星の新入生代表でありほとんど真逆。

*2:久川綾さんの関西弁キャラで実質的にケロちゃんであり神尾晴子であり保科智子

大月俊倫さんと『ラブひな』、『残酷な天使のテーゼ』の作詞

皆様いかがお過ごしでしょうか。2018年とは何の関係もない話題です。 

 『アニひな : TVアニメ「ラブひな」ナビゲーション ver.1』を読んでいたら、監督の岩崎良明さんとプロデューサーの大月俊倫さんが対談している記事があった。

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大月俊倫さんと言えば『エヴァンゲリオン』のプロデューサーとして有名で、 キングレコードに所属しながら『少女革命ウテナ』や『機動戦艦ナデシコ』『スレイヤーズ』に製作として関わった伝説的な大物プロデューサーである(現在は引退している)。

また、岩崎良明さんものちにJ.C.STAFF美少女アニメのキープレイヤーとして『ゼロの使い魔』や『ハヤテのごとく!!』を監督し、2019年には『ぼくたちは勉強ができない』を監督することが決定している実力派だ。

さて、この対談の中で、大月さんが『ラブひな』OPテーマの「サクラサク」(作詞作曲:岡崎律子、歌唱:林原めぐみ)について語っている箇所が面白かったので紹介してみたい。

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景太郎がね、自殺するんだよ(大月)」という衝撃の見出しが目を引くが、

OPテーマ制作にあたって大月さんが岡崎律子さんにオーダーした内容がここでは述べられている。長文にはなるがここで引用したい。

大月まず詞と曲は岡崎律子さんでやりたい、というのが私の中でかなり初期からあったんですよ。じつはね、『ラブひな』のアニメ化を決めたとき、私が勝手にイメージしていたストーリーがあるんです。その話ってのは、景太郎がね、自殺未遂しちゃうんです。なんとか命は助かるんだけど昏睡状態に陥って26話分の夢を見るんだけど、その夢にはお爺さんが出てきて、回を重ねるごとに人数がどんどん増えていくわけ。それは要するに死者の世界から生者の世界に景太郎を呼び戻す役目の人なんですよ。

岩崎:その話は今日はじめて聞きました。で、景太郎はどうして自殺したんですか?


大月 :つまりね、女の子にはモテないし浪人するし、将来に絶望してなんですよね。でも26話分の夢を見て死者の世界と生者の世界を行き来しているうちに「生きるとはどういうことか」を理解していって、それて「生きなければ!!」と悟ったところで目が覚めるわけ。そのとき、夢だったはずのひなた荘の住人が景太郎を囲んでいて景太郎をみつめている、そこでパッと終わるっていうのが私なりに考えた構成なんですよ。じつは岡崎さんには原作を読んでもらう前にこの話を説明したんですね。そしたら、すごく感動してくれて、ここからオープニングとエンディングのあの2曲ができたんですよ。歌詞の中で「手を伸ばして」とか「祝福の時は来る」って言葉があるけど、それは生者の世界から、なるたちが手を伸ばして景太郎を招いているということなんです。

だからね、アニメの主題歌の作詞や作曲を依頼するとき、原作を読ませるとかってのはナンセンスなんですよ。作品のコアのコア、真っ赤な溶岩みたいな部分をグッと相手に手渡すしかない。私は他の作品でもこういう方法でやってますし、私が担当したアニメの主題歌が内容と合っているともし評価されるとすれば、こういう方法を採用しているからなんだよね。

 作品のエッセンスとして聞かせる内容が、原作にはない完全オリジナル設定というのもすごい話ですが、それがまたなんか凄く…『エヴァンゲリオン』ぽさがあるというか……。

大月さんのような、作家性の強い名物プロデューサーは、今の時代だと少ないでしょうね。そしてこの対談での発言通り、「サクラサク」の歌詞にはこの裏設定が反映されている。

途方に暮れた昨日にさよなら
ふつふつと湧きあがるこの気持ち
何度でも甦る 花を咲かせよう
思い出はいつも甘い逃げ場所
だけど断ち切れ 明日を生きるため
祝福の時は来る 手をのばして

「思い出はいつも甘い逃げ場所 だけど断ち切れ 明日を生きるため」もそう考えると意味深な内容であると言える。

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ちなみに、大月さんがここで話してるお爺さんたちは、実際にアニメ版でよく登場している。ただ、岩崎監督は当初の裏設定知らなかったという話なので偶然か?赤松さんの原作でどうだったかは自信ない。


ともかく、私がこれを読んで思い当たったことは、大月さんはレコード会社のプロデューサーとして音楽面で多くのアニメに関わっているが、(この対談が行われた2000年の)時点ではそういったポリシーを持っていたのだとすると、『エヴァンゲリオン』の主題歌作成にあたってもそういった方針を採用していた可能性が極めて高いのではないか。

TV版 『エヴァンゲリオン』のOPであり、現在でも高い人気を誇る「残酷な天使のテーゼ」について、作詞を担当した及川眠子さんは「企画書と最初の2話を早送りで見て2時間ほどで書き上げた」と数年前に暴露して物議を醸していた。

getnews.jp

otapol.jp

interview.utamap.com

残酷な天使のテーゼ - Wikipedia

これらによると、

キングレコードのプロデューサー(大月さんのことだろう)から『哲学的な』『難しい歌詞にしてくれ』と作詞の依頼を受けた」といったことや、「未完成の第2話までのビデオと企画書のみを渡された状況での発注であり、ビデオは早送りで視聴、企画書も熟読することはなかった」といったことが及川さんの口から語られている。

また、作詞家と作曲家とが一度も会うことなく制作された歌であることも分かる。

そして歌唱を担当した高橋洋子さんも、レコーディングの時点では、アニメの内容を全く知らされておらず、「オープニング映像も、第1回の放映を自宅で見たのが初めて」だったという。

 これらの内容から、プロデューサーを担当した大月さんを批判する向きもあるけれども、大月さんは「原作を読ませるといったことはナンセンス」「作品のコアの部分のみを伝えるべき」というポリシーに基づくことであったのかもしれない、と考えられる(それだけでは説明つかない内容もあるけれども)。

大月さんのポリシーは、畢竟すると「あえて作品の全体像を提示しない」ということでもあったのだろう。おそらく、それによって、音楽を制作する側にはある程度の自由さを与え、感性を働かせる余地を作り出す*1。もっとも、『エヴァンゲリオン』での関わり方は特殊であっただろうし、他作品ではもう少し踏み込んだ形で楽曲を作成させていると思われる。

庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン
 

 『スキゾ・エヴァンゲリオン』によると、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』において大月さんが関わった内容としては、主に企画を通す段階で設定とか内容についての話があった、そして制作会社選びの交渉を行い、プラス25話と26話(有名な最終話)のネタ出しに関わったことが述べられている。

ただし、庵野さんが大月さんの前でエヴァの話をあまりしたがらなかったので、制作中には(大月さんは)作品には一切不介入であったらしい。

その代わり、制作中は会うたびに観念的な話や社会情勢の話で駄弁っていたとのことである。

(こうしたことはそれほど役に立っていたいう風に見なされないけれども、プロデューサーや編集者の役割として、「クリエイターの思考を触発する」という一面があることを考えると、間接的に役割を果たしていたといえるかもしれない。)

なので、エヴァの場合は、大月さんのポリシーというのとは別に、結果的に(主題歌についても)関わり方がそのようにそうなっていたという可能性はある。

残酷な天使のテーゼ」の作詞と大月俊倫さんの関係について、そのようなことを考えたのでした。

 

◆これだけではやや物足りないので、もう少し記事に内容を加えます。

大月さんの旧『エヴァ』以降のフィルモグラフィを見てみたい。

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シスプリ』『ぱにぽにだっしゅ!』『ネギま!?』などは顕著だが、「女性声優が多人数出る」ような美少女アニメを多く手掛けていることが分かる*2

 「美少女キャラいっぱい出して、キャラソンやエンディング、挿入歌をそれに合わせて多数展開する」という手法を活用していると思えないだろうか。

 『シスタープリンセス Repure』などはとくに、各ヒロインごとにエンディングテーマが用意され、しかも声優や歌手の名義ではなく「ヒロインが(キャラの名義で)エンディングをうたっている」という形式を採用していた。

 今では浸透している手法であるけど、これについては『シスプリ』が先鞭をつけたのではないだろうか(これ以前にもあるのかもしれないが)。

 

それでは、2018年はお世話になりました。2019年もよろしくお願いします。 

キネ旬総研エンタメ叢書 アニメプロデューサーの仕事論

キネ旬総研エンタメ叢書 アニメプロデューサーの仕事論

 
 
 

*1:オタクの人はどちらかというと「本編の内容を深く理解して作られた歌詞」を褒める傾向にあると思うので、その真逆と言えるかもしれない。たとえば『AIR』や『リトルバスターズ!』といったKEY作品の歌詞は、本編の内容を反映した歌詞になっており、歌詞の内容を解釈することでストーリーをさらに読み込むことができる。他方で、そういった方向に頼らずにテーマソングを作る方法論も存在するのだと言える。

*2:加えて『ラブひな』繋がりで言えば、堀江由衣さんの参加しているアニメが多く、岡崎律子さんが主題歌を担当した作品もいくつか入っている

映画『若おかみは小学生!』/反射についてのメモ

冬コミケの季節ですね。私は京都大学アニメクリティカさんのところの新刊に映画『若おかみは小学生!』についての記事で参加しています。

映画『若おかみは小学生!』の経済性についての試論

というタイトルで、あの映画の脚本ないし演出が、いかに効率的に物語を伝えているかといったことについて書いています。

 手に取って読んでいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。私としては、ほかの方の寄稿記事も楽しみです。

さて、経済性については上記の記事で書いたのですが、そこで書けなかった内容として、今回は反射について書こうと思います。

最後に劇場で見たときにこういうツイートをしたのですが、これだとあまり上手く説明できてないなあと思っていました。

これはDVDソフトが出るまで待ちかなと思っていたのですが、先日『講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!』(原著:令丈 ヒロ子、著:斎藤 妙子)に当該カットのキャプチャが載っているのを発見した(!)ため、以下に引用します。

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元ツイートにあるように、これは両親を亡くしたおっこが祖母のお世話になるため花の湯温泉に電車で向かうシーンで、窓ガラスの反射に映るおっこの表情と、おっこが見ている(と思われる)親子連れ三人の反射した姿も画面に映り込んでいます。父母を亡くしたおっこが、両親と話している子どもの姿を見ており、言うまでもなく両者は対比されています。

さて、先ずはこのカット、改めて見るとめちゃくちゃ層が入り組んでるんですよね。映っているものの種類ごとに分けるとおそらく以下のようになっています。

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 画面内にあるもののうち、実物が映っているのは手前にいるおっこの頭のみです。おっこの表情と、反対側の座席に座っている親子連れは窓ガラスへの反射で映っています。そして向かい側の窓ガラスに映っている親子連れの姿も、二重に反射して映り込んでいます。それに加えて、おそらく窓ガラスに透けてトンネル内のケーブルが映っています(この像はおっこの頭にもかぶさっているので反射ではなく透過で合ってると思う)。

四種類のレイヤーが一つの絵の中に重なって映っているという手の込みよう。このカットが発揮している効果としては、以下のようなものが挙げられるかと思う。

まずは

反射を使うことで、親子連れとそれを見ているおっこの表情とを(切り返しを使わずに)一つの画面の中に収めている。

ここで窓ガラスの反射を使わなければ、窓側にカメラを設定しておっこの頭をナメる形で親子連れを映す必要があり、それだとおっこの表情が映らない。おっこの表情を映すためにはカットを割って「親子連れ」→「おっこの表情」と2カット使う必要があり、それだとこのカットの持つ抒情性や、さり気なさが失われる。

親子を見ているおっこのアンニュイな表情と、親子の姿とを一つの絵に収めることで浮かび上がってくる情緒というものがあると思う。

また、厳密には「見ている」のではなく、「見ているように見える」というのもポイントで、観客が想像力を伸ばす余地をそこに与えている。

もう一つの効果としては、

親子三人の姿を反射を通して映すことで、ここでのおっこにとって「親子連れ三人」というイメージは失われてしまったもの、不確かなものになっていることを示す。

というのが挙げられる。

鏡面反射ではなく、窓ガラスへの反射・映り込みを通して何かを映すと、被写体は(透過率50パーセントくらいの)半透明な姿でそこに映り込む。つまり、直接映せばはっきりした形でそこに表出するものが、反射を通して映せば、どこかぼやけて不確かなイメージと化す。虚構や空虚さといったものをそこに付与することが出来るのだ。

父母を亡くしたおっこにとって、その姿はぼやけた虚像*1として感じ取られているような印象を与える。

しかも、(私の記憶が正しければ)この次のカットでは、電車がトンネルから出て窓外の景色が明るくなったところで、この反射は消えて、窓ガラスには鏡像のおっこだけが映るようになる。

このカットの流れには、本作の全体としてのテーマが反映されているように思えないだろうか……?

事故で両親を失った後も「幽霊と化した両親」と交流することができるけれども、やがてトンネルを抜けて明るくなるように変化することで、漠然とした像であったそれは消える(そして自分の姿が残る)。そういうことを語っているように見える。

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そもそも映画内において幽霊たちは透けた形で出てくる不確かな存在だ。だからこそ両親が常に実在のもののように出てくることに不気味さがあるのだけれど、幽霊と化した両親も幽霊たちと同様に、異界の存在である。最後におっこは両親および幽霊たちといった異界の存在と別れ、そこでホワイトアウトして映画は締めくくられる。

私の深読みや勘違いかもしれないけど、こういうさり気ない描写によってテーマが散りばめられているのだとしたら、それはとても芸が細かいことであると思う。

もちろん、こういったカットを見て観客が即座に「これはこういう意味で~」みたいに意識的に理解するわけではないだろう。しかしこういった表現がサブテキストとして細かに散らされることで、無意識に刷り込みが行われ、映画全体のテーマに説得力を与えていく。

そして本作は、反射・映り込みの表現の精緻さが注目を浴びた作品でもあった。

これについては勿論、作品内の世界のリアリティの底上げする効果があると考えられるけれど、他方で、鏡像を多く使うことで生・死の境界の不確かさや、異界への通じやすさといったイメージを際立たせる効果もあるのではないだろうか。

それでは追加で、他のカットでどのように反射・映り込みが使われているかを、先述の『講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!』に載っているキャプチャで確認できる範囲で見ていこうと思う。

先述のカットの前に出てくるカット(本からキャプチャをトリミングしてしまったので端が変になっていることはご容赦ください)。

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こちらは窓外の景色が窓全体に反射して映っており、それを見ているおっこの表情が同時に透過で映っている。窓内と窓外の両方の像が重なっており、こちらもカットを割らずに、見ている主体と見られているものとを映すことに成功している。おっこが思いに沈んで、目から見た景色が漠然としたイメージとして映っていることを示唆しているようでもあります。

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こちらは旅館に着き、自分の部屋に最初に入ったときのシーン、ウリ坊を見つける直前あたり。

写真立てに入った両親の写真(の上のガラス板)に、挿し込んだ光によって窓枠が反射で映り込んでいる。これによって、両親の姿が半透明なものに見える(実際には透明ではない)ようになっている。観客に対し、両親の「幽霊のような姿」を印象づける効果があるだろう。

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水領さんの車に乗って買い物に行く途中、おっこが事故のPTSD過呼吸に陥り、その後おそらく車中で休ませてもらっているところ。

サイドミラーにおっこの表情が映り込む。こちらもおっこの表情と、おっこにとって見えている両親の姿とを同時に映す経済的なレイアウト。死んだ両親の姿がナチュラルに見えているが、「サイドミラーのおっこ」が同時にフレーム内に映っていることで、それがあくまでおっこの視線を通じてだけのものであることが強調される

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おっこが水領さんに初めての浴衣を着せてあげるシーンにアクセントを加える映り込み。この水晶玉の表現はびっくりするほどキレイでしたね。こちらも二重に像が映り込んでいる手の込みよう。

レイアウトの意図を汲み取るならば、幽霊の存在を感じ取れるおっこと、霊能はないが占い師である大人の水領さん、二人の存在の重なりを印象づけることでしょうか。

それほど数は確認できませんでしたが、映画全体において、反射の表現がときに意義深く用いられているということは言えるでしょう。

 

反射・映り込みという表現一般について振り返ると、そもそも反射というのは現実を直接映すのではなく間接的に像として見せることで、歪められたリアリティをそこに現出させる神秘的な技法でもあります。

下の画像はジェレミー・ヴィンヤード『傑作から学ぶ映画技法完全レファレンス』(2002年、フィルムアート社)より。

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古今東西の映画やコミックで用いられている技法であるとは思いますが、

殊に日本アニメにおいて、反射という表現の持つ神秘性を哲学の域にまで高めたのは、よく知られているように押井守さんの『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だと思う。

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頻繁に出てくる水面への映り込みや、光の反射の表現。

それら表現が個々に象徴的な意味を有しているというよりは、作られた虚構の世界/夢と現実というテーマに沿った描写が、映画全体にサブテキストとして散りばめられている。それによって、地と図の反転によって境界があいまいになる、あるいは夢のような形で世界を現出させるという主題に結びつく。

そして日本アニメの後続の作品においては描き出された仮想の現実、箱庭的な虚構の世界といったものを表現する際には、(押井さん自身のものも含めて)鏡面反射・映り込みというモチーフはしばしば用いられるようになった。

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機動警察パトレイバー 2 the Movie』
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劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』
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『SSSS.GRIDMAN』#09

加えて、今敏さんのこれも印象深い。

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自我同一性、夢と現実の境目の揺らぎをテーマにした『パーフェクトブルー』は鏡面反射を使った表現の見本市のような作品になっている。

左の方は未麻が部屋で自身のブログページを見つけるシーン、鏡写しを使った不安定なレイアウト、真っ赤な色味と相まって不安感を急速に高める。右は有名な本田雄パート。鏡像の未麻と本体とが共に動くのを手前から映してるという、トリッキーなカット。

連想で言えば、最初に紹介した『若おかみは小学生!』のカットと形態的には似ている表現を、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』第2話(コンテ:坂田純一、演出:堀口和樹)で見つけることができる。

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思春期症候群によりだんだん(比喩的でなく)他者から存在を認識されなくなっていき、追い詰められていく桜島麻衣。

窓ガラスに反射した麻衣の半透明の姿、そしてここで彼女がその像を見ているという表現によってその事態がよりはっきりと視覚化されている。

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ここで麻衣は梓川咲太から目を逸らしながら会話している(後に向き直る)。

「私のこと、覚えてる?」という麻衣の質問に対し咲太が肯定の言葉を返す、そして麻衣は自分の姿の映り込みを見ながらそれを聞くという描写。ガラスの反射を使うことで、ここでの麻衣の不安げな表情をとらえることに成功し、同時に、麻衣が自己の存在の不確かさを気にかけていることが浮き彫りになっている。


段々取りとめのない話になっていきそうなのでこれくらいで終わりにしようかなあと思います。

冬コミで寄稿させてもらった文章の方もよろしくお願いします。

 

講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!

講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!

 
パーフェクトブルー【通常版】 [Blu-ray]
 

*1:という言い方は理科的には正しくないけれど