『バトルアスリーテス 大運動会』5話のちょっとした技巧
昨年も記事で取り上げた作品だけれど、『バトルアスリーテス大運動会』(TV)5話にこれは!と思う描写があったので書いておきたい。なお展開は割とネタバレしてます。
『バトルアスリーテス大運動会』(TV版)のあらすじについて一応述べておくと、
西暦4999年、世界最高クラスのスポーツエリートたちが年に一度の「大運動会」に参加し、王座に輝く宇宙撫子〔コスモビューティー〕を目指しトーナメントを繰り広げている世界。その登竜門となるのが衛星軌道上に位置するスポーツ専門大学「大学衛星」へ進学することであり、その大学衛星に進学する生徒を選り抜くために設けられた訓練校から話はスタートする。
主人公である神崎あかりは宇宙撫子の母を持ち、競技について天性の資質を秘めているのだけれど、物語開始時点においてはまだ才能を開眼させておらず、競技でも万年ビリの意気地なしで、弱音ばかり吐いている*1。
臆病をこじらせまくった結果「あかりハウス」と書かれた段ボール箱を常に持ち歩いており、何かくじけそうなことがあるとすぐにその中に籠って隠れてしまう。
そんなあかりを献身的に支えるのが関西出身の柳田一乃である。あかりの体たらくに対し普段は容赦なくツッコミを入れるものの、主人公のことを思って何かと面倒を見てくれるいわゆるツンデレキャラであり、声優を担当した久川綾さんによる関西弁の演技もこのキャラのパーソナリティに絶秒にマッチしている*2。
さて、本題に移ると、5話ではあかりは訓練校でトップの成績を持つジェシー・ガートランドに対戦を申し込まれてしまう。
あかりの母である伝説の宇宙撫子・御堂巴を崇拝するジェシーは、その血を受け継いでいながらヘタレで弱い存在であるあかりのことが許せず、激しい敵意を抱いているのだ。あかりはこれまでで最大の苦境に立たされたと言っていいだろう。
ジェシーから激しい叱責を受けた末に一騎討ちを申し込まれてしまい、またも落ち込んだあかりはやはり「あかりハウス」に籠ってしまう。
そこで、普段はつれなくあかりを叱責している一乃も今回ばかりは見かねて、普段は見せない側面を見せ、あかりに諭すようにして、素直な激励の言葉を飛ばしてくれる。
言葉を言い終えた一乃はあかりに呼び掛ける。
「出てこい、あかり」
だがここで、その声を聞いていたあかりが横のトイレから登場する。あかりは実は「あかりハウス」の中におらず、たまたまトイレに入ったタイミングで段ボール箱を外に置いていただけだった。あかりは一乃の励ましの声を、トイレの中から聞いていたのだ。
あかりは感激してトイレから出て来て一乃に抱きつき、涙ぐみながら、めげずに頑張る意志を伝える。
だがそこでシリアスなムードになるかと思いきや、
ハッとした一乃が「お前ちゃんと手洗ったんか?」とあかりに訊き、「あっ…」「ドアホー!!」とそこでギャグに流れるのだった。
さて、一通りの流れを全部書いてしまったが、このシーンの流れで優れているのは
あかりが一乃の激励を「あかりハウス」の中から直接聞いているのではなく、トイレにいながら傍らで聞いていたということである。
あかりがこの激励を「あかりハウス」の中で直接聞いていたとするとどうだろう。確かにそれでもやっていることは変わらないのだが、それはこれまで何度も繰り返されてきたことであり、劇的な要素に欠ける。ここで「それまで100パーセント弱気だったあかりが行動を変える」ためには、それだけの説得力を持つ描写が必要になる。
一般的に、我々の中には刷り込みとして、「対面での会話で口にする言葉は必ずしも真実であるとは限らない」という発想があります。相手の前だと気を遣って真実を言わないか、打算が入るため都合の悪い部分を抜かしてしまったりする。
自分がいない場所で、自分に関して口にされる言葉に人はとても敏感です。第三者である自分に対する気遣いがなくなることで、往々にして「相手が本音では自分をどう思っているか」を知ることになる。それが陰口であれば相手への信頼が一挙に崩れ、それが誉め言葉であれば相手からの確かな信頼を感じられることでしょう。「相手の言葉を陰から聞く」というシチュエーションには確かにそうした決定的な作用があります。そしてその効果をこの展開は活かしているのではないか。
ただ、それだけだと例えばここで一乃が他の人に対してあかりの話をするところをあかりが聞いていたという描写でもいいはずだけれど、その場合は効果が半減してしまうだろう。ここでのあかりは外ならぬあかり本人に対し激励の言葉をかけているのであり、そうであるからこそあかりは一乃の真っ直ぐな言葉に心動かされ、反応を返すのだ。
繰り返しになるが、このシーンにおいて行われていることは「一乃があかりを叱咤激励し発破をかける」「あかりはそれを聞いてやる気を取り戻す」の二つであり、それはこのシーンを「一乃が直接面と向かってあかりを励ましている」シーンに置き換えても、やっていることは何も変わらない。
しかしあくまでその二つの要素は保ちながら、「あかりが一乃の言葉を隠れて盗み聞きしている」という風にワンクッション置くことで、ここでのあかりの心変わりを説得力を持って描くことに成功しているのである。
また、あかりがトイレから登場することは一乃にとってと同時に視聴者にとってもサプライズにあたり、ここでの一乃と同様に視聴者も意表を突かれ、半ば強引な形で展開を受け入れざるを得なくなる。その驚きの要素が、こうした展開を退屈させない、刺激的なものにしてる。
それに加えてシーン最後にはしっかりとオチまで付けて、湿ったムードになり過ぎないように計算もされていることが分かる。
(ちなみに、ここでギャグに流れるのは、このアニメがラブコメとしての要素を持っているからだろう。つかず離れず、友達以上恋人未満の状態を持続させ、それを完結させないまま常にサスペンスを生み出すことがラブコメの主題である。)
5話の脚本は黒田洋介さん。
こうした展開をさらりとやっているところに、黒田洋介という脚本家の、シチュエーション作りの上手さが表れていると思う。
さて、もう少し話を進めたい。
このシーンの説明の最初に「落ち込んだあかりは『あかりハウス』にこもってしまう」とただ書いたけれど、ここには誤魔化しの要素が入っています。
というのも、「あかりがジェシーに対戦を申し込まれるシーン」から、この「一乃があかりを叱咤激励するシーン」の間には二つのシーンが入っており、それは「1.あかりが部屋で一人落ち込んでいるシーン」と「2.王鈴花が二人の勝敗で賭け商売をしようとするのをジェシーが止めるシーン」である。
1.
2.
1.のシーンを見ていると、対戦を申し込まれたあかりが「自分の部屋で一人で落ち込んでいる」ということが分かるので、「あかりが外であかりハウスに籠って落ち込んでいる」というシーンが出てきたときに、冷静に考えるとそこには不自然なところがあるはずである。なので、「実はその中にはいなかった…」という展開が後に出てきたときに、それをよりスムーズに受け入れることができるだろう。
実際には、「あかりがあかりハウスに籠って落ち込んでいる」シーンの最初には、あかりハウスの前を通りかかった一乃が「こないなとこにおったんか。」とあかりに対して呼び掛けるセリフがあり、つまり「一乃はあかりハウスを偶然に見かけて呼び掛けた」という描写になっている。
これはたとえば小説のような媒体で文章に起こしてみると、「あかりがあかりハウスに籠っているのを一乃が見つける」という描写が入ったときに一気に不自然さが明るみに出るだろう(何故そんなところにあかりハウスがあるのか?となる)。しかし映像作品では、「あかりハウス」を映像に出してしまえば否が応でも視聴者はそれに説得されてしまい、一乃と同様にこのシーンで勘違いを起こしてしまう。
そしてその上で、2.のシーンが挿入されているのは効果的だ。1.のシーンと、「あかりハウスに籠るあかり」のシーンの間に別の挿話が入ることで、二者はダイレクトには繋がらないため、これも不自然なところを軽減するのに役立っている。
脚本上の展開についてこれまで述べてきたれど、このシーンにはもちろんのこと演出も必要十分に貢献している。
あかりがあかりハウスの中にいないことが分かるシーンで、それまでのカットにおいてはトイレのドアを示す「W.C」の文字をさり気なく画面内に入れることで、次に続く展開が不自然なものにならないように布石を打っている。
一乃があかりハウスを階段手前で見かける箇所についても、カメラが右から左にPANするのに合わせて一乃が画面左からフレームインしてくることで、ここで突然に出て来るあかりハウスを画面内にさり気なく位置づけることに成功している。これらはシナリオ上での仕掛けを活かすための演出として位置づけられるだろう。
『バトルアスリーテス大運動会』はシリーズを通してとても充実した内容だったけれど、あかりと一乃、ジェシーとアイラたちの生々しい気持ちのぶつかり合いが描かれている前半が特に好きだ。
シリーズ構成を務めた倉田英之および、黒田洋介両氏のシナリオが展開に弾みをつけ、感情の生々しさやキャラクターの魅力に貢献しており、両氏は他作品でも見るべき仕事を多く残していると思う。
大月俊倫さんと『ラブひな』、『残酷な天使のテーゼ』の作詞
皆様いかがお過ごしでしょうか。2018年とは何の関係もない話題です。
『アニひな : TVアニメ「ラブひな」ナビゲーション ver.1』を読んでいたら、監督の岩崎良明さんとプロデューサーの大月俊倫さんが対談している記事があった。
大月俊倫さんと言えば『エヴァンゲリオン』のプロデューサーとして有名で、 キングレコードに所属しながら『少女革命ウテナ』や『機動戦艦ナデシコ』『スレイヤーズ』に製作として関わった伝説的な大物プロデューサーである(現在は引退している)。
また、岩崎良明さんものちにJ.C.STAFF美少女アニメのキープレイヤーとして『ゼロの使い魔』や『ハヤテのごとく!!』を監督し、2019年には『ぼくたちは勉強ができない』を監督することが決定している実力派だ。
さて、この対談の中で、大月さんが『ラブひな』OPテーマの「サクラサク」(作詞作曲:岡崎律子、歌唱:林原めぐみ)について語っている箇所が面白かったので紹介してみたい。
「景太郎がね、自殺するんだよ(大月)」という衝撃の見出しが目を引くが、
OPテーマ制作にあたって大月さんが岡崎律子さんにオーダーした内容がここでは述べられている。長文にはなるがここで引用したい。
大月:まず詞と曲は岡崎律子さんでやりたい、というのが私の中でかなり初期からあったんですよ。じつはね、『ラブひな』のアニメ化を決めたとき、私が勝手にイメージしていたストーリーがあるんです。その話ってのは、景太郎がね、自殺未遂しちゃうんです。なんとか命は助かるんだけど昏睡状態に陥って26話分の夢を見るんだけど、その夢にはお爺さんが出てきて、回を重ねるごとに人数がどんどん増えていくわけ。それは要するに死者の世界から生者の世界に景太郎を呼び戻す役目の人なんですよ。
岩崎:その話は今日はじめて聞きました。で、景太郎はどうして自殺したんですか?
大月 :つまりね、女の子にはモテないし浪人するし、将来に絶望してなんですよね。でも26話分の夢を見て死者の世界と生者の世界を行き来しているうちに「生きるとはどういうことか」を理解していって、それて「生きなければ!!」と悟ったところで目が覚めるわけ。そのとき、夢だったはずのひなた荘の住人が景太郎を囲んでいて景太郎をみつめている、そこでパッと終わるっていうのが私なりに考えた構成なんですよ。じつは岡崎さんには原作を読んでもらう前にこの話を説明したんですね。そしたら、すごく感動してくれて、ここからオープニングとエンディングのあの2曲ができたんですよ。歌詞の中で「手を伸ばして」とか「祝福の時は来る」って言葉があるけど、それは生者の世界から、なるたちが手を伸ばして景太郎を招いているということなんです。
だからね、アニメの主題歌の作詞や作曲を依頼するとき、原作を読ませるとかってのはナンセンスなんですよ。作品のコアのコア、真っ赤な溶岩みたいな部分をグッと相手に手渡すしかない。私は他の作品でもこういう方法でやってますし、私が担当したアニメの主題歌が内容と合っているともし評価されるとすれば、こういう方法を採用しているからなんだよね。
作品のエッセンスとして聞かせる内容が、原作にはない完全オリジナル設定というのもすごい話ですが、それがまたなんか凄く…『エヴァンゲリオン』ぽさがあるというか……。
大月さんのような、作家性の強い名物プロデューサーは、今の時代だと少ないでしょうね。そしてこの対談での発言通り、「サクラサク」の歌詞にはこの裏設定が反映されている。
途方に暮れた昨日にさよなら
ふつふつと湧きあがるこの気持ち
何度でも甦る 花を咲かせよう
思い出はいつも甘い逃げ場所
だけど断ち切れ 明日を生きるため
祝福の時は来る 手をのばして
「思い出はいつも甘い逃げ場所 だけど断ち切れ 明日を生きるため」もそう考えると意味深な内容であると言える。
ちなみに、大月さんがここで話してるお爺さんたちは、実際にアニメ版でよく登場している。ただ、岩崎監督は当初の裏設定知らなかったという話なので偶然か?赤松さんの原作でどうだったかは自信ない。
ともかく、私がこれを読んで思い当たったことは、大月さんはレコード会社のプロデューサーとして音楽面で多くのアニメに関わっているが、(この対談が行われた2000年の)時点ではそういったポリシーを持っていたのだとすると、『エヴァンゲリオン』の主題歌作成にあたってもそういった方針を採用していた可能性が極めて高いのではないか。
TV版 『エヴァンゲリオン』のOPであり、現在でも高い人気を誇る「残酷な天使のテーゼ」について、作詞を担当した及川眠子さんは「企画書と最初の2話を早送りで見て2時間ほどで書き上げた」と数年前に暴露して物議を醸していた。
これらによると、
「キングレコードのプロデューサー(大月さんのことだろう)から『哲学的な』『難しい歌詞にしてくれ』と作詞の依頼を受けた」といったことや、「未完成の第2話までのビデオと企画書のみを渡された状況での発注であり、ビデオは早送りで視聴、企画書も熟読することはなかった」といったことが及川さんの口から語られている。
また、作詞家と作曲家とが一度も会うことなく制作された歌であることも分かる。
そして歌唱を担当した高橋洋子さんも、レコーディングの時点では、アニメの内容を全く知らされておらず、「オープニング映像も、第1回の放映を自宅で見たのが初めて」だったという。
これらの内容から、プロデューサーを担当した大月さんを批判する向きもあるけれども、大月さんは「原作を読ませるといったことはナンセンス」「作品のコアの部分のみを伝えるべき」というポリシーに基づくことであったのかもしれない、と考えられる(それだけでは説明つかない内容もあるけれども)。
大月さんのポリシーは、畢竟すると「あえて作品の全体像を提示しない」ということでもあったのだろう。おそらく、それによって、音楽を制作する側にはある程度の自由さを与え、感性を働かせる余地を作り出す*1。もっとも、『エヴァンゲリオン』での関わり方は特殊であっただろうし、他作品ではもう少し踏み込んだ形で楽曲を作成させていると思われる。
『スキゾ・エヴァンゲリオン』によると、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』において大月さんが関わった内容としては、主に企画を通す段階で設定とか内容についての話があった、そして制作会社選びの交渉を行い、プラス25話と26話(有名な最終話)のネタ出しに関わったことが述べられている。
ただし、庵野さんが大月さんの前でエヴァの話をあまりしたがらなかったので、制作中には(大月さんは)作品には一切不介入であったらしい。
その代わり、制作中は会うたびに観念的な話や社会情勢の話で駄弁っていたとのことである。
(こうしたことはそれほど役に立っていたいう風に見なされないけれども、プロデューサーや編集者の役割として、「クリエイターの思考を触発する」という一面があることを考えると、間接的に役割を果たしていたといえるかもしれない。)
なので、エヴァの場合は、大月さんのポリシーというのとは別に、結果的に(主題歌についても)関わり方がそのようにそうなっていたという可能性はある。
「残酷な天使のテーゼ」の作詞と大月俊倫さんの関係について、そのようなことを考えたのでした。
◆これだけではやや物足りないので、もう少し記事に内容を加えます。
『シスプリ』『ぱにぽにだっしゅ!』『ネギま!?』などは顕著だが、「女性声優が多人数出る」ような美少女アニメを多く手掛けていることが分かる*2
「美少女キャラいっぱい出して、キャラソンやエンディング、挿入歌をそれに合わせて多数展開する」という手法を活用していると思えないだろうか。
『シスタープリンセス Repure』などはとくに、各ヒロインごとにエンディングテーマが用意され、しかも声優や歌手の名義ではなく「ヒロインが(キャラの名義で)エンディングをうたっている」という形式を採用していた。
シスター・プリンセス Re Pure キャラクターズエンディング集アルバム 「12人のエンディング」
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今では浸透している手法であるけど、これについては『シスプリ』が先鞭をつけたのではないだろうか(これ以前にもあるのかもしれないが)。
それでは、2018年はお世話になりました。2019年もよろしくお願いします。
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映画『若おかみは小学生!』/反射についてのメモ
冬コミケの季節ですね。私は京都大学アニメクリティカさんのところの新刊に映画『若おかみは小学生!』についての記事で参加しています。
映画『若おかみは小学生!』の経済性についての試論
というタイトルで、あの映画の脚本ないし演出が、いかに効率的に物語を伝えているかといったことについて書いています。
【告知】コミックマーケット95の3日目に東J25aで新刊『京都大学アニメクリティカvol.7』出します。highlandさんの『若おかみは小学生!』論をはじめ『宇宙よりも遠い場所』『シュガー・ラッシュ:オンライン』『魔法少女リリカルなのはDetonation』などを扱ったアニメ評論本です。よろしくお願いします
— 京都大学アニメクリティカ3日目J25a (@animecritica) December 25, 2018
手に取って読んでいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。私としては、ほかの方の寄稿記事も楽しみです。
さて、経済性については上記の記事で書いたのですが、そこで書けなかった内容として、今回は反射について書こうと思います。
若女将!の冒頭の電車に乗って花の湯温泉に向かうシーンで、
— highland (@highland_sh) November 1, 2018
車窓に反射して斜向かいの親子連れ三人が映っていて、画面手前にいるおっこがそれを見てる(ように見える)んだけど、トンネルから出て明るくなったところで親子連れの姿が消える(そしておっこの顔の鏡像だけが残る)というカットがあって…
最後に劇場で見たときにこういうツイートをしたのですが、これだとあまり上手く説明できてないなあと思っていました。
これはDVDソフトが出るまで待ちかなと思っていたのですが、先日『講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!』(原著:令丈 ヒロ子、著:斎藤 妙子)に当該カットのキャプチャが載っているのを発見した(!)ため、以下に引用します。
元ツイートにあるように、これは両親を亡くしたおっこが祖母のお世話になるため花の湯温泉に電車で向かうシーンで、窓ガラスの反射に映るおっこの表情と、おっこが見ている(と思われる)親子連れ三人の反射した姿も画面に映り込んでいます。父母を亡くしたおっこが、両親と話している子どもの姿を見ており、言うまでもなく両者は対比されています。
さて、先ずはこのカット、改めて見るとめちゃくちゃ層が入り組んでるんですよね。映っているものの種類ごとに分けるとおそらく以下のようになっています。
画面内にあるもののうち、実物が映っているのは手前にいるおっこの頭のみです。おっこの表情と、反対側の座席に座っている親子連れは窓ガラスへの反射で映っています。そして向かい側の窓ガラスに映っている親子連れの姿も、二重に反射して映り込んでいます。それに加えて、おそらく窓ガラスに透けてトンネル内のケーブルが映っています(この像はおっこの頭にもかぶさっているので反射ではなく透過で合ってると思う)。
四種類のレイヤーが一つの絵の中に重なって映っているという手の込みよう。このカットが発揮している効果としては、以下のようなものが挙げられるかと思う。
まずは
・反射を使うことで、親子連れとそれを見ているおっこの表情とを(切り返しを使わずに)一つの画面の中に収めている。
ここで窓ガラスの反射を使わなければ、窓側にカメラを設定しておっこの頭をナメる形で親子連れを映す必要があり、それだとおっこの表情が映らない。おっこの表情を映すためにはカットを割って「親子連れ」→「おっこの表情」と2カット使う必要があり、それだとこのカットの持つ抒情性や、さり気なさが失われる。
親子を見ているおっこのアンニュイな表情と、親子の姿とを一つの絵に収めることで浮かび上がってくる情緒というものがあると思う。
また、厳密には「見ている」のではなく、「見ているように見える」というのもポイントで、観客が想像力を伸ばす余地をそこに与えている。
もう一つの効果としては、
・親子三人の姿を反射を通して映すことで、ここでのおっこにとって「親子連れ三人」というイメージは失われてしまったもの、不確かなものになっていることを示す。
というのが挙げられる。
鏡面反射ではなく、窓ガラスへの反射・映り込みを通して何かを映すと、被写体は(透過率50パーセントくらいの)半透明な姿でそこに映り込む。つまり、直接映せばはっきりした形でそこに表出するものが、反射を通して映せば、どこかぼやけて不確かなイメージと化す。虚構や空虚さといったものをそこに付与することが出来るのだ。
父母を亡くしたおっこにとって、その姿はぼやけた虚像*1として感じ取られているような印象を与える。
しかも、(私の記憶が正しければ)この次のカットでは、電車がトンネルから出て窓外の景色が明るくなったところで、この反射は消えて、窓ガラスには鏡像のおっこだけが映るようになる。
このカットの流れには、本作の全体としてのテーマが反映されているように思えないだろうか……?
事故で両親を失った後も「幽霊と化した両親」と交流することができるけれども、やがてトンネルを抜けて明るくなるように変化することで、漠然とした像であったそれは消える(そして自分の姿が残る)。そういうことを語っているように見える。
そもそも映画内において幽霊たちは透けた形で出てくる不確かな存在だ。だからこそ両親が常に実在のもののように出てくることに不気味さがあるのだけれど、幽霊と化した両親も幽霊たちと同様に、異界の存在である。最後におっこは両親および幽霊たちといった異界の存在と別れ、そこでホワイトアウトして映画は締めくくられる。
私の深読みや勘違いかもしれないけど、こういうさり気ない描写によってテーマが散りばめられているのだとしたら、それはとても芸が細かいことであると思う。
もちろん、こういったカットを見て観客が即座に「これはこういう意味で~」みたいに意識的に理解するわけではないだろう。しかしこういった表現がサブテキストとして細かに散らされることで、無意識に刷り込みが行われ、映画全体のテーマに説得力を与えていく。
そして本作は、反射・映り込みの表現の精緻さが注目を浴びた作品でもあった。
「若おかみは小学生!」映像的な面では光や反射の表現がとにかく細かくて、床に反射する人物、包丁の刃に写る卵焼きもちゃんと描かれてる。そしてなにより最後のカットの蛇口やソープボトル、そして鏡に反射するソープボトルにまでちゃんとキャラが描きこまれてて衝撃。 pic.twitter.com/jy0XCHLFuq
— 加藤アカツキ@3日目東ソ60b (@AkatsukiKatoh) September 30, 2018
これについては勿論、作品内の世界のリアリティの底上げする効果があると考えられるけれど、他方で、鏡像を多く使うことで生・死の境界の不確かさや、異界への通じやすさといったイメージを際立たせる効果もあるのではないだろうか。
それでは追加で、他のカットでどのように反射・映り込みが使われているかを、先述の『講談社アニメ絵本 若おかみは小学生!』に載っているキャプチャで確認できる範囲で見ていこうと思う。
先述のカットの前に出てくるカット(本からキャプチャをトリミングしてしまったので端が変になっていることはご容赦ください)。
こちらは窓外の景色が窓全体に反射して映っており、それを見ているおっこの表情が同時に透過で映っている。窓内と窓外の両方の像が重なっており、こちらもカットを割らずに、見ている主体と見られているものとを映すことに成功している。おっこが思いに沈んで、目から見た景色が漠然としたイメージとして映っていることを示唆しているようでもあります。
こちらは旅館に着き、自分の部屋に最初に入ったときのシーン、ウリ坊を見つける直前あたり。
写真立てに入った両親の写真(の上のガラス板)に、挿し込んだ光によって窓枠が反射で映り込んでいる。これによって、両親の姿が半透明なものに見える(実際には透明ではない)ようになっている。観客に対し、両親の「幽霊のような姿」を印象づける効果があるだろう。
水領さんの車に乗って買い物に行く途中、おっこが事故のPTSDで過呼吸に陥り、その後おそらく車中で休ませてもらっているところ。
サイドミラーにおっこの表情が映り込む。こちらもおっこの表情と、おっこにとって見えている両親の姿とを同時に映す経済的なレイアウト。死んだ両親の姿がナチュラルに見えているが、「サイドミラーのおっこ」が同時にフレーム内に映っていることで、それがあくまでおっこの視線を通じてだけのものであることが強調される。
おっこが水領さんに初めての浴衣を着せてあげるシーンにアクセントを加える映り込み。この水晶玉の表現はびっくりするほどキレイでしたね。こちらも二重に像が映り込んでいる手の込みよう。
レイアウトの意図を汲み取るならば、幽霊の存在を感じ取れるおっこと、霊能はないが占い師である大人の水領さん、二人の存在の重なりを印象づけることでしょうか。
それほど数は確認できませんでしたが、映画全体において、反射の表現がときに意義深く用いられているということは言えるでしょう。
反射・映り込みという表現一般について振り返ると、そもそも反射というのは現実を直接映すのではなく間接的に像として見せることで、歪められたリアリティをそこに現出させる神秘的な技法でもあります。
下の画像はジェレミー・ヴィンヤード『傑作から学ぶ映画技法完全レファレンス』(2002年、フィルムアート社)より。
古今東西の映画やコミックで用いられている技法であるとは思いますが、
殊に日本アニメにおいて、反射という表現の持つ神秘性を哲学の域にまで高めたのは、よく知られているように押井守さんの『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だと思う。
頻繁に出てくる水面への映り込みや、光の反射の表現。
それら表現が個々に象徴的な意味を有しているというよりは、作られた虚構の世界/夢と現実というテーマに沿った描写が、映画全体にサブテキストとして散りばめられている。それによって、地と図の反転によって境界があいまいになる、あるいは夢のような形で世界を現出させるという主題に結びつく。
そして日本アニメの後続の作品においては描き出された仮想の現実、箱庭的な虚構の世界といったものを表現する際には、(押井さん自身のものも含めて)鏡面反射・映り込みというモチーフはしばしば用いられるようになった。
加えて、今敏さんのこれも印象深い。
自我同一性、夢と現実の境目の揺らぎをテーマにした『パーフェクトブルー』は鏡面反射を使った表現の見本市のような作品になっている。
左の方は未麻が部屋で自身のブログページを見つけるシーン、鏡写しを使った不安定なレイアウト、真っ赤な色味と相まって不安感を急速に高める。右は有名な本田雄パート。鏡像の未麻と本体とが共に動くのを手前から映してるという、トリッキーなカット。
連想で言えば、最初に紹介した『若おかみは小学生!』のカットと形態的には似ている表現を、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』第2話(コンテ:坂田純一、演出:堀口和樹)で見つけることができる。
思春期症候群によりだんだん(比喩的でなく)他者から存在を認識されなくなっていき、追い詰められていく桜島麻衣。
窓ガラスに反射した麻衣の半透明の姿、そしてここで彼女がその像を見ているという表現によってその事態がよりはっきりと視覚化されている。
ここで麻衣は梓川咲太から目を逸らしながら会話している(後に向き直る)。
「私のこと、覚えてる?」という麻衣の質問に対し咲太が肯定の言葉を返す、そして麻衣は自分の姿の映り込みを見ながらそれを聞くという描写。ガラスの反射を使うことで、ここでの麻衣の不安げな表情をとらえることに成功し、同時に、麻衣が自己の存在の不確かさを気にかけていることが浮き彫りになっている。
段々取りとめのない話になっていきそうなのでこれくらいで終わりにしようかなあと思います。
冬コミで寄稿させてもらった文章の方もよろしくお願いします。
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*1:という言い方は理科的には正しくないけれど
舛成孝二さんと鈴木博文さんのEDアニメーション【検証】
今期のアニメ視聴と並行して『バトルアスリーテス 大運動会』(TV)を少しずつ見ている。
今期だと『ゴブリンスレイヤー』でも組んでいる倉田・黒田コンビが全話脚本を担当し、正統派なエンタメでありながら同時になかなかエグい展開もありで見どころは多い。放映時期は1998年~1999年。
’90年代を通じスタイリッシュ美少女アニメで名をはせたスタジオであるAICが制作しているだけあって美少女キャラばかり登場するオタクアニメ、そしてその中でも女性主人公で、かなり「百合」要素も強く感じさせる作品だ。何せ第2話にして添い寝展開がある。テレ東の夕方放送アニメだが、今放映されてたらTwitterで百合オタクが騒いでいただろうなと思う。
画像左の青髪キャラの声優は川上とも子さん。
それはさておき、
『バトルアスリーテス』のEDアニメ
EDアニメーションのクレジットを見ていて気付いたことがあった。
OP・EDの演出にスタジオゑびす*1の二人(菅沼栄治、舛成孝二)が参加してるけど、
EDアニメは鈴木博文さんの一人作画!
かわいい。
こういう感じのデフォルメ調の、手描き感あるアニメーションになっている。
鈴木博文さんのEDアニメ仕事
鈴木博文さんといえばNARUTOのキャラクターデザイナーであり凄腕のアクションアニメーターと知られているけれど、単独でEDアニメーションを制作することも多い(撮影技術を持っているため絵コンテ・原画・仕上げまで自分一人で出来る)。『NARUTO』での仕事以外に、
近年では
- 『魔法少女まどか☆マギカ』ED(まどかがシルエットで走る)、
- 『世界征服~謀略のズヴィズダー』完成版ED、
等を担当。これらは見たことある人多いのではないだろうか。
あるいは時期を遡ると、
- 『魔法少女リリカルなのは』第一期ED(2004年)
- 『メダロット』ED1(1999年)
なども単独で手掛けている。『メダロット』は本編見てないのに引用して申し訳ない。
これらのEDのうちいくつかにも『バトルアスリーテス』同様にデフォルメの利かせたラクガキっぽいタッチのものを見ることができ、
鈴木博文さんの作画wikiにもその旨の記載がある(2018/10/31 閲覧)。
同姓の鈴木典光までとはいかないが、彼の手掛けたEDも多い。
その仕事を覗いてみるとラクガキ調な仕上がりなモノが多かったりする。
(メダロット、バトルアスリーテス大運動会、てなもんやボイジャーズ、モンコレナイト、NARUTO、なのは第一期等。)
鈴木博文さんがバリバリのアクションアニメーターとしての仕事をしながら、こういったスタイルのエンディングアニメーションを手掛けていることはやや不思議だなと思っていたのだけれど、これは鈴木博文さんが舛成孝二さんのEDアニメに影響を受けたからではないかと思いついたのだ。
舛成孝二さんのEDアニメ
舛成孝二さんといえば『R.O.D』シリーズや『かみちゅ!』の監督として知られているけれど、’90年代のAIC作品を中心に2018年現在に至るまで、EDアニメーションを数多く演出している人でもある。
自身の監督作のEDまで含めると膨大な数にのぼるので一部を紹介すると、
これが初のED仕事ですかね。*2
- TV版『神秘の世界エルハザード』ED*3(1995年)
岸田隆宏さんの一人原画。
こちらも岸田隆宏さんの一人原画。
- TV版『天地無用!』ED(1995年)
これらは全て'90年代。『天地』シリーズ絡みが多め。
時代変わって、自身の監督作でのED
- 『かみちゅ!』ED(2005年)
こういう絵筆の感じが残る温かみのあるアニメーションが多い。舛成演出のEDが大体どういうテイストかは理解していただけたのではないだろうか。*4
さて、アニメ誌「アニメージュ」2002年1月号に掲載された舛成孝二さんのインタビュー(小黒祐一郎さんがインタビュアーを担当する「この人に話を聞きたい」)において、舛成さんのEDアニメーションについて述べられている箇所がある。
(なお、インタビュー全文はこの本 ↓ に再録されている)
舛成:スタジオユニコーンという会社に入りました。最初の頃は、「今のアニメの画」をちゃんと描こうとして取り組んでたんですよ。
――ああ、美形キャラとか、美少女とかを。
舛成:そうです。でも、どうやっても巧く描けないんですよ。 動画をやってて、一番楽しかったのが『メイプルタウン物語』とか、そういう作品でした。へにょへにょした画とか、ちょっとラフなタッチの画が好きだったんです。
このインタビューには小黒さんの注釈として
『天地無用!』のエンディング以来、現在の『ココロ図書館』まで、彼はヘタウマ系の、あるいはラフなタッチの画のエンディングを何度か作っている。絵コンテで描く画も、ああいった感じの画なのだそうだ。
との記述がなされている。
舛成孝二さんの絵コンテのうち、今手元にあって見れるのが『THE IDOLM@STER』第7話「大好きなもの、大切なもの」・第23話「私」の絵コンテの抜粋*5だけなので、以下にこれを転載する。
かわいい。
また、絵コンテ以外で舛成孝二さんの(おそらく)素の絵が見れるアニメとしては、
1999年にWOWOWで放映されていた『D4プリンセス』の舛成孝二コンテ回(第7話「東方帝都学園24時 瑠璃堂どりす」)がある。
…まあ、映像的にはへちょいのでわざわざ見なくてもいいとは思う。この回だけこういう特殊な感じになっています。
『D4プリンセス』はEDの電波ソングが有名だけど今見てもまあまあ楽しめます。
このときの舛成孝二さんはこういうコンテや演出をやるような人でもあった。
舛成孝二さんと鈴木博文さんの共同仕事
話が戻るけど、舛成孝二さんのこういったスタイルが鈴木博文さんに受け継がれたと思う根拠としては、’90年代後半~’00年代初頭にかけて、この二人はタッグを組んで数多くのエンディングアニメーションを作っているからだ。*6
演出:舛成孝二、作画:鈴木博文のコンビで作ったEDアニメーションを調べてみると、
先に挙げた『バトルアスリーテス』ED(1997年)以外に、
舛成孝二さんの監督作。アニメーター豪華で作画的見所多くてオススメ。ヒロインの声優はデビュー当時の堀江由衣さん。
- 『アンドロイドアナMAICO2010』ED(1998年)
同じく舛成孝二さん監督で、ラジオ番組制作とアンドロイドを題材にとった作品。
DVDが手元になかったので拾い物の画像だけど、こういう感じの絵が動いてるEDですね。この作品はお仕事アニメの傑作なんだけれど再評価の機会がなかなか来ないです。
- 『デュアル!ぱられるんるん物語』ED(1999年)
という感じに色々組んで作っている。
この時期になるとデジタルの導入が見られますね。舛成さんがこういった、手描き風のふにゃふにゃした絵とCGを組み合わたりといった演出をやられて、鈴木博文さんもそれを自身の中に取り入れたのではないかと思う。
余談であるが『デュアル!』は確かあおきえいさんがAICの撮影時代に参加した作品だったかと。
また、鈴木博文×舛成孝二さんのコンビとしては見逃せないものとして、
かわいい。
『リスキー☆セフティ』は舛成孝二さんの監督作で、これは昔話の紙芝居のはずが何故か宇宙戦艦とかうる星やつらとかパロディがやたら入る回。
これは舛成孝二さん自身のコンテ演出ではないですが、2クールアニメで枚数を減らす回を作ろうとなったときに鈴木博文さんがこの特殊な紙芝居パートの作画やることになったということは、EDアニメーションといったものを通じた二人のタッグの強さを伺わせる。
『リスキー~』はレイアウトが地味に良くて、天使と悪魔のチビキャラの視点から見た部屋の広さといったものも上手く表現されているし、けっこう良作だと思う。
ちなみに、舛成孝二さんと鈴木博文さんが最後に二人で制作担当したEDアニメは
- 『天地無用! 魎皇鬼』(第三期)ED(2003年)みたいですね。
この二人の関係ってどこかで分かったりしないかなあと思うのですが。ネットで検索かけても特にヒットしないし、『R.O.D』(OVA)のオーディオコメンタリーとかで言及がありそうですが、そこまで掘る気力が……。岸田さんとの絡みも多いし、鈴木博文さんてスタジオゑびすと関係あったりするのでしょうか?
舛成さんから鈴木博文さんのスタイルへの継承
そして舛成さんとタッグを組んで以降に、鈴木博文さん単体で手掛けたEDアニメーションはというと、
ラクガキみたいなちびキャラの顔がデジタルで飛び交うアニメーション。
『てなもんや~』は月村了衛さん原案、新房昭之監督という異色のアニメ。石浜真史さんによると、月村先生と新房監督は制作中「いかにして『仁義なき~』シリーズのパロディを作品に多く盛り込めるか」ばかり話してたという。
こちらは手描き調で名作劇場っぽい。
こちらも舛成孝二さん監督作ですが、EDアニメーションは鈴木博文さんが椎野隆介さんという方と共同で担当。デジタルの移行期にあって、こういった絵でエンディングを作る手法は舛成さんとのタッグで取り入れたものかもしれない。*8
そして、鈴木博文さんのこうしたテイストは、上に挙げた『メダロット』『なのは』(とか『モンコレナイト』、『NARUTO』)EDのようなスタイルへと受け継がれていくことになる。
鈴木博文さんといえば『NARUTO』の仕事がやはり多いので、都留稔幸さんと組んで
膨大な数のEDアニメを作っていますが(自分は未チェック)、作画や演出で参加したEDにもこういったテイストが流用されているかもしれない。
ちなみに、比較対象として、舛成孝二さんとタッグを組む以前に鈴木博文さんが手掛けたEDアニメーションも存在する。
たとえば
こちら鈴木博文さんの単独アニメーションだけど、キャラも空間も写実的で、本編と全然変わらないタッチになっている。
また、『こどものおもちゃ』OVA(1995年)のEDアニメーションを都留稔幸さんと共同でやっているようだ。DVDで出てなくて、今はおそらく見る手段がない……けれど、こちらもキャラは本編と変わらないタッチで描かれているようだ(手描き調でデフォルメを利かせた感じではない)。
https://twitter.com/Anime_VHS/status/701430182805053440
クレジットを見るとOVA版は鈴木行さんが監督でJ.C.STAFF制作なんですね。
TV版の方は再放送で見てましたが、大地監督特有の、ハイテンションでまくしたてるようなテンポと可愛いキャラ絵が印象的でした。
さて、
鈴木博文さんの現在の仕事
に戻ると、
影絵のシルエットで見せる処理が『まどか』辺りから増えてきて(というかシャフト作品での仕事ですね)、
OVA『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』(2016年)のEDなどもそういった感じである。
この辺りになるとテイストがだいぶ変化しているように見えるけれど、
一方で、それまでのスタイルを取り入れているようなところもある。
- 『劇場版 魔法少女まどか マギカ[新編]叛逆の物語』ED(2013年)
これもそれっぽい。TV版と同じくシルエットで見せるようなスタイルですが、背景はラクガキのようなデフォルメ調ですね。
これまでのスタイルを取り込みつつ、発展系という感じもする。
(「君の銀の庭」は映像だけ抜いてくるのがもったいないくらいの名エンディングですが、ご容赦ください)
やっぱり新房作品での仕事が最近ではまた増えてますね。
まとめ
…と、ここまで書いて思ったけれど
岸田隆宏さんが作画を担当したEDアニメーション
も舛成さんと似たようなテイストが多い。
- 『夏目友人帳』ED(2008年)
舛成さんEDと似たようなタッチ。
- 『学園アリス』ED(2004年)
同じく大森貴弘監督作。この作品、今になって思うとけっこう百合ですね。
- 『しあわせソウのオコジョさん』ED2(2001年)
岸田隆宏さんキャラデ。これも本編は見たことない(DVD買ったら見れるのか?)のでED画像だけ引用するのは後ろめたい…。
- 『シスプリ』1期ED(2001年)
有名なEDアニメーション。大畑清隆さん演出。
こちらはややズレるかも。そういえばこのEDの女の子を根拠に『シスプリ』=『ビューティフルドリーマー』説を唱える人とかいましたね。本編は今となっては別に見なくていいかと思う。
鈴木博文さんと同様、岸田隆宏さんも’90年代に舛成孝二さんとタッグを組んで多くのEDアニメーションを作っていて、二人は共通するテイストを持っているのだなあと思います。
ただ、舛成さんと岸田さんはスタジオゑびすの同期という感じだし、岸田さんが元々こういうテイストを持っているというのも考えられるので、一方的な影響関係ではないかもしれません。
おまけ
上述の通り、鈴木博文さんは『まどマギ』『なのは』をはじめ新房昭之作品のEDも多く手掛けているけれど、鈴木博文さんが初めて新房昭之のEDを手掛けたのはOVA『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコII』(1997年)の第3話EDが初!ということが調べていて分かった。かなり古くからの縁ですね。『コゼットの肖像』を作ってから疎遠になっていたのが、『まどか』TV版以降はまた組み出すようになっているかと思う。このEDはメカが出るところが佐々木正勝さん?
最後に
それにしても、OPやEDアニメーションって本編を全く見ずしても語れてしまうところはあって、そればかり言及するのってあんまり良くないような気もしてしまいますね。現にこの記事でもいくつかのタイトルでやってしまったので反省したい。
色々脱線したけれど、まあ要するに、こういうラフなタッチのアニメーションって良いなと個人的には思います。’90年代や’00年代にはこういうテイストのEDがおそらく今より多かったかもしれない。作画的にはそれほど注目されないだろうけれど、作品の雰囲気には十二分に貢献する。
EDアニメは、作品の顔であるOPアニメと違って色々な表現を試せるところがあって、『きまぐれオレンジ☆ロード』(1987年)ED2の砂絵アニメをはじめ、表現主義的なスタイルのものが現に多く作られてきているし、また、そうであって欲しいと思う。
こういったものがより注目されると良いのかもしれない、と感じて書かせていただきました。
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*1:今なお現役で大活躍している松原秀典さん(『この世界の片隅に』『サクラ大戦』シリーズのキャラデ)、岸田隆宏さん(『lain』『まどか』のキャラデ)、菅沼栄治さん(『こどものじかん』『ましろ色シンフォニー』監督)、舛成孝二さん等が在籍したすごいスタジオ
*2:このEDは元々岸田隆宏さんがやる予定だったのだが、忙しさを理由に岸田さんが断ったところで舛成さんが仕事を横から取った感じらしい。
*3:『エルハ~』は’90年代的な異世界転生ものだけど、珍しく中東風の世界観であったり主人公の女装展開や百合もあったりで今でも新鮮に見れるかと思う。OVA第一期を見るのが良いかと思います。
*4:ただ、舛成さんの近年のEDアニメ仕事は作品本編のテイストに合わせたものが多く、あまりこういう感じではない。
*5:某同人誌で見れる。怒られたら消します。
*6:鈴木博文さんはEDアニメ以外にも『R.O.D』のOVAとか、舛成監督作にアニメーターとして参加することも多い。
*7:『リスキー☆セフティ』同様、『ココロ図書館』も映像的に派手なことは何もやっていないんだけど、静かで温かみのある雰囲気を持ち、この時期のアニメにしてはあまり古びていないと思う。彩度の低い落ち着いた画面や、音響が主な理由だろうか。
*8:ここにではあまりそういった話はしてないですが、舛成さんと組んだ『フォトン』EDと、鈴木博文さんが単独で手掛けた『満月をさがして』EDなどを比較すると、CGと作画の組み合わせという面で影響も感じられる。
2017年下半期新旧映画ベスト10
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年はアニメの記事もちゃんと書く予定です。
2017年は3年ぶりくらいに映画見た本数が150本切りました。とはいえ五つ星映画で上映会もやったし、岩井俊二オールナイトで『スワロイテイル』『リリィ・シュシュ』も初めて劇場で見れたし、わりと満足度高い。というわけで、余計なこと言わずに下半期見た映画の新旧ベスト10を。
上半期は以下の通りです。
〇『セルピコ』('73)
組織(警察機構)の中で理想を突き通そうとして疎外感を味わう男(刑事)のドラマで、題材はいかにも’70年代アメリカであるが、構成がよく出来てる。アルパチーノ扮する主人公の兵士が、銃弾を食らって病院に搬送されるシーンから始まり、回想で「どうして恨みを買うことになったのか」という過程を順に追っていく。ルメット監督作だが、ルメットの映画って余計なことしないから演出的には好きなんですよね。緊迫感が高まる対話シーンで、ルメットはごくシンプルなバストショットの切り返しを使うんだけど、切り返すことで緊張感が高まっていくという作りで、これがドキュメント感がある。
〇『フランケンウィニー』('12)
うーんこれは良かった。パペットアニメなのだけど、劇中の人物がパペットで作った映画を上映するところから始まり、つまりパペットを使ってパペットアニメを作ってる異化効果なシーンになっている。これがなんか凄くノスタルジックを掻き立てられて感動する。あと終わりの場面も画が好き。
〇『ベイビー・ドライバー』('17)
今年は新作の実写はあまり見なかったけど、これは見に行って満足感あった。とにかく省略、省略で不要なシーンを飛ばすやり方が上手い。あのターミネーターみたいな不死身の男とか、いちいち漫画的なキャラ造形が良い(エドガー・ライトなので)。
〇『エスター』('09)
ネタバレ厳禁ながらオチがわりと知られててミステリの文脈でよく紹介される映画なのかな。でもこれは凄く緻密に作られたスリラー。距離感の演出が絶妙だ。アニメ的に絵コンテに起こせる映画。
〇『心の指紋』('96)
凶悪犯で末期癌余命一ヶ月のアメリカインディアンの少年が、担当の白人エリート医者を人質に取ってナバホ族の聖地を目指す。その過程で心が通じ合うという、ロードムービー。という説明だけで分かるけどとにかく色々と属性詰め込んでていやいやこんなん泣くでしょって感じなのだが、チミノの演出はこのドラマに全力で説得力持たせようとしてて素晴らしい。あのオチを使ったのは英断だと思う。あとアリゾナの荒野がすごく美しく撮られてる。Netflixで見れる。
〇『裸の銃を持つ男』('88)
これはtwitterで誰かが感想呟いてて見ようと思ったのかな。大筋のストーリーは大したことないが、個々のシーンがめちゃくちゃ笑えるシチュエーションコメディ。無類の面白さのコント集だった。ピンマイク付けっぱなしだったせいでトイレに行ったときの音声が大音量で実況されるギャグが好きだった。Netflixで見れる。
〇『スクリーム』('96)
メタホラースリラー。ホラー映画マニアの高校生たちが、ホラー映画のお約束とかベタなネタを劇中で話すのだが、その「お約束」に準える形で猟奇殺人事件が行われていく。メタ映画なのだが、メタの水準が観客の「次の展開はこうなるんじゃないか」という期待と、映画の作劇との間に起こっているので、映画の展開と観客との間で駆け引きが起こっている。すこぶる面白かった。ホラーって本来すごく理知的なものだということが分かる。Netflixで見れる。
〇『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』('81)
『エクソシスト』の原作者で有名なブラッティの、二本しかない映画監督作のうちの一つ。
ベトナム戦争のPTSDで精神に異常を来した者たちが隔離されている精神病院に、軍医が派遣されてくるところから話が始まる。中盤までは観念的な議論や台詞も多いし、いかにも小説家の作った映画だなという気がするのだけど、後半の展開であっと言わされて最後には感動してしまった。個々の小さなエピソードが後半に活きてくる作劇って好きかもしれない。
〇『ある子供』('05)
ダルデンヌ兄弟の映画はこれまで4本ほど見てるけど、どれも傑作しかなくてどうなってるのかと思う。彼らの撮る映画は、イタリアのネオレアリズモ(市井の人々に焦点を当て、演出的な作為を廃したドキュメント感や不条理な筋書き)を現代的にやっているようなところがあるけど、これはストーリーも含め凄く『自転車泥棒』を彷彿とさせる映画。ひったくりのシーンが物凄かった。
若いカップルが子供を産んで、でも男の方が倫理観クソなので彼女に隠れて子供を売人に売っちゃうんだけど、彼女がめっちゃ怒ったので赤ちゃん取り返して来ましたみたいな話なので、人によっては胸糞だと思う。単純に話でいえば『サンドラの週末』の方が好き。
〇『アルカトラズからの脱出』('79)
これは本当にすごい緊迫感の脱獄映画で、傑作だった。これほどドラマも描写もしっかりしてる脱獄映画って他にほとんどないと思う。Netflixで見れる。
ドン・シーゲルって監督として何かやる気ない人なのかなってイメージが勝手にあって、というのも、『ダーティハリー』を監督したときにシーゲルがやる気なかったからイーストウッドが実際には半分以上のシーンを演出してて、実質的にイーストウッドとの共同監督みたいな状態だったらしい。それを聞いてたのであんまり良いイメージなかったのだけど、これとか『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』('56)とか見るとすごく緻密に作ってあるので、もっと他にも見なきゃなあと思いました。
という感じの10本でした。2017年は人から励ましを受けることもままあったし、2018年はもっと頑張りたいと思います。
あと「こみっく☆トレジャー31」2018年1月21日(日)というイベントで、漫画の同人誌を出せれば出す予定です。今から作業して間に合えばですが。また告知とかするかもしれませんが、よろしくお願いします。気が向いたら買ってください。
2017年上半期新旧映画ベスト10
アニメブログなので、アニメ関連の更新をするべきだろうけれど、ネタ的に書いたりするのに時間かかりそうなので。
それでは余計なことは言わずに、以下新旧からベスト10。
ダルデンヌ兄弟特有の演出法として、35mmレンズでドキュメンタリー風に撮影しており、会話シーンでもあまり切り返しを使わずに手持ちカメラで二人の顔を行ったり来たり追いかけて撮ってる。ダルデンヌ兄弟の映画はどれもそうだが、ドキュメント風の演出で、説明的な描写を全く入れないので最初のうちは誰が誰かも分からないのだけど、30分くらい見ていくとドラマの大筋がちゃんと必要十分に分かるようになっていて、まるで魔法のようだと思う。
山川吉樹『HELLS』(2008)
未見の人になるべく見てもらいたいので、ネタバレなし紹介。
多くの人に見てもらおうと考えるなら本当はタイミングよくネタに乗っかってバズらせるとか、そういう手段があるのかなと思いますが(今の『けものフレンズ』みたいな)、自分はそういうのが上手くないしそういう広め方をするのも何かなと思うので普通に宣伝記事を書きます。
本当は初見のときに記事にすべきだったんですけどね。
山川吉樹さんといえば、桜井弘明監督作品でのダバ絵作画に定評のあるアニメーターであり(斉木楠雄のエンディングも良かったですね)、近年では『キルミーベイベー』『リトバス』『ダンまち』…などJ.C.STAFFの職人監督としても知られていますが、そんな山川吉樹さんの初監督作がこの『HELLS』(旧題:『HELLS ANGELS』)であります。マッドハウス制作の劇場作品、しかも上映時間二時間近くの大作でありながら恐ろしく知られておらず、つい最近まで山川吉樹さんのウィキペディアページにも全く記載がなかったくらいです。
2008年に東京国際映画祭で上映されながら、2012年に配信開始・ソフト化がされるまで見る手段が一切なく、これが原因でマイナーになってしまったのかもしれないと思いますが、幸い今ではBDも比較的安価で買えるし、レンタルでもそこそこ見かける作品になっています。
『HELLS』は山川吉樹監督、ふでやすかずゆき脚本(この人は元はマッドハウスの撮影出身ですね)、中澤一登作画(アニメーション)という、マッドハウス出身の稀有な才能が合わさって生まれたアニメです。本当にざっくり言えば女子高生が突然トラック事故で地獄に転生して、そして……というお話。
野暮だと思うのであらすじなどについて細かく紹介はしませんが、今石洋之監督の『DEAD LEAVES』風に、極端に強調したパースやコマ割りなど漫画的な表現をこれでもかと投入し、中澤一登のフォルム重視の荒々しいタッチの作画(キレキレ)に、持てる手管をフル駆使してイメージを誇張する演出、間を投入せずつぎ込みまくった台詞と非常に観客に負担を強いる作品になっています。
ぶっちゃけ映画として見れば観客の生理に合わないまで詰め込んであるのでクズクズであると思うけれど、アニメーションとしては間違いなく面白いし支持します。仮にこれが100パーセント原作通りの映像化なのだとしても(自分は原作は未読)、やはりすごいアニメであると思う。
普通にシリアス展開をやっててもギャグになってしまうノリとかはふでやす脚本の味なのかなと思いますが(ミルキィホームズとか)、今回見返して『HELLS』に関してはどっちかというと山川吉樹監督の見せ方の方が要因として大きいなと思いました。演出の破壊的テンションがいっそ清々しいです。
あと中澤一登さんって金田伊功は通っていないと前から公言しているけれど、『HELLS』を見るとバリバリ金田チックな表現もありますね。やはり金田フォロワーの板野一郎さんの影響を受けてるだろうからむべなるかな、という感じではありますが。
なんかスタイルの話ばかりでストーリーについて全然触れていないですが、めちゃくちゃに荒削りながら非常に濃密な展開であるし(それでいて明快!)、声優さんの熱演も良いです。特に主人公:天鐘鈴音(りんね)を演じた福圓美里さんの演技は、『まどか☆マギカ』での悠木碧渾身の演技に比較さるべき好演であると真面目に思う次第です。
今石監督の作品にも非常に似通っているところがあって、GAINAXでいえば『エヴァ』と『キルラキル』と『グレンラガン』の諸要素を全部合わせたみたいな感じ。
この作品(『HELLS』)の基調をなすのはあくまでコメディであると思うけれど、どこか舞城王太郎の作風(『好き好き大好き超愛してる』など)を思わせるところもあったりする、そんな不思議なアニメ。
何か期待値を上げまくるようなことばっか言いまくっていて申し訳ないですが(自分は何だかんだ人を誘って見たりしているので、一人でDVDで見てめちゃくちゃに面白いかどうかは分からないし、多分そんなにはちゃめちゃに傑作というわけでもないので)、気になる方はまあ見てみてください。一見の価値があることは保証します。
ちなみに
本作をDVDやBD(または配信)で見るのであれば、途中で一時停止などという野暮なことはせず、ノンストップで最後まで視聴することを推奨します。それが、この作品が劇場アニメ作品として作られた理由の大きな一つでもあると思うので。
(最近記事が滞っててすみません次の長文記事も書きます)